鋸山 地獄のぞき
一昨年も鋸山に登ったつもりだったが、、
なんと、山頂までは行っていなかったようで、今回は、しっかりと鋸山(329.5m)に登ってきた~
今日のハイキング(4名)
浜金谷駅 → 車力道 → 鋸山 → 展望台 → 日本寺 → 地獄のぞき → 山頂駅 → (鋸山ロープウエイ) → 山麓駅 → 浜金谷駅
JR内房線浜金谷駅10時3分着 浜金谷駅スタート
駅から少し歩くと分岐点
車力道コースへ、
荒れた山道、昨年の台風の影響が残っているのか?
車力道、石が敷き詰めてある、、
車力というのは、切り出した石材を運ぶ人夫さんのことで、運ぶのは女性の仕事、ねこ車に石材を3本載せて、車力道で麓まで運んだようだ。(石材一本の重さが60~80㎏) ロープウエイの展示室の写真を見ると、当時の写真は、わらじを履いていた~
急な石階段を上って、展望台と鋸山の分岐点
中学生の団体さん40~50人、もっといたのかな? 階段を登っている途中で、延々と下りてくるので、、
鋸山山頂方面、0.4Kmとなっていたのだが、、、
この先、山頂までの案内表示はなくて、鋸山に行く人は多けれど、鋸山の山頂はマイナーなのか、、、
登ったり下ったりを何度も繰り返し、一本道なのに不安になる、、、
いつまでも山頂らしきにたどり着かず、、、何度か引き返そうかと相談しながらも、、、
そのうち、アンテナのある建物があって、お昼休憩中のひとりの登山者がいて、建物を回り込んで行くと山頂に行けると聞いて、それでも迷ったものの、せっかくここまできたのだからと、、、、、、
やっと鋸山の山頂に到着、ベンチもあった、、、お昼休憩
鋸山から、展望台と鋸山の分岐点まで戻って、展望台へ進む、、、
地球が丸く見える展望台ともいうらしい、、
東京湾、対岸は三浦半島か? あいにく富士山はみえなかった、、、
展望台から、日本寺方面へ、、、なんだか、行ったり来たりの、、
自分がどこをどう歩いているのかさっぱりわからず、、、
けっこう急な階段を上ったり、下りたりも、
石切り場跡、
地獄のぞきは日本寺エリア(有料)なので、参観料を払ってから、
【百尺観音】世界戦争戦死病没殉難者供養と交通犠牲者供養のために発願され、昭和35年から6年の歳月をかけて昭和41年にかつての石切場跡に彫刻完成されました。日本寺HPから
地獄のぞき
下りは「鋸山ロープウエイ」 で、、
鋸山、ハイキングと言うよりも遠足の気分で行ったのだが、
けっこう石階段も疲れる、300メートル級の低山とはいえ、侮れない、、
しかし、お天気がよくて、気分も爽快、おしゃべりハイクで楽しかったな、、
久しぶりの千葉県、房総半島、
今回は、JR京葉線、JR内房線を利用したのだが、、、電車ってこんなに揺れたっけ、というほど揺れたな~木更津まで座れないで、ほとんど立っていたからかな、、、
謎の飛行物体?
浜金谷駅到着前後、上空で飛んでいる物体がとても気になって、家に帰ってもいろいろ調べてみたがよくわからない。いつも思うのだが、なぜ、そういうときに写真を撮らなかったのかと、学習能力がないというか、
最初は、ドローンが飛んでいるのかと思ったが、かなり大きかったので、ドローンではないかもしれないと、、
下から見上げると、尾翼などがあるわけでもないし、飛行機ではないし、、まあるい感じがして、ヘリコプターとも違うようだし、、しかし、音はかなりうるさかった。そして、気になったのは、いかにも軍事用かと思えるほどに黒かったのだ、、、家に帰ってから、その話をしたら、木更津にもオスプレイが配備されているので、オスプレイではないのかと即座に言われたのだが、、、ネットで調べる限りでは、オスプレイの試験飛行は、9月の予定から10月以降に延期されたとなっているし、木更津市のHPをみると、「陸上自衛隊V-22オスプレイの試験飛行は、現時点では10月以降の実施を見込んでいます。具体的な日程については連絡があり次第お知らせいたします。」という情報が最新のまま、、
YAMAPの活動記録
本日の学習、
ブタクサとセイタカアワダチソウは違うのだ、、、
この時期、クシャミが出るので、すっかりブタクサ=セイタカアワダチソウだとおもっていて、セイタカアワダチソウを目の敵にしていたのだ。今日の電車の中からも、、菜の花畑かと思えるほどに、空き地の少しのスペースにもセイタカアワダチソウがまっ黄黄になっているので、憎しと思っていた。しかし、花粉症の原因となる花粉は、セイタカアワダチソウではなくブタクサなんだそうな。(参考:ブタクサ花粉の時期とアワダチソウとの違い)
今日もまたひとつお勉強になった。年を重ねる毎に、日々いろんな気づきや学びがありうれしい限り(すぐに忘れてしまうけど、、、)
鋸山 (千葉県) - Wikipedia
正式な名称は乾坤山(けんこんざん)という。乾坤は天地の意。日本寺の山号となっている[3]。山は凝灰岩から成り、建築などの資材として適している。そのため古くは房州石と呼ばれ、良質石材の産地として、江戸時代から盛んに採石が行われた(石切場跡は現在も残存する)。結果、露出した山肌の岩が鋸の歯状に見えることからこの名で呼ばれるようになった。1862年9月8日(文久二年八月十五日)、外交官アーネスト・サトウは、イギリス駐日公使館の通訳生として赴任するため横浜へ向かう途中、江戸湾(東京湾)洋上の汽船ランスフィールド号から、右手に鋸の歯のような恰好をした鋸山を眺望した旨、著書に記している。採取された石材は、幕末から明治、大正、昭和にかけて、主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用された。また、靖国神社や早稲田大学の構内にも利用されている。自然保護規制の強化により1985年(昭和60年)を最後に採石を終了し、現在鋸山は観光資源として利用されている。