砂の器
https://youtu.be/fpTsrK4rV2g
砂の器 交響曲 「宿命」
https://youtu.be/9axACQoRn0E
- 「宿命」は音楽監督の芥川也寸志の協力を得ながら、菅野光亮によって作曲された。なお、サウンドトラックとは別に、クライマックスの部分を中心に二部構成の曲となるように再構成したものが、『ピアノと管弦楽のための組曲「宿命」』としてリリースされた。
また2014年、『砂の器』公開40周年としてビルボードジャパンにて西本智美指揮による組曲「宿命」が演奏された。
砂の器 ウィキペディア
http://bit.ly/2cPVyB1
『砂の器』(すなのうつわ)は、松本清張の長編推理小説。1960年5月17日から1961年4月20日にかけて『読売新聞』夕刊に連載され(全337回。連載時の挿絵は朝倉摂)、同年7月に光文社(カッパ・ノベルス)から刊行された。後に電子書籍版も発売されている。
都会の駅の操車場で起きた、とある殺人事件を発端に、刑事の捜査と犯罪者の動静を描く長編小説であり、清張作品の中でも特に著名な一つ。ハンセン氏病を物語の背景としたことでも知られ、大きな話題を呼んだ。ミステリーとしては、方言周圏論に基く(東北訛りと「カメダ」という言葉が事件の手がかりとなる)設定が重要な鍵を握る、などの試みがなされている。
1974年に松竹で映画化、またTBS系列で2回、フジテレビ系列で1回、テレビ朝日系列で2回の5度テレビドラマ化され、その都度評判となった。
あらすじ
5月12日の早朝、国電蒲田操車場内にて、男の殺害死体が発見された。前日の深夜、蒲田駅近くのトリスバーで、被害者と連れの客が話しこんでいたことが判明するが、被害者のほうは東北訛りのズーズー弁で話し、また二人はしきりと「カメダ」の名前を話題にしていたという。当初「カメダ」の手がかりは掴めなかったが、ベテラン刑事の今西栄太郎は、秋田県に「羽後亀田」の駅名があることに気づく。付近に不審な男がうろついていたとの情報も得て、今西は若手刑事の吉村と共に周辺の調査に赴く。調査の結果は芳しいものではなかったが、帰途につこうとする二人は、近年話題の若手文化人集団「ヌーボー・グループ」のメンバーが、駅で人々に囲まれているのを目にする。「ヌーボー・グループ」はあらゆる既成の権威を否定し、マスコミの寵児となっていたが、メンバーの中心的存在の評論家・関川重雄の私生活には暗い影が射していた。他方、ミュジーク・コンクレート等の前衛音楽を手がける音楽家・和賀英良は、アメリカでその才能を認められ名声を高めることを構想していた。
一方殺人事件の捜査は行き詰まっていたが、養子の申し出から、被害者の氏名が「三木謙一」であることが判明する。養子の三木彰吉は岡山県在住であり、三木謙一が東北弁を使うはずがないと述べたため、今西は困惑するが、専門家の示唆を受け、実は島根県出雲地方は東北地方と似た方言を使用する地域であること(雲伯方言、出雲方言)を知り、島根県の地図から「亀嵩」の駅名を発見する。今西は亀嵩近辺に足を運び、被害者の過去から犯人像を掴もうとするが、被害者が好人物であったことを知るばかりで、有力な手がかりは得られないように思われた。
続いて第二・第三の殺人が発生し、事件の謎は深まっていくが、今西は吉村の協力を得つつ苦心の捜査を続ける。他方「ヌーボー・グループ」の人間関係にも微妙な変化が進んでいた。長い探索の末に、今西は犯人の過去を知る。
捜査はやがて、本浦秀夫という一人の男にたどり着く。秀夫は、石川県の寒村に生まれた。父・千代吉がハンセン氏病に罹患したため母が去り、やがて村を追われ、やむなく父と巡礼(お遍路)姿で放浪の旅を続けていた。秀夫が7歳のときに父子は、島根県の亀嵩に到達し、当地駐在の善良な巡査・三木謙一に保護された。三木は千代吉を療養所に入れ、秀夫はとりあえず手元に置き、のちに篤志家の元へ養子縁組させる心づもりであった。しかし、秀夫はすぐに三木の元を逃げ出し姿を消した。
大阪まで逃れた秀夫は、おそらく誰かのもとで育てられた、あるいは奉公していたものと思われる。その後、大阪市浪速区付近が空襲に遭い、住民の戸籍が原本・副本ともに焼失した。当時18歳の秀夫は戸籍の焼失に乗じて、和賀英蔵・キミ子夫妻の長男・和賀英良として年齢も詐称し、新たな戸籍を作成していた。
エピソード
- 雑誌『旅』1955年4月号に掲載されたエッセイ「ひとり旅」で、著者は以下のように記している。「備後落合というところに泊った(中略)。朝の一番で木次線で行くという五十歳ばかりの夫婦が寝もやらずに話し合っている。出雲の言葉は東北弁を聞いているようだった。その話声に聞き入っては眠りまた話し声に眼が醒めた。笑い声一つ交えず、めんめんと朝まで語りつづけている」。この経験が、のちに本作の着想に生かされたと推定されている[3]。
- 映画化を契機に、舞台となった亀嵩は注目を集めた。それを受けて記念碑が建立され、亀嵩観光文化協会と砂の器記念碑建設実行委員会は1983年10月23日に除幕式を行った。この記念碑は、亀嵩駅の東約3キロ、湯野神社の鳥居脇にある。裏側には、小説の冒頭部が刻まれている(詳細は外部リンク参照)。1992年に原作者が死去した際には、亀嵩で慰霊祭が行われた[4]。
- 小説中の登場人物の出雲地方の方言の記述に関しては、正確を期すため、読売新聞松江支局の依頼を通じて、亀嵩地域の方言の話者による校正が行われた。その際、亀嵩算盤合名会社の代表社員・若槻健吉も協力したが、この縁から、著者と若槻家の交流が始まった。上述の記念碑の、清張による文字の揮毫は、若槻家の客間で行われ、健吉の息子・慎治が上京した際には著者が贔屓の店を案内するなど、付き合いが続いた[5]。
- 手がかりが「東北訛りのカメダ」という手法は、後に映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』にて、本作のオマージュとして使用された[6]。
- 本作を担当した読売新聞の編集者・山村亀二郎の回想によれば、本作はズーズー弁・超音波・犯人および刑事の心理を3本の柱として連載が始められた[7]。このうち超音波発生器の設定に関しては、映画では採用されず、以降の映像化作品でも省略されている。
- 小説中の「ヌーボー・グループ」のモデルに関して、音楽評論家の小沼純一は、1951年に結成された実験工房(作曲家の武満徹などが参加)と推定している[8]。また、文芸評論家の郷原宏は、1958年頃から運動の始まった若い日本の会(作曲家の黛敏郎などが参加。正式な創立集会は1960年5月)がモデルと推定している[9]。
- 小説ラストの羽田空港の場面に関しては、場所の設定のため、編集者の山村と挿絵の朝倉摂が、3日にわたって空港を訪れ、取材を行った[10]。
映画
砂の器 | |
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The Castle of Sand | |
監督 | 野村芳太郎 |
脚本 | 橋本忍 山田洋次 |
製作 | 橋本忍 佐藤正之 三嶋与四治 川鍋兼男(企画) |
出演者 | 加藤剛 島田陽子 |
音楽 | 芥川也寸志 菅野光亮 |
撮影 | 川又昂 |
編集 | 太田和夫 |
配給 | 松竹 |
公開 | 1974年10月19日 |
上映時間 | 143分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 7億円 1974年邦画配給収入3位[13] |
1974年製作。松竹株式会社・橋本プロダクション第1回提携作品。松本清張原作の映画の中でも、特に傑作として高く評価されてきた作品[14]。第29回毎日映画コンクール大賞(日本映画)・脚本賞(橋本忍・山田洋次)・監督賞(野村芳太郎)および音楽賞(芥川也寸志・菅野光亮)、キネマ旬報賞脚本賞(橋本忍・山田洋次)、1974年度ゴールデンアロー賞作品賞、ゴールデングロス賞特別賞、モスクワ国際映画祭審査員特別賞および作曲家同盟賞をそれぞれ受賞。英語題名『Castle of Sand』。現在ではDVD化・Blu-ray化されている。
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