
学校でのいじめが問題になっている。これはいまに始まったことではない。もう何十年も続いている。ときどき、マスメディアがしばらくの間騒き立てるが、すぐに静かになる。今回もそれは同じだと思う。しかし、いじめは続き、自死を選択する生徒が後を絶たない。
「いじめ」という言葉はその本質をごまかしてしまうという効果を持っている。「いじめ」の具体的な内容は刑法に規定された明らかな犯罪である。暴行(刑法208条)であり、器物損壊(同261条)であり、傷害(同204条)であり、強要(同223条)であり、脅迫(同222条)であり、恐喝(同249条)であり、窃盗(同235条)であり、強盗(同236条)である。ところが、学校という関係の中で、子供どうしの間でこれが行なわれると、それを「いじめ」と言う。そう言ってしまうと、犯罪ではないように聞こえてしまう。だから、子供たちには、自分がやっている「いじめ」という行為が、犯罪であるという意識がない。子供であろうと、犯罪は犯罪であり、社会的には、犯罪として適切に対処すべきだ。したがって、まず、行なうべきことは、子供たちに「いじめは犯罪である」ということをきちんと教えることである。
そう教えたところで、そんなに簡単にいじめがなくなるとは思われない。ではどうすればいいのだろう。大津の例に見るように、学校はあてにはならない。教育委員会も、国旗や国歌への敬意を払わせたり、彼らが言う意味での愛国心を強要したりすることには熱心であり、厳しい対応をするが、いじめの問題には頬かむりし、常に責任回避的な言動しかしない。まだ年端もいかない子供が、死という究極の選択をして抗議しても、「いじめとの因果関係がはっきりしない」というお決まりのセリフでごまかす。警察もなかなか動いてくれない。
朝日新聞に、「いじめられている君へ」または「いじめている君へ」という題で、いろいろな分野の有名人(あまり有名でない人もいるが)が、それぞれ言いたいことを言う連続コラムがある。いろんな言い方はあるにしても、そのほとんどが、いじめられている子供への励ましのことばであり、いじめている子供に反省を促すことばである。しかし、これらはあまり役に立つとは思われない。いじめられている子供に対しては、結局、心の持ち方を変えて我慢し、いまをやり過ごそうというものになってしまっている。
しかし、その中に一つだけ、「これだ」と思われるものがあった。それは、森永卓郎さんの「一度、抵抗してみれば」というコラムである。森永さんも小学校のときいじめられっ子だった。しかし、意図しないものではあったが、結果として、いじめっ子に対して反撃をするかたちになる出来事があった。それ以降、いじめがなくなった。きょう(7月27日)のコラムにも、イラストレーターの安西水丸さんが、ただ一度の反撃で二度といじめられなくなった体験を述べている。「いじめをやめさせるには肉体的な恐怖心を与えるのが一番。……『あいつにはとんでもない仕返しをされる』と思わせるんです」と言っている。そのすぐ後で、「とは言ってはみたが、今の時代、暴力はまずいです」とトーンダウンしているのは残念だが。「朝日新聞」だから、何か言われたのかもしれない。
いじめられる子供というのは、いじめる側によって選ばれている。どういうふうに選ばれているかというと、「あいつは反撃しないやつ」として選ばれている。「何をされても反撃してこないやつ」として選ばれている。だから、安心していじめる。反撃しないからどんどんエスカレートする。ところが、森永さんや安西さんのように反撃をすると、「あれ、こいつ抵抗するんだ」となって、「無抵抗」という当初の想定が間違いであったことに気付く。それによっていじめをやめさせることができたのだ。
しかし、反撃できないからこそ選ばれた子供に反撃してみろということには無理があるかもしれない。でも、死ぬことまで考えるのならば、その前に反撃を試みることくらいはできるはずではないか。いじめているやつら一人一人は弱い。だから、その中の一人に的をしぼれば十分に反撃できる。森永さんも安西さんも反撃は一人に対して行なっている。それでも躊躇するのなら、その前に、少し自信を付けるために、空手教室などに入ってみるのもいいかもしれない。「反撃」こそ地獄から逃れる方法だと思う。
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