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ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

日本語では「海賊」という言葉しかないが、英語などでは四つある・・・・

2014年12月09日 | 好きな歌

最近購入した書籍「図説海賊大全」(東洋書林《2000年12月20日発行》・増田義郎訳)の502ページ「訳者ノート」によると、『日本語では海賊という言葉しかないが、英語ではpirate, corsair, privateer,buccaneerなどが区別され、それぞれ固有の歴史的脈絡の中で用いられている。』・・・・とある。

そこで、これらの意味を、私の勉強のため、ウィキペディアから引用させて頂いた。

日本語の辞書から

① 海上を横行し、往来の船などを襲い、財貨を脅し取る盗賊。
②中世、海上戦力にすぐれた武士とその集団。北九州・瀬戸内海に本拠をもつものが多かった。
③法律用語。公海や公空を横行し、船や航空機を襲って暴行・略奪などする盗賊で、国際条約による取り締まりの対象とされるもの。

英語などでは

1. パイレイト パイレイツ

 パイレーツ・pirates(複数形)は海上で非合法に船などを襲う集団なので日本語の「海賊」の意味に近い。
 敵対国の外国船を襲うことを法律で認めていた時代の、国から公認された私掠船に乗る海上の略奪者のことをPrivateer、仏語ではコルセアcorsairという。 

 バイキングVikingは8-10世紀ごろ、北欧のスカンジナビア半島を拠点としていた集団を指します。中国のチベットやトルキスタン侵攻を「元寇」といわないのと同じ事で、歴史的に限られた意味合い。 

2. コーセア(フランス語)

同時代の地中海では,キリスト教ヨーロッパ諸国とイスラム教オスマン・トルコとの対立抗争があったが,トルコ海軍の陰の力となったのがアフリカの北西バルバリア沿岸のバーバリー海賊である。彼らは〈コーセアcorsair〉と呼ばれ,その残忍な手口はキリスト教徒を震えおののかせていた。

 3. プライヴァティア

 私掠船(しりゃくせん、英語:privateer・プライヴァティア)とは、戦争状態にある一国の政府から、その敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可、私掠免許を得た個人の船をいう。私掠免許を「海賊免許」と呼称する場合もあるが、厳密には私掠船は海賊ではない。

 
4. バッカニア バカニーア
①カリブ海で活動した海賊。
②やり手の商人[政治家].

[フランス語boucanier (boucanバーベキュー+-EER=野外大宴会をする人). 海賊はしばしば野外大宴会を行った. △BARBECUE]

 バッカニアー buccaneer

カリブ海で活動した海賊は特にバッカニアーと呼ばれた。1630年代に始まり、1730年代に海賊の終焉と共に終わった。「バッカニアー」という言葉はフランス語の「ブーカネ」(boucaner)から来ており、たき火の上で野生牛の保存肉を「煙で燻す」という意味だった。

YouTube カリブ海の海賊など


 カリブ海の有名な海賊

ジャン・フルーリー

フランスの私掠船員ジャン・フルーリーはバットビルで生まれ、船主のジャン・アンゴーに資金を提供されたスペインの宿敵だった。1522年にはスペイン船7隻を捕獲した。1年後には、エルナン・コルテスが伝説的な戦利品をスペイン向けに積み出したガレオン船3隻のうちの2隻を捕まえ、モンテスマのアステカ宝物の大半が彼の手に入った。1527年に捕まり、神聖ローマ皇帝カール5世の命令で処刑された。

フランソア・ル・クレール

フランソア・ル・クレールはジャンブ・ド・ボア(木製の足)とも呼ばれた恐るべき私掠船員であり、1551年にはアンリ2世から称賛された。1552年、ポルトサントを襲撃した。その1年後、副官のジャック・ド・ソレやロベルト・ブロンデルと共に1,000人を集めてカリブ海で大騒動を起こした。サントドミンゴの海港を略奪して焼き払い、フランスに戻る途中でカナリア諸島ラス・パルマスを襲撃した。1554年の遠征ではサンティアーゴ・デ・クーバを略奪した。

黒髭

 
黒髭

黒髭は1680年頃にイングラドに生まれた。本名はエドワード・サッチあるいはエドワード・ティーチ、ドラモンドとも言われる。北アメリカの東海岸で活動し、特にバハマで海賊活動を行い[2]、1714年から1718年にはノースカロライナ海岸に基地があった[13]。その海賊としての成功には奇抜な外貌でも知られており、戦いのときには帽子の下に火の付いた火縄を付けていた(緩り燃える信管の1種であり、大砲の点火に使った。その顔が火と煙で巻かれており、その犠牲者は地獄から来た悪魔の亡霊に似ていたと主張した。黒髭の船は200トン、大砲40門搭載のフリゲートであり、「アン女王の復讐号」と名付けていた。

黒髭は、彼を捕まえる目的で派遣されイギリス海軍船隊の手で終焉を迎えた[13]。戦場での特に血なまぐさい戦闘の後、イギリス船隊の指揮官ロバート・メイナードが乗組員の助けを借りて黒髭を殺した。伝説に拠れば、銃弾を5発、カットラスによる刀傷20か所を受けた後にオクラコーク海岸沖で死んだ。

ヘンリー・モーガン

ヘンリー・モーガンウェールズ出身であり、17世紀の最も破壊的な海賊船長の1人だった。モーガンは常に海賊であるよりも私掠船員であると考えていたが、その攻撃の幾つかは法的な正当性の無いものであり、海賊行為と考えられた。近年ハイチの海岸沖でモーガン船長の「大砲30門搭載オーク船」の1隻が発見されており、その事業でバッカニアーを助けたものと考えられている[18]。カリブ海でモーガンが本拠にしたことで知られる場所がジャマイカのポートロイヤルだった。[2]大胆で無慈悲で向こう見ずな男であるモーガンは30年間イングランドの敵と戦い、その冒険の中で大変裕福な者になった。その最も有名な行動は、1670年遅く、1,700人のバッカニアーを率いてパナマの疫病が多いチャージズ川を遡り、中央アメリカのジャングルに分け入って「難攻不落」の都市パナマを攻撃し占領した。モーガンの部下が町を焼き尽くし、住民は殺されるか逃亡させられるかだった。モーガンにとってパナマシティの焼き討ちは大きな財政的利得にはならなかったが、スペインの権力とカリブ海の誇りにとっては大きな打撃であり、モーガンはイングランドで時の英雄になった。その経歴の最高潮期にイギリス王室によって貴族に列せられ、副総督としてジャマイカの広大な砂糖プランテーションで暮らした[13]。モーガンは裕福で後にも先にも海賊としては成しえなかったような尊敬を受けて、ベッドの上で死んだ。

バーソロミュー・ロバーツ

バーソロミュー・ロバーツ、別名ブラック・バートは400隻ほどの船を沈め、捕獲し、略奪することに成功した[13]。当時の海賊船長の大半と同様にそうする夢を見ていた[16]。1719年2月にギニア湾で略奪者としての経歴を始めた。ハウェル・デイビスの海賊船がロバーツの乗っていた船を捕獲したときに、進んでデイビスの仲間に加わった。船長にまで昇格するとすぐにカリブ海に来て、その地域を1722年まで襲撃した。多くの大型で強力な武装船を指揮しており、その全てを「フォーチュン」、「グッドフォーチュン」あるいは「ロイヤルフォーチュン」と名付けた。船上での政治は民主主義の形態を採り、参加者に委ねた。船上にある者は全て持ち上がった問題に投票しなければならなかった[3]。バルバドスとマルティニークの総督たちがロバーツを捕まえようとして彼の怒りをかった。捕まえたばかりの船にマルティニークの総督が乗っていることが分かると、けた端に総督を吊るした。1722年2月にアフリカに戻り、そこで起きた海戦で死に、乗組員が捕まった。

スティード・ボネット

スティード・ボネットはおそらくカリブ海航行の資格を持った数少ない海賊船長であり、航海のことしか知らない砂糖農園主だった。1717年にバルバドスで武装スループを購入し、乗組員を給与で集めて海賊を始めており、妻から逃げるためだった可能性がある。黒髭のために指揮権を失い、その同僚として共に航海した[13]。ボネットは短期間船長に復帰したが、1718年にサウスカロライナに雇われた私掠船に捕まえられた[13]

チャールズ・ヴェイン

チャールズ・ヴェインは、18世紀初期の海賊の多くと同様、バハマのナッソーから出撃した。1718年にウッズ・ロジャーズがバハマの総督になったときに、ロジャーズに抵抗した唯一の海賊船長だった。新総督の恩赦を受ける代わりに火船でロジャーズの戦隊を攻撃し、発砲して港から逃げ出した。ヴェインの操舵手ジョン・ラカム(キャラコ・ジャック)がヴェインを船長の地位を取り上げた。ヴェインは新しい乗組員を募って海賊を始めた、1720年に捕まり、ジャマイカで絞首刑に処された。

エドワード・ロー

エドワード・ローまたはネッド・ローは最も残忍で狡賢い海賊の1人として悪名が高い。ロンドンの出身であり、ジョージ・ラウザーの副官として海賊になり、その後自ら海賊を統率した。その海賊としての経歴は3年間続いただけであり、その間に100隻以上の船を捕まえ、自身とその乗組員は数百人の人々を殺し、拷問し、不具にさせた。1724年、ローが眠っている部下を殺したときに乗り組み員が反乱を起こした。フランス船に救われたがマルティニーク島で処刑された。

アン・ボニーとメアリ・リード

アン・ボニーメアリ・リードは18世紀の悪名高い女海賊だった[19]。二人ともキャラコ・ジャックの指揮下で短い海賊暮らしを始めた。他にも黒髭、ヘンリー・モーガン、ウィリアム・キッド、バーソロミュー・シャープ、バーソロミュー・ロバーツなど知られた海賊との付き合いがあったことが知られている[3]。主に海賊には非常に稀なことだったその性で注目され、ジャマイカで1720年に裁判に掛けられたときにはセンセーションを巻き起こした。その無慈悲さでも知られ、乗組員の会議では証人を殺すことに賛成の発言をし、キャラコ・ジャックの船が襲われ、ジャックと乗組員が飲んだくれて船倉に隠れたときに、二人で侵入者と闘ったと言われている[19]。その伝説の極め付けはジャック、アン、メアリーを含め乗組員全員がポートロイヤルに近いスペイン町で裁判に掛けられたときだった[2]。ジャックとその乗組員は絞首刑に処された。判事がアンとメアリに死刑を宣告し、何か言い残すことはないか尋ねた。「旦那様、私たちはお腹を申し立てます」が答えであり、すなわち妊娠しているということだった。イングランドの裁判所はまだ生まれていない子供を殺す権限を持っていなかったので、判事は即座に処刑を延期した。メアリは出産前に刑務所で熱病のために死んだ。アンが処刑されたか記録が残って折らず、金持ちの父親が保釈金を払って家に連れ帰ったという噂もある。その後の話には海賊に戻ったとも、尼になったともいうものがある[19]

私掠船

私掠船(しりゃくせん、英語:privateer・プライヴァティア)とは、戦争状態にある一国の政府から、その敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可、私掠免許を得た個人の船をいう。私掠免許を「海賊免許」と呼称する場合もあるが、厳密には私掠船は海賊ではない。

 私掠船の歴史

この慣習は16世紀英国にはじまり、18世紀英仏戦争中には非常に多数の私掠船が活動した。

私掠船を運用するメリットは、この慣習を始めた16世紀の英国にとって、自軍の海軍の常備兵力を削れることにあり、そもそも海外進出でスペインポルトガルに後れをとった英国の苦肉の策でもあった。そのような意味で同時代の傭兵に類似する。反面、統制がきかず、同盟国や母国籍の船まで襲う者もあった。

ナポレオン戦争ではフランス側の私掠船が活躍し、交戦国・中立国に対し略奪し、大陸封鎖令を側面から支援した。

アメリカ南北戦争において南部連合政府は私掠船免状を発行したが、それにより活動した少数の私掠船はたちまち圧倒的に優勢な北部海軍により鎮圧された。独立戦争中にも私掠船と似た形態の軍事行動が行われた。

1856年のパリ宣言でヨーロッパ列強は私掠船の利用を放棄した。さらに1907年のハーグ平和会議で武装した商船[1]軍艦として登録されるべきことが国際法として規定され、アメリカ合衆国を含む諸国もそれに従い、私掠船の慣習は消滅した。パリ宣言以後、戦時に民間船は特設艦船として用いられることとなった。

私掠船の収益

私掠船の航海で得られた利益は、国庫・出資者・船長以下乗組員に所定の比率で分配された。国家や出資者にとっては私掠船はおおむね儲かる事業だった。エリザベス1世フランシス・ドレークに私掠免許を与え投資した際の利益率は、6000%にのぼったという説もある。

 カリブ海では、合法で国が命じた者まで含めれば私掠行為は極めてよく使われたやり方だった[13]。植民地を守るために船隊を維持する費用は16世紀や17世紀の母国政府の予算を超えていた。民間船が私掠免許状を得て「海軍」に組み込まれ、敵の船舶や開拓地を捕まえて得られる分け前で報酬が得られ、国庫に上納される分もあった[13]。これらの船舶は独立して動くか、船隊に入って動くかであり、成功すれば報酬は大きかった。1523年にジャン・フルーリーとその部下がコルテスの船を捕獲したとき、信じられないようなアステカの財宝を発見し、それを所有できた。後の1573年、フランシス・ドレークがノンブレ・デ・ディオス(当時パナマのカリブ海側にあった港)で、スペインの「シルバー・トレイン」を捕まえたとき、隊員は一生裕福に暮らせた。1628年、ピエト・ハインはオランダ西インド会社のために1,200万ギルダーの利益を上げた。この少なからぬ利益がでることで、私掠行為は事業の日常事に近いものになった。裕福な事業家あるいは貴族は進んでこの合法化された海賊行為に出資し、その分け前を得た。捕獲した商品の販売は植民地の経済を活性化させもした。当時この地域で私掠行為をさせた主要帝国はフランス、イングランド、スペイン、オランダ、ポルトガルだった。各国の私掠船は全て他国の船舶を攻撃するよう命じられており、特に標的にされたのがスペインの船舶だった[3]。17世紀までに海賊と私掠行為はやや受容されない行動になった。特に私掠船が完全な海賊に変わったからであり、それは得られた利益の分け前を雇用された母国に返す必要が無かったからだった。ニコラス・トロット総督やベンジャミン・フレッチャー総督など長い間に多くの役人が汚職のために辞めさせられた。政府が活動的な海賊や腐敗した私掠行為者を見出し、切り捨てる方法は「海賊ハンター」を使うことであり、海賊船に乗っている裕福な者の全てあるいは少なくとも大半に賄賂を渡し、さらに報奨金も渡していた。最も有名な海賊ハンターはウィリアム・キッド船長であり、その経歴では1695年が頂点だったが、後に違法海賊の利益に目を付けてそれを新しい事業にした[13]

 

著名な私掠船船長 

 

バッカニアー 

カリブ海で活動した海賊は特にバッカニアーと呼ばれた。おおまかには1630年代に始まり、1730年代に海賊の終焉と共に終わった。当初のバッカニアは「スペイン当局」から土地を奪われた開拓者であり、白人開拓者によって拾われた[3]。「バッカニアー・buccaneer」という言葉はフランス語の「ブーカネ」(boucaner)から来ており、たき火の上で野生牛の保存肉を「煙で燻す」という意味だった。彼等はその技術が生きているうちに海賊に伝達した。スペイン以外の植民地から部分的な支援を得て活動し、18世紀まで合法であるか、一部合法であり、あらゆる国から不定期な特赦もあった。大半の場合、スペインが所有する船舶を襲い、開拓地を略奪した[13]

伝統的にバッカニアーには多くの風変わりな点があった。乗組員は民主主義で運営された。船長は乗組員から選ばれ、後任を選ぶこともできた。船長は指揮官であると同時に戦闘員でもあった。戦闘のときは、遠くから指揮するのではなく、仲間と一緒に戦うことが期待された。

戦利品は平等に分配された。士官が大きな分け前を取るときは、大きなリスクを負ったか特別の技巧があるからだった。乗組員は航海の間に給与が支払われない場合が多く、戦利品は分割されるまでに数か月間積み上げられていた。海賊の間には強い「団結心」があった。このことで海上での戦いに勝利でき、通常は高い比率で貿易船に勝てた。時には社会保障の仕組みもあり、戦闘で負傷した場合には計画的に金(かね)や金(きん)を補償した。

海賊が離れ小島に財宝を埋めた話や[3]、派手な衣装を着ていたという話はある程度真実である。海賊の冨の多くは雑貨を売却することで積み上げられた。すなわち捕獲した船から剥ぎ取ったロープ、帆、滑車装置などだった。 . バッカニアーについて非民主的な側面は、大工や外科医のような専門家を同船させることがあったことだった。ただし、用済みの場合は解放された(その時までに加入を志願していない場合に限る)。典型的な貧乏人は海賊に加わること以外有望な選択肢は少なかったことも注目すべきである。海賊の平等主義によって、奴隷船を捕まえたときに奴隷を解放したという話も伝わっている。しかし、奴隷に海賊船の手伝いをさせた後で彼等を売却した海賊も居たという証言もある。

戦闘の時は凶暴だと見なされ、火打ち石銃(1615年発明)の専門家だったという評判だったが、1670年代以前はそれほど普及していなかったので信憑性は無い。

奴隷海賊

主にアフリカの各所から多くの奴隷がカリブ海の植民地に輸出され、プランテーションでの労働力とされた。1673年から1798年に奴隷にされ植民地に運ばれた人々の中で9ないし32%は子供達だった(イギリスのみの輸出を考慮した数字)[20]。植民地までの船旅は平均して12週間かかり、その間奴隷は劣悪な条件下におかれた。すなわち、立つこともできないような狭い空間、高い気温、貧しい食事であり、病気やその結果としての死も多かった。多くの奴隷は奴隷にされる前に、内乱の犠牲者か捕虜だった[16]。奴隷であるよりも海賊の生活様式が魅力あるものになった。

17世紀と18世紀に海賊はその絶頂期にあり、自由の象徴的な解釈も最盛期だった。この抽象概念は奴隷や帝国主義の犠牲者に大変訴えるものがあった。ヨーロッパの主要な列強は奴隷が自由になる機会を見出すことを望まなかったが、「1715年から1725年に活動した海賊5,000人以上の中で30%はアフリカ人の子孫だった」とされている[21]。新しい生活と自由の機会と共に、アフリカの先住民はそれ以前に個人が海賊の社会に加わるという平等さを経験していた。海賊になった多くの奴隷が、海賊船で指揮官や特権のある地位を確保した。中には船長になった者もいた[21]。多くの奴隷の出身地の中にマダガスカルがあった。ジャマイカ、バルバドスなどアメリカの植民地に奴隷を輸入した最大の国はイギリスだった[22]


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