ワニさんの『パワフルおっさん連Ⅲ』

『おっさん』が思うまま、感じるままのんびり行きます!!

笑顔で還暦原爆小頭症患者たち

2006-05-08 22:27:57 | Weblog
伝えたい 還暦の原爆小頭症患者
心に変化 きのこ会・支える会「発信」検討

妊娠初期の胎内で強い原爆放射線を浴びたために、頭が小さく、知的障害や身体障害を伴って生まれてきた原爆小頭症患者たち。自身や親たちでつくる「きのこ会」を心の支えに、ひっそりと暮らしてきた。そして六十年。「懸命に生き抜いてきたこの事実を、語り継いでいきたい」。白髪交じりの患者の心境に変化が生まれつつある。

「元気に生きて来られたのは、支援してくださったみなさまのおかげ。心から感謝しています」。四月十六日、広島市内であった「きのこ会還暦を祝う会」。秋葉忠利市長らを来賓に招いた晴れの舞台で、患者の一人、岸君江さん(60)=三次市=が力強くお礼のあいさつを述べた。

ケーキを囲み、笑顔で還暦を祝う原爆小頭症患者たち


祝う会に9人

この日は、広島県内や東京などから計九人の患者が参加した。「周囲に理解してもらいたい、でも偏見が恐ろしい―」。葛藤(かっとう)の中で、社会の片隅を生きざるを得なかった六十年。岸さんのあいさつに、ある患者は目頭をハンカチで押さえ、別の患者は拍手を送った。

「祝う会」はその後、和気あいあいと進んだ。患者たちは、支援者組織「きのこ会を支える会」と喜びを分かち合い、心ゆくままカラオケやビンゴゲームを楽しんだ。引っ込み思案で、かつては絵ばかり描いていた女性患者が演歌にこぶしを利かせ、会場に笑顔がはじけた。

数少ない記録

その光景を、戸惑いとともに見つめる男性がいた。きのこ会事務局の秋信利彦さん(71)だ。中国放送記者だった約四十年前、米国のABCC(原爆傷害調査委員会)の資料から小頭症の存在をつかんだ。原爆医療法の認定疾病の一つとなるきっかけをつくった一人でもある。

兄のように見守り続けてきた秋信さん。家族の気持ちを最優先し、報道する側にいながら、患者とマスコミの間に立つ「防波堤」にもなった。そうした配慮から、被爆の実態を伝える原爆資料館(中区)でさえ、小頭症を紹介するパネルはわずか数枚にとどまる。

「患者や家族の胸の内を思えば、選択は間違っていなかったはず。ただ…」と秋信さん。「強く世に訴える機会を逸してきたのも事実。今、患者たちは笑顔で還暦を迎えた。その年輪と思いをぜひ記録しておきたい」

岸さんが続ける。「私たち患者には役目があると思う。つらいけど生き抜いた六十年をどうにかして伝えたい」。間もなく九十歳を迎えるある母親は「この子たちが一歩踏み出すことで、平和を考えるきっかけになってくれれば」と願う。

 近く話し合い

大学院の修士論文テーマに小頭症を取り上げたのが縁で、支える会に加わる俳優斉藤とも子さん(45)も会場にいた。「支えるだけでなく、一緒に歩み、後世につなげたい。そのために、何ができるのか。新たに活動の輪に加わろうとする方の力も得ながら、考えていきたい」

支える会は近くミーティングを開く。これまでの歩みの記録の仕方や今後の活動方針を話し合う。代表世話人の県立広島大の村上須賀子教授(60)=医療ソーシャルワーク論=は「患者は悲しみをどう受け止め、どう乗り越えてきたのか。腰を据えてまとめ、世に発信していきたい」。原爆被害に耐え、生き抜いた患者たちの力強さを、未来へ伝える。

きのこ会

作家の山代巴さんや元広島平和文化センター理事長の大牟田稔さん(いずれも故人)らでつくる「広島研究の会」が1965年、原爆小頭症患者や親たちに呼び掛け、原爆症としての認定▽親子の生活の終身保障▽核兵器の完全廃棄―の3点を活動の柱に発足させた。3月末現在、厚生労働省の認定を受けた小頭症患者数は全国で23人。うち18家族がきのこ会に参加する。

いろいろな障害を伴って産まれた、原爆小頭症患者たち。「懸命に生き抜いてきたこの事実を、語り継いでいきたい。」語り継がれた事をさらに未来へと語り継ぐのは私達ではないのでしょうか?