ワニさんの『パワフルおっさん連Ⅲ』

『おっさん』が思うまま、感じるままのんびり行きます!!

1945年8月6日・・そして・・

2006-01-31 23:16:43 | Weblog
こんばんは。

原爆を投下する特別部隊は、1944年9月に編成され、熟練したB29のパイロッ

トであるティベッツ大佐が部隊長に任命されユタ州ウェンドーバー基地で、4トン

の重さの原爆を運搬する為に軽量化されたB29を使って、模擬爆弾(パンプキン)

の投下も含めた厳しい訓練が繰り返された。

1945年7月初めティベッツ他爆撃部隊が、7月26日ウラン原爆の砲身部分を

積んだ重巡洋艦がアメリカ本土から原爆投下の発信基地であるテニアン島に到着。

8月2日攻撃日を「6日、投下目標の優先順位を広島・小倉・長崎」とする

最終命令が出された。

8月6日午前1時45分(日本時間)機長ティベッツの母の名をつけた原爆搭載機

B29エノラ・ゲイは、12人の乗員を乗せ、爆発観測と記録撮影のための隋伴機

2機とともにテニアン島を飛び立った。これより先に、3機の気象観測機がそれぞ

れ広島・小倉・長崎の天候調査に向かっていた。およそ7時15分、広島の天候

が良好との報告が入り、この瞬間広島の運命は決定した。
エノラ・ゲイの爆撃手は、投下目的のT字型の相生橋を照準に捉えて自動装置の

スイッチを押し、午前8時15分、原爆は機体から離れて落下していった。

43秒後、島病院の上空約600mで、人類史上最初の原始爆弾は炸裂した。



被爆直後の相生橋、まわりは吹き飛ばされ焼け野原と、クリックして下さい、

やはり被爆直後の産業奨励館後の『原爆ドーム』です。やはり周りは焼け野原で

建物らしい建物は有りません。





火傷と負傷にあえぐ被爆者たち、服もぼろぼろで建物も殆ど全壊の状態です。

火傷した女学生・・広島赤十字病院8月10日・・どうしたんだ!!?わたしが何をしたんだ!!?わたしに何をしたんだ 
怒りとも悲しみともいえない何かが・・・・


爆心地から310m全焼地域の惨状、8月12日基町より撮影、電車の屋根は

吹き飛びそして全焼まわりもすべてが焼き尽くされた・・そして8月7日似島検疫所8月7日似島検疫

所にて熱線で全身火傷を負った男性・・これが人間が人間に対して出来ることなのか?この姿を見れますか?
この男性が何を思ってここにいるんだ?どうしてこんな事をしてしまった

こんな事をして・・どうして・・・

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2 コメント

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悲惨な画像ですね(T_T) (ハムハム)
2006-02-02 01:41:30
大変悲惨な画像ですが、これが原爆の真実なのですね!

何の罪もない人たちに対しての人体実験ですよ!これは!



前にカキコしていたと思いますが、小倉も目標だったのですが、曇りのためとB29の存在が気づかれていたので、対空砲射で打ち落とされそうになったらしいです。

昔NHKで原爆を落とした立場からの再現のVTRがありました。

広島の場合は、B29の運転手、投下手などがいたみたいですね。実際の映像と再現のVTRを組み合わせていました。

投下手は興奮した様子で、ゴーグルをはずし、直接肉眼でその威力を見ようとしていたのを今でも覚えています。投下した直後はなかなか爆発しないので、「不発か?」と騒いでいるうちに爆発したのです。

 基地に帰った後は、勲章をもらい、新聞記者からインタビューを受けていましたね。

そのVTRの折々に被爆体験者のインタビューもありましたよ。

もう一度再放送してもらいたいですね・・・。
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コメントありがとうございました! (ワニさん)
2006-02-02 19:44:51
(ハムハム) さま

>ハムちゃんいつもありがとう!

そうね、B29の乗員だったか、機長だったかは覚えていないのですが、映像としてTV

で見ました、英雄ですね・・



日米の感情が本当はまだ打ち解けてはいないと思います、B29の進入空路や退出の空路

など調べてはいるんですが、記事にすると



どう書けばいいのか・・いっぱしのジャーナリストみたいに書く事が出来ない自分に、

少々いらだちさえ感じてます。でもハムちゃんのとこで癒されたり、自分の経歴を少しづつでもわかって貰えれば、いいかと、あんまり急がないよう、ゆっくり書いていきます!
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