ワカキコースケのブログ(仮)

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試写で見た映画(9)青春H『恋する神さま~古事記入門~』

2013-08-06 16:32:25 | 日記


昨日(8月5日)、アップリンク『ドコニモイケナイ』にご来場ありがとうございました。
反省多々。ともあれ、まだ続きますのでよろしくお願いします!

http://blog.livedoor.jp/dokonimoikenai/archives/16144735.html

映画の公式サイト
http://dokonimoikenai.com/



さて、1ヶ月振りに、まるっきり告知絡みじゃないことを。
久しぶりに映画と関係ないことをおもいっきり書きたいのだが(松井秀喜へのラブレターや、世の中のこと諸々)、また改めて。



『恋する神さま~古事記入門~』
2013 娯楽TV/ひかりTV 監督 榎本敏郎

8月10日よりポレポレ東中野にて1週間限定ロードショー
配給・宣伝 アートポート

http://cinema.artport.co.jp/koisuru/


サンプルDVDで拝見。


久しぶりに見る、青春Hシリーズだ。
フト気づけば、映芸ダイアリーズ解散~neoneo参加の去年を境に、足を運ぶ映画の傾向はずいぶん変わっている。
それに、本業で初めて手掛けるジャンルが続いた忙しさもあって、見る本数も激減してるなあ。月に20本以上は見ていた頃が嘘のよう。
しかし少ない1本ずつを、そのつど新鮮に見るのも悪くないです。


ホントにタイトルそのままに、“古事記入門”だった。一体なんのつもりの映画なのか戸惑う人も少なからずいると思うが、ねらいたいことそのまんまをやってみてるんだな、と気楽に見てもらえればいい。
イザナギとイザナミのいちばん最初の国作り、アマテラスとスサノオの確執、スサノオのヤマタノオロチ征伐、オオクニヌシと白ウサギ……と、よく知られたエピソードを、スペクタクルにでもなくファンタジーにでもなく、「古事記」を舞台化する劇団員の稽古(しかも公園で)風景のかたちを借りて、ひたすら素朴に再現している。
稽古をする現代人の彼らと、演じている神々の時代が次第に交錯し……という、かっこいいけど先例は沢山ある構造にいかない、どっちにとられてもいい風情が、かえって面白かった。


平城遷都1300年の時(2010年)、展示映像の仕事をすることになり、奈良時代についてかなり勉強した。
http://heijo-kyo.com/rekishikan.html
メインのテキストは『続日本紀 全現代語訳(上・中・下)』(講談社学術文庫)のほうだったが、それなりに、712年(遷都3年目)にできたといわれている「古事記」もかじった。原文(角川ソフィア文庫)はさすがに途中であきらめたものの、福永武彦の『古事記物語』(岩波少年文庫)の端正な読みやすさにずいぶん内容の把握を助けられた。角川文庫の鈴木三重吉版は、相性なのか中学生の時から何度トライしても頭に入らなかったので特に。後半はいかにも公式文書な感じの歴史書になっていくので、神と人が容易に出入りする前半、いわゆる大過去と比べようがなくなっていく。頭に入らなくて当然だ、と分かったのだった。


そして、この『恋する神さま~古事記入門~』。
大過去である神代の時代は、セックス=生殖=繁栄と同義だったとあけすけ、かつ、まっとうに表現している。
これを見ると、天浮橋に立ったイサナギとイザナミの最初の国作りからして、すでにそういうことだと気付く。
「その矛を、油のようにただよっているところに突っ込んで、ぐるぐるまぜました。」
そして、海から引きあげた矛の先から滴り落ちる濃い潮が、中つ国に初めてうまれた地面になる。青春Hに教えられたら、福永武彦の名文だって明るいポルノとして読めるようになっちゃうのだ!


ただ、ここまでなら、昔のピンク映画にも先例はあっただろうと思う。
『恋する神さま~古事記入門~』ではもうひとつのストーリーとして、「テレビレポーターの若い女性が本居宣長を訪ねインタビューする」が用意される。
30年以上かけて「古事記」を研究し、唐の影響を受ける前のやまと古来の文化の存在を唱えた宣長に、「文化が交わるなかに私たちがいる」「日本固有のものを突き詰めすぎると、排他的になり、結局は自己正当化のための幻想の固有を作り出すことになるのでは?」とリベラルな疑問をあっけらかんとぶつけて、国学者のパイオニアを苛立たせるレポーター。
この2人のディスカッションに、作り手の風刺精神と研究成果の発露(エンドクレジットに参考文献が並ぶ映画も珍しい)がある。と同時に、絡みと同じくらいエロティック。テニスコートでボールと一緒に理屈のラリーを続けるあたりは、唐突にジャン=リュック・ゴタールそっくりだ。ゴダールの場合、こういう時に出てくるオンナノコが、たいてい妙にヤラしいからだ。

監督は榎本敏郎。
ハリウッド・コメディの約束事に楽しく甘酸っぱくのっとった快作『痴漢電車 さわってビックリ!』(01)のひとだから、ピンク映画が神話をとりあげた先例、それに神話と現代の往還の可視化という点で実相時昭雄、沖島勲作品などは、当然、頭にあったと推察される。
〈いっぺんそういうことを自分もやってみたかった〉という、マジメなイタズラごころを感じる。
僕は、例えばゴダールが『軽蔑』(63)をギリシャ神話「オデッセイア」映画化の舞台裏劇にしているのを、ちょっと必要以上に難しくというか、荘重な何かがあるように捉えていたのだが、ヨーロッパ人にとっては基本素養ゆえに呑みこみやすい、もっとケロッとした構造なのかもしれない、とどこまでもトボけている『恋する神さま~古事記入門~』を見て思ったのだった。

それに、セックスだけじゃなくて歌もある。文字がない時代の神話は当然、口承であり歌謡だからだ。
お后を増やすこと=国を増やすこと(こういう神話解釈の仕方は、梅原猛で知った)であるオオクニヌシは、皮をはがされて泣くイナバの白ウサギ(白いパーカーの下は赤いビキニってのがいい)をなぐさめる代わりに肌を撫でさすり、ナガブチばりの巡恋歌をあちこちのお后に捧げる。吉岡睦雄が飄々としているのを見るのは、あいかわらず楽しい。

映画の内容は、優しくて調子のいいオオクニノヌシが、まあ、これからも楽しく生きていくのだろう、と思わせるあたりまで。
もちろん「古事記」には続きがあり、オオクニヌシには自分がホームタウンとして治める出雲の国をめぐる、天上との大きな戦いが待っている。その解決方法―ギリシャの神々ではとても考えられん“平和な選択”まで踏まえてみると……、この映画の仕掛けはすごい。
神話が古典、教養としてだけでなく、今を生きるヒントとしても学べるって、気が付くと、いつのまにか教えてくれるのだ。


それになにより、『日本の神話を考える』上田正昭(小学館ライブラリー)によると、神話は「本来、聖なる時間・聖なる空間の場において語られた、ハレ(晴)の言葉」「もともとハレの場において語り伝えられるもの」。
映画館で、イザナギとイザナミの青春どころか〈日本誕生H〉を見るって、実はすごーくおめでたいことなのだ。

 


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1 コメント

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Unknown (コトタマ)
2013-12-28 14:14:21
すいません、言霊百神というサイトごぞんじですか?
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