思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

血を流す覚悟をしろ?

2024-03-11 14:00:31 | 随想

<仏様の膝の上でお昼寝>


「国民の一人一人が自分の国を護るためには、血を流す覚悟をしなければならないのです」 稲田朋美 衆議院議員

「いついかなる時に血を流す覚悟ができるか」「『戦争反対』のシュプレヒコールはもうやめませんか」 玉木雄一郎 国民民主党代表

「あなたは祖国のために戦えますか」 櫻井よしこ ジャーナリスト

 

太平洋戦争での日本の死者(1977年に厚生省社会・援護局が挙げた数字)
 1937年7月以降の日本の戦没者は、軍人、軍属、准軍属合わせて約230万人、外地の一般邦人死者数約30万人、内地での戦災死亡者約50万人、合わせて約310万人。

 先の戦争では「お国」ためだと言われて戦い、日本人310万人が亡くなりました。310万は単なる数字ではなく、その一人一人がいろいろな人とのつながりを持ち、喜んだり悲しんだりして日々を生きていた人間です。また、他の国でも同様に生きていたさらに多くの人々(東アジア、東南アジアで合わせて約2,000万人)が亡くなりました。戦時中、日本人は「一億玉砕」とまで言われて戦いを強いられていました。しかし、一億人の国民すべての命をかけてまで、いったい何を守ろうとしていたのでしょう。いったい誰が何を侵そうしていたのでしょう。この国は中国、ソビエト、イギリス、フランス、そしてアメリカと戦いました。それらの国がいったい日本から何を奪おうとしていたのでしょう。

 日本はその戦争に敗けました。守るべきとされていたものを守れなかったことになります。いま、この国に生きている人たちはそれを失ってしまったことになります。いったい何を失ったのでしょう。対戦の相手国に奪われてしまったものとは何でしょう。この戦争は天皇陛下のためとも言われ、兵隊は「天皇陛下万歳!」と叫んで(実際は「おかあさーん!」だったという話もあります)死んでゆきましたが、天皇陛下は奪われていません。天皇を絶対者として位置付ける天皇制国家=皇国はなくなりました。しかし、相手国にとって日本から天皇や天皇制を奪ったところで意味はありません。

 では何を失ったのでしょう。考えるまでもなく、先の戦争で奪われそうになり、敗戦でなくしたものは植民地です。朝鮮半島や満州、台湾、東南アジアなどにあった植民地です。あの戦争は植民地を守り、拡張するための戦争でした。しかし、敗けました。そして植民地は失いました。植民地に大きな利権を持ち、潤っていた人たちがいて、その利権を失いました。しかし、ほとんどの国民にとって「植民地は一億国民が命をかけるほどのものであった」のでしょうか。そんなことは決して言えないでしょう。なにしろ植民地をなくした後でも、以前にも増してこの国は繁栄したわけですから。

 植民地に大きな利権を持ち、大きな利益を得ていた人たちにとっては痛手であったかもしれません。しかし、彼らは、それに対して自分自身の命までかける気はなかったはずです。彼らは戦闘の第一線で命をかけて戦うことなどせず、後方から勇ましい掛け声だけをかけていました。敗けると、さっさと逃げ出し、生き延びたのです。そんな植民地を守ることについて「満蒙は日本の生命線だ」「お国のためだ」などと言いたて、戦わされ、310万人が殺されたのです。その戦争を主導していた人たちは、戦後も別の方法でまた大儲けをしているのです。

 資本主義経済システムにおいて、資本家たちはかつて植民地という低賃金の労働力が使える場所を争奪していました。その争奪戦が世界規模になったのが第1次、第2次にわたる世界戦争でした。いまは民族意識、人権意識が高まり、露骨な植民地政策はもはやできなくなっています。しかし、いまでもかたちを変えて低賃金労働者は作り出されており、搾取は続いています。低開発国と言われる国の人々の労働者や、この国で言えば、働き方改革とかいう名目で大量に生み出された「低賃金でいつでも雇止めができる非正規の労働者」などはその例です。

 そして、しっかりと認識しておいてほしいことがあります。この経済システムにおいては、どこかで戦争が起きれば、どこかで大儲けをする人たちがいるということです。軍需産業を営む人たちです。戦争が長引けば長引くほどその人たちの儲けは大きくなるということです。別の話かもしれませんが、どこかで災害が起きれば、どこかで大儲けをする人たちがいて、その災害が大きいほど儲けは大きくなるというシステムでもあります。復興特需と言われるものです。この経済システムはそういうシステムなのです。言い方を変えれば、ある人たちにとっては、人が大勢死ねば死ぬほど大儲けができるシステムなのです。そういうシステムなのに、ほとんどの人はそれをおかしいと思っていません。それほどマインドコントロールされているのです。

 さらに付け加えておきたいのは、「戦後の日本の繁栄は先の戦争で戦い、命を失った人たちがあってこそだ」というお話についてです。とんでもない話です。もし、戦争に勝ったのであればそういうことも言えるかもしれません。しかし、この国は戦争に負け、守ろうとしたものを失ったはずです。それなのにどうしてその国が戦後に繁栄したのでしょう。戦争に負けたからこそ戦後の日本の繁栄があるとでも言うのでしょうか。それは戦争に敗けなかったら日本の繁栄はなかったと言っていることと同じです。常識的に考えれば、有能、優秀な人たちが死なずに生きていれば、もっと繁栄したはずだと言えるのではないでしょうか。上記のお話は「だから、また事が起きたら日本の繁栄のために命を捧げてね。靖国神社に祀ってお祈りしてあげるから」というお話なのです。

 戦争で亡くなった300万人、いや2300万人の人たちが、もし、ものを言うことができたら言うでしょう「どうして自分たちは死ななければならなかったのか、何のために死んだのか、双方が何の恨みも面識もないのに、私が殺した人、私を殺した人について、いったい誰が何のために殺せと命令したのか、それを知りたい」と。だから、必要なことは、その問いに答えることです。戦死した人たちを靖国神社に祀り、英雄として崇めたてることではありません。この国はその反省と総括がないまま、いままた戦争の準備をしています。ふたたび冒頭のような発言が声高になされるようになり、かつて自らが侵略した近隣の国々を危険なものだとして危機を煽り立て、国民の危機意識を高めようとしています。国民の生活を守り、向上させるためとして国民から取り立てたお金を、湯水のごとく人殺しのための道具につぎ込んでいます。国民はと言えば、そんなことをしている政治家たちを選挙で落選させることによって、その暴挙を止めることができるにもかかわらず、自分には関係がないことだと、黙って見ています。国会議員は国政に関する自らの代理人であり、関係がないわけがありません。このような国民性も、あの戦争を引き起こした重要な原因の一つだと思います。その反省がなければまた次の戦争が引き起こされ、前線に駆り出され、何の恨みもない人どうしが殺し合いをさせられることでしょう。

 人にとって必要なのは「血を流す覚悟」などではありません。血など流さなくてもよい世界を創ってゆく覚悟こそ必要なものです。ホモサピエンス(「賢い人」「知恵ある人」)と言うからには、人と人との間に起きる争いを、相手を殺すことによって解決するのはもうやめるべきではありませんか。人という生き物はそれができないまま絶滅するのでしょうか。そうなればホモサピエンスと名乗る資格などないことになります。ほとんどの人は、人と人との間に起きる争いを、血など流さないで、暴力など使わないで解決しています。この世界の問題は、それができない一部の人たちが権力を持ち、自分たちは最大限安全なところにいて、自分たちの利益のために庶民を戦わせ、殺し合いをさせていることです。

 血を流さずに解決することはそれほど難しいことではないと思います。その肝は、お互いに譲歩をすることです。双方が少しだけ損をするのです。双方が譲歩をしなければ、その先には力による解決、血を流す解決しかなくなります。双方が満足するような解決はないと考えたほうがよいのです。



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