高校時代のわたしは、毎日閉塞感に苛まれていて、それは別に環境や人間関係のせいとかではなくて、いわゆる生き辛さを抱えていたんだと思う。
集団行動が苦手で、教室の中に四十人存在していることがもう、苦しかった。授業中が特に苦しくて、動悸をこらえながらなんとかいつも、座っていた。
仲の良い友達もいたし、それなりに楽しかったけれど、それでもいつも苦しかった。
学校帰りのバスの中で、バス停から家までの歩道橋の上で、高校から歩いて行ける図書館や街(田舎の概念)にあるドトールで、過ごす放課後の時間が休息だった。
ひとりでぼーっとしたり、何かを飲んだり、本を読んだり、とりとめもない考え事をしたり、思いついた言葉をばーっとHPに書き連ねているのが、今思えばずっと、わたしの心の癒しと支えになっていた。
文章を書くことは、自分と折り合いをつける作業なのだと思う。少なくとも、わたしにとっては。
本を読むことも、フルートを吹くことも音楽を聴くことも、その他いろいろな好きなことも、自分を等しく構成する一部で、嫌いにならない限りはやめられない、手放せないものだと、以前のわたしは思っていた。
でも、お兄ちゃん病気で、死ぬかもしれない、と知った時から一瞬で、フルートを吹く気持ちなんて微塵もなくなったし、とにかく不安を紛らせたくて、いきなり新しいバイトを始めたり、友達と普段はしない遊びをしたり、気持ちがどんどん変な方向に飛んで行っておかしくなって、「好きなこと」なんて簡単にやめられるというかできなくなるんだ‥ということを初めて思い知った。自分の心の動き次第で。
好きなことができるのは、人生に余裕があって、ある程度不安や心配から離れていて、恵まれた環境があるからなんだ、と。
でも、どんなに病んでいても、むしろどん底の時に、わたしの気持ちのはけ口になったのは、やっぱり文章だった。
こういう、人生を削ぎ落としていく時期を通して知るものがあるのだと、初めて理解した。
究極的に自分は、何をしたいのか。何を求めているのか。わたしは選択肢があればあるほど、そこから遠のいていくのを感じていた。
大人はいつも、選択肢の多い方を選ばせたがるけれど、わたしが本当にしたいことは、極限にシンプルなことで、生き方で。
本当はいらないものがどんどん増えていって、それらの「本当はなくてもよいもの」に埋め尽くされて、溺れている自分は、みじめだった。無力ささえ覚えていた。
もしかしたらこれが、わたしの高校時代の息苦しさの正体だったのかもしれない。
自分がどこか遠のいていくような感覚。
目指す目標に向かって走っているなら、身体に負荷がかかっても、心は楽だ。
あとは頑張るだけ。まっすぐ走っていくだけ。でも、そのゴールすら設定されていない、漠然とした空白は怖い。
わたしは高校三年間を通して、行きたい大学を見つけられなかったし、でも国立に進まなければならなったから、適当に勉強しても入れるところを(高校生にとって)合理的な考えで選択した。
そんな、本来の自分に反したスタンスでいたから、四年間続かないのは当たり前だ。
もう戻りたくない、と思っても仕方ない。そもそも、向いてないんだから。
やりたいことじゃないことにエネルギーを注ぐこと自体が、負担になっていたのだ。
だからこれからは、やりたいことに思う存分、エネルギーを注ごうと思う。
まだ手探りで、わからないことだらけだけれど、それでいい。
誰かと比べることなく、争うことなく、ただ自分の向上心を持って何かを得ていくことは、必ず、出来ると思うから。
自分の躓きもきっと、克服できるはずだから。
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話は過去に戻るけれど、高校一年生の秋、クラブ活動の関係で受け取りが遅れた模試を、友達と一緒に職員室へ取りに行った時、その結果がすごく良くて、ふたりで東大を目指せと言われたことがある。(これはたぶんその時点で上位の人たちは結構言われること。その中で本気で東大を目指すのは十人くらいで、受かるのは毎年三人くらい。)
わたしとその子は、勉強はそれなりに好きだけど別に試験で上位を取りたいとか、上の大学にいきたいとか、そういう気持ちがないタイプの生徒だったから、その時ははあいと適当な返事をしていた。
でも、友達は本当に純粋に理系で賢い子で、受験期は、東大を目指すグループに混ざって数学や物理をしていて、とても楽しそうだった。
結局、推薦で地元の国公立の教育学部にあっさり進んだのだけれど。
とりあえず受けたセンターでも、全教科で平均が八割五分を取っていた。
同じ大学の医学部も受かる成績なのに、「そんなの全然関係ないし、目指したいものを目指すだけだし、わたしは都会に行きたくないから良いの」とあっけらかんと笑う彼女をみて、わたしはすごい、と思った。それは、自分が持たない潔さだったから。
思えば、養護教諭になろうと思ったのも、彼女の存在が大きなトリガーだった。
その子はわたしの高校時代においてひとりのキーパーソンであり、親友だ。
出会いは一年生の春。
入学式の日に、はやめに学校に着いたわたしが、まだ人の少ないクラスに入ろうとした時、その子と、ばったり出会った。
そしてその子はにこやかに笑って自己紹介をして、わたしたちは1分も経たず友達になった。
今でも「あれは運命の出会いだった」と彼女は時々真面目な顔で言う。言われる度、わたしは思わず笑ってしまうのだけど。
その子は別の地方から来ていて、下宿に住んでいた。
毎日昼食を共にしているうちに、メロンパンなどの菓子パンばかり頬張っている彼女に思わず、お弁当作ってこようか? と打診し、翌日からわたしは、毎日2人分のお弁当を持って学校に行くことになった(もちろん作っていたのは母。しかし当時、兄の弁当も作っていたので、ふたり分も3人分もさして変わらない、と快諾してくれた。そんなに豪華なものでもないし)。
そしてその子と一緒にマイナーな、主にボランティア活動などをするクラブに入った(2年次に、国際交流事業で台湾に行けるというのに、わたしたちは惹かれていたのだ)。
結局、わたしたちは(2、3年から)部長と副部長になり、
好き勝手に活動を企画して思う存分3年間の活動を楽しんだ(もちろん真面目なこともいろいろした)。
部室である地学準備室が、わたしたちの基地だった。
先輩が卒業してからはどんどん部員も勧誘し、結局、人数は同学年で2倍くらいに増えた。
台湾にもふたりで行った。
2、3年ではクラスが分かれてしまったけれど、(彼女が理系、わたしが文系のため。2、3年ではクラス替えは無かった)
わたしは毎日彼女のクラスまでお弁当を運び、一緒にお昼を食べた。彼女の友達と、3人で。
わたしたちは色々な話をした。
わたしは本のこと、彼女は数学や物理のこと。わたしは数学が苦手だったので、よく教えてもらっていた。
わたしはその頃本の虫で、毎日馬鹿みたいに本ばかり読んでいて、それを見ていた彼女が、それまでは読書をしなかったのに読書をするようになった。わたしが強く薦めたわけでもないのに。
去年、彼女のアパートに短期滞在をしていた時、本棚にたくさんの文庫本が揃っていて驚いた。
彼女はすっかり、読書家になっていたのだ。そして折に触れ、読書の楽しさ、本の面白さを教えてくれたのはわたしだと言う。こんなに嬉しいことはない、と思う。
もちろん、わたしの方が、彼女から影響を受けたものはたくさんあると思っているのだけれど。
今は彼女が愛読している「数学ガール」がとても読みたい。絶対集めようと思う。
知らず知らずのうちに、自分が友達に影響を与えているというのは、何かくすぐったいような気持ちになる。
ザ理系な彼女と(もちろん理系で読書好きな人もいるけれど、彼女は全くそういうタイプではなかったから)、今では本の話が出来るのはとても嬉しい。
今では時々会う度に、互いに読んで面白かった本をおすすめし合ったり、交換したりしている。
共通で好きなのは豊島ミホさんや、伊坂幸太郎さん、米澤穂信さんなど。
わたしはこの間、辻村深月さんをおすすめして、感想を語り合った。
そんなこんなで、わたしの青春には彼女は欠かせない存在だ。
高校を卒業したあと、大学入学までのインターバルの春休みに、彼女と遊んでいた時、彼女はわたしに出会って変わったと思う、出会えて良かった、ありがとう、と唐突に言った。
わたしこそ、その言葉を言う立場だった。
なんだか涙が出るくらい、その時は感動した。
会う機会や時間は少なくなったけれど、今も、これからも、彼女とはこんな関係でいられたらいいなと思う。
お互いに、肩肘張らずに言いたいことを言い合える関係というのはなかなか、得難いものだから。
彼女はこの春から、無事に夢を叶えて養護教諭になる。
絶対良い先生になるとわたしは確信している。これからの活躍が楽しみだ。
去年のGW、ふたりでお花見しながらラムネを飲んだ。
そんな彼女から2、3日前に突然電話がきて、毎日一緒にいたあの頃が懐かしくなって、なんとなくばーっと書いた文章。