今日のお昼、『沈黙―サイレンス―』(16/マーティン・スコセッシ/アメリカ)を見た。
映画館を出た後、とんかつ屋さんにすぐ入り、ランチタイムのロースかつ定食が出るまでの間に、ワッと思いつくままを手帳にメモした。
映画をつかまえて「感動した」「衝撃を受けた」などと大げさに語るのが、どうにも苦手だ。
なんかほら、あれって多用すると自己愛風味が強くなるでしょ。いささか。話題の大作にヴィヴィッドな反応ができてしまうワタシの感性スゴイ、みたいなさ。
僕の場合、『沈黙―サイレンス―』は「見終った後、すぐに感想をメモしたくてとんかつ屋に入った映画」だということでしかない。それでも、久しぶりのことだ。
以下は、補足で書き足したりしながらの、メモの整理です。なるたけ、そこがラストだ、などと書かないようにしますが、未見の方はご注意ください。
【棺桶の場面について】
棄教したロドリゴの、手のひらの中にあったロザリオ(木彫りの、小さな十字架)。
決まっているようで、決まっていない。いや、ずいぶんと律儀に決めてみせたがゆえに、かえって蛇足のような印象を受けてしまう。両義の意味合いがある。
解釈A…ロドリゴは、最後までキリスト教の信仰を捨てなかった。
解釈B…いや、だからこそロドリゴは弱かった。捨てなかったロザリオこそが、彼が葛藤と揺らぎをついに克服できなかったことを示している。
その前に、棄教と告解を繰り返すキチジローが、ロドリゴが転んだ後ですら法具を隠し持っていた場面がある。
さらにずっと前、神父ロドリゴが五島で布教している時。ロザリオの珠などを記念に欲しがる村民たちに、ロドリゴは(信仰のよすがを形に求める心理は危うい)と、微かに不安を覚えている。日本の風土にはキリスト教の神の概念を根付かせるのは困難、と師に諄々と説かれる場面につながる。
こうした伏線を踏まえると、解釈B寄りで考えたほうが、蛇足スレスレの、手のひらの中のロザリオを見せた必然が分かる。
〈神はこの試練に対して、なぜ沈黙したもうか〉が最終テーマの映画ではない。
それはストーリーを推進させる第一ロケットみたいなもの。そこから始まり、〈私も一緒に苦しんでいる〉という「沈黙の中から語りかける神の声」を、どこまでロドリゴは、そして受難者は、聞くことが出来るのか、にテーマは発展する。
沈黙の声を聞きとり、常に神とともにある実感を得たならば、彼は棄教徒の運命をもっと積極的に受け入れられたのではないか。聞き取れなかったから、最後までロザリオに縋ったのではないか?
大航海時代の、世界へのキリスト教布教は多分に政治的だった。日本ではうまくいかない、とすぐに断念できないロドリゴの苦しみは、中世ヨーロッパの傲慢に他ならない。
しかしロドリゴは、宗教で喜びを得る村人たちと会った。祈りを捧げる対象を得ることで、自分が年貢を納めるだけに生まれてきた苦役の動物では無い、と知った人々と。
「ここでは自分は有益な価値がある」といった意味のつぶやきが(ナレーションのかたちで)、若いロドリゴの内面からこぼれる。こぼれてしまう。
(そしてこの一連でも、キリシタンになればパライソ―天国―に行けるという、曲解した利益願望が村民に浸透している。だからみな熱心なのだ、と知って困惑する一景があり、皮肉で哀しい伏線になっている)
人間とはいったいぜんたい、何を頼りにして生きているものなのか。
この映画は、そうした深い慨嘆と、問い掛けまで行き着いている。
【スコセッシの演出についてⅠ】
パブリシティでは、溝口健二の影響が強調されている。なるほど、ここの場面か、と納得するところはいくつも。
ただ、そればっかりってことは、無いだろうと思う。
虚心で見ればあちこち、オーソン・ウェルズ、イングマル・ベルイマンまみれではある。ひょっとしたら、田坂具隆の『親鸞』『続・親鸞』(ともに60)を見ているのではないか、と思うところさえ。スコセッシなら、まったく意外なことではない。
一般論で言っても、脚本家ではないが構成作家のはしくれの実感としても、誰かひとりの作家、ひとつ、ふたつの作品の影響でモノは作れない。
ロドリゴがどんどん追い詰められていくシナリオにどうバネをつけていくか。現場で、どこにカメラを置くか。虫の声をダビングでどこまで強くするか。
そのたび、膨大な量の記憶のストックが引きずり出され、結合され、あるいは同じ鍋に煮込まれる。中には、なんてことない、タイトルも覚えてないような映画や番組の、ちょっとしたカットやつなぎが物凄く参考になったりする。
いちいち言うとややこしくなるばかりだから、大体は、作品のテーマやルックスに沿う、あるいは観客の理解の補強につながる名前やタイトルを選んで出すものだ。
ある時期から急に、念入りに、クロサワ、クロサワと重々しく言い出して、映画マスコミのみなさんの目線をうまく誘導するようになったジョージ・ルーカスが典型例。
もう、こうなったら、あのー、あの1本目(4話目)のデススター攻略戦って、『トコリの橋』(54/マーク・ロブソン/アメリカ)とか参考にしてませんか、と聞いたところでムダなのである。
もちろん、作品全体の基礎、インフラならば話は別だ。モチーフの源泉が、誰かひとりの作家、ひとつ、ふたつの作品の影響に絞られることは大いにあるだろう。
それにしても、『沈黙―サイレンス―』はミゾグチじゃないよね、とカンで思う。ただでさえ、遠藤周作の小説そのものに惚れ込んでいるんだし。
では、この映画でスコセッシが縋ったのは誰か。
【スコセッシの演出についてⅡ】
ここからは勝手な、誰にも納得してもらえる気がしない、僕の想念。
エイゼンシュテインだ、ついにスコセッシ、エイゼンシュテインをやったな……!と思った。
このブログの、前の更新回を覗いてもらえると分かりますが、今、突然のレーニン・ブームが僕の中で起きていまして。それで、ロシア革命の映画をバンバン作ったセルゲイ・M・エイゼンシュテインを思い出しやすい状態にあったのだが。
一枚一枚の絵が、何を描いているのかがすぐに分かる直截さ。明らかにサイレント映画を意識している俳優の動かし方とカットの積み立て。(それゆえ、「手」で語らせるところが非常に多い。そこが映画の軸になるとあらかじめ考えて演出・撮影している)
実はけっこう、今のモードからするとかなり野暮ったいほどで、それでますます、エイゼンシュテインじゃないかなーと。
骨の髄まで映画史的な蓄積をしてきたスコセッシは、今までにもところどころで―ものすごいクローズアップとモンタージュの爆発的積み立て、などの得意の演出で―エイゼンシュテインの論理的過剰さを自分のものにしてきた。これは確かだ。
しかし、そういうシネマテーク的な、審美的な取り入れ方(エイゼンシュテインはプロパガンダ映画の作家ではなく、アクション映画の最初の匠なのだ、という再評価の提示が、一時期かなり流行った)は、常にスコセッシの中に課題を作っていたのではないかと思うのだ。
帝政を打ち破った民衆の放棄は、マルクス主義に基づいた指導・掌握によって、民主主義革命から社会主義革命に段階的発展を遂げるのだ、というレーニンの思想と実践を、ものの見事に絵解きしたエイゼンシュテインの映画を咀嚼すれば、どうしても、人生の選択肢に神父になる道もあった自身の内面とぶつかる。
だって、「全ての宗教はアヘンである」だよ。マルクス主義。
そこが根本にあるエイゼンシュテインの映画を、どこまで自分のものに出来るのか。どこまで素直に、おもしろい、すごい、さすがエイゼンシュテインは映画史上最高の映画監督である、と言えるのか。
教師としてもマスター・クラスのスコセッシならば、葛藤はなおさらなはずだ。
そう考えると、どうしても、スコセッシは『沈黙―サイレンス―』で初めて、技術効果では無く、自身の内面に通じる問題としてエイゼンシュテインに取り組んだのでは……と想念が走ってしまうのだ。
階級闘争的革命思想もまた、信仰のひとつだったのではないか?
この問いかけは、さっき書いたこの映画の普遍的な大テーマ(とあくまで僕が思う)、
〈人間とはいったいぜんたい、何を頼りにして生きているものなのか〉
に、自ずと集約される質のものだからだ。
ついでに言うが、キリシタン弾圧の司令官、井上筑後守(イッセー尾形)の演技にも、実は、エイゼンシュテインを感じてしまった。
古い映画好きの方ならご存知の通り、エイゼンシュテインは、資本家側を常に滑稽に戯画化して描いた。
ただし、ここには矛盾というか、重大な計算違いが含まれていて。
直接行動に出る労働者たちの一団を雄々しく撮れば撮るほどどこか単調になり。少人数のブルジョワジーが怯え、空威張りし、ジタバタするようすのほうがより印象的で、おもしろく見えてしまうところがあった。
映画は悪い奴、ずるい奴のほうが面白く見えてしまうメディア。
これをいち早く発見してしまったところに、エイゼンシュテインの異常な天才と、プロパガンダ作家としての限界があった。僕なんかがこうして書いているようなことだから、スコセッシがそこらへん、よくよく理解していないわけがない。
つまりね、スコセッシはイッセーさんに、『ストライキ』(25/ソ連)の工場主のように見えることを求めたのではないか。
権力者を、エイゼンシュテイン映画のブルジョワジーのように描く。
この着想を、盛大にやってみせたのはアレクサンドル・ソクーロフの『太陽』(05/ロシア=イタリア=フランス=スイス)だった。特に、昭和天皇と側近たちが地下の防空壕で迷う場面。
あの映画で昭和天皇を演じたのは誰だっけ……と考えたら、僕の妄想も一応のツジツマは、合う気がするのである。
(この映画で、僕が一番戦慄した俳優は、浅野忠信。審問を受けるロドリゴの横で、ロドリゴにピントが合っていてボヤけながら見せる微妙な表情の変化は、ちょっと凄まじいものがあった。変化といっても、ロドリゴに気持ちを寄せるでもなし。単に面倒な仕事を早く終わらせたい、という小さな幅の中で異教徒への苛立ち、不快、嘲りがゴーッと逆巻く。怖かった……)
【スコセッシの演出についてⅢ】
にしても。
最近作はあまり見ていない上で言うが(スミマセン)。スコセッシ、演出、ヘタになったなあ……と思った。
対話のカットバックが、あれれ、となるほど粗っぽい。
例えば、ロドリゴとキチジローが対面するツーショット。自分を裏切り続けるキチジローと話すのが苦痛なロドリゴが身体をねじらせているのに、次のカット、ロドリゴなめのキチジローになると、ロドリゴの頭が戻ってしまっている。そういう小さな疵が、『沈黙―サイレンス―』には多い。
かつての、ミヒャエル・バウハウスが撮った絵を、自分(主導)でバシバシ編集していた頃なら、ほとんど見られなかった質の粗さだ。むしろ、神経症的なほど、そういう甘さは嫌っていたほうじゃないか。
ただ、そこには実は僕は、かなり感動したのだった。(ここでやっと、初めて「感動」が出てくる)
スコセッシは「アメリカ映画の巨匠」という尊称が、あんまり似合わないできた人だった。
間違いなく「鬼才」ではあるけどさ、「巨匠」というほどの、大きなテーマを提示できているかなあ……。そんな印象が、うっすらと、付きまとってしまう人だった。
ところが、『沈黙―サイレンス―』では、(しつこいが)今どきエイゼンシュテインみたい、という野暮ったさでマトモに物語をかたり、こまかい技巧は二の次にして、テーマの提示を最優先している。
映画全体が、大掴みで、太い。
これはワタシの映画なんです、いや、監督作品とクレジットされているからだけでなくて、ワタシ自身の生き方、考え方、悩んできたことを投影したものなんです、とストレートに言えている。
ああ、スコセッシは巨匠だ、巨匠になった、と初めて素直に思った。
『市民ケーン』(41/オーソン・ウェルズ/アメリカ)のローズバットみたいな、ロザリオ。
あんな決め方をしなくても十分だし、伏せることでもっとフクザツさを出せる可能性はあった、とやはり思うのだが。
(ちなみに、妻との静かな暮らしがワンシーンでもあれば、あそこは意味から何からゼンゼン変わる。妻が持たせなきゃ、ああはならないので)
それでも、ああいうことをするのが、「巨匠」の使命なのだろう。ドカーン、とテーマの絵解きを見せる。ダサかろうとやる。
イタリア系で言うと。
大先輩のフェデリコ・フェリーニは『甘い生活』(59/イタリア=フランス)で、ヘリコプターで空輸されるキリスト像だなんて実にまあ、読み易過ぎるぐらいの絵で「諸君、これが現代だ!」と大見得を切った。
中先輩のフランシス・フォード・コッポラは『地獄の黙示録』(79/アメリカ)で、全編あれだけ歌舞いているのに、テーマを絵解く集約のアイコンは詰め切れなかった。
ライバル(かしら)のベルナルド・ベルトリッチは『ラスト・エンペラー』(87/イタリア=イギリス=中国)で、見ているほうが照れくさくなるぐらい、モロに、コオロギを出した。そして先に「巨匠」になった。
スコセッシは、あの小さなロザリオで、それをやったのだ。
【補足】
以上が、とんかつ屋で書いたメモを基に、見た直後に思ったことをまとめたもの。
しかし、結局は、遠藤周作の原作小説にスコセッシ自身の内部が、ものすごく深く共振したのだ、に尽きるとは思う。巡り巡って。
どこでの発言なのか、あるいはどの小説に書かれていたものか、すっかり分からなくなってしまったが、遠藤はこんな意味の言葉を残している。記憶のままを記しておく。
「信仰とは、純粋に神を慕い、崇めることではない。そういう無邪気さは脆い。理知的な心は、神を愛しつつ、同時に聖書に書かれた、神の成された奇跡を疑ってしまう。信じる心と疑う心の葛藤の中に生きることだけが、真の信仰なのだ」
どの本に書かれているか、教えて下さる方がいたら嬉しいです。
ともかく、昔、僕は一読して、それこそ本当に衝撃を受けた。以来、「映画の力を信じる」なんて人をウットリさせるフレーズが流行っても、とてもじゃないが口に出来ない人間になってしまった。
ヨーロッパの精神的な背骨も、キリスト教への信仰心と、ギリシア・ローマ的イデアとの間の綱引きで成り立っている。これは戦後に流行ったらしい考え方だが、今でも大部分は通用するだろう。
スコセッシと遠藤は、おそらく僕(ら)が考えている以上に、近かった。
同時に、高校生の時に読んだっきりだけど、小説のテーマが「神の沈黙(不在)」どまり、なんてことは無いんじゃないか。狐狸庵先生ナメたらあかんのでは……とはなんとなく、思っていた。
すると、今さっき開いたパンフレットに、ノートルダム清心女子大学教授・山根道公が、スパーッとした解説を書いていた。
編集者の提案を呑み、『沈黙』とタイトルが決まったことで、「神は沈黙の中で語っている」という意味が「神の沈黙」ととられるようになり、誤読を招く原因となった。それを遠藤は、後々まで悔いていたという。
山根先生、いいこと教えてくださいまして、ありがとうございます。
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