言わなければならない事は言わないと前には進まない

生活する中において言わなければならない事や、他の記事で共感したことなどを中心に。今その時の思いを表す。

住民全滅▼地図から消えた村▼壮絶な負の歴史▼スターリンによる「第1次ウクライナ懲罰」▼

2014-03-02 04:36:22 | 言いたいことは何だ
 
http://www.labornetjp.org/image/2013/2008/kurogane
http://www.labornetjp.org/news/2014/0301kuro
↑より抜粋引用↓ 画像拝借 文字強調管理人
 
 

ソチ五輪とウクライナ動乱、そしてチェルノブイリ




 
 
五輪期間中だからこそ
 
 
そもそも、ソチ五輪期間中に
ウクライナでこのような騒動が起きていることに対し、
多くの日本人は
「何もこの時期でなくても」
「なんでこんな時期に騒動が起きるのかわからない」
という感想を抱いただろうと思う。
 
だが、
そのような感想を抱いている人たちは、
この地域の地理をどれだけご存じだろうか。
 
イメージ 1
 
筆者が地図を示すので見てほしい。
 
五輪が開催されたソチは
ウクライナ国境に近い場所にあり、
 
ウクライナの首都・キエフとは
直線距離で約800kmしか離れていない場所にある。
 
 
東京を起点にすれば、
西は広島県福山市、
北は津軽海峡を望む青森県・竜飛岬
とほぼ同じ距離だ。
 
旧ソ連時代は、
世界の大陸面積の6分の1を
1国だけで占めると言われた。
 
そのソ連の
広大な国土の大半を
引き継いだロシアにとって、
800kmは文字通り目と鼻の先である。
 
 
ヤヌコビッチ政権に反感を抱くウクライナ市民が、
「五輪期間中に、
開催地の目と鼻の先で
騒動を起こせば世界に注目され、
ヤヌコビッチを支援するプーチン政権の
メンツも潰すことができる」
と最大級のアピール効果を狙った
としても不思議なことではない。
 
誤解を恐れず言えば、
この騒動から政変に至る一連の出来事は
五輪期間中「だからこそ」起きたのだといえよう。
 
イメージ 2
 
 
ロシアと欧米のはざまで
 
 
 ウクライナが、
大国ロシアとヨーロッパのはざまで
分裂の火種を抱えながら翻弄されてきたことは
日本メディアの報道の通りだと思う。
 
第二の都市、ハルキウ(ハリコフ)を擁する東部は
19世紀に工業化が進み、重工業が急速に発展した。
 
1917年のロシア革命の際、
当時のボルシェヴィキの方針は
「都市の労働者を組織して農村へ進撃すること」
であったから、工業化したハリコフは
ボルシェヴィキが革命の拠点にするには
好都合の場所だった。
 
 
 第二次大戦における独ソ戦
(旧ソ連では「大祖国戦争」と呼ばれた)では、
ソ連軍と
ナチス・ドイツ軍によって
第1次から第4次まで、
4回のハリコフ攻防戦が戦われた。
 
 
1941年には、ソ連軍はハリコフを失い、
ボルガ川付近まで大幅な退却を余儀なくされたが
翌42年になると、
戦線を広げすぎて消耗したドイツ軍に
ソ連軍が反攻を開始。
ドイツ軍を壊滅させ、ソ連の勝利に向けた転機となる
有名なスターリングラード(現・ボルゴグラード)戦を経て、
ハリコフもソ連が奪回に成功している。
 
 
 
スターリンによる「第1次ウクライナ懲罰」
                ~壮絶な負の歴史
 
 一方、
ウクライナ南部と西部は、
歴史的にも中欧との意識が強く、
 
ロシア革命以前から
ヨーロッパとの強い結びつきがあった。
 
世界的にも有数の穀倉地帯として、
「ウクライナで枯れ枝を
 地面に突き刺せばそのまま育つ」
と言われるほど肥沃な土地に恵まれた。
 
だが、
その肥沃な土地を背景にした
豊かなウクライナ農業も、硬直した
官僚命令式社会主義の下では、
単なる穀物の徴発対象としかみなされなかった。
 
 
 ソ連末期、
ゴルバチョフ政権による
「ペレストロイカ」政策により
情報公開が進んだ影響を受け、
 
それまでひた隠しにされてきた
スターリンによる1931~32年の農業の
強制集団化の恐るべき実態が明るみに出た。
 
 
それによれば、
農民には自分が生活していくために
最低限の穀物しか手元に置くことが許されず、
それ以外はすべて政府に供出させられた。
 
おまけに、
現実には対応不可能なほどの
厳しいノルマも課せられたという。
 
(略) 
 
ウクライナ農民にとって、
肥沃な土地に恵まれ、農地面積あたりでは
他地域より多くの生産をあげている自分たちが
自分の生活に必要な最低限の量しか
穀物を残せない
悪平等的制度に対する反感
他の地域より大きかったと思われる。
 
当然の結果として、
農民は穀物を隠し供出を渋るようになった。
 
 
 これに対し、
スターリンは1932年秋になって、
極めて非人道的な決定を下す。
 
穀物の供出が特に遅れていたウクライナと
北コーカサス地方の農民を「非協力的」として、
彼らから
全食糧を徴発する
と決めたのだ。
 
恐るべきことに、この「全食糧」には、
農民が自家消費する食糧も含まれていた。
 
部分的に自由市場を認めた「ネップ」
(新経済政策)もすでに終了し、
闇市場、自由市場も存在していなかったソ連で、
 
自家消費分を含む
全食糧を取り上げられることは、
 
農民にとって
「死刑宣告」
                               を意味する。
 
 
ウクライナだけで
この年秋からの1年間で
700万人が餓死
住民が全滅して
              地図から消えた村
          さえあったという。
 
 農業強制集団化の過程で起きた
スターリンによる「懲罰的飢餓政策」の死者は、
1937~38年の「大粛清」死者をも
上回るといわれる
 
 
 
旧ソ連ではこの飢餓政策、
そして飢餓の歴史に触れること自体が
タブーであり、
触れれば逮捕の恐れもあるとされたが、
 
 
ペレストロイカによる情報公開と
言論自由化の中で、毎年11月4日を
「1932~33年の飢餓の犠牲者の霊を慰める日」
とすることが1990年、ウクライナで初めて決められた。
 
 
ソ連国内で、文芸雑誌「ノーヴィーミール」
(「新世界」の意)によって
その飢餓政策の全貌が
初めて明らかにされたのは1989年のことだ。
 
 
 
「第2次ウクライナ懲罰」
        としてのチェルノブイリ
 
 
 スターリンによる飢餓政策が
「第1次ウクライナ懲罰」であるとすれば、
 
「第2次ウクライナ懲罰」に当たるのは
なんといってもチェルノブイリ原発事故だろう。
 
現在でも、
原発は100%のフル出力で運転するか、
全く停止するかのどちらかしかできないが、
事故を起こしたチェルノブイリ4号炉は、
通常運転中に
出力の調整が可能かどうか試すという、
極めて危険な「賭け」の末に
爆発、前代未聞の大惨事となった。
 
 
 事故当時のチェルノブイリ原発の正式名称が
「ウラジミール・イリイチ・レーニン
 共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所」
であったことは
日本でもあまり知られていないが、
 
その名称の由来は
共産主義とは
 ソビエトの権力と
    全国の電化である」
というレーニンの言葉にあるという
 
 
ソ連崩壊後、
「ウラジミール・イリイチ・レーニン共産主義記念」が
名称から外され、単に
「チェルノブイリ原子力発電所」
と呼ばれるようになった。
 
1986年4月に起きた事故では、
折からの南風に乗って、
北に位置する隣国ベラルーシ
(旧白ロシア)のほうが
激しい放射能汚染に見舞われたが、
 
ウクライナも北部の大部分が汚染を受けた。
 
 
首都キエフの汚染は、
福島第1原発事故による
東京都内の汚染
ほぼ同程度とみられている。
 
 
早川由紀夫・群馬大教授が作成した
福島とチェルノブイリの放射能汚染の比較地図によれば、
放射性セシウム134+137の合計で
「37000~185000Bq/㎡」の地域が
キエフ近くにも多くある
(日本で「原発事故子ども・被災者支援法」の
モデルとなったチェルノブイリ法では、
放射性セシウムによる汚染が
185000Bq/㎡を超えれば
希望者に移住の権利が与えられた)。
 
福島県内を初め、
首都圏でも東京都東部や千葉県を中心に
この程度の汚染は全く珍しくない
 
 
 ウクライナ科学アカデミーの
イワン・ゴドレフスキー氏らの調査報告書
「ウクライナ・ルギヌイ地区住民の健康状態」
によれば、
 
ウクライナ・ルギヌイ地区では
事故から5年後の1991年以降、
健康被害が増えており、
甲状腺疾患全体では
人口1000人あたり60人にも達している。
 
「規制値を超える
 体内セシウム137量を持つ人の割合」
は、事故8年後の1994年に急増しており、
 
ゴドレフスキー氏らはその理由を
「野生のキノコ・イチゴの
 摂取量がこの年に急増したこと」
であるとしている。
 
内部被曝が環境中の放射性物質の量よりも
生活習慣に大きく依存していることを示唆しており、
福島第1原発事故以降の
日本の市民にもいえることだが、
内部被曝への警戒を怠ることこそが
最も危険だということを示している。
 
 
 
ウクライナは今後どこへ?
 
 福島第1原発事故が起きるまで、
筆者にとってウクライナは「遠くて遠い国」だった。
 
だが筆者自身が事故当時福島県に住み、
間近で原発事故の被害を受ける中で、
ウクライナやベラルーシに対し、
「遠くて近い国」として
急速に親近感を抱くようになった。
 
ウクライナやベラルーシが
チェルノブイリ後の四半世紀で
蓄積してきた多くの経験は、近い将来、
日本の市民を助けることになるだろう。
 
 
 EUとロシアが虚々実々の
政治的駆け引きを続ける中で、
 
ウクライナが今後
どこへ向かうか予測するのは難しい。
 
日本のメディアは
ウクライナに新欧米政権ができるとして
歓迎ムード一色だが、
冒頭に紹介したBBC放送内での
市民のコメントが示すように、
ウクライナ市民は歓迎一色ではない。
 
 
 農業地帯の西部・南部がEU編入を求め、
工業地帯の東部・北部が
ロシアとの協調を望んでいるのは、
前述したような歴史的経緯が
大きく影響していると筆者は考えている。
 
 
工業地帯として
ロシア社会主義革命の
ウクライナにおける根拠地となり、
「革命に貢献」した東部・北部に対し、
 
農業地帯として
社会主義政権から「征服」対象とされ、
スターリン時代には穀物供出に非協力的として
意図的な飢餓政策の刃が向けられた
西部・南部。
 
放射能汚染による被害は
工業製品よりも農産物に大きく表れる
(工業製品は放射能汚染されていても
「口に入れるわけではない」から
 ある程度割り切ることもできる)
 
ため、
チェルノブイリ事故の
政治的「懲罰」としての効果も
西部・南部でより大きなものとなった。
 
 
こうした歴史が繰り返されれば、
「ソ連時代は迫害されるだけで何もいいことがなかった」
という感情が西部・南部の住民に芽生え、
 
今回の混乱を機に
ロシアから離れようとする遠心力として
機能するのは不思議なことではない。
 
 
 新欧米の野党が政権を担った場合、
ヤヌコビッチ氏の政敵であり、
野党「祖国」の指導者であったユリア・ティモシェンコ氏が
首相に返り咲く可能性がある。
 
この人物は、親露政権が倒れ、
新欧米政権に変わった2004年の
「オレンジ革命」の象徴としてもてはやされたが、
ソ連崩壊に乗じてガス会社の利権に関与し、
莫大な富を築いたとも言われており、
お世辞にも潔白とはいえない。
 
「腐敗したヤヌコビッチ強権政治」から
「腐敗したティモシェンコ新自由主義政治」に
変わることが市民に利益をもたらすとは思えない。
 
新欧米政権の下で格差が拡大し、
数年後か数十年後に
「いま振り返れば、経済格差が少なかっただけ
ヤヌコビッチ時代のほうがましだった」
などと総括されることにもなりかねない。
 
 
 日本としては、
ウクライナの市民が自分で決めることであり、
当面、静観すべきだろう。
 
 
日本国内ではあまり報道されていないが、
ソチ五輪と前後して
日本とロシアの関係は
比較的安定的に推移している。
 
原発事故を受けて
日本のエネルギー危機を感じ取ったのか、
サハリン~北海道間に
天然ガスのパイプラインを通すよう求める提案のほか、
サハリンから北海道に電力線を通し、
ロシアから電力供給をしてもよい
との提案もあり、
 
北海道では道庁に
勉強会が設けられる方向だという。
 
サハリンのアイスホッケーチームから
北海道のチームに「親善試合」の申し入れがあるなど、
民間交流も活発になってきている。
 
 
 こうしたロシアとの関係に配慮しながら、
原発事故の被害の克服に取り組んできた「先達」として、
ウクライナ、ベラルーシとの交流を
進めていくことも必要だ。
 
 
 
日本、ウクライナ、ベラルーシの
市民が
手を携えて、
 
国際原子力ムラ
闘っていくことが、
いま最も求められる課題である。
 
 
(抜粋引用終)


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