ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

イエスの誕生(コピペ)

2015年11月28日 | 好きな歌

イエスの誕生 出典→http://bit.ly/1IoVzmd
 

1、    聖書の主人公はイエスです。そして、イエスの登場により、聖書は新約聖書へと移ります。しかし、新約聖書は旧約聖書の存在なしに成り立たないことも改めて確認しましょう。イエスのこの地上での全期間(生涯)はおよそ33年と言われていますが、その期間を3つにわけて説明することにしょう。まず、第1の期間は誕生からいわゆる伝道活動の開始前、通常イエスの公生涯といわれた伝道活動を開始する前までとし、この6章で、次に第2の期間は伝道活動(公生涯)を中心に、これは第7章から9章まで、最後第3期間の十字架、復活までを10・11章で説明しょう。  

 2、ルカの福音書のイエスの誕生の記事です。「御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女の下にきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなずけとなっていて、名はマリヤといった。御使がマリヤのところにきて男の子を産むでしょうその子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子となるでしょう。』・・・そこでマリヤは御使に言った。『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに。』御使は答えていった、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なる者であり、神の子と、となえられるでしょう。」(ルカ1―26~33)        

 「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストからでた。」・・・

「人々はみな登録するために、それぞれ自分の町へ帰っていった。ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上っていった。それはすでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録するためであった。ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中にねかせた。」(ルカ2―1~7) 

 3、マタイの福音書のイエスの誕生の記事です。「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、まだいっしょにならならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にしたくはなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢で現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっいる。そして男の子を産む。その名はインマニエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」(マタイ1ー18から25) 

 4、イエスの誕生は奇跡です。イエスは、ダビデの家系をひく大工ヨセフの婚約者で同じくダビデの家系の処女のマリヤより生まれました。男女の交わりでなく、聖霊の働きによって、奇跡的に生まれたのです。ちなみに、マタイの福音書(1ー18から25)は、男のヨセフの側から、ルカの福音書(2-1から7)は、女のマリヤの側からの、イエス誕生の記事を載せています。処女懐胎(男女の交わりなしに子供を妊娠する)という奇跡について、それが事実であったこと、しかし、それが、当時のユダヤ社会では、どんなに、ある面は不道徳なできごと、ある面ではそれは信仰の面ですが、どんなにすばらしいできごとなのか、驚くほど淡々と記載していますが、ここにも聖書のもつ事実の積み重ねを描くことに驚嘆せざるを得ません。処女懐胎という、キリスト教に疑問をもつ人達に対して、事実はこのようであったことを、1ユダヤ社会の面から、2、イザヤ預言をはじめ、旧約聖書の預言から、3ここが大切なのですが、信仰の面から、ヨセフとマリヤを通して、証明しているのです。 

 5、イエスキリストとは姓名で、姓がイエスで名がキリストと勘違いしている方がいるので、ここで確認しておこましょう。イエスが名であって、イエスには姓はありません。

キリストとはヘブライ語で「メシヤ」のギリシャ語で訳した言葉です。メシヤはもともと「油そそがれた者」で「救い主」「救世主」と言う意味があります。油注がれるとは、神によって選ばれるとの意味もあります。したがって、キリスト(救い主)イエスがある意味で正確な呼称ということになります。イエスキリストでもいいでしょう。呼び名の前後はここでは問題にしません。また、このイエスは当時のユダヤ地方ではごく平凡を名で、日本でいえば、一郎とか太郎とかいう平凡な名です。しかし、キリスト・イエスとの信仰を持つものには、このイエスの名は特別の意味があり、特別の感情、特別な力があるのです。とにかく、つけられた名は当時は特別ではなかった。平凡な名だったのです。しかし、神から「イエス」と名づけなさいと命ぜられてそうするのです。
 

 6、しかし、誕生そのものは、聖霊という神の力によったのです。ここで、聖書を読む者にとり、大きな壁が生じます。処女から人間がうまれるか?と。しかし、聖書によれば処女マリヤより生まれるということは、イエスは人間として生まれたが、罪ある人間の遺伝子(DNA)は引き継がれなかったことを意味します。ヨセフは「正しい人」でしたが、やはり人間として持つ罪から逃れなかったのです。ヨセフは罪人でした。もちろんマリヤが罪人でなかった訳ではありせんが、聖書によれば、聖霊とマリヤにより、いわば、イエスは神の養子という形をとって生まれてきたと見るべきではないでしょうか。 

 また、これはあとで述べますが、(10章です。)イエスをどう見るかで根本的に判断が異なるでしょう。難しくはイエスのアイデンテイテイ-といいますがどう見るかです。

奇跡は現在の科学では説明のつかない、超自然的なことがらです。科学的であることは私たちの頭脳を納得させますが、しかし、それはその時代という制約があります。たとえば、ユダヤ人だったアインシュタインが出てくるまでは、光は音速を越えることは出来ないと言われていました。博士の解明以後、光は音速を越えられないという学者はいません。

科学的でないこと、かならずしも超自然的なことがら自体の発生を否定することにはなりません。それは人間の知識の限界、人間の能力の限界を意味するにほかなりません。ともかく、イエスが人間マリヤを母として誕生したことは、イエスが人間性をもっていたことを意味し、それが聖霊によってマリヤに宿ったことは、イエスが神性をもっている、罪を引きついでいないことを聖書は意味しているでしょう。そして、これらのことが、イエスが誕生する数百年前に預言されていることなのです。このようになると、だれが言えるでしょうか。ただひとり、この世を支配している方しかできないのではないでしょうか。

 
 7、ところで、何時、どこでイエスは誕生したか。紀元前と後はイエスの誕生の前と後とするのは、世界の常識(イエス誕生のちを紀元何年、誕生前を紀元前何年といいますが、老婆心のため補足します。)ですが、じつは現在2002年ですが、生誕後2002年たっているので、では誕生は2002年前かというと、歴史家のその後の調査で若干のずれがあり、およそ4年くらいずれがあると言われています。
 
 したがって、現在2002年からすると1998年くらい前ということになます。また
当時はロ-マ帝国が世界を支配していた時代で、皇帝はアウグストです。イエスは架空の人だとする、とんでもない珍説を唱える人も世の中にはいましたが、現在ではほとんどの人がその実在だけは信じています。しかし、ずっと架空の人物という攻撃がなされていました。しかし、ロ-マ皇帝アウグストは歴史の記録にちゃんと残っているのです。
 

 8、どこで、という場所はベツレヘムが誕生地とされています。(マタイ2-1、ルカ2-7)出産場所はベツレヘム、エルサレムの南の約10キロ程の一寒村ですが、ナザレという場所でイエスが幼少時代から青年期にかけて育ちましたので、イエスのことを「ナザレのイエス」と言われています。ヨセフ夫婦はナザレの人でした。しかし、皇帝アウグストの勅令により住民登録が実施されヨセフ夫婦は、その故郷のベツレヘムへ行くことになります。(ルカ2-1から4)イエスがベツレヘムで誕生しなければならないからです。

旧約聖書の預言には、ちゃんと書かれているからです。(ミカ書5-2)勅令は皇帝から出されましたが、それにしたがってヨセフ夫婦は、ベツレヘムにくることになります。住民登録これは14年ごとになされていましたが、それはイエスがベツレヘムで生まれるという預言を成就(完成)するため、ヨセフ夫婦がベツレヘムに帰ってきて、イエスがそこで誕生することになるのです。なぜ、ベツレヘムへきたのでしょか。まさに神の力(聖書の預言)としか、いいようがありません。当時のこの世の支配者たるロ-マの皇帝すら動かす力、住民登録をさせる力は、神をおいてほかにありません。そのことを支配したのは、この聖書を書かれた神です。イエスはベツレヘムで誕生し、ナザレで育たなければならないことが、旧約聖書に、ハッキリと預言されているのです。この、ナザレにしてもベツレヘムにしても、現在のイスラエルに今もちゃんと地名が残っています。現在のイスラエルとパレスチナ人の争いでは、その地名はニュ-スでよく出てきます。ともかく、イエスはこのナザレで育ったのです。当時は人口は数百人の小さな村だったそうです。
 
 9、ヨセフは第2章のアブラハム、第4章のダビデでいずれも説明しましたが、その家系に繋がっています。聖書の新約聖書のはじめ、マタイによる福音書の最初にこの家系の名前が載っています。この家系の記載を読むことが甚だ手間のかかることで、新約聖書を読む人はまずここから、つまずく、失敗すると多くの人がいわれています。しかし、この家系をよんで見ると、「アブラハムの子であるダビデの子、イエスキリストの系図」(マタイ1-1)とあり、すでにみてきた、あのアブラハム、ダビデの血縁、血がうけつがれていることが分かります。「アブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン移住までが14代、バビロン移住からキリストまでが14代になる。」(マタイ1ー17)
 
 聖書では7がラッキ-数字なので、14はその倍の祝福を意味し、アブラハムから42代でイエスが誕生するわけですが、ここにも神の大きな計画が隠されていると感じざるを得ません。また家系のなかに、当時のユダヤの地では、男女差別の甚だしい時代、女性蔑視の激しい時代にもかかわらず、その家系図のなかに4人もの女性(タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻=バテ・シェバ)が載っていることも、聖書が女性に対しても等しく愛と哀れみをかけていることが、推察できます。
 
 10、イエスの生涯は4つの福音書を中心に記載されていますが、そのマタイの福音書に、イエスがうまれたとき、東方の博士がやってきて「ユダヤの王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」(2ー2)と当時の支配者ヘロデ王に聞く場面があります。しかし、実際のイエスは生まれてまもなく「飼葉おけの中にねかせ」(ルカ2-7)られていたのです。馬小屋という解説がありますが、聖書にはその記事はありませんイエスは十字架の上でも、「ユダヤの王」(マタイ27-37)と書かれた札がのせられ
ますが、イエスはユダヤの王として生まれ、ユダヤの王として死んでいくわけです。
 
 しかし、王でなく、事実としての扱いは、家畜小屋の中で生まれ、飼い葉おけの中に寝かされていたのです。家畜小屋に一度でも足を入れた経験のある方はあの種々紛々なんも言えない臭いと雑然さに驚いたことでしょう。イエスは神として人として、最も低い
辺に我々のためにこられた事実を忘れてはならないでしょう。神であるならば、宮殿に文字どおり王の子として、誕生することも当然可能でしょう。
 
 イエスは最も臭い、もっとも醜いところへ私たちのために、この地上にこられたのです。キリスト教が他の宗教のように、人が下(地上)から神のところ(天)に上がってひれ伏さなければならない宗教でなく、神が上から人間のところまで下りてくる宗教である、とある先生が言っていました。上がりでなく、(たとえば、芥川龍之介の名作、蜘蛛の糸に載っている悪人カンダケが蜘蛛の糸を上に上ってくる話がありますが、両者の対比として面白い話です。)神が下がって私たちのところにきてくれる下りの宗教とは、まことに至言だと思います。
 
 11、この節の終わりに、イエスの誕生日ですが、12月25日、世界各地でその聖誕祭が広く行われています。99%の人が聖書を信じない日本でもクリスマスパ-テイとして、商業ぺ-スで大いに利用されています。しかし、じつは、聖書には、イエス誕生の日については、はっきりどこにも記載されていません。25日誕生日説におおいに疑問をもつ考え方もあります。なぜなら、ルカによる福音書には、イエス誕生の日「この土地に、羊飼いたちが、野宿で野番をしながら羊の群れを見守っていた」(2―6)と記載されていますが、当時も今も、イスラエルのベツレヘム地方、12月の末、羊を夜放し飼いして、厳寒のとき野宿し、それを羊飼いが見守ることはありえなかったからです。
 
 また、イエスのすべての活動が聖書に記載されている、お祭りを中心になされ、例えばイエスは過ぎ越しの祭りのときに十字架にかかられた、聖霊の降臨(聖霊がこの地にきた日)は5旬節と、など見ると12月25日ユダヤの何の祭りに関係ないときに、イエスがこの世に誕生するのは、不自然で、ユダヤ3大祭りの一つ、仮庵の祭り(収穫祭)のときにこられたと見るほうが妥当でないか、と解説している先生もいます。もちろん聖書的な説明・根拠があるのですが、本書はふれません。
 
 ちなみに、12月25日が降誕祭とされたのは、ロ-マ帝国がキリスト教を受け入れたのち、ロ-マに当時つたわっていた太陽神を崇拝する宗教、これをミトラ教とよんでいましたが、その影響のもと、1年でもっとも短いこの日、すなわち冬至これを太陽の日として祝われていた日をもとに、イエスの誕生の日としたとされています。いわば、当時のロ-マのお祝いの日=太陽の神の祝いの一日をイエスの誕生日としたと言われています。したがって、その意味から言うと、聖書の記事にはなくいわゆる聖書的でありません。ただ、12月25日、イエスは私たちのためにこの地にこられた、その意味をかみしめることは大変意義があり、そのこととは別のことと現在はとらえられています。
 
 9、この節の最後にイエスの名について、まとめておきましょう。イエスの名はごくありふれた名と言いましたが、「イエス」はベブル語「ヨシュア」と言い、ギリシャ語で「救う」との意味があります。イエスにはキリストと呼ばれたことは前に述べましたが、それ以外に聖書では、「人の子」とか「神の子」と言われました。また「主」、「教師」「預言者」「祭司」「王」
「救い主」「牧者」「世の光」等さまざまな呼ばれ方をしたことが聖書にでてきます。ちなみに、旧約聖書に「ヨシュア記」が、いわゆるモーセ5書の最後「申命記」のあとにきますが、ギリシャ語では「イエス記」になるのです。


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