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窓の向こうの海

素直で純心なきみに、憧れ手を伸ばしていた。いつのまにか、掴まれていた。もう離さないよって、きみが太陽みたいに笑った。

躓いた日

2016-01-28 21:17:47 | 考え事




大学時代にわたしは、ふたりの女の子に躓いた。
今冷静に振り返ってみると、ふたりとも、とても似た性質を持っていた。
これは愚痴とか、悪口とかではなくて、二十歳前後のわたしが、どうしようもなく惹きつけられてしまった性質と、そこから崩れた関係性についての話だ。
未熟で幼くて、自分自身を理解できずに、淋しさに溺れていた頃。



大学時代のわたしは、'自分の世界を持っている人'に惹かれていて、でも本来は、二十歳前後で確固たる自分を持っている人なんて存在しないのだ。
そもそも、柔軟にいろいろな考えを受け止めたり、新しい経験を通して学んでいく時期だから。
だから今、「自分の世界」なんてオーラを漂わせていたら、それは、偏狭によるところが大きい。
自我の塊とか、他人の意見は聞き入れないとか。そういうのものに、近い。

わたしはそれに気付けずにいた。


わたしがいくら彼女たちの世界を愛しても、彼女たちにとってわたしの世界は、何の意味をもたらすものではないということ。
それがいつしか空しくて、決定的に心の折れる原因になってしまった。
つまり、自分の世界だけを大事にしている彼女たちは、本質的に、他人に対して無関心で薄情なのだ。
でも、別にそれが罪なわけではない。
ふらふらっと危うい魅力に引き寄せられて、一方的に好いていたのは、わたしの方。
自分と他人の境界線がきちんと見えずにいたわたしは盲目で、病んでいた。
その年代には、よくあることなのかもしれないけれど。


そのおかげで学ぶことができたし、自分自身のことや生き方についても考え直す機会になったから、結局は彼女たちにも感謝している。

当時はどれだけ辛くても、だいたい2年くらいあれば、立ち直れる。
失恋と人間関係の失敗で、わたしは身をもって体感した。


誰もが持っていて、語ることのできる『物語』を、まるで自分だけが持っていて、特別で、偉いかのように振舞うのは好きではない。
誰もが語りうるから、物語は普遍的で素晴らしいものなのだし、できればたくさんの種類のそれをたくさん聴きたい。知りたい。
だからわたしは、本を読んでいるのかもしれない。





こういうことを書いていると、すっぽりすっぽり抜け落ちていたはずの記憶が、少しずつ蘇ってくる気がする。
これからは大丈夫なのかとも、問いたくなってしまう。
でも、少なくとも今のわたしは、二年前とはまったく違うスタンスでいる。
寧ろ異物だったのは、その二年間の自分なのだと。

家族には、今のわたしは小学校高学年の頃に戻ったみたいだ、と言われる。
幼くなったという意味ではなく。
その頃のわたしは、自分の好きなことを自由にのびのびとやりながら、笑顔で生きていた。
そういう無垢さが、帰ってきたように感じられるのかもしれない。
だとしたらうれしいし、安心する。
全部捨てて帰ってきた甲斐があるともようやく、思える。



現在はそのふたりとすっかり距離を置いていて、たぶん、再び繋がることは二度とない。
一度壊れてしまったものは直せないから、本当に失いたくないものなら、決定的に割れてしまう前に、修復をはからなければいけないのだ。
彼女たちとの繋がりが絶たれた分、わたしは高校卒業から少し疎遠になってしまった友達たちとよく連絡を取るようになって、一緒に旅行へ行ったり、泊まりに行ったりして、健全な人間関係を取り戻し、思い出した。
そしてそれが、わたしを鬱の暗い波から掬い上げてくれた。


わたしは、ツイッターで饒舌に語るようなタイプとは合わないのだと思う。
それは、一種の同属嫌悪のようなものなのかもしれない。
個人的に付き合っていくなら、限りなくシンプルで裏表のない、削ぎ落とされた自己を確立しているような人が合っているのだと気付いた。


こんな風に自分を認識して、自我が確立して変わっていくのを感じるのは、それなりに充実感がある。
成長には変化が伴うということを実感する。




話は少し変わるけれど、「ちはやふる」という百人一首をテーマにした少女漫画の登場人物に、とても実力のある、主人公のライバル的立ち位置にいる女の子がいる。
その子は、誰かと一緒に高めあうということができない性質を持っている。
つまり、ひとりでいればいるほど強くなるタイプで、初めて読んだ時から、わたしは彼女に強いシンパシーを覚えていた。


自分もそうなのかもしれないと、ハッとしたのだ。


事実、わたしはチームプレーができない人間だと自覚している。
わたしは誰か他人がいると(その人の実力に関わらず)、無意識に自分の力をセーブする癖がある。
気づいたのは大学に入って少ししたあたりで、それまでの躓きや挫折感の理由がわかった気がした。



高校時代の親友は、大学時代は時間があるから(いわゆるモラトリアム期間だから)、今までの自分や人生を振り返って思考を矯正する作業をした、と以前雑談の中で話していたけれど、本当にそういうことが重要なのだとやっと理解できた。



そうやって自分に折り合いをつけて、これからの長い日々を自立して歩いていくのだと。



少なくともわたしもそれが今のうちにできて、良かったと思う。


誰かに依存して生きたくない。


ひとりで生きていけるわけはないし、そうするつもりもないけれど、
気持ちはひとりでも大丈夫と思いながら生活したい。

そういう思いが昔からある。


自分を理解して把握して認めること。

そこから全てが始まるし、広がっていく。


他者を受け容れることも、理解しようと努めることも、歩み寄ることも。


自分がないと、ふらふらと足りないものを持っている人に引き寄せられて、共依存に陥ってしまうのだ。


別にそれでもうまく生活が回っていくひとなら、それでも良いと思う。

少なくともわたしはそういうのは合っていなかった。


ひとりでも大丈夫。


そういう自信がずっと、欲しかったんだと思う。

無鉄砲さを失った今は却って、弱さを意識している分強くなれたと思う。


自分を、人を、感情を、理論を。


バランスよく扱いながら、無理をせず人間関係を大切に築いていきたい。


(思考傾向についてはまた書きたい事柄があるので、後日。)


生育環境とあれこれ

2015-12-05 18:14:44 | 考え事


突然ですが漫画の話をします。


つい最近ネットで偶然見かけた情報ですが、いわゆる'腐女子'は長女率が高いらしい。
ツイッターの機能を利用した不特定多数に向けてのアンケートでも、回答結果はかなり偏ったものだったので、それなりに信憑性が高い説だと思う。
(※ここでの長女の定義は、上に兄弟がいないの意。
アンケートの選択肢は①長女②真ん中③末っ子
のような形式だった。
兄がいるけれどふたり兄妹なので厳密には長女、というわたしのようなひとは③に集計される)




確かに、中高大の学生時代を振り返っても、圧倒的な確率で、腐女子の友達は長女が多い。
なんでだろうとふと疑問に思っていたところで、ある興味深いブログをこれまた偶然見つけて、わたしの中でひとつの結論が出たので、書いておこうと思う。



わたしは以前から、読書と生育環境の関連性、または影響について定期的に考えることがあって、今回のそれも同じところに繋がっていると思った。


その興味深いブログによると、腐女子の形成の主ルートは、
小学校~中学時代前半:少女漫画(りぼん、ちゃお、なかよし等)⇨(花とゆめ、マーガレット等)へ移行

中学中盤から⇨徐々に少年漫画(ジャンプ、サンデー、マガジン等)を読み始める

そして中学後半~高校⇨いつしかBLに目覚める


という流れらしく。

わたしはこの流れ自体が、とても新鮮で、そしてなるほど!と納得してしまった。


何故なら、わたしは前述の通り2歳年上の兄がいるため、
小学校低学年の頃から読み始めた漫画がまず、少年漫画だったからだ。
兄が買ってくるコロコロコミック、Vジャンプ、父が買っていた週刊少年ジャンプ、サンデー、マガジンなどを毎週のように自然に読む環境で育った。

小学四年生の頃にクラスの女子たちの話題についていくために、初めて手を伸ばしたのがちゃおだ。
そして、それまでほとんど読んだことのなかった少女漫画の面白さにも目覚め、中~高でマーガレットや花とゆめ系統の漫画も買うようになった(主に単行本)。


しかし、小学校低学年~22現在まで、父兄の影響で(常に家にあるので)、少年漫画は読み続けている。
さすがに昔ほど熱心にではないが、定期的に何らかの作品に少しハマる、という感じ。


父兄は週刊雑誌のみならず単行本もガンガン買い集める人たちだったので、わたしは好きな漫画でも自分で少年漫画を買ったことがない。


父兄の部屋には少年漫画が、自分の部屋には少女漫画がある、というような環境なのだ。そして時々わたしも兄に少女漫画を貸す。(最近ではorangeにハマった)


少し話がずれたが、わたしはずっと腐女子の感覚を理解しかねていて、どうしてだろうと思っていたけれど、それはわたしの漫画原体験が少年漫画だからなのかもしれない、と今初めて気が付いた。



どちらかというと男子目線で、物語を読んできたから(少女漫画より先に少年漫画を読んでいたから)、少年漫画にBL的要素を見出すという概念を持ち合わせていないのだなあと。


妙に自分で、納得してしまった。


昔から、兄の友達が家に遊びに来ることが多かったから、遊びもリカちゃん人形やドールハウスをあまりしたことがなく、
ミニ四駆や遊戯王などのカードゲーム、レゴブロック、ベイブレード、将棋囲碁、などをしたり、
ゲームを傍目でずっと見ていたり。


男子文化が根付いているんだなあと。


中学に入ったら、友達がみんなジャニーズに詳しくて驚いて、話についていけなかった。

それまでのわたしの文化圏にはなかったものだった。

そこからいろいろ教えてもらって、
やっと均等になった気がする。

でも今でも偏りは感じるし、BLはわかんない、二次創作もあんまり惹かれない。

高校からは文芸小説にがっつりハマって、今に至っている。




こうして振り返ってみるとやはり、オタクの布石は敷かれていたんだな。

そこまでオタクではないけれど、好きなものをがっつり語るタイプではある。
(コミケにはあまり興味がないし、
グッズとかを集めるわけではないから、
そういう括りでは違うのかもしれないけれど。)


いろんな漫画やアニメやゲームに触れる幼少期があったから必然的に、物語が好きになったんだなあと思った。


そんな、生育環境と嗜好について、
ふと面白いなあと思って考えた話。




「能動的受容」について

2015-11-29 18:24:39 | 考え事



the brilliant greenを聴きながら、
部屋の片付けをしていた。


ひと段落したのと疲れたので、気分転換も兼ねてブログを書く。


ブリグリは、わたしが中学生2年生の頃やっていたドラマ「探偵学園Q」のEDを担当していた。
わたしの父は金田一少年の事件簿が好きで、漫画を全部集めていたので、その流れで探偵学園Qの漫画も買っていて、わたしは原作を小学校の頃から愛読していた。
ドラマのSPも面白かったので、連ドラにも期待大で、もちろん観ていた。

そこでブリグリに出会ったわけだけれど、それまで(確か) 4年半程の活動休止期間に入っていたので、わたしはその時に初めて存在を知って、すぐに「あ、このアーティスト、好きだ!」となった。
たぶん、サウンドや声、そしてそれだけではなく、雰囲気とかバンド名とか、とにかくあらゆるものがツボだったのだと思う。
ピンときた、という表現がしっくりくる感じ。


それなのに、当時のわたしはそこから積極的にCDを買ったり、借りたりするでもなく、ただ、この音楽好きだなあ、とだけ思っていた。
(自分の中学時代はだいたい、そんな感じ。BUMPとYUIが大好きだったけれど、経済力もなかったから、CDを全部集めることも出来なかったし、その発想もなかった。
義務感とかもなく、友達と貸し借りしたりして、MDに入れて気ままに、でもすごく好きだった、、
自分の世界の中ではずっとその音楽が鳴っていて一緒に生きている、という感じ。
あの頃はふわふわとした自分の確固たる世界の中で生きていたなあと思う。毎日。今ではある種ファンタジーのように思える。喜怒哀楽すべてが。不思議だ。過去だからだろうか。)



話は戻って。
そして翌年、兄と観ていたガンダム00のEDで、また同じ音楽が流れてきた。
ブリグリだった。兄が「良い曲だな」と言い、わたしは「でしょ!」と胸を張った。(その時はまだ、あまり知らなかったのに)
そしてああ、わたしはこの音楽がやっぱり好きだなあ、と思った。


(また脱線するけれど、今振り返るとダブルオーはものすごく豪華声優ラインナップだった…
その頃は声優にまだ、全然詳しくなかった。メジャーな方々ばかりで、ちょっと震える。いや、冷静に考えると、ダブルオーだけじゃないのけれど。
そもそも小6の自分が、SEEDのアスランがとても好きだったのは、キャラというより声に拠るところが大きかったのではないだろうか。石田さん……。
そしてシンとルナが好きだったのも気付けば現在ではすっかり大ファンの鈴村夫妻……。
すごい、すべて繋がっているのだ。驚くべきことに。
自分がここ数年で好きなったと思っている人たちは、実は10年前から好きだったのだ…的オチが多すぎる。
感覚・フィーリング→知識。
この流れで、自分の好みを再確認させられているのだ。

ちなみにその理論でいくと、
一番初めに好きになった、声に惚れた声優さんは水樹奈々さん、桑島法子さんということになる。やはりやはり豪華メンツ…。

最近自分の文化を振り返る作業をしているので、思わず語ってしまった。
たぶんこの記事で言いたいことも、自分の趣味嗜好は小学校中学年くらいから今まで変わっていないということ。
いろいろなことを経験しても散々考えても、結局自分の直感や良いと思うものへのブレなさ、変わらなさレベルがものすごい。ちょっと引いた。)



また戻る。
そして更に翌年の冬、高校1年生になり、わたしは友達と放課後、コンビニのフードコートで課題をしていた(ものすごく高校生だなあ…)。
するとまた、流れてきたのだ、「あの音楽」が!コンビニの有線から。
『angel song ~イヴの鐘~』だった。
そこまで来るともう、本当にすごい巡り合わせとタイミングだと思うしかない。
わたしはブリグリをちゃんと聴くようになった。カラオケで歌うようになった。
Tommyの存在を知った。大好きになった。

高3の頃、久しぶりの新譜が発売された。それも大好きだった。UKロック調でツボすぎて一時期はずっと聴いていた。


そして大学に入ってfebraryも聴くようになり、最近heavenlyにも踏み出しつつある。
とりあえずTommyが好きすぎるので、来年以降のライブには参戦してみたい。グッズも買いたい…。


かくしてわたしのブリグリ?Tommy歴は8年程になるのだけれど、
この、じわじわと、好きなものに対して侵食していって、自分のペースで味わって好きだなあ、と実感、納得する過程というのが、すごく自分らしいなあと思った。


少しまた話が逸れるかもしれないけれど、
わたしは何かを受け取る立場にあっても受動であることがとても苦手で、だからテレビも苦手だ。
もちろん好きな番組もドラマもあるけれど、それらはすべて放送時間が決まっていて、その時間に合わせて自分の鑑賞体制を整えるという行為が苦痛なのだ。
だから、どうしても観たいものは録画、そしてあとは自分が観たい気分の時に、ということになる。
しばらく経って、「ああ、これ観ればよかった!」というようなドラマがあれば、借りて観る。
大学生活2年間は、部屋にテレビもない生活だったけれど、そんな感じなので特に苦痛とも思わなかった。
アニメを毎期ほとんど網羅しているようなオタクの鑑な友人がいて、
その子の家に行って、アニメを観ていた。大学から真っ直ぐその子のアパートに寄ってひたすらアニメ観て終電で帰る、みたいな日々。
どうしても観たいドラマは、その曜日に毎週違う友達の家に泊まって観ていた。
今思えばTHE大学生、な生活をしていた。


(※さすがに専門学校ではそんな暇はないので、今度はテレビ置きます。ニュースもちゃんと観たいし。)


好きで購入しているライブDVD系も、買って数ヶ月~数年積むことがままある。
本のように、能動で向かいたい気持ちが強いから、自然とそうなる。
CDだと、何回も何十回もリピートして聴くことが多いから、そんなに置かないで聴ける。



だから映画に関して話せば、自分が完全に能動で動いて、観たいものを観に行って、閉じられた空間で堪能できるから、良いなあと思う。
別に映画マニアでもオタクでも何でもないけれど、コンテンツとして気に入っている。タイミングが合わず見逃したものは借りて観られるし、観て気に入ったものは買えるから便利だ。


インターネットも、自分が好きな時に見たり閉じたりできるのが良い。

わたしは映像系を、基本的には流し見出来ないのだなあと気づいた。
流れていると、なんとなく真剣に観なければならないような気がするのだ。義務に感じる。

だから音楽はいくらでも聴きながら勉強や作業が出来るけれど、映像系は難しい。



何の話だったっけ。


そう、ふと、自分の好きなものへのアンテナ、感性の変わらなさ(どちらかというと「積み上げ式」?)、受動より能動でいたいこと、のようなことがぽろぽろとこぼれ落ちて来たので、書いてみた。
というかこれ、掃除の気分転換だったんだっけ。
掃除や模様替えをすると、いつも何らかの思考が飛び出してくる。だからわたしは他の人よりたぶんものすごい頻度で、模様替えをする傾向にある。(あと、眠る向きもしょっちゅう変える)


そうだ、あと最近考えていたことに繋がっていたんだった、「感動乞食」にはなりたくないなということ。


別に自分が空っぽで飢えているから何かを消費したい、とりあえず感動したいという理由で芸術を受け取ることをわたしは、あまりしたくない。

もちろん人それぞれの受け取り方、スタイルがあるのだろうけれど。

自分の基盤や土台のようなもの、考え方、生き方を持った上で、芸術に揺り動かされたい。ぶっ壊されたい。思考の変化を感じたい。



そんな思いが、いつもある。



とりあえず退屈だから感動が欲しいとか、楽しませてくれとか、そういうことを思ったことがあまりなくて、
自分はそういう風なスタンスでいたくないと、無意識に考えているのだと思う。
消費者の立場にあっても、文字通り「消費」したくなくて、
どちらかといえば「消化」を求めているのかもしれない。

理解や共感であったり、時には反発であったり。


そんな感じのことを考えた。


なんだか思ったより長文で、自分のためのメモ書きみたいになってしまった。


そして本題を書く前に脱線&展開しまくってしまったので、書きたかった話はまた後でにする。



p.s.
(12/7の追記)

そして探偵学園Qといえば、主演の神木隆之介くんと志田未来ちゃん。
前にも書いた気がするけれど、当時からずっと、同い年の星である。

ふたりを応援してきた身からすると、今回の熱愛報道は嬉しかった。
無粋かもしれないけれど、喜んでしまった。
マスメディア各所にはもうそっとしておいてほしいけれど、ね。



ずっと同じ方向を目指して、信頼し合っている同志で、、ああ、素敵な関係性すぎて、眩しい、、憧れる。

そしてインターネット界隈の反応、祝福をみても、やはりふたりは国民的俳優女優さんなのだなあ、と改めて実感した。
子役から大成するのは難しいと言われているだけに、本当に尊敬する。

これからも、ますますふたりの活躍を見ることが出来ますように。

わたしも同世代として、分野は違えど、頑張るぞっ。








ニキ・ド・サンファル展で買ったポストカード。


宇都宮のお姉さんに送った。





回想

2015-11-22 17:26:39 | 考え事


本当はわかっていたんだ、差し伸べられていた手があったって。


その手を取ればよかったのに、取らなかったのはわたし自身の問題。


だから、他の誰の所為でもないし、
自分の所為だった、とまとめるつもりもない。


未熟だった、若かった、無知だった、
複数のすべての要素が、
こういう結果をもたらしてしまった。



でも、躓くことは、必ずしも悪いことではないのだと思う。


人生万事塞翁が馬、という言葉があるように。


落馬して怪我を負ったからこそ、戦争に行かなくて済んだ。


わたしもそういう未来の回避のための躓きだったのだと、今では思えるよ。



DV男と結婚する前に、別れて失恋した方が良いでしょう。


すべて、例えの話。






いまの自分は、嫌いじゃない。




過去とわたし

2015-11-21 23:33:10 | 考え事



わたしは過去に縛られている、それは解っていて、



兄に「過去はこれ以上お前を傷つける事はないんだよ」と言われて、ハッとした。




言外に、「だからもう、苦しまないで」というメッセージが込められていた、と思う。


わたしは、自分で過去を掘り返して、自分を傷つけているんだと、その時気づかされた。


それは、罪悪感なのだと思う。


昔からの、自罰的な癖。


でも、それじゃダメなことも、解ってる。






2年前の写真が出てきた、銀座のキルフェボンにて。



昔の自分は、まるで違う人間のように見えて

ますます、混乱してしまうんだ


女の子という枠組みに囚われて、苦しんでいた頃。


それでも幸せそうに見えることすら、底なし沼のような、罠なんだって知ってる。