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『エッシャー通りの赤いポスト』の感想

2022-01-02 23:42:52 | 日記


年おさめに見る映画は何か。年の最初に見る映画はどれにするか。こだわる人は多いだろうし、考えるのはとても楽しい時間だろう。あまりこだわらない僕でも共感できる。

しかし、あまりこだわらない僕でも、2022年の1本目が『エッシャー通りの赤いポスト』だった、よりによって園子温の監督作だったというのは、なにかこう、溜息が出るところがある。
今年はまたさらに低空飛行で苦労しそうだな、用心して過ごそう……としみじみ思った。年初から気を引き締めさせてくれたのだから、むしろ感謝したい。

https://escherst-akaipost.jp/

いきなりひどい言いぐさだが、かなり久しぶりに―おそらく『恋の罪』(11)以来―園子温の新作映画を見て、それなりに心は動いたのだ。ピンとこなかっただけなら、ブログには書かない。


映画『エッシャー通りの赤いポスト』オフィシャルサイト 2021年 ...


それにしても、かつて僕の苦手だった園子温のてんこもりだ。
異国の文化圏で育った人が日本で日本語の映画を撮るとこうなるんじゃないか、と思わせる気持ちと気持ちの唐突なつながり。
すぐ熱くなってすぐ走り、無垢な抒情を描く時は信じられないぐらい浪漫的になる落差。十年穴蔵にこもっていた人間が十年ぶりに見る夏草はこう映るのかと思われるほど、この人はお日様に輝く土手の夏草を怖いぐらい美しく見せる。
そして、ガタピシした進行への不満を全てチャラにしてしまう、新進女優を見つけてそのポテンシャルをカメラの前で限界いっぱいに引き出す時の爆発力。

あれ。書いていてだんだん誉めてしまっている。そう、園子温は、園子温の映画としか言いようのない文体・体質を持ったものを作り続けている。そこは素直に、凄い。久しぶりに見てもスタミナは健在で、ゲンナリしたのと感心するのが一緒に押し寄せてきて、ああ、かえって懐かしいよ、この消化の悪さ。

でも、「熱さ」がいろんなことへの免罪符になる(姿を描く)映画は、これでおしまいだ、それでいいですよね、とも思った。
監督がメインキャストを、助監督がエキストラを怒鳴る姿を無批判に描いて、それが映画への情熱とか、空回りする青春のナントカ云々というのは、もうなし。コンプライアンス以前に、もはや、ふつうにズレていた。撮影は2019年の夏だったそうだから、ズレ自体はすぐに裁断できないのだが。

若い人気監督が、低予算の映画の仕事を受ける。原点に戻りたいという気持ちがあり、キャストを全員アマチュアからオーディションで選ぶことが条件。
応募する人達それぞれのエピソードがにぎやかに連なるなか、クライアントの意向で、メインキャストはすでに知名度のある人達に交代になる。

ここから、障害によって原点回帰を阻まれた監督のナイーブな苦しみに話は寄っていくのだが、オーディションに合格したのに急に役を外された女性達に、頭を下げるのは制作部の女性。
人気監督は、思うように撮れない、つらい……という姿をまさに浪漫的に見せるだけで、悔しさを押し殺してスタジオから立ち去る彼女達を追いかけて、謝ることはしない。

2019年の夏に撮られた、監督やスタッフが演者を怒鳴る場面は、僕は仕方ない、許容範囲だと考える。
でも、本人の責任ではない降板をさせられた人達に、選んだ監督が一声もかけようとしない。そこの描写が欠けているのは、今も、今後も、なしだ。

巧まずして、そういうところに園子温がよく出ているとは思っている。

1980~90年代のインディーズ日本映画は、園のような突進力のあるワンマンなアーティストが幾人もいることで活性化した。
引き寄せられるようにして、それぞれの監督の周りに多くの若者が集まり、多くはタダ働きで手伝った。監督本人に私淑したいより、監督の持つ磁力のそばにいれば何かあるんじゃないか、という期待のもとにだったから、取引は成立していた。

『エッシャー通りの赤いポスト』もそういう現場だったとは思わない。実務的なことはもう、ちゃんとしているのが当然の場で、園子温はこの十数年のキャリアを作っている。
ただ、何かあるんじゃないか、もっと何かできるのではないか、という思いでいる無名の、また、まだ無名に近い俳優を集めて、映画づくりの初期衝動に戻りたい意欲が満載のところ、若い人間が集まった時の集団エネルギーにいまだ魅せられているところには、ストレートに園子温がよく出ていたと思ったのだ。あの、「俺」の旗まで掲げさせて。

園子温は別に、この映画に集まった彼らを育てようとは思っていない。いや、気に入った人はまた起用するなどの関係は続くだろうが、出来上がったのはいわゆるワークショップの講師映画の風貌ではなかった、という意味で。

あくまで「俺」なのだ。園子温は、自分が一番に原点回帰したくて、自分のために『エッシャー通りの赤いポスト』を作っている。何かあるんじゃないか、と思う奴は「俺」のためでなく、オマエ自身のために集まれ、である。

脚本家の下働きや映画館のアルバイトをしつつ、原將人のところにも出入りしていた頃、よくつるんでいたYという奴が、園さんの助監督をつとめ、東京ガガガの仕切りみたいなこともしていた。
Yは張り切っていた。園さんとの直接のつながりではなく、Yに呼ばれるかたちで時々手伝いに行った。ちなみに『部屋』(93)で佐野史郎が持っている鞄は、ちょうどいいとYが僕の部屋から持ち出したものだ。

スタッフルームにしていた、何かの事情で家賃がタダ同然だというアパートにはたくさんの若い子が雑魚寝していて(別の階には福居ショウジン組が棲んでいた)、僕を見るなり「なんかこの人、フツー」とシラけるように言った子が、次に行った時にはもう「ガガガを卒業した」とかで、いなかったりした。
確かもう少し後で撮影した『BAD FILM』では渋谷の駅前で、即興で演技している。たくさん撮りすぎて編集がまとまらず未完と聞いていたが、ずいぶん前に完成はしたらしい。自分の出番が使われているかどうかは、見ていないのでわからない。

そうしているうちに、Yは行方不明になるし、園さんはキネマ旬報の誌上で〈商業映画監督宣言〉をするわで、もともとほぼなかった縁は切れた。
つまりは僕も単に、何かあるんじゃないか、と周囲をウロウロしていた無名の一人なのだ。園さんの映画を好みと思っていないくせに、何かが動き出すきっかけを探すだけが目的で手伝いに行くようなのは、僕の他にも山のようにいただろう。いちいち顔と名前なんか、覚えていられないだろう。

そして再び、園子温は、集団エネルギーに「俺」を託す映画を作った。
原点回帰の活力を示す姿勢が、本当に元気のよいことと言えるかどうかまではわからない。『エッシャー通りの赤いポスト』では実は多くのエピソードが、過去の清算に向き合うストーリーとなっている。回春と青春は、似ているようで違う。

中心人物となっている二人の女性(『愛のむきだし』(09)の満島ひかりにみんなビックリした時みたいに、これから注目の存在になるでしょう)は撮影現場で大暴れしたあと、『幕末太陽傳』(57)の幻のラストシーンのように映画を飛び出し、かつて東京ガガガが練り歩いた渋谷のスクランブル交差点で叫ぶ。
またここか! 園子温はまたここに戻るのか。鼻の奥がツーンとなりかけたが、走りだす二人はすぐにその疾走を止められるのだった。

僕の、『エッシャー通りの赤いポスト』に対するなんともいえない感慨は、1980~90年代のインディーズ日本映画のありかたはもう成立しないのだと確かめる、挽歌を見るような気持に近い。

しかし、逆の人もいるだろう。
日本のインディーズ映画といえば、おしゃれでもったいつけた若者が、もったいつけた美しい映像のなかでボソボソともったいつけたおしゃべりをしているのばっかり、と思っていたら、こんなにガツガツ暴れて走って叫んでもいいんだ。こういうのならやりたい! と初めて救いを見つける人もいるだろう。

それはとてもステキなことだ。誰だって「俺」の、「私」の旗を掲げて走る権利はある。

最期に。
1月2日のトーク付きの回で、テキパキと司会役もしていたとみやまあゆみを見た方、今後ともよろしくです。

とみやまさんは、僕の今のところの唯一の映画脚本作『漫画誕生』(19)に出てもらった人。
情は濃いのだが態度はつっけんどんなお手伝いさん、という役を本当に仏頂面で演じてくれて、すっかりファンになった。
もっと広く周知されてほしいな、とじれったく思っていたので、「園子温の映画で、浴衣で暴れたり男をとられたりした人」という新たな名刺代わりを手に入れたことを、嬉しく思っています。

 


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