ワニさんの『パワフルおっさん連Ⅲ』

『おっさん』が思うまま、感じるままのんびり行きます!!

62年目のあの日にむかって・・・。

2006-08-17 23:39:35 | Weblog
色んな方々に後押しして頂き、1月にこのブログ開設しました。
自分ではなんとか頑張ってきたつもりですが、広島が何処まで伝えられたのかは自信がありません。、二世の我々兄弟は、戦争は知らない、
だがボロボロの我街広島が、まさに目も留まらない速さで復興していく姿をずっと見てきた。
理屈ではないこの被爆地のパワー、それは長崎も同じである。
おっさんはあんまり作文は上手ではないが、小さいころから両親や大人たちは必死だったのだ。小さい子供を相手にしている暇はなかった。5歳年下の弟にいつもミルクをあげたのはおっさんだった、母乳なんて飲ませている暇は母には無かったのだ。

まあ出産後2日後には店にたっていた母は、母乳なんて出なかったんだ。今思い出すと悲しささえおぼえてしまう。

大人になって考えてみると、その日の売り上げで米を買いに良く行かされたな、弟が生まれた頃にはミルクが買えた。米の砥ぎ汁との混ぜ物でも自分は大きくなれて良かった・・・。
おっさんは、被爆者の両親との間に産まれた男3人の兄弟だ。父は亡くなったが、母はまだ店に出ている、「歩けんようになったら店もやめるわ」と今でも子供達には心配をかけまいと頑張っている。
両親は原爆の事は、聞かないと言わなかった、おっさん達兄弟は、被曝2世なんて珍しくもなかった。周りの友達はみんなそうだったから。

小学校の時「戦後も20年を向かえました・・・。」と学校で朝礼がありました。

今戦後61年ですが、おっさんは戦後20年の自分の方がよっぽど光っていたし、夢ももてた、子供だったからかな。

東京オリンピックが開催された時、「もう生きてる間にはまず見れることはない」と学校で授業をさておき白黒テレビで見せてもらいました。
文明の発展とはすごいもので、現在ではあっちこっちで開催されるオリンピックをお茶の間で見ることが出来ます。
現在を生きるおっさんとまさにおっさんの子供達、では環境や教育が全くといってもいいほど違います。ですが、このブログを通じて言いたかったことは、

誰といって憎んではいけない、少しの笑顔が気付かなかった平和な社会を創って行けるんじゃないかと。

終戦記念日をひとつの区切りにしようと思ってます。少しの間休止します、ご覧の皆様有難う御座いました。
近いうちまた復活します。

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