思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

『暴力の人類史』 スティーブン・ピンカー

2015-10-29 15:26:28 | 随想
 スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』によれば、暴力による単位人口あたりの死者は近世以降、極端に減ってきているとのこと。第二次世界大戦では5,500万人もの人が殺され、絶対数では史上第1位であって、この上ない大きな悲劇であった。しかし、単位人口あたりの死者数に換算すると、第1位は中国の唐の時代にあった8年に及ぶ内乱(安史の乱)であり、第二次世界大戦の死者数の8倍にもなる。第二次世界大戦は9位だとのこと。20世紀における大量の暴力的な死を伴う出来事の中で、史上10位に入るのは第二次世界大戦のみである。つまり、人類はそれほど暴力的に大量の人を殺してきたということだ。

 確かに20世紀に入っても、暴力による死者は多い。しかし、過去にはもっと大勢の人たちが殺されており、それがめずらしいことではなかった。人は簡単に殺されてきた。戦いに負ければ女子供を含め皆殺しにされることが多々あった。喧嘩や決闘など、個人的な殺し合いも常にあった。人々の意識として、死は恐ろしいものではあっても、常に身近にあり、それが世界であり、受け入れざるを得ないものであった。また、間引きと言われる嬰児殺しも常に行なわれてきた。過去の世界がどれほど暴力的であったか、詳しくは上記の本を読むとわかる。

 ところがいまはどうだろう。人々は戦争反対を叫び、実際にこの70年間、大きな戦争は起きていない。仮に戦争が起きたとして、その敗者を皆殺しにすることなど考えられない。イスラム国やポコハラムなどの行為は、異常なもの、残虐なもの、嫌悪し、忌むべきものとして非難することが、普通の人々にとっては当たり前のことになっている。個人的な殺し合いも、それをやむを得ないものとして受け入れることもない。殺し合いというものが一つの「悪」として、人々の心のなかに形成され、当然の禁忌事項となっている。南京大虐殺を否定する人も、それが許されない行為、恥ずべき行為であると思うからこそ、日本人がそんな恥ずべき行為をしたと信じたくないからこそ否定するのだ。過去の世界では、そのような虐殺はよくあったことで、恥ずべき行為としてそれほど避難されることはなかったのである。
 
 では、どうして暴力が減ってきたのか、ピンカーは述べている。単一の理由ではなく、いくつかの複合的な理由があるとしている。その一つとして、「国家」というものの成立があげられている。個人間、集団間の暴力的な争いを、それを越える圧倒的に大きな暴力機構である国家が調停、禁止をすることで、社会の安定をもたらし、継続的な生産活動ができるようにする。そのことで、社会内に富が蓄積され、国家的利益をもたらすことができる。現状を見ても、暴力的な争いが絶えないアフリカや中東では、まともな生産活動が成り立たっていないことがわかる。フセインやカダフィが生きていて、強力な力を発揮していたときは、イラクもリビアも、その国民から見れば、それなりに安定した豊かな社会であり、一定の満足をしていた。アフガニスタンも同じである。しかし、アメリカの金持ちたちによって、彼らの金儲けの邪魔になるものは、濡れ衣を着せられて悪人にされ、殺されてしまった。そして、国は崩壊し、暴力が横行する世界に戻ってしまった。国家の成立は、暴力を大きく減らすものであることがよくわかる。

 また、人々の意識の変化というものも暴力を減らす大きな要因になっているとピンカーは言う。14世紀以降のヨーロッパを中心に進んできた文明化は、人々に合理的、理性的な考え方を教え、人道主義、啓蒙主義を広め、その中で、暴力を忌避する意識が普通の人々の間に育ってきた。グーテンベルクによる活版印刷術の普及により、書物が大量に作られるようになると、識字率の向上と相まって、多くの人々が書物を読むようになり、この世界に関する知識が増え、合理的、理性的な考え方ができるようになっていったことが人々の意識の変化をもたらし、暴力を減らす大きな要因になっているとのこと。

 イスラムの世界では、その教えであるコーランはアラビア語で書かれており、その言語を印刷することは冒涜に値する行為だとして印刷機の導入を拒否したという経緯がある。そのことが、文明化を遅らせ、いまだに信じられないような非文明的と言わざるをえない国家が多いことの大きな要因となっている。今日でも、選挙が行なわれる国はイスラム国家全体の4分の1くらいで、行なわれても指導者が滑稽なほど高い得票率で当選し、反対勢力を投獄したり、議会を中断したり、選挙を中止したりしているとのこと。石打の刑や焼き印、目つぶし、舌や手の切断、磔(はりつけ)など残虐な刑も残っているらしい。そのほか諸々の点で、人権が大きく損なわれており、世界の趨勢から大きく遅れていることは否定できない。そして、重要なことは、イスラムの世界では、人々の多くがそのことをそれほど理不尽なことだとは考えていないということである。2001年から2007年にかけてのギャラップ調査(世界35カ国で、全イスラム教徒の90%を対象)で、エジプトやパキスタン、ヨルダン、バングラデシュのイスラム教徒の大半は、自国の法律はイスラム法に基くべきだと回答しているとのこと。つまり、人々の意識改革も大切ということだ。

 無機質の物質を養分にして生きるもの除き、生物は他の生物を食べることによってのみ生きることができる。したがって、自身の利益のために他者を殺すということは、生物としての基本的な性質であり、その部分はDNAにしっかりと刻み込まれている。しかし、人間はその性質をむやみに発現させたりしない仕組みを作り、社会の安定と、その中での富の生産と蓄積を図って、より多くの人間にとって、より住みやすい世界を築いてきた。その過程で、人々は暴力というものを、当然の「悪」とし、それが許されないものとしてとらえる意識が形成されてきたということになる。いまは当たり前のように思われているこのような意識は、当初はけっして当たり前ではなかったわけだ。暴力が横行していた世界において、その状態をなんとか変えたいと考える人たちによって、平和状態が社会にもたらす恩恵を理解している人たちによって、暴力が否定され始め、人道主義や啓蒙主義の広がりとともに、普通の人たちの意識も変わり、いまのような暴力に対する意識が形成されてきたことになる。

 ピンカーが描いているような、どうしようもないほどの暴力的世界は、まだまだそこから抜け出せてはいないとは言え、いまようやくここまでたどり着き、暴力による死者が極端に少なくなってきた。これは、さらに暴力を減らすことができるということを表している。つまり、その希望があるということだ。非力に見える戦争反対や平和を求める活動も、実は継続することによって、世界をまた大きく変えることになる可能性を持っているということだ。平和憲法の深い意味や、それを為政者が単なる個人的な思い入れで実質的に廃棄してしまうことがどれほどの暴挙なのか、現在の安倍内閣の支持率が、それほど変わらないことを考えると、まだまだ理解されていないように感じられる。だからといって、平和運動など無効だということにはならないことを、いままでの人類の歩みが示している。

 人々が、この世界に関する知識を広め、深め、合理的、理性的に考えるようになることは、暴力を減らすだけでなく、その他のさまざまな不合理、不正を減らすことにもつながると思う。科学的技術の発展は、人類にかつてない量の富の生産を可能にした。しかし、現在、その富は地球上のごく一部の人たちに異常に集中して所有されており、一方に食べ物も十分にない多数の貧困者がいて、その格差はさらに拡大している。そして、この現状に無関心であったり、やむを得ないものとして考えたりしている人が少なくない。つまり、放置すれば、有利な位置にある人がより有利になり富を集中させてゆく一方、不利な位置にある人はより不利になって貧困状態に陥ってしまうという現実を、積極的に変える必要などないと考えている人が少なくないということである。

 一方、このような状態を放置することは、いずれ社会を混乱状態に陥れ、正常な生産活動ができないようになり、新たな富を作り出せなくなってしまうばかりか、人の暴力的な性質を発現させ、また殺戮が始まる可能性さえあると考える人たちもいる。いまは豊かで平和だと言われている国でも、イスラム国やポコハラムのような集団が出現する可能性があるのだ。そのように考える人たちは、国家の役割の一つとして、富の適正な配分をすることがあるとし、国家はその役割を果たすべきだと発言し、行動している。

 すでに有利な位置にある人たちは、そのような国家の介入は認め難く、自分たちの金儲けの邪魔をしない小さな政府を要求して、反対派の活動を牽制しつつ、豊富な資金を使って、政治家を動かし、国家をコントロールしようとしている。ノーベル賞を受賞した経済学者のクルーグマンはつぎのような例をあげている。

 (富裕層の減税に熱心な人たちは)ブッシュ大統領による減税は素晴らしい結果をもたらす、と予測した。だが実際は景気回復が遅れ、その後に壊滅的な経済破綻がやってきた。また、クリントン大統領が最高税率を引き上げたときに、経済的破滅の予測が出されたが、実際には、活況が続き、どの指標もレーガン大統領時代を上回ることになった。最近でも、2013年にブッシュ減税の一部が失効し、医療保険制度改革の一部財源となる新税が導入されたことで、(上位)1%の人々に対して急激な増税になった。このときは、90年代以降見られなかったような速さで雇用が増えた。州レベルでの例もあり、カンザス州は大幅減税を行い、右派の知事はこれを経済政策における「リアルな実証実験」と呼んだが、同州の成長はそれ以後ずっと停滞している。カリフォルニア州は逆に、増税を実施した。このところの同州の雇用の伸びは全米一である。……要するに、わかりやすいきわめて明快な話だ。共和党の人が富裕層への大幅な減税を支持する理由は、裕福な資金提供者が望んでいるからなのだ。……根本的には、富裕層が自分たちをもっと裕福にしてくれる政治家を支持するという話だ。ほかはすべて単なる理屈づけにすぎない。
(以上、10月2日NYタイムズ掲載コラムの朝日新聞による抄訳から)


 暴力に対する現在の人々の考え方は、暴力が横行していた時代であっても、暴力を実際に受ける側の立場の人々にとっては、当然に受け入れることができるものだったはずだ。だからこそ、いまの状態があると言えるとも思う。富の配分の問題についても、それが適正に配分される、つまり、過剰な富の集中が起きないような社会の仕組みを作るべきだという考え方は、貧困状態にある側から見れば当然だと言える。反対に、そんなことをすると、有能な人が働く意欲をなくし、経済が停滞するなどという理屈など、到底受け入れられるものではない。したがって、いまの世界では貧困層が多数を占めていても、いずれ富の適性配分が実現され、人々はその状態を当たり前と考えるようになるだろう。しかし、自然にそうなるのではない。そうなるような活動が必要である。暴力を減らすにもそのための活動が必要であったように、現在の富の配分の仕方が、人類にとっての幸福な未来にはつながらないことを訴え、富の適性配分を求める活動が必要だということになる。


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