思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

言葉

2015-03-26 15:37:37 | 随想
 少し前になるが、元農水大臣が、「いくら説明しても分からない人は分からない」と言って辞表を提出した。この言葉は現実を正しく言い表している。多くの人が自身の経験からそう思ったのではないだろうか。言葉とはそういうものだと。ただし、大臣がそう言って辞めることが適切かどうかは別問題だが。

 言葉は、分かろうとする意思を持っている人に対してしかその意味は伝わらないものである。でも、どうしてなのだろう。言葉は、わかり合える人の間では、それを交換し合うことによって互いに理解を深め合うための道具となるのだが、敵対的な関係にある人の間では、相手を傷つけるための道具となる。ここに理由の一つがある。国会での議論や、テレビなどでの政治討論を聞いていると、互いに相手の言っていることなどろくに聞いていない。相手の言葉と理解しようなどとはまったくしていない。反論できるところを探しているだけである。国会での議論など、権力を持っている側が、その行使をするにあたって、「いちおう議論をしましたよ」「独裁的決定ではありませんよ」というポーズを示すだけのものになっている。結論は初めから決まっている。言葉は、分かり合うための道具ではあるが、攻撃のための道具でもある。だから、「いくら説明しても分からない人は分からない」のは当然だと言える。

 さらに、わかり合える人どうしであっても、言葉の送り手の意思や意図がそのまま伝わるわけではないという問題もある。言葉は、その受け手がそのときに理解できる範囲でしか伝わらない。たとえば、若い時に読んだ本を、そのときよりも知識や経験が増えた年齢になってからもう一度読むと、理解していなかったことの多さに驚かされると思う。また、伝える側の人と同じ経験をして、はじめてその人が何を言いたかったかがわかるということも少なくない。戦争の恐ろしさなど、その体験者がいくら言葉を尽くして語ろうとも、圧倒的に多くなってしまった戦争を知らない世代には伝わらないようだ。その人たちが分かるようになるときは来てほしくないが、分かるときは、分かってももう遅いというときになってしまう。

 言葉は固有名詞などで実体そのものを指し示す場合を除き、実体ではなく、概念である。つまり、実体が抽象化されたものである。千差万別の実体を、共通する属性によって分類し、それぞれに付けた記号である。たとえば、椅子という言葉がある。実体としての椅子には様々な形態があり、属性がある。切り株や岩をそのまま椅子として使うこともできる。それらには、そこに人が腰掛けることができるという機能については共通している。それを人は椅子という言葉で表す。動詞や形容詞でもそれは同じである。「行なう」という動詞の具体的な内容そのものは様々であり、「美しい」という形容詞の具体的内容も様々である。

 ここでの問題は、概念としての言葉を人はあらかじめ持って生まれてくるわけではなく、その成長の過程の中で様々な実態と関係を持ちながら獲得するというところにある。成長後も、その人の日々の生活の中で新たな言葉を獲得してゆく。つまり、人が言葉を獲得することと、その人の持って生まれた性質および獲得する過程における状況、環境は密接に結びついている。どんな性質の人が、どういう状況の中で、実体とどのような関係の中で言葉を獲得していったのかによって、その人の中に作り上げられる言葉の意味、内容、言葉がその人に引き起こす情動などは異なるわけである。たとえば、コンピュータという言葉がある。しかし、個人的に見れば、それぞれの人がどういう関係の中でコンピュータという言葉を獲得したかによって、その頭の中にイメージされるコンピュータはかなり違う。コンピュータに触れたこともない人もいれば、そこにインストールされたアプリケーションプログラムを仕事で使っている人もいる。趣味やゲームのために使っている人もいる。また、コンピュータのハードウェアを作っている人もいれば、ソフトウェアを作っている人もいる。その内容は様々である。したがって、コンピュータという言葉を聞いた時、そこで想起される内容は人それぞれ違うわけである。だから、言葉は個人的なものだと言うことができる。ここにも、「いくら説明しても分からない人は分からない」というもう一つの大きな原因がある。

 小説家が、作品は発表したらもはやそれは自分のものではなく、それぞれの読者が、その人なりの意味を見つけて受け取るものであり、その意味は作者の意図したものとは違ってしまうが、そういうものだという趣旨の発言をしていることがある。言葉は個人的なものであるということを言っているのだと思う。

 だが、個人的なものというだけなら、言葉を交わすことの意味がなくなってしまう。言葉は個人的なものでありながら一般性も持っている。地理的環境や社会の仕組みは違っていても、その発音、並び方が違っていても、つまり言語が違っていても、さらに歴史的時代が違っていても、同じ意味を持つ言葉はいくらでもある。それは、地球という共通の環境に、人類として生活しているからだ。すべての人は同じ物理法則から逃れることはできない。社会を構成し、助けあいながら、いがみ合いながら生きている。そのレベルで同じ言葉が、意味として一致点を持つ。だから、言葉を交わす意味はあり、そこに、個として生きている人どうしが分かり合える根拠がある。

 なお、分かりきったことだが、人は言葉だけでものごとを伝え合う存在ではない。人類の歴史の上では、言葉を持たなかった時間のほうがずっと長いわけで、表情、声音、身振り手振り、短期あるいは長期の一連の行動によって伝える能力を持っている。受ける側から見れば、それらを合わせて理解する能力を持っている。たとえば、言葉としては謝っていても、その人の表情や態度、いままでやってきたことを見れば、本当は謝ってなどいないことがすぐに分かったりする。反対に、言葉ではひどいことを言っていても、実際にはその相手を認めているという場合もある。これは単なる印象だが、従来の日本人は、言葉よりも、言外にあるものによって理解することを得意としてきたように思われる。言葉巧みに話す人を、あまり信用できない人と捉えがちではないだろうか。言葉は、コミュニケーションのための道具の中の一つに過ぎないということである。だから言葉に過大な期待をしないほうがいいと思う。むしろ、補助的な道具と考えたほうがいいかもしれない。

 以下は余談になるが、言葉はコミュニケーションの道具であるだけでなく、思考の道具でもある。言葉は、この連続し、境界のない複雑な世界を概念化する。世界に境界を設け、分類し、名前を付けて整理する。そのことによって、この世界を対象化し、考えることを可能にする。先に、言葉はそれぞれの人が生きている広い意味での環境の中で獲得されてゆくということを述べた。環境が世界をどのように概念化するかを決める重要な要素だということである。自然環境、社会環境、身近な生活環境、家庭環境などあらゆる環境が、言葉を獲得してゆく中で、それぞれの人の中にそれぞれの意味を形成してゆくわけである。

 ということは、特定の風土の中で、長い時間を経て作られてきた言葉は、その地域の歴史や文化と密接に結びついており、その地域の人々の考え方とも結びついている。したがって、特定の言語を、あるいは方言を、他の言語や標準語に置き換えるということは、単に言葉を置き換える以上の意味を持つことになる。置き換え不能な概念があるという問題だけでなく、元の言語が培ってきた文化そのものが変質し、人々の考え方そのものが変わってしまうということにもなる。変わることそのものが問題なのではない。その地域の風土に見合うかたちで形成されてきた文化や考え方が、その地域にはなじまない文化や考え方に置き換わることが問題なのだ。

 たとえば、いま、英語が異常にもてはやされている。良い会社(給料の多い会社)に入るためには、英語ができることが必須の条件になってきている。社内の公用語として英語を使っている会社もあると聞く。それどころか、義務教育の初期の段階から英語を教え、実用的な英語が使える人を育てようと、国そのものが前のめりになっている。確かにビジネスという側面から見たとき、英語を自由に操れることが有利だということは言えるかもしれない。しかし、その人のアイデンティティを形成する大切な要素である母語というものをおろそかにすることは、大変危険なことのように思われる。

 日本語は厳密な論理的思考に向かないという人がいるようだが、本当にそうなのだろうか。英語はそれに向いているのだろうか。何を根拠にそのようなことを言っているのかよくわからない。日本には自然科学関係のノーベル賞受賞者が19人もいるし、数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞受賞者も3人いる。韓国は日本よりずっと英語に力を入れており、英語ができない人はいい大学にも、いい会社にも入れないらしいが、その韓国からはいまのところ一人も受賞者が出ていない。その理由はよくわからない。日本のノーベル賞受賞者やフィールズ賞受賞者は、英語で考える人だったということも聞いたことがない。ノーベル物理学賞を受賞した益川教授はストックホルムでのノーベル賞受賞式前の記念講演を、「アイ・キャンノットスピークイングリッシュ」と言って日本語で行なったとのこと。

すでに述べたが、特定の言語は、その言語を使う人のアイデンティティを形成する重要な要素であるだけでなく、その社会の長い歴史の中で形成され、伝えられてきたものなので、その社会のあり方を基礎付けるものの1つでもある。ビジネスのためとして、母語をおろそかにすることは、まだよく見えない大切なものを失うことになると思う。バイリンガルも母語があってのものだと思う。


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1 コメント

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Unknown (nobusan)
2015-07-23 11:09:09
もう少し,頻度を上げてください。
楽しみにしています。
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