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ワカキコースケのブログ(仮)

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『かぐや姫の物語』を見た(2)

2013-12-23 04:03:42 | 日記

 

今日になって、『かぐや姫の物語』を特集した「キネマ旬報」2013年12月上旬号のバックナンバーが届いた。

高畑・宮崎アニメを支えた伝説の2人、大塚康生、小田部羊一の談話をとる、老舗の映画雑誌として実に正しいアプローチで、記事が「ユリイカ」2013年12月号ときれいに差別化されている。両氏の記事の「取材・文」は山下慧。さすが。山下さんとはたまーにお会いする、薄いお付き合いがある関係だが、それ抜きでも、なぜキネ旬はこの人を執筆陣の主軸に据えないのだろう、もったいない、といつもフシギに思っている。

高畑勲、西村義明のインタビューの内容は基本、「ユリイカ」と同じ。パブ用に同じ話を繰り返しているというより、何度でも同じこと―田辺修、男鹿和雄、橋本晋司を中心にしたスタッフの驚異的な画力の集結があって成立した作品である―を強調するぞ、という肚の座り方を感じる。

読んでいる途中で、発言の大部分をスタッフへの賛辞に費やす高畑さんが、迷いの森から抜け出す答えを「自分ひとりではなにもできない。でも、村のみんなが力を合わせれば戦える!」に見出した太陽の王子ホルスと被ってくる。この人の印象は結局、圧倒的な自作解説本「『ホルス』の映像表現」(1983 アニメージュ文庫)を中学生の時に読んで、宮崎駿にこんな兄貴分がいたんだ……とびっくりした時からほとんど変わらないのだ。

その「キネマ旬報」と「ユリイカ」では論じられていなくて、僕があれこれ妄想したこと、前回に引き続いて。


(Ⅱ)原典での姫の「罪と罰」について

あらためて、かぐや姫の「罪と罰」について原典ではどんなふうに書かれていたか、角川文庫の中河與一訳注版「竹取物語」(1956年初版)から抜き出してみよう。

☆姫が翁と媼にはじめて告白する場面

「わたくしのこの身は、人間世界の者ではございません。月の都の人です。それをまあ、前世の約束がありましたので、この人間世界にやつて参りました」
(おのが身は、この國の人にもあらず。月の都の人なり。それをなむ、昔の契(ちぎり)ありけるによりなむ、この世界にまうで來たりける)
「私には月の都の人である父母がございます。ちよつとの間といふので、月の國からやつて来ましたけれども、こんなにも、この人間世界に多くの年月を過ごしたのでございました」
(月の都の人とて父母あり。片時の間とて、かの國よりまうで來しかども、かくこの國には、あまたの年を經ぬるになむありける)

☆月から迎えにやってきた、雲に乗る天人たち。その王と思われる者の言葉

「翁よ、かぐや姫よ、僅かばかりの善根をお前が作つたことによって、かぐや姫をお前の助けにもと、ほんの暫くの間といふので下界に降したのに、長い年月、澤山の金を賜はって、お前はまるで別人のやうな長者になつてしまった。かぐや姫は、天上で罪をお作りになつたから、かやうに賤しいお前のところに暫くおいでになつたのだ。然し今罪の期限がすつかり消滅したので、かうして迎へに來たのに、お前は泣き歎くが、それは叶はぬ事である。さあ早くお返し申せ」
(汝、をさなき人、いささかなる功徳を翁つくりけるによりて、汝が助けにとて、片時の程として降ししを、そこらの年ごろ、そこらの金賜ひて、身をかたへる如なりにたり。かぐや姫は、罪をつくりたまへりければ、かく賤しきおのれが許にしばしおはしつるり。罪のかぎりはてぬれば、かく迎ふるを、なほ歎く、あたはぬことなり。はや返し奉れ)


なんだか実に勝手な話ではある。それに結局、罪とは何かの説明はされていない。

僕は映画を見る前の予習でこの原典を読んだとき、姫はいわゆる政治犯をモデルにしていたのではないかと直感した。

皇族や貴族の運命が政変でガラッと変わる奈良~平安初期の血なまぐささの記憶が、原典をかたちづくった伝承のなかに入り込んでいるのではないかと。それに帝=天皇のいる都よりもさらに大きな都といえば、当時は唐(中国)の都城である。つまり外つ国への憧れ、ある種のエキゾチズムや、政治的な背景という(当時の)現代的な要素が民間伝承と混ざって、「迎える側から描かれた貴種流離譚」として独立したのが「竹取物語」。

一族の謀反などの咎で、一時の罰として辺境に置かれた姫と、善人ゆえに身の回りの世話を命じられた者たち。しかし、まるで自分の娘のように愛しては、それは不敬である。こういう風に捉えると、姫の罪をいちいち下々に説明する必要は無い、という当時の支配階級の常識において、原典の説明不足の理由は解ける気がする。

今は月=成層圏の向こう・宇宙にある地球の衛星であることが歴然たる事実なわけだが。
当時の人々はもっと水平の感覚で星の数々と月を見ていたと想像される。夜になると忽然と現れる夜の国。科学的知識はなくても、太陽と対照的な、神の住む土地としての認識はあった。夜の国を治める神ツクヨミノミコト(太陽神アマテラスオオミカミの弟)が住む場所として。しかしその光には、現在の大都会の夜景のようなリアリティがあったのではないか。
一方で、唐を初めとする東アジアとの国際外交は、奈良時代から少しずつ始まったばかりだ。見知らぬ外つ国のイメージを重ね合わせるのに、月は格好の存在だったと思われるのだ。

こういう想念を考えるきっかけになったのは、数年前に古書店で見つけた「太陽」1979年4月号の「奈良平城京」特集。
建築家の磯崎新が、平城京の建設が決定的に新しかったのは、北極星(夜空でただひとつ固定して動かない星)を天空の中心と考える新しい宇宙観を導入したからだ、と説いている。天皇の居住する大極殿をいちばん北にした、いわゆる天子南面の構造によって、北極星と大極殿を、天地を結ぶ両極にシンボライズ化した。そのグランドデザインが、天皇が中央集権国家の頂点にあることを強固にした。それまでは太陽の運行に即した東西軸だけが日本の宇宙観で、南北の軸で考える発想は全く無かったらしい。
まあ、単純に、星と絡めた都市計画なんてすごい、それだけ夜空の存在は生々しかったんだね、と感心していたのだ。

しかしそうなると、「竹取物語」が生まれた当時は、月よりも北極星のほうがヒエラルキ―的には偉い、がコンセンサスだったはずだ。ところがその月の都から来た姫は、北極星と対になった大極殿に住まう帝(天皇)の求愛を断る。天人がやってきたら、帝の軍隊もまるで歯が立たず、すみやかに戦意を喪失する。
「竹取物語」は、天皇の威光も外つ国に対しては無力である、と直裁に(ドキッとするほど)風刺している物語だが、単純に天皇制批判ともいえない。間接的に、天皇をも包む大きな存在、すなわち天皇一族がやってきたルーツの土地(大陸)を示しているのではないかと想像されるのだ。


(Ⅲ)映画での姫の「罪と罰」について

しかし(Ⅰ)で確認したように(なんか論文みたいな書き方でアレですが)、高畑は、地球を離れ、青い地球を名残惜しく振り返る姫の姿が終盤はっきりと描いているように、『かぐや姫の物語』を、「昔から語り継がれた話を現代の視点で(再)完成」させている。
僕が想像した、当時の政治犯のイメージを重ね合わせた貴種流離譚の変形、という解釈は一切とっていない。
その上で、下界=この世を「穢き所」と天人が称しているのに注目し、

・月の清浄な世界で暮らす姫が、地球という賤しい世界の暮らしにあこがれ、魅かれた。
・その煩悩の罰として、地球に降ろされた。そんなに言うなら、苦しみを味わいなさいと。
・ところが野山の暮らしは素晴らしい。月では不浄とされた生き物の命はそれぞれのカオスを放つことで輝いている。姫はそこでスクスク育ち、人間界に同化する。
・しかし都に上がっての不自由な暮らしは、姫を苦しめる。辛い、こんなところにいたくない、と心が叫ぶ。それで、姫は充分に罰を受けたと天人は納得し、迎えに行く。
・姫は、喜怒哀楽の感情でかき乱されてなお、やはり地上を愛する。俗も含めた生の世界に、コスモス(秩序)を見出す。

おおよそ、こういう解釈の下に、坂口理子とともに脚本を書いている。『かぐや姫の物語』パンフレットに掲載された高畑の手による企画書が、実はいちばん呑み込みやすいコンセプト説明なので、それを自分なりにまとめさせてもらった。
竹から黄金がザクザク出てくることに、おじいさんは、これは姫を高貴な姫君にするための天命だ、と信じる。これは実際、天人の仕送りであり、誘導だった。姫に苦しんでもらうコースづくりのための。そういうエクスキューズが周到になされていたのだと読んでいてよく分かる。

それでも、とてもシンプルに研ぎ澄まされているのに、『かぐや姫の世界』にはさらに解釈を誘う、謎めいたところがある。
都の暮らし/不幸―野山の暮らし/幸福、の図式に、かつての高畑勲なら衒いも無く当てはめていたろう。そしてそれが、この人のフィルモグラフィにいかんともしがたく通底する、「説教くささ」につながっていた。
告白すると、僕は「アルプスの少女ハイジ」(74)のそういうところがキツくて、子どもの頃から再放送のたびに途中で見るのをあきらめてきたのだ。都会の暮らしにあこがれた北海道の田舎育ちからすると、田舎で暮らしていると活き活きしていて、だけど街で暮らすと元気がなくなるハイジって、自分と逆だよ! と思っていた。(だから近未来風景のなかで戦うコナンを作るひとのほうが、率直に言って100倍魅力的だった)

自然とともに生きる暮しって素敵。この発見って、都会人のものだ。もともとそこで生きる者にとっては自明の環境である。いいも悪いも無い。素晴らしいところに住んでいますねーと都会の人にホメられたりすると、かえってバツの悪い、恥ずかしめを受けた気持ちになりがち。
『かぐや姫の物語』は、その点において、かつてのやや説教くさい高畑アニメよりも深度がある。姫が自然を慈しみ、笑顔を増すことを、カオスへの接近と警戒する存在があるからだ。
僕ももう上京して20年以上経ち、たまに帰省すると、山の草木がひとつひとつ目に染みたりするから、「ハイジ」に挫折した頃とは真逆に近い。姫のよろこびのほうが、育った環境を再発見した自分の気持ちに近い。
しかし自然豊かな土地を素敵、素晴らしい、とカンゲキして味わう者は、結局、その地と同化は許されないのだ。姫こそが、地球よりも発達した地に住む者、究極の都会人。

一方で高畑には、都会の片隅で暮らす市井の人々を手掛けると、抜群に冴えるところがある。前作にあたる『ホーホケキョ となりの山田くん』(99)は、『かぐや姫の物語』と連なる作画手法以上に、“都の暮らし”を究極的に突き詰めて成功したことにポイントがある。姫が喜びを爆発させる満開の桜は、都のなかにある桜だった。そこに都会人のリアリティがあった。


しかし、姫の「罪と罰」についてもう一層、暗示的だが明らかにもっと描き込まれている要素がある。姫が初潮を迎えたことを、わざわざ! ストーリーのキーにしているのだ。
女性の生理のことだから、ちょっと言葉を選ぶというか、オロオロしてしまうのだが、ともかく少女から女性になった祝いの席で、男性からその対象となることが分かった夜、姫は屋敷を飛び出す(あの予告編の疾走場面)。

かぐや姫に「月のもの」が到来することを描いたものが、かつてあったろうか。こう書くだけで、(笑)やwwwをつけておちょくっているように思われないか、とても心配だ。それぐらいスレスレの要素をあえて入れている。
月経を穢れとする価値観は近代まで確かにあった。地球を「穢き所」とする月の世界の人なら、なおさらではないか。姫自身が、これまでのスクスクのびのびと享受してきた「人間としての成長の喜び」に、初めて(月面人として)恐怖と拒否を覚えた。画面上は男達の無礼な噂話に姫が激昂したようになっているが、これはトリガーに過ぎない。だから天人が、姫は罰をちゃんと罰として受け止めた、と解釈してメッセンジャーのような桃色のカゲロウのようなものを遣わした(あるいは彼らが、姫はもうここまでですぞ、と月に向かって発信した)。そう解釈できる。

姫はボロボロの姿になってもとの野山にたどり着いたが、あそんでくれた捨丸兄ちゃんは、杣人の定めで、よそに映っている。家はもう別の家族が暮らしている。おかみさんは、ボンヤリ立ち尽くしているボロ着の娘(姫)の前に、黙って食べ物(芋か粟だろうか)の椀を置く。
そう、姫はここで、乞食と間違われている。そして黙って姫は、その食べ物を口にする。
社会の最下層の体験を疑似的にでも姫にさせるところは、なんというか、唸った。描かなくても成立するのに、ちゃんとやっている。

またこのシークエンスでは、速いスピード(原典通りならわずか3ヶ月)で成長した姫が、まだ四季のサイクルを知らず、冬の山を死んだものと考えていることも分かる。なので、都に戻って高貴な姫君となり、春の訪れ=満開の桜に喜ぶさまが鮮やかに効いている。しかし、庶民に平伏された時に再び、自分がかつて成長に恐怖し拒否したことを思い出す。ここらへんの姫の感情のアップダウンは、実は非常にロジカルに組まれている。

だが、だが。姫の月面人としての最大の罪は、この後にさらにやってくると僕は見ている。
初潮の後に初めて芽ばえた、捨丸兄ちゃんへの恋慕。再会した彼と姫は、しばし、2人だけの逃避行を幻視する。『おもひでぽろぽろ』(91)の妙子が、好きな男の子と初めて言葉を交わしたあとで空を駆けあがるように、2人も抱き合いながら空を飛ぶ。これもまた今後語り草になるだろう、哀しくて素晴らしい飛翔シーン。
この時、姫は、あろうことか、本当にあろうことか、太陽に向かって、
「あめつちの神よ、私をお守りください!」
と叫ぶのだ。
(※追記-2度目に見ると、正確なセリフは「あめつちよ、私を受け入れて!」だった)


太陽をあめつち(天地)の神と認め、そこに地上に留まりたい願いをかけること。自然賛美が本物の祈りになったこと。月経の穢れの恐怖(月の世界の罰)を、男性を好きになることで、生産的な悦びに転化させたこと。月の姫は、こうして一気にタブーを破ってしまったのだ。

「あめつち」という、ふだん聞き慣れない日本神話の言葉を映画の中で耳にしたのは、おそらく初めてだ。今年出した「neoneo」2号収録の鼎談で(急にインフォマーシャルになりますが、まだまだ発売中です!http://webneo.org/)、小川プロのプロデューサー伏屋博雄は、小川紳介が『1000年刻みの日時計-牧野村物語』(87)の次の作品は、『天地(あめつち)の始まるとき』というタイトルにする構想を持っていた、と証言している。昇る太陽ではなく太陽の周りを地面が動くさまを撮る空前のアイデアから始まり、土の中の微生物にコスモロジーの精密を見たあげく、おばさんの憑かれたようなフシギなものがたりに耳を傾けて終わる、あの宇宙スケールの映画の続きは、神話に向かう予定だった。
そんなことが頭の片隅にあったから、「あめつち」という言葉に、それを月の姫に叫ばせていることに戦慄した。この映画の背景にどれだけ厚く高畑の思想が塗りこまれているかは、ちょっと想像を絶する。

それゆえか、おそろしいことに、まだ書き足りないのである。
続きます。

 


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