年賀がわりの干支絵です。
もとは21年に一番聴いた新作アルバム、デュア・リパの『フューチャー・ノスタルジア(ザ・ムーンライト・エディション)』。
これからは、SNSだと長くなりそうなことは、時間が許すときはなるたけブログにしよう!と急に思い立った。といっても、今後はどうなるかは未定。仕事も書くことなので、そっちが優先。いつまたパッタリ更新が途切れるかわかりません。
ただ、ちょうど2021年の年末は余裕があったので、今のうちにと張り切って3本書き、年明けにも1本書いて、ここしばらくは年に数えるほどしか更新しなかったブログを再開させた。
同時に、なぜブログをしばらく留守がちにしてきたのか、理由のひとつにも気づいた。
フシギな位、アップしたすぐ後に、仕事のやや面倒な連絡がくることが多いのだ。今回も年末になってから続けてきて、ああ、ブログにいそしんだ時間の分押してしまった……と歯ぎしりすることになった。
正確な確率はなんとも言えない。僕の、「なぜかブログを書くとすぐ後に飛び込みの作業が来る」ジンクスは、晴れ男と自称する人が「俺のロケでは雨が降ったことがない」と言い張るようなもので、多分に主観的・体感的だ。しかし主観としては、本当に多い。これが続くと、ブログを書こうかと思うこと自体がイヤになってくるし、現になってきた。
そこは考え方を変えて、別に因果関係はない、書いても書かなくて面倒が来るのは同じならば書いといたほうがいい、と思うようにしたい。
さて今回は、末聴の山から、年末の縁起物のつもりでレコードを引っ張り出した話。
暮れになって、1975年に出たLP12枚組『NHK落語名人選』(NHKサービスセンター)から、三代目桂三木助の「芝浜」を聞いた。
芝の浜辺で何十両もの大金を拾った魚売りが、これで遊んで暮らせるとどんちゃん騒ぎをするものの、翌朝にはその金はない。「夢を見ていたんだよ」と女房に諭された魚売りは、気持ちを入れ換えてよく働くようになり、三年後には自分の店を持つまでに。大晦日の夜、三年の苦労を夫婦でねぎらい合っていると、女房が改まって話があると切り出した……。
暮れになると演じられる。僕もたまに行く寄席やラジオなどで、年末といえば「芝浜」という定番化に馴染んできた。数年前、高円寺の円盤で開かれた「芝浜」を聞く会にも足を運んだことがある。
同じ大晦日が舞台の古典落語に、「掛取万歳」がある。こっちは、大晦日に溜まった家賃やツケを取りに来る大家や酒屋の番頭を、あの手この手でごまかして帰ってもらう筋。にぎやかな笑いが詰め込まれているのだが、金欠が続いて何かと滞納が多い時には身につまされてしまう。数年前に一度、風流のつもりで大晦日に合わせてCD(確か四代目柳亭市馬)を聞いたら、かえってユーウツになってしまった。
昔は大晦日が一年の収支の決算日だったので、金銭をめぐる悲喜こもごもがこの日に集中した。「なんとか正月の餅を買えるだけの金は残して……」という言葉は、比喩として今も僕らの実感として残っているが、昔は実際的な例えだった。
だから、話も多いのだろう。現代語訳を数編読んだことがあるだけだが、井原西鶴の『世間胸算用』は全て大晦日を舞台にした金銭トラブルのエピソード集だったし、樋口一葉の「大つごもり」は、その世知辛さを突き詰めたすえに、人間の心に何が残るのかと、浄化に導くような短編だった。
そういう流れからしたら「芝浜」のように、大晦日に、なんとか生活を立て直すことができたと一息つく夫婦の噺は、珍しいほうだろう。
あたたかい人情もので、大晦日に限らず味わえるO・ヘンリー的な普遍性があるから今も好まれている。
と、ここまでウンチク風に書いてきたが、僕はあいにく落語も万年半可通なので、今の「芝浜」の基本型をつくったといわれる三木助のを聞くのは、今回が初めて。
七代目立川談志の解釈の評判の大きさがあって、泣かせる噺という印象が今は強い。三木助のが、さっぱりした語り口なのは意外だった。
魚売りが大金を拾った夢の事実が急転直下で明かされるあたりは、夫婦の情愛に焦点がいかず、むしろ、ポカンとしたおかしみのほうが勝っている。
しかし、とぼけた余韻が快く残っているうち、だんだんとシンとした後味が出てくる。
人間というのは、おかしな知恵が咄嗟にはたらくものだ。
大金を拾って喜ぶ夢のあさましさがフトつまらなくなる。そんな、なんてことのないきっかけが、真面目に働きだす理由に案外なったりするものだ。
この実感が三木助の「芝浜」の中にちゃんとあるから、その後の「芝浜」は、人情噺の名作として育つことができたのだろう。
高座の映像が残っていないこともあり、僕は、三代目三木助に対して遠かった。今でも三木助と聞けば80年代のテレビの超売れっ子で、森田芳光の映画にも出ていた息子・四代目が先に浮かぶ。
しかしLPのなかの池田弥三郎や榎本滋民の解説などを読んでみると、中年期までは賭場通いが高座に行くより多い暮らしだったと知って驚く。
いつまでたっても芸に身が入らないなか、娘ほど年の離れた女性に惚れて、ようやく身を固めたいと願ったものの、慌てた女性の親からは「三木助の名を継げるほど精進したら」と条件を付けられた。
できっこないと体よく断られたわけだが、そこで発奮、博打から「ぷっつり足を洗ってからは芸の進境も著しく、古典派の大看板となった」(前掲・解説書)。
それで晴れて、惚れた女性との結婚を許されたのだから、実話がほとんど見事な世話もの。円朝以来改訂され続けてきた「芝浜」を、今に残る原型につくりあげた、しびれるほどの裏打ち。
三木助もいいなあ、とようやく今頃になって、という話でした。
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