○価値観
‐‐何が大事で何が大事でないかという判断、
ものごとの優先順位付け、
ものごとの重み付けの体系のこと。
(価値観の形成は様々に行われる。
親から教えられることもある。
書物を読むことで吸収することもある。
組織や共同体に属することによって
継承されることもある。
また、個人的な体験をきっかけにしたり、
思索の積み重ねによって、独自に新たな価値観が構築されることもある。
ある人が抱く価値観は、その人の具体的な行動となり、
「ライフスタイル」や「生き様」となって現れることは多い。)
引用:ウィキペディアより。
突然だけど、価値観について書く。
わたしは、「価値観」というものをとても重要視している。
自分自身が生きるうえで、人と関わる上で。
とても大事なウェイトを占めるものだと考えている。
人は、ひとりひとりが大事にしているものや生きるポリシー、または必要不可欠であるものを少なからず持っていて、それは、侵害されてはならないものだと、常々思っている。
他人の価値観を知ることは、気の合う友人やパートナーを見つけるためにも役立つけれど、何よりも、関わる人に対して礼儀を持って接する上で、欠かせないプロセスなんだと感じる。
誰だって、自分が好きなもの、ひと、家族や友人などを馬鹿にされたら心が傷つくし、とても嫌な思いをする。
しかし人はそれぞれ好きなものや嗜好、考え方、生育環境などが異なっているので、自分の文化しか知らない、または視野が狭いままでいると、実は無意識のうちに、あっさりと人を傷つけたり、ハラスメントをしてしまうことがある。
たとえあるものが自分にとって、
いくら「良いこと」、「素晴らしいもの」であっても、相手にとっては「良くないもの」、
「害になるもの」であるという場合はあるのだ。
わかりやすい例を挙げると、そばが大好きな人がいて、知り合いにそばは美味しいし、身体によいから、食べなさい、と勧めるとする。
それ自体は、別に特段悪いことではない。
しかし、もしその相手が、そばが嫌いな人だったら、それは相手の嗜好を無視し、相手に苦痛を与えることになる。
好き嫌いだけの問題で済むならよいけれど、もしも相手がそばアレルギーであったら、事は深刻だ。
善意のつもりが病院送りにしてしまうことになる。
これは少し極端な例かもしれないが、
わたしはお互いに良好な関係を築いていくためにも、最低限のプライバシーを守っていくためにも、「相手の価値観を知る」ということは重要で、必要不可欠だと思うのだ。
それはわたし自身が、社会的弱者であるという自覚が昔からあるから、生まれた発想かもしれないと思う。
私は家庭上の事情から、幼い頃から家族以外の大人たちと接することが多かった。
それもあって、「上からの権力」というものに敏感だった。
強者というのは、無意識のうちにあっさり弱者を傷つける。
もちろん、被害者最強意識みたいなものがあるわけではないし、それは寧ろ嫌いだ。
弱者だからひたすら庇われれば良いとは思わない。
しかし、いじめた方はあっさり忘れても
いじめられた方は一生のトラウマを抱えて生きていくというパターンが多いように、強者にいる立場のものは、自分が侵害しうる権利というものを、意識することが必要なのではないか。
わかりにくいかもしれないけれど、こういうようなことを、この二十数年の間、ずっと考えながら生きてきた。
そして自分は、どんなところにいても、
どちらかといえば弱者の味方になろう、という意識を持ち続けてきた。
強者は味方を得やすいけれど、弱者は味方を得にくいから。
わたしは平和主義で、温和と評されることが多い。無用な争いが嫌いだから。
しかし、長いものに巻かれる、虎の威を借る狐タイプの人は、正直いつでも嫌いだなあと感じている。
つまり?
何を言いたいのかよくわからなくなってきたけれど、笑
わたしは安易に「価値観の相違」で済ませたり、
「人それぞれ」でシャットアウトして思考停止したりすることはしたくない。
しかし、人は、それぞれの人生の中でそれぞれの価値観を形成して生きてきて、二十歳も過ぎると、これから新しく出会う人と、根本的に解りあえるというのは、幻想だ。
そもそも人は、根本的には解りあえないように、できていると思う。
だからこそ、相手への理解を少しでも深めるために、お互いが違う価値観を持った人間であるということをしっかりと認識し、そのうえで解りあう努力をしていけたらよいのではないかな?と
二十一現在のわたしは思うのだ。
長々と書きましたが、
気まぐれな雑記です。
ちょっと価値観について
改めて考えるきっかけがあって、
まだ、続くかもです。
'それぞれに、映る景色が違うように'