独ソ戦への貢献
ゾルゲは大使の私的顧問として大使親展の機密情報に近づきやすい立場を利用して、ドイツのソ連侵攻作戦の正確な開始日時を事前にモスクワに報告した。他のスパイの情報やイギリスからの通報も、これを補強するものであったが、ヨシフ・スターリンは、ゾルゲ情報を無視した。結果ソ連は緒戦で大敗し、モスクワまで数十キロに迫られるという苦境に陥った。
近衛内閣のブレーンで政権中枢や軍内部に情報網を持つ尾崎は、日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤやオランダ領東インド、フィリピン共和国などの南方へ向かうのかを探った。日本軍部は、独ソ戦開戦に先立つ1941年4月30日に日ソ中立条約が締結されていた上、南方資源確保の意味もあってソ連への侵攻には消極的であった。1941年9月6日の御前会議でイギリスやオランダ、アメリカが支配する南方へ向かう「帝国国策遂行要領」を決定した。
この情報を尾崎を介して入手することができたゾルゲは、それを10月4日にソ連本国へ打電した。その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊をヨーロッパ方面へ移動させ、モスクワ前面の攻防戦でドイツ軍を押し返すことに成功し、最終的に1945年5月に独ソ戦に勝利する。
情報はクーリエを使って秘密裏にソ連へ運ばれただけではなく、クラウゼン自身で部品調達して組み立てた短波送信機と市販のラジオ受信機を改造した短波受信機を使いウラジオストクと交信していた。特別高等警察(特高)は早いうちから怪しい無線電波が東京市内からソ連や中国大陸方面に向けて送信されていることを把握していたが、ゾルゲは送信地点を特定されることを避けるために、携帯式の簡易な無線装置と室内に設置したアンテナを使用して住宅密集地にある複数の拠点を転々としながら送信しており、また特高側もクラウゼンにより生成された暗号を解読できなかったため、一味が逮捕されるまで発信源を特定できなかった。
ゾルゲ事件
特高はアメリカ共産党員である宮城やその周辺に内偵をかけていた。宮城や、同じアメリカ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象であった。満州の憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の『特高捜査員褒賞上申書』には、ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されている。なおこれを知ったドイツ大使館付ゲシュタポ官僚であるヨーゼフ・マイジンガーは、ゾルゲに対する捜査を止めるように特高に依頼している。
1941年9月27日の北林を皮切りに事件関係者が順次拘束・逮捕された。その後、尾崎が10月14日に、ゾルゲら外国人は10月18日に、スパイ容疑で警視庁特高一課と同外事課によって相次いで逮捕された(ゾルゲ事件)。
一味の逮捕後、尾崎の友人で衆議院議員かつ南京国民政府の顧問も務める犬養健、同じく友人で近衛内閣の嘱託であった西園寺公一(西園寺公望の孫)、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信社の同僚であったフランス人特派員のロベール・ギランなど、数百人の関係者も参考人として取調べを受けた。これに対し、ゾルゲをナチス党員の記者だと信じ込んでいたオット大使やマイジンガーなどが外務省に対して正式に抗議を行ったほか、ドイツの各通信社および新聞社の特派員による記者団も、全員で即時釈放を求める嘆願書を提出した。なお当初ゾルゲは否認を続けていたものの、数々の証拠を突きつけられるとスパイであることを認め、オットに対しても別れの言葉を口にすることで自らの罪を認めることとなった。
その後ゾルゲら20名は1942年に国防保安法、治安維持法違反などにより起訴され、一審によって刑が確定し、それぞれに1年半、執行猶予2年(西園寺)から死刑(ゾルゲ、尾崎)までの判決が言い渡された。ゾルゲや尾崎らは巣鴨拘置所に拘留され、日独両国の敗色が濃厚となってきた1944年11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。ゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であった。ゾルゲの死刑執行に立ち会った市島成一東京拘置所所長は、「ゾルゲは死刑執行の前に、『世界の共産党万歳』と一言、そういって刑に服した。従容としておりました」と証言している。
ソ連邦英雄
ゾルゲはソ連のスパイであることを自供したものの、ソ連政府はかたくなに彼が自国のスパイであることを否定し、戦後もソ連の諜報史からゾルゲの存在は消し去られていた。しかし1964年11月5日に、ゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」が授与された。このタイミングは、スターリンの死後にその大粛清などを批判した指導者ニキータ・フルシチョフ首相が失脚した直後に当たる。
以後、ゾルゲはソ連と日独の戦争を防ぐために尽くした英雄として尊敬され、ソ連の駐日特命全権大使が日本へ赴任した際には東京都郊外の多磨霊園にある墓に参るのが慣行となっていた。ソ連崩壊後もロシア駐日大使がこれを踏襲している。
ドイツ民主共和国(東ドイツ)国家人民軍地上軍(陸軍)の第1捜索大隊(偵察部隊)は、部隊称号としてリヒャルト・ゾルゲの名を冠していた(Aufklärungsbatallion 1 "Dr. Richard Sorge")。また東ドイツの国家保安省(MfS)は功労章として、リヒャルト・ゾルゲ・メダル(Dr.-Richard-Sorge-Medaille)を制定していた。
人物
スローガンは「ロシアと中国の革命を擁護せよ。帝国主義戦争を内乱へ転換せしめよ」であった。
東京・銀座のドイツ料理店「ケテルス」でウェイトレスをしていた石井花子と知り合い、同居するなど深い関係をもったものの、正式な結婚はしなかった。しかし死後石井によって建てられ、現在石井とゾルゲが眠る多磨霊園の墓には「妻石井花子」と彫られている。
日本人にスパイとして聞き出す際に「そんな事も知らないんですか?」とわざと日本人特有の自尊心を煽り、聞き出すという手法を取っていた。
映画
- 愛は降る星のかなたに(1956年、日活/監督:斎藤武市/出演:森雅之、山根寿子、浅丘ルリ子、ロバート・H・ブース)
- スパイ・ゾルゲ 真珠湾前夜(1961年、フランス・日本合作/監督:イブ・シャンピ/出演:トーマス・ホルツマン、岸惠子)
- スパイ・ゾルゲ(2003年、日本/監督:篠田正浩/出演:イアン・グレン、本木雅弘)
東宝映画 スパイ・ゾルゲ 1
東宝映画 スパイ・ゾルゲ 2
ドキュメンタリー
NHK特集 交信ヲ傍受セヨ
NHK特集「戒厳指令…交信ヲ傍受セヨ ~二・二六事件秘録~」
1979年(昭和54年)2月26日放送:79分 →http://bit.ly/1SYh2u0
- NHKの保管庫に眠っていた20枚の古びたレコード。そこには昭和11年に起きた陸軍青年将校によるクーデター、2・26事件の最中に取り交わされた電話を傍受した生の声が録音されていました。声の主は誰か、誰が何のために傍受したのか、闇に埋もれた事件の輪郭が少しずつ明らかになっていきます。戦後も長い間謎とされてきた2・26事件に、再びスポットライトを当て、後にこの事件の歴史的解釈を変えていく大スクープとなったドキュメンタリーです。
- 【ゲスト】
元・NHKディレクター、現・大正大学教授 中田整一さん
今回、この番組を制作し、その後も2・26事件を追い続けてきた中田整一さんをスタジオに招き、番組の放送後さらに明らかになった事実をお聞きすると共に、2・26事件を今伝える意義を考えていきます。 - 7月は2・26事件に深い関わりのある月です。事件後、首謀者となった青年将校たちのうち15名が「一審のみ、上告なし、弁護なし」という厳しい裁判にかけられ処刑されたのが7月12日、翌年の昭和12年の7月には2・26事件の全ての裁判が終わりました。そして同じ昭和12年7月、廬溝橋で日中両軍が激突し日中戦争の火ぶたが切って落とされました。その後日本は破局の大戦へと加速していきました
- 語り: 三国一郎/金内吉男
- 『歴史への招待 ゾルゲ国際諜報団逮捕 昭和16年』(1981年、NHK製作)
- 『NHK特集「ゾルゲ事件」』(1990年、NHK製作)
- 『NHKスペシャル「国際スパイ・ゾルゲ」』(1991年、NHK製作)下記の書籍も刊行
- 『プライム10 現代史スクープドキュメント 国際スパイ・ゾルゲ』(1991年、NHK製作)-NHK名作選(動画・静止画)NHKアーカイブス
- 『その時歴史が動いた』「ゾルゲ・最後の暗号電報・新資料が明かす国際スパイ事件の真相」(2003年、NHK製作)『わが心の「スパイ・ゾルゲ」 妻・岩下志麻が見た 監督・篠田正浩』(2003年、アスミック)
- コミックス版、『昭和史 戦争への道編』(ISBN 9784834273847, 発売日:2007年6月)収録「スパイ・ゾルゲ(画:虎影誠)」
関連項目
- 共産主義
- 日中戦争
- 対日有害活動ニコライ・ブハーリン - ゾルゲが信奉・心酔していたソビエト共産党幹部(穏健派・戦時体制緩和主張)。ゾルゲ日本任地中に粛清・処刑。
- 真珠湾攻撃陰謀説 - ゾルゲが日本の真珠湾攻撃の情報を入手し、ソ連本国に送っていたとする説がある。ただし、現在までにゾルゲ研究者による本説支持を前提とする見解はない。
- ホテル・ルックス
外部リンク
- ◆小説『ゾルゲ 破滅のフーガ』◆ 岩波書店
- 「国際情報戦の中のゾルゲ=尾崎秀実グループ」(加藤哲郎による第4回ゾルゲ事件国際シンポジウム「ノモンハン事件とゾルゲ事件」 2006年5月(モンゴル)報告)
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