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試写で見た映画(28) 『1PM ‐ワン・アメリカン・ムービー』『ニューヨークの中国女』

2023-04-10 14:57:32 | 日記


古いドキュメンタリー映画が2本(長編と中編)、2023年の4月から日本初公開される。どちらも、ジャン=リュック・ゴダールに関心のある方にとっては、とても興味深い中身の映画だ。

 

『1PM ― ワン・アメリカン・ムービー』

1971年
監督 D・A・ペネベイカー リチャード・リーコック

『ニューヨークの中国女』

1968年
監督 D・A・ペネベイカー リチャード・リーコック


配給 アダンソニア ブロードウェイ
配給協力 ブライトホース・フィルム
https://youtu.be/Q0BRvqHNsMg




とはいえ、ゴダールについてある程度以上理解している人でないと、いきなりは入りづらいところがある。
専門家なら、おお、ゴダールとペネベイカーが組んだ、あの幻の『1AM』がついに日本でも正式公開か!……とすぐ喜べるのだが、ほらもう、この時点で僕レベルにとってはややこしい。
なんで『1AM』なのに、完成したものは『1PM』というタイトルなのか。
それに、宣伝ではゴダールの存在が全面的に前に打ち出されているのに、ゴダールの監督作品ではない。なのに、60年代後半のゴダールを知るうえで重要な作品のひとつと言われている。

宣伝資料の文をさらにひらたくして整理してみよう。

1968年、世界中が政治の季節に突入していた時期。
当時すでにめちゃめちゃ人気の映画監督で、ギンギラギンのカリスマだったジャン=リュック・ゴダールが、ダイレクト・シネマという言葉を掲げるアメリカのドキュメンタリー集団とコラボすることになった。(ダイレクト・シネマとは何ぞや、については後述します)
どっちも、アンチメジャー、手持ちカメラで小回りの利く映画づくりをしたいなどの共通項がある。フランスの五月革命のような状況がアメリカでも起きる可能性が高いんだから、反戦運動家や革命主義者を中心に撮ろうよ、となって計画と準備はトントン進んだ。
もっぱらゴダールが現場のディレクションをし、ダイレクト・シネマ一派が撮影する役割分担。タイトルは『1AM(ワン・アメリカン・ムービー)』となる予定だった。

ところが、途中で協働関係はうまくいかなくなり、ゴダールは手を引いた。
残った素材を、後でダイレクト・シネマ一派が編集・完成させ、タイトルは『1PM(ワン・パラレル・ムービー)』に変更した。だから監督クレジットは、ダイレクト・シネマ一派のD・A・ペネベイカーとリチャード・リーコックになっている。
しかし、素材の多くはゴダール主導で撮られているし、打ち合わせしている姿や現場で指示している姿も、まるで今でいうメイキングのようにふんだんに撮られているので、ゴダールの監督作ではないけれども重要作、ということになった。

あくまで僕の感覚だが、この、長く日本では未公開だった『1PM』がこれまで紹介される時には、〈まぼろしのゴダール作品〉というニュアンスが強く、ダイレクト・シネマ一派の分は悪かった。
そのままゴダールが監督していればきっと凄い作品になっていたのに、ふつうのドキュメンタリーになってしまった……みたいな感じ。知名度の差は大きい。

でも実際に見てみたら、これはこれで良かったのだ。
ゴダールの構想通りになっていれば、もちろんそれはそれで素晴らしかっただろうけど、頓挫したものは仕方ないです。人と人がやることだもの。黒澤明と勝新太郎のifの話を何度も蒸し返したがる映画評論家や映画ファンの先輩で、魅力的な人に少なくとも僕は会ったことがない。

むしろ完成したものは、映画による革命へのコミットを信じる強い思い込みで、ややあぶない目つきになっている真っ最中のフランスの天才監督がニューヨークでせっかちに動き回る、そのさまをヴィヴィッドに捉えていることが大きな魅力になっている。〈フレンチメン・イン・ニューヨーク―紐育のフランス人〉と題してもサマになるような、ほろ苦い詩情を宿している。

実際ゴダールは「映画よりも本のほうが好きだ」などとヌケヌケと言うようになった晩年のほうが、目にハートと色気があって、ずっとハンサムだからね。ガチガチに原理主義者的だった当時のゴダールは、若いのに目も雰囲気も暗いし、いかにも話しかけづらそう。そういうところも、面白みのひとつだ。

いずれにしても、吟味しがいのあるものを見たので、ここからはもうちょい掘り下げていきたい。読者のための解説というより、僕自身の理解のために勉強したことのメモ出しです。

『1PM』は、『1PM-ワン・アメリカン・ムービー』というタイトルで劇場初公開され、中編『ニューヨークの中国女』も同時公開される。
まずは、この中編がかなりの掘り出し物だという話から。

『ニューヨークの中国女』は、新作『中国女』(67)が翌年にアメリカで公開されたばかりのジャン=リュック・ゴダールが、ニューヨーク大学の大学院生が集まる部屋で質問に答えているようすをまとめたものだ。
こういう映像があるとは今まで知らなかった。しかも、見ていて気分がよくなる。よくまあ見つけて、買い付けてくれたものだ。ありがたいです。配給に携わった方々は凄いお仕事をされましたね。

どこが見ていて気分がいいかと言うと、さっきはピリピリして話しかけにくそう、みたいに書いてしまった当時のゴダールが、学生を相手に話す時は、想像するよりずっと真摯で熱心なのだ。

「どうしてあなたはその場面にそぐわない、違和感のある音を被せたりするのですか?」
世界中の映画好きの声を代弁するような、おそろしく直球な質問に、当時30代後半のゴダールは「君はハリウッドの常識に毒されている」とややムキになりつつ、逸らさずに応える。

熱心な学生が相手ならば、けっこうちゃんと自分のスタイルを説明する。人として好感だし、その説明がゴダール映画を理解するための参考にもなる。
字幕を正確に起こしているわけではないが、
「映像と見る人のあいだ、中間で起きている運動が自分にとっての映画」
「音と映像の間に矛盾をつくりたい」
「そこで話される言葉の意味よりも、その言葉から導き出されるものが大事」
といった話は、映画のなかで夥しい引用を行う理由についてゴダールが答えてきたなかでは、かなり明解なほうだと思う。

映画に〈自意識〉を持ち込んだ(ことで革新者になった)ゴダールにとって、引用は「自分と映画の間にあるもの」で、無視するとかえって自分に忠実に作った作品ではなくなってしまう。撮影や編集をしている間にヴィヴァルディが頭の中で流れたら、その場面にそぐわなくても、ゴダールはヴィヴァルディを被せるのだ。

ちなみに、ここで僕が言う〈自意識〉とは、具体的には、そのジャンルのなかで行われるジャンル言及のことだ。
同時代の音楽でいえば、チャック・ベリーの「ロックンロール・ミュージック」を、ザ・ビートルズがデビューする前からレパートリーにした時、お店やパーティー会場を盛り上げるため、ティーンエイジャーの恋や希望を軽快なリズムに乗せて歌う最新流行音楽の演奏者に、自己の対象化が生まれた。
〈そんなロックンロールをあえて選び、歌うおいら〉というやつだ。
ジョン・レノンはこの〈自意識〉に早くから自覚的で、だから開発者チャック・ベリーへの尊敬の念をずっと公言し続けた。ゴダールも映画を撮りながら、常に主題は映画を選んだ自分であり続け、映画のために参照した先達の旧作の痕跡をその映画のなかに塗り込めてきた。

ゴダールと学生の質疑応答のようすを撮影し、まとめたのは、改めて言うがD・A・ペネベイカーとリチャード・リーコック。
ペネペイカーの名前はもうおなじみに近いですよね。音楽ドキュメンタリー映画の監督としてよく知られている。リーコックのほうは日本での作品公開がほとんどなかったため、僕はペネペイカーと一緒に会社を構えた仲間程度の認識しか持っていなかったが、ロバート・フラハティのスタッフなどもつとめてきた、生粋のドキュメンタリー畑の人だ。

で、この2人が実践していたドキュメンタリーのスタイルがダイレクト・シネマだ。
ダイレクト・シネマには、大きな2つの特性がある。
ひとつは、手持ちができるほど軽量で、自然光でも撮影できるカメラを開発し、同時録音できるシステムを作ったこと。これなら少人数でも撮影ができるので、例えば狭い部屋で仕事している姿などを生々しく、それこそダイレクトに撮れるようになった。
(技術面に絞った意味でのダイレクト・シネマは、スマホでも映画が撮れる今では完全に死語なのは言うまでもないです)

もうひとつは、そうした技術の獲得によって得られる、カメラが直接捉えた現実をなるたけいじらずに見せる姿勢。原則的にはナレーションを入れたり、複雑な編集で時制を変えたりもしない。

もともとペネベイカーとリーコックは、ロバート・デューが作った映画会社で知り合った。このロバート・デューが、ダイレクト・シネマを提唱した。最近になって日本初公開された『セールスマン』(69)のメイズルス兄弟も、ペネベイカー、リーコックと一緒にデューのもとでキャリアを積んだ仲間だ。ダイレクト・シネマの基本的なスタイルは、『セールスマン』を思い浮かべてもらえば大体は把握してもらえると思う。

さて、背景の話が長くなってきて、自分でも(なんで個人のブログでこんなにがんばるの……)とゲンナリしかけているのだが、ここが、どうしてゴダールとペネベイカー達は一緒に映画を完成させられなかったのか? を考えるうえでの粘りどころなのだ。

ロバート・デューはもともと「LIFE」のスタッフで、「LIFE」と契約するフォトジャーナリスト達の、写真一枚で雄弁に物語を伝える凄さに触発され、これの映画版を作りたいと考えた。それがダイレクト・シネマの出発点であり、基本になった。(もっと若い頃にはアーニー・パイルと出会って刺激を受けていた、という話も英文のインターネットにはある)

そこが、フランスのシネマ・ヴェリテとダイレクト・シネマとの違いだ。
両者は、軽量カメラによる現実への肉薄などといった面ではよく似ていた。いや、実践面ではほとんど同じだったのだが、思想の面で大きな差があった。

シネマ・ヴェリテは、スタジオの大掛かりな照明のもとで……という従来の映画製作には得られなかった、現実の中に入り込む映像によって、いかに作家主義的な作品の可能性を拡げるかに意欲が向かった。作り手がカメラの裏側にいて、撮影している対象に関わっていることをバラしながら状況に介入していく手法はありとした。
僕も見たことがある代表例は、ジャン・ルーシュら作り手がカメラにどんどん入ってきて、どうやってこの映画を組み立てるか話し合う姿まで見せる『ある夏の記録』(61)。

シネマ・ヴェリテとヌーヴェル・ヴァーグは、いとこ同志みたいな関係だ。だからゴダールは、ダイレクト・シネマの連中とも一緒にやれると踏んだ。メイズルス兄弟のひとり、アルバート・メイズルスとはすでに1本、彼に撮影を任せるかたちで共同作業している。(オムニバス『パリところどころ』(65)の「モンパルナスとルヴァロワ」

しかし、ダイレクト・シネマは「LIFE」の写真が精神的なベースにある通り、写ったものをそのまま伝える原則に重きを置いた。そこに作り手がいる、と見る人が忘れてしまうほどよい。作家性よりもジャーナリスティックな情報性のほうが大事。
つまり、ゴダールの〈自意識〉とは、根本のところで決定的に相容れないものがあるのだ。
実験的な短編でならよかったが、長編を作る時にはその違いが顕わになってしまった。これが物別れの主因ではないか、と今のところ僕は推測している。

ここまで粘れば、純粋に登場人物であるゴダールの学生との質疑応答に、その場に立ち会ったような気分で素直に付き合える『ニューヨークの中国女』は、小振りながらもダイレクト・シネマの特長を典型的に示したものだと分かるし。
『1PM-ワン・アメリカン・ムービー』の、ゴダールとの打ち合わせのようすから撮影していることがすでに波乱含みだったのが分かる。

『1PM-ワン・アメリカン・ムービー』は、ゴダールがペネペイカーとリーコックの事務所を訪ねて、映画の構想を話すところから始まる。

ウォール街で働く女性
ブラックパンサー党のエルドリッジ・クリーヴァー
ジェファーソン・エアプレイン
活動家のトム・ヘイドン
アメリカに来てから見つけたという、ブロンクスの黒人少女

彼らを長回しで捉え(そこはみなさんにダイレクト・シネマらしい力を奮っていただきます)、そして、彼らの話すことを別の俳優が別の場所で話す。例えば、男優が学校の教室に現れ、ウォール街の女性が話したことをそのままセリフとして語れば、なにがしかの作用、異化効果に近いものが生まれるはずだ。そこから弁証法的に何が起き上がるかをカメラが捉える―。

打ち合わせのようすから撮る自体は、合意はちゃんとできていたと思う。
まさに『ある夏の記録』が事前の打ち合わせから始まったように、シネマ・ヴェリテに則っているし、ゴダール自身も撮っておくことは『ニューヨークの中国女』の延長になっている。

ただし、これが本当にいちばん最初の打ち合わせだったかどうか。
もしもこれが、初めてゴダールから構想を聞く場だったとしたら、ここから出演依頼と交渉が始まるわけだ。全員からオーケーをもらえて、全員を短期で撮影できたとはさすがにちょっと考えにくい。人選や仕込みはある程度進めてからの撮影だと思う。つまりゴダールは、自分が新作の構想を話す場面となることをよくよく理解したうえで話している。

話を聞いているペネペイカーとリーコックのほうは、表情が微妙だ。ここは、実にジワジワとくるものがある。
撮影対象の人選はいい。ただ、俳優がそれを再現するアイデアに対しては、どんな顔をしていいか分からないでいる。面白いと思っていないというよりも(ゴダールさんはこれまでにない映画を作ろうとしている人だし、そういう人と一緒にやろうってんだから、出てきたアイデアにいい悪いは言えませんよ)、自分達が現場でそれを理解しながら撮影できるのかどうかが、心もとないようすなのだ。

ここでいったん、1968年に絞った年譜を作ってみた。○が『1PM-ワン・アメリカン・ムービー』と『ニューヨークの中国女』の事柄で、●は関係者のうごき。
主に参照したのは、『E/MブックスVol.2 ジャン=リュック・ゴダール』(1998 エスクァイア・マガジン・ジャパン)と、『フィルムメーカーズ21 ジャン=リュック・ゴダール』(2020 宮帯出版社)。

1968年
●1月 ゴダール、フランス国営放送の依頼で『たのしい知識』の撮影。
●2月 ジェファーソン・エアプレイン、サンフランシスコに大きな家を購入、共同生活しながら4作目のアルバムのレコーディング開始。
●3月22日 パリ大学ナンテール分校で施設改善要求などを呼びかけた学生集会が、警官に鎮圧される。
○リーコック、ペネベイカー、『中国女』のアメリカでの配給権を買い、ヒットさせる。ニューヨーク近代美術館での回顧上映が評判になるなど、学生層を中心にゴダール熱が高まり、ゴダール自身もアメリカ各地の上映会や講演に行く。
○4月4日 ゴダール、ニューヨーク大学で大学院生達の質問に答える。このようすをリーコックとペネベイカーが撮影する。これがまとめられ、『ニューヨークの中国女』に。
●同日、マーティン・ルーサー・キング牧師がメンフィスで暗殺される。
●4月 キング牧師暗殺のあとアメリカ各地で暴動。ブラックパンサー党の指導者のひとりエルドリッジ・クリーヴァー、オークランドで武装して警官隊と衝突。
●クリーヴァーはこの年、自叙伝『ソウル・オブ・アイス((邦題:氷の上の魂)』)』を出版。大きく注目される。
●5月3日 3月のナンテール分校閉鎖に抗議する集会がソルボンヌ大学内で開かれ、カルチエ・ラタンにバリケードを築いた学生と警官隊が応戦。これをきっかけに大規模な学生デモ、労働者デモが起き、工場停止、国鉄ストライキが起きる。立場・政治信条によって「五月危機」とも「五月革命」とも。ド・ゴール体制の強権的な政治への反発が要因とされる。
●5月 ゴダールとフランソワ・トリュフォーら「五月革命」への連帯として、カンヌ映画祭中止を呼びかけ、中止させる。
●ゴダール、この頃から16ミリで撮影するように。クリス・マルケルが提案した、工場や学校で上映するためのアジビラ映画《シネ・トラクト》に参加し、数本作る。
●「五月革命」は6月には沈静化するが、ゴダール個人のラジカルな政治姿勢、反商業主義的な作家の姿勢はさらに先鋭化。ジャン=ピエール・ゴランらと匿名的な〈ジガ・ヴェルドフ集団〉を名乗って、作家主義にも背を向ける。
●6月5日 アメリカ民主党の大統領有力候補だったロバート・ケネディが暗殺される。
●6月 ロンドンで『ワン・プラス・ワン』の撮影。この時期最後の商業作品。
●この時期、『たのしい知識』完成。ゴダール初のテレビ作品になるはずだったが、筋の通った意味を放棄した内容から放送を拒否され、いったんお蔵入りになる。
●8月 フランスで学生と労働者が「五月革命」について議論するようすを撮影。《シネ・トラクト》などの素材と合わせて長編『ありきたりの映画』にまとめる。
●8月 ロンドンで『ワン・プラス・ワン』の撮影。
●8月 ジェファーソン・エアプレイン、4作目のアルバム『クラウン・オブ・クリエイション(邦題:創造の極致)』をリリース。収録曲「プーネイル・コーナーの家」をゴダールらによる11月の撮影で歌うことになる。
●8月 シカゴで、ベトナム戦争反対集会の開催を市長が拒否。群衆と警官隊が衝突し、暴動状態になる。SDS(民主社会をめざす学生)の初代委員長だったトム・ヘイドン、暴動の扇動者のひとり(いわゆるシカゴ・セブン)として後に起訴される。
●9月 ゴダール、キューバでの映画製作を計画し、現地を訪れるが実現せず。
○アメリカの公共放送サービスであるPBS(Public Broadcasting Service)の依頼から、ゴダールとリーコック、ペネベイカーが共同で作品を作る企画が立ち上がる。(60年代前半にも一度、3人が一緒にやる計画はあったらしい)
●10月 ジェファーソン・エアプレイン、フィルモア・ウェストに出演。ライブで本領を発揮するバンドの実力を示す演奏と絶賛される。
○10月31日 ゴダール、リーコック、ペネペイカーら打ち合わせ。ゴダールの構想を聞く。
○11月 撮影。ゴダールと、リーコック、ペネペイカーの間で意見の相違などがあり、素材はそのままになる。
●11月 イギリスで『ワン・プラス・ワン』公開。
●この頃、クリーヴァー、4月の事件により殺人未遂罪で起訴されキューバに逃亡。
●12月 ゴダール、カナダ・ケベックの民放局で組合員らに取材したテレビ作品を製作しようとするが、土地の有力者から反対を受けて中止に。

PBSは、NHK放送文化研究所のサイト内にある海外放送の紹介記事によると、アメリカの商業局ネットワークとは性質が違う公共放送ネットワークで、教育・科学番組やドキュメンタリーを放送してきた。つまりは日本のNHK教育/Eテレのような存在だ。『セサミストリート』がPBSの長年の人気番組だったと知れば、ああ、なるほどとなるし、ペネベイカー、リーコックとの結びつきもすみやかに了解できる。

年譜にして見てみると、当時いかにハイテンションで、急速に反映画に傾いていたかがよく分かるゴダールにとっても、テレビと関わるのは望むところだった。
映画は今や鼻持ちならない存在だ。フィルムが大事に保管され、賞が設けられ、名作・傑作の誕生が定期的に求められるようになった。
そんな映画のブルジョワ性を、カンヌ映画祭の贅沢なパーティーに続いて粉砕するために、自分の作品はテレビで、しかもその時間にしか見られないようにする。映画を即時性の表現にひきずりおろし、〈お前はただの現在にすぎない〉と言ってやる。(家庭にビデオデッキが普及する、ずっと前のことだ)

しかもゴダールが、出演者の耳にイヤホンを付け、無線で指示を送る演出を行っていたのには本当に驚かされる。これこそまさにテレビの演出だからだ。誰に教わったのだろう?

さらに言えば『1PM-ワン・アメリカン・ムービー』は、内容自体も非常にテレビの報道特番的だと言える。
トム・ヘイドンとエルドリッジ・クリーヴァーは、白人と黒人それぞれのラディカルな活動家のリーダー格。そんな2人が旬の人として顔を揃える。まさに1968年の秋のうちに見ておきたい話題性だ。

僕は特に、トム・ヘイドンが滔々としゃべる内容に感心した。
「国家による軍産共同体」
「大学は労働力の供給源」
などと、マンモス国家アメリカの体質をズバズバと言い当てていく。

以前、アメリカに在住で、ダニエル・エルズバーグ(ペンタゴン・ペーパーズの告発者として有名)と交際のある日本人の方から、エルズバーグが書いた本の内容をしっかり理解したいのなら、アメリカの国家予算を調べておくよう言われた。それで該当する公式情報を探してみると、直接の軍事費だけでなく退役軍人の恩給や福利厚生費まで含めれば国家予算のおよそ半分を占めているのに気付き、けっこうなショックを受けたのだった。アメリカって本当に民主主義国家なのか? これでも軍事国家とは自称しないのか。
トム・ヘイドンはすでに、ベトナム戦争長期化の本質(戦争をしていないと経済が回らない)を的確に突いている。

エルドリッジ・クリーヴァーが、あんた達も含めて白人のメディアは全て信用しない、とシニカルな態度を押し通すのはヘイドンと好一対。「ブラックパンサー党の創設者はフランツ・ファノンを読んでいた」といった話も出てくる。アルジェリア独立運動に深く関わった思想家ファノンの存在を、僕は小川紳介の昔のインタビューを読んで初めて知ったので、少しザワッとなった。読んでおきたいと思った。

しかし、いいところばかりではない。
ゴダールが構想段階からやりたいと張り切っていた、取材した人物の言葉を俳優が別の場所で繰り返す(繰り返すことでの異化効果を期待する)試みは……どう見てもうまくはいっていない。ゴダールと撮影隊が噛み合っていない。
素材(実際)と素材(実際の・ようなもの)をぶつけ、対象化し合わせたいゴダール側と、素材そのものをちゃんと撮って見せたいダイレクト・シネマ側では食い違いがあることは、先に書いた通りだ。ゴダールは、ドキュメンタリーそのものにはあまり興味はないのだ。

もしかしたら、ゴダールが途中で引き上げた直接の理由は、思った通りにいっていないラッシュを見て、このまま最後までやっても同じことだと悟ったからかもしれない。
それに、五月革命がアメリカでも起こると幻視する(映画がその予言者となってみせる)野心も、実現は難しいと早めに気付いたはずだ。

というのも、ヘイドンとクリーヴァーに取材している場面は、『1PM-ワン・アメリカン・ムービー』の一番の目玉でありつつ、ある限界も示しているからだ。

ヘイドンはリベラル政権誕生の夢を託したロバート・ケネディの暗殺によって、クリーヴァーはキング牧師の暗殺によって、それぞれが非暴力主義運動の限界を悟り、革命思想に傾斜していた。
しかし急進的なブラックパワー運動は、直接的にエネルギーをぶつける先が白人排斥につながっていた。ヘイドンはそれまでは公民権運動へのコミットを自分達の活動の中心にしていたが、ゴダール達が撮影した頃には、ベトナム反戦運動へと活動をシフトさせるようになっていた。

つまり、現在のアメリカの政治状況を転覆させたい気持ちは同じであっても、白人と黒人のラディカル勢力が団結するのは、1968年の秋にはもう難しくなっていたのだ。ゴダールは皮肉なことに、そんな状況を記録する羽目になった。
しかも、撮影から間もなくしてクリーヴァーは国外に出てしまい、ブラックパンサー党の弱体化も始まった。

ゴダールのヴィジョンが破れたあと、残ったのは、それでも1968年の秋のうちにヘイドンとクリーヴァーに取材していたのは貴重だったという、ドキュメンタリー映画としての純粋な価値だった。しかも、ブロンクスでの撮影は活き活きとしたものになったし(ゴダールの目を盗んでリーコックらが撮っている住人達のスケッチは素晴らしい)、カリスマ監督ゴダール氏の現場演出の姿が見られるという、これまた貴重なオマケ付き。

ゴダールさんが張り切ったおかげで実現したインタビューだけど、ヘンにいじるのを途中であきらめてくれたおかげで、かえって良かったんじゃん……とも言えてしまえるという。
ゴダールは映画を殺そうとして、映画に負けたのだ。
とことん皮肉な話ではある。

そこでどうしても思う。
ゴダールと、ペネベイカー、リーコックとスタッフ。撮影は現地集合だったか。それともいったん事務所に集合して、ワゴンか何かに乗って向かったのか。撮影が終わったあとは、現地解散だったのか。それとも、ゴダールが滞在するホテルまで車で送るついでに駐車場が近くにある店に寄り、メシを食ったのか。

要はあなた達、製作・制作の合間にちゃんと雑談や、一見ムダな世間話をしながらお互いを擦り合わせる作業をしていましたか? と聞いてみたいのだ。
当時のゴダールはどうも、「これからカナダやフランスと国際電話で打ち合わせがあるので」とかなんとか言ってさっさと立ち去り、ペネベイカーやリーコックと、ジョナサンかサイゼリア(店の例えはなんでもいいです)に寄る時間を惜しんだくさい。分刻みのスケジュールで動き、無駄を惜しむのが正しいと思っていたくさい。
ドキュメンタリーに対する美意識の差、それ以前に食い違いはあったのではないか、と。

ジェファーソン・エアプレインの登場については、触れる方がとても多いと思うので、ここではほどほどにしたいが、せっかくなので。

フォークやブルースなどやりたい方向性が違う者同士が、あえて組む。フロントマンになれる器が揃っているので、リーダーを立てずに合議でものごとを進める。曲ごとにメインボーカルは違う。アルバム制作のために屋敷を買って、そこで共同生活しながらレコーディングをする。
レコーディングよりライブのほうに真価が出ると評判で、実際に、ヒット曲はさらに強力に歌い、即興演奏も自由自在に続けられる。
彼らのほうが、よほど昔のドキュメンタリーの製作集団のようだ。

サンフランシスコでハッピーな連帯思想を歌う人気バンドが、もっと具体的にメッセージを歌おうと急速に変わっている時期だったので、ゴダールの希望に沿うキャスティングだったのは確かだろう。
それに、彼らが翌69年、さらに反体制ミュージシャンの姿勢を明確にし、

通りで何が起きているのか見てみろ/革命だ 革命だ!

「ヴォランティアーズ」で歌うに至ったのと、(当時は完成しなかったとはいえ)この映画に関わった刺激は、少なからぬ関係があったと思う。

彼らの屋上での演奏が、ビートルズのアレの元ネタになったかどうかについては、僕はその可能性は大いにあったと考える。
このブログ内で「『ザ・ビートルズ:Get Back』全場面をメモ出しする」という連載に少しずつ手を付けていて、それを書きながら気付いたのだが、〈ゲットバック・セッション〉を撮影したトニー・リッチモンドと、『ワン・プラス・ワン』で撮影監督デビューしたアントニー・リッチモンドは同一人物なのだ。

ビートルズのセッションに密着という大仕事が舞い込んできた頃、自分に一本立ちのチャンスをくれたゴダール氏は、アメリカで変わった撮影をして、どうもうまくいかなかったらしい……そんな情報はリッチモンドの耳に入っていたと考えるのが、業界人のつながりとして自然だし、密着撮影のしめくくりをどうしようかと監督のマイケル・リンゼイ=ホッグが頭を抱えている時に、「そういえば、ゴダールさんがアメリカでこんなことしてたってさ」とヒントとして話さないほうが不自然だろう。

でも、ひとつのアイデア=ひとつのヒント、というわけでもない。いろいろ話に出たなかのひとつにはなったでしょうね、とは思う次第だ。

どなたか忘れてしまったのだが、『メリー・ポピンズ』(64)の屋根の上で「チムチム・チェリー」を歌う場面もヒントになったのでは、とブログで書いている人がいて、それはまた楽しい予想だなー、ありだなーと僕はすっかり感心した。

 


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