
大学時代にわたしは、ふたりの女の子に躓いた。
今冷静に振り返ってみると、ふたりとも、とても似た性質を持っていた。
これは愚痴とか、悪口とかではなくて、二十歳前後のわたしが、どうしようもなく惹きつけられてしまった性質と、そこから崩れた関係性についての話だ。
未熟で幼くて、自分自身を理解できずに、淋しさに溺れていた頃。
大学時代のわたしは、'自分の世界を持っている人'に惹かれていて、でも本来は、二十歳前後で確固たる自分を持っている人なんて存在しないのだ。
そもそも、柔軟にいろいろな考えを受け止めたり、新しい経験を通して学んでいく時期だから。
だから今、「自分の世界」なんてオーラを漂わせていたら、それは、偏狭によるところが大きい。
自我の塊とか、他人の意見は聞き入れないとか。そういうのものに、近い。
わたしはそれに気付けずにいた。
わたしがいくら彼女たちの世界を愛しても、彼女たちにとってわたしの世界は、何の意味をもたらすものではないということ。
それがいつしか空しくて、決定的に心の折れる原因になってしまった。
つまり、自分の世界だけを大事にしている彼女たちは、本質的に、他人に対して無関心で薄情なのだ。
でも、別にそれが罪なわけではない。
ふらふらっと危うい魅力に引き寄せられて、一方的に好いていたのは、わたしの方。
自分と他人の境界線がきちんと見えずにいたわたしは盲目で、病んでいた。
その年代には、よくあることなのかもしれないけれど。
そのおかげで学ぶことができたし、自分自身のことや生き方についても考え直す機会になったから、結局は彼女たちにも感謝している。
当時はどれだけ辛くても、だいたい2年くらいあれば、立ち直れる。
失恋と人間関係の失敗で、わたしは身をもって体感した。
誰もが持っていて、語ることのできる『物語』を、まるで自分だけが持っていて、特別で、偉いかのように振舞うのは好きではない。
誰もが語りうるから、物語は普遍的で素晴らしいものなのだし、できればたくさんの種類のそれをたくさん聴きたい。知りたい。
だからわたしは、本を読んでいるのかもしれない。
こういうことを書いていると、すっぽりすっぽり抜け落ちていたはずの記憶が、少しずつ蘇ってくる気がする。
これからは大丈夫なのかとも、問いたくなってしまう。
でも、少なくとも今のわたしは、二年前とはまったく違うスタンスでいる。
寧ろ異物だったのは、その二年間の自分なのだと。
家族には、今のわたしは小学校高学年の頃に戻ったみたいだ、と言われる。
幼くなったという意味ではなく。
その頃のわたしは、自分の好きなことを自由にのびのびとやりながら、笑顔で生きていた。
そういう無垢さが、帰ってきたように感じられるのかもしれない。
だとしたらうれしいし、安心する。
全部捨てて帰ってきた甲斐があるともようやく、思える。
現在はそのふたりとすっかり距離を置いていて、たぶん、再び繋がることは二度とない。
一度壊れてしまったものは直せないから、本当に失いたくないものなら、決定的に割れてしまう前に、修復をはからなければいけないのだ。
彼女たちとの繋がりが絶たれた分、わたしは高校卒業から少し疎遠になってしまった友達たちとよく連絡を取るようになって、一緒に旅行へ行ったり、泊まりに行ったりして、健全な人間関係を取り戻し、思い出した。
そしてそれが、わたしを鬱の暗い波から掬い上げてくれた。
わたしは、ツイッターで饒舌に語るようなタイプとは合わないのだと思う。
それは、一種の同属嫌悪のようなものなのかもしれない。
個人的に付き合っていくなら、限りなくシンプルで裏表のない、削ぎ落とされた自己を確立しているような人が合っているのだと気付いた。
こんな風に自分を認識して、自我が確立して変わっていくのを感じるのは、それなりに充実感がある。
成長には変化が伴うということを実感する。
話は少し変わるけれど、「ちはやふる」という百人一首をテーマにした少女漫画の登場人物に、とても実力のある、主人公のライバル的立ち位置にいる女の子がいる。
その子は、誰かと一緒に高めあうということができない性質を持っている。
つまり、ひとりでいればいるほど強くなるタイプで、初めて読んだ時から、わたしは彼女に強いシンパシーを覚えていた。
自分もそうなのかもしれないと、ハッとしたのだ。
事実、わたしはチームプレーができない人間だと自覚している。
わたしは誰か他人がいると(その人の実力に関わらず)、無意識に自分の力をセーブする癖がある。
気づいたのは大学に入って少ししたあたりで、それまでの躓きや挫折感の理由がわかった気がした。
高校時代の親友は、大学時代は時間があるから(いわゆるモラトリアム期間だから)、今までの自分や人生を振り返って思考を矯正する作業をした、と以前雑談の中で話していたけれど、本当にそういうことが重要なのだとやっと理解できた。
そうやって自分に折り合いをつけて、これからの長い日々を自立して歩いていくのだと。
少なくともわたしもそれが今のうちにできて、良かったと思う。
誰かに依存して生きたくない。
ひとりで生きていけるわけはないし、そうするつもりもないけれど、
気持ちはひとりでも大丈夫と思いながら生活したい。
そういう思いが昔からある。
自分を理解して把握して認めること。
そこから全てが始まるし、広がっていく。
他者を受け容れることも、理解しようと努めることも、歩み寄ることも。
自分がないと、ふらふらと足りないものを持っている人に引き寄せられて、共依存に陥ってしまうのだ。
別にそれでもうまく生活が回っていくひとなら、それでも良いと思う。
少なくともわたしはそういうのは合っていなかった。
ひとりでも大丈夫。
そういう自信がずっと、欲しかったんだと思う。
無鉄砲さを失った今は却って、弱さを意識している分強くなれたと思う。
自分を、人を、感情を、理論を。
バランスよく扱いながら、無理をせず人間関係を大切に築いていきたい。
(思考傾向についてはまた書きたい事柄があるので、後日。)