ヨシュア - Wikipedia http://bit.ly/1hHxIH4
ヨシュア(ヘブライ語: יְהוֹשֻׁעַ, Yehoshuʿa)は『旧約聖書』の「民数記」や「ヨシュア記」に登場するユダヤ人の指導者。
エジプトを出て放浪するユダヤの民。その1人だったヌンの子ホシェアはモーセによってヨシュアと呼ばれるようになる。彼はカレブたちと共に、モーセに命じられて自分たちの目指す約束の地であるカナンを偵察する。ヨシュアとカレブはカナンのすばらしさを伝えるが、それ以外の者たちはカナンの地に入ることの困難を強調する。そのため、民は動揺し、モーセに向かって不平を言うが、ヨシュアとカレブだけは不平を言わなかった。このため、ヨシュアとカレブだけは約束の地に入ることをゆるされるが、他の成人たちには許されなかった(「民数記」)。
モーセは120歳になると、自分の後継者としてヨシュアをたてて亡くなった(「申命記」)。
ヨシュアは指導者として約束の地に入るべくヨルダン川を渡ってエリコを攻める。エリコの城壁は祭司たちが吹く角笛と民の叫びの前に崩壊した。ヨシュアはエリコの人民を全て虐殺する。ヨシュアは民を率いてカナンの各地を侵略、抵抗運動を粉砕して全カナンを制圧した後にレビ族を除くイスラエルの十二族にくじびきによって分配した。
ヨシュアは死の床で民の代表者たちに神への信頼を説き、この世を去った。110歳であった。その遺体はティムナト・セラに埋葬された。
エリコ - Wikipedia http://bit.ly/2fdLyTL
エリコ أريحا | |
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エリコ市街地 |
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位置 | |
エリコの位置(ヨルダン川西岸地区東部) |
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行政 | |
国 | ![]() |
地域 | ヨルダン川西岸地区 |
県 | エリコ県 |
市 | エリコ |
人口 | |
人口 | (2006年現在) |
市域 | 20,400人 |
エリコ(イェリコ、ジェリコ、アラビア語ではアリーハー、アラビア語: أريحا、ヘブライ語: יְרִיחוֹ、Jericho)は、パレスチナの市。
概略
死海の北西部にある町。古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現した。世界最古の町と評されることもある。世界で最も標高の低い町でもある。
エリコは、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区に含まれる。海抜マイナス250mの低地にある。「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、人々が住み着いた。エリコの名前は『旧約聖書』にも繰り返し現れ、「棕櫚(しゅろ)の町」として知られていた。
エリコには、異なる時代に形成されたいくつかの町があり、古代~『旧約聖書』時代のテル・エッ・スルタン(Tell es-Sultan)、紀元前後のトゥルール・アブー・エル・アラーイク(Tulul Abu el-'Alayiq)、現在の町があるテル・ハリ(er-Riha)に分かれる。テル・エッ・スルタンは、テル・ハリから2kmほど離れたところにあり、トゥルール・アブー・エル・アラーイクはテル・ハリから西へ約2kmのところにある。
沿革
初期の町は小規模な定住集落で、時代区分上は新石器時代にあたる。最古の町と評されることもあるが、後に現れるメソポタミア文明などの文明とは区別される。
1868年からヨーロッパの考古学者によって何度か調査が行われ、1952年にイギリスのキャスリーン・ケニヨン(Kathleen Kenyon)らが行った調査では前8000年紀のものと思われる周囲を濠と石積みの防壁で囲った集落跡が発掘された。日本の弥生時代の環濠集落に似ているが、そうではなく、洪水を防ぐための防壁と解釈されている。
初期の痕跡はテル・エッ・スルタンにあり、紀元前約1万年前~前9000年前まで遡る。テルは丘を意味するアラビア語で、人間の長期にわたる営みの積み重ねによって形成されたものと考えられている。丘の規模は南北350m・東西150m・高さ2.5mである。紀元前9000年頃の痕跡ではまだ住居跡はまだ現れないが、ナトゥフ期(Natufian)の石器・骨器や、祭壇と思われる基壇が現れた。
ナトゥフ期の次にケニヨンが「原新石器」と呼んだ時代を経て、「先土器新石器A」(Pre-Pottery Neolithic A)と呼ばれる層(前8350年頃~前7370年頃)からは、広さ約4ヘクタール・高さ約4m・厚さ約2mの石の壁で囲まれた集落が形成された。この壁の1面には高さ8.5mの石の塔も建てられた。この町は前7370年頃に放棄され、それまでとは異なる文化をもつ人々がエリコに定住した。
先土器新石器B(Pre-Pottery Neolithic B)と呼ばれる層は、前7220年頃から前5850年頃まで続く。これは前5850年頃に放棄され、しばらく無人の町となった。
前3300年頃には周壁を備えた都市が形成される。前2300年頃に異民族の来襲によるものと思われる火災にあい、しばらく空白期間となる。
前1900年頃に再び町が建設され、町の領域は初期の壁の外にも拡大し、さらに外側により高い周壁が建設された。前1560年頃にヒクソスの侵入にあい、大火災に見舞われて廃墟となった。『旧約聖書』に記されたヨシュアによる破壊が史実に基づくものならば、この頃の話ではないかという推測もある。
前1550年頃~前1150年頃には、古代エジプトの圧迫を受けた。
『旧約聖書』では、預言者ヨシュアが人々に命じて一斉に吹かせたラッパの音により、エリコの城壁が崩れ落ちたと伝えられている。
ヘレニズム時代から『新約聖書』の時代になると、トゥルール・アブー・エル・アラーイクに町が形成された。
現代
第一次中東戦争以降ヨルダンの占領下にあったが、第三次中東戦争後はイスラエルの主権下となった。現在、この地は、ヨルダン川西岸地区と呼ばれる一帯にある。
最も親イスラエル的な町として知られ、イスラエル人からも信頼されている。パレスチナ自治区の自治がいち早く始まったのもエリコであった。
ヨシュア記 - Wikipedia http://bit.ly/1hHwQSO
『ヨシュア記』( ヘブライ語: ספר יהושע)は聖書の書物である。
そこには、ヨシュアの指導の下、イスラエル人がカナンに住む諸民族を武力で制圧し、約束の地を征服していく歴史が記されている。この書物は、キリスト教においては「歴史書」に、また、ユダヤ教においては預言書に分類される。
著者 (成立事情)
この書物の原作者は、伝統的には主としてヨシュアが書き(ヨシュア記24章26節)、彼の死後の記事をアロンの子エルアザルとエルアザルの子ピネハスが書いたとされている。
高等批評をする聖書学者たちは、創世記~申命記のモーセ五書にヨシュア記を加えて「六書」と考え、J, E, D, Pなどの資料から成っていると考える者もいるが、M.ノートなどは申命記とヨシュア記は共にD資料(申命記資料)のみによると考えている。
1952~1957年に、Kathleen M. Kenyon らによって考古学的発掘が行われた結果、エリコの城壁の崩壊は紀元前3000年紀の出来事であることが実証されており、ヨシュアたちがエリコに来たときには、エリコはすでに廃墟になっていたことが判明している。したがって、ヨシュア記6章に記されているエリコの陥落物語は歴史的事実ではなく、原因譚として後から(2~7章の物語が)創作されたと考えられる。 また、10章に記されている太陽と月の停止は、カナンの民間説話がもとになっていると考えられる。
要約
背景となる出来事
エジプト脱出時に20歳を超えていた者のうち、ヨルダン川を渡ることを許されたのはヨシュアとカレブの2人だけである。モーセはヨルダン川を渡ることを許されなかった。また、ルベン、ガド、マナセの半部族はヨルダン川東岸に定住することを決めるが、仲間を助けるためにヨルダン川西岸に渡って共に戦うことをモーセに確約する。
ヨシュアによる占領(1-11章)
モーセの死後、神はヨシュアにヨルダン川を渡るよう命令する。ヨシュアは民に準備を促す。二人の斥候がエリコに派遣される。エリコの王は斥候を捕らえようと探索するが、娼婦ラハブは斥候たちを匿う。斥候たちに対し、ラハブは、自分と親族の身の安全を保障してくれるよう請願する。斥候たちは身を守る方法をラハブに伝え、ヨシュアの元に帰って報告する。三日目に、ヨシュアはヨルダン川の手前で宿営を張る。その翌日、ヨシュアは神の命令通り、契約の箱を携えた祭司たちをヨルダン川に入らせる。川の上流で水が堰き止められてヨルダン川が干上がり、その間に全員が川を渡る[。ルベン、ガド、マナセの半部族のうち、四万人の戦士も共にヨルダン川を渡る[。神はギルガルに記念碑を建てるよう命じる。ヨシュアはギルガルとヨルダン川の祭司たちが立っている場所に、それぞれ記念碑を建てさせる。民はヨシュアがモーセの後継者であることを認めるようになる。ギルガルに宿営が張られる[。神は民に割礼を施すようヨシュアに命じる。民はギルガルで過越を祝う。過越の翌日、マナの供給が終わる。ヨシュアは聖なる所へと足を踏み入れてしまい、サンダルを脱ぐよう「主の軍の将軍」に命令される。神はヨシュアに詳細な指示を出す。民がその指示通りに行動すると、エリコの城壁が崩れる。エリコの住民と家畜は、ラハブに属するものを除き、すべて滅ぼされる。ヨシュアはエリコに対する呪いの言葉を語る。
アカンはエリコの戦利品を隠し持つ。ヨシュアは斥候の提案に従いアイに三千の兵を差し向けるが、派遣隊は敗北し、民は動揺する。神はヨシュアに、エリコの戦利品を隠し持つ者がいることを告げる。アカンが選び出され、彼は罪を認める。アカンとその家族、および彼の所有する家畜に至るまで石打ちにされる。神は再びアイを攻めるよう、また、都市の背後に伏兵を配置するようヨシュアに命じる。ヨシュアは三万の兵を夜のうちに送り出し、自らは敗走を装う兵を指揮する。アイの兵は都市を出てヨシュアを追撃するが、挟撃されて全滅する。王も捕虜となり殺され、住民も皆殺しにされる。アイは焼かれ、ヨシュアたちは神に命じられた通りアイの町の家畜と分捕り品を自分たちのために奪い取った。ヨシュアはモーセによって命令された通り、エバル山に祭壇を築き、犠牲を捧げる。ヨシュアはその祭壇にモーセの律法の写しを記す。民はエバル山とゲリジム山の前に集められ、彼らの前で律法の全ての言葉が朗読される。
ギブオン周辺に住むヒビ人たちは、侵攻して来たイスラエル人を欺いて協定を結ばせることに成功し、殺されることを免れる。しかし、その策略はすぐに発覚し、彼らは祭壇の「柴刈りまた水くみ」をする者としてイスラエル人に仕えることになる。「アモリ人の五人の王」がギブオンを攻め、ギブオン人はヨシュアに助けを求める。イスラエル人は夜を徹して行軍し、アモリ人を急襲する。敗走するアモリ人を雹が襲う。ヨシュアが太陽と月に命令すると、太陽と月は「まる一日」静止する。五人の王は捕虜となり処刑される。ヨシュアはヨルダン川西岸の都市ギルガルから地中海沿岸の都市ガザに至るまで、また、その南方に広がる荒野に至るまでの地域に点在する諸都市を滅ぼし家畜などを奪っていく。ハツォルの王ヤビンを盟主とする大軍がメロムの水場に集結する。ヨシュアはこれを急襲し、敗走する敵を追撃して全滅させる。ヨシュアはハツォルを滅ぼして都市を燃やす。また、他の都市も滅ぼすが、ハツォル以外の都市は燃やさなかった。北方は、ヘルモン山の麓の都市、バアル・ガドに至るまでのヨルダン川沿いの地域を攻略する
土地の配分(12-21章)
モーセの占領したヨルダン川東岸の地域。ヨシュアの占領したヨルダン川西岸の地域と王の一覧。神は高齢となったヨシュアに、未征服地を含んだヨルダン川西岸の土地を、九部族とマナセの半部族との間で分配するよう命じる。ヨルダン川東岸の地を相続した二部族と半部族、およびレビ族が相続地を持たないことについての解説。相続地を決めるために「くじ」が用いられる。カレブはヘブロンの相続を求め、許可される。
ユダ族の相続地。カレブによるヘブロン攻略。マナセ族とエフライム族の相続地。相続地が少ないことに対する不満と、それに対するヨシュアの助言。ヨシュアはまだ相続地の決まっていない七部族に対して未征服地の調査を命じ、その調査記録を基に土地を配分する。ベニヤミン族の相続地。シメオン族の相続地。ゼブルン族の相続地。イサカル族の相続地。アシェル族の相続地。ナフタリ族の相続地。ダン族の相続地。ヨシュアはティムナト・セラを相続地として受け取る。
神はヨシュアに逃れの町を定めるよう命令し、六つの都市が定められる。相続地のないレビ族に対し、各部族の相続地から居住のための都市が与えられる。
シケム契約(22-24章)
ヨシュアはルベン、ガド、マナセの半部族の戦士たちを郷里へと帰らせるが、彼らがヨルダン川のほとりに大きな祭壇を築いたことが伝えられ、ヨルダン川東岸の部族に対する軍事行動が検討される。ピネハスらが派遣され、彼らにヨルダン川西岸へと移住するよう勧めるが、彼らの説明する祭壇を築いた目的は好ましいものであったため、軍事行動は起こされなかった。ヨシュアは長老たちを呼び、モーセの律法を守り行うよう諭す。ヨシュアは全イスラエルをシケムに集め、彼らに神の言葉を伝える。民はヤハヴェに仕え続けることを誓い、その証拠として大きな石が立てられる。ヨシュアの死と埋葬。エジプトから運ばれてきたヨセフの骨はシケムに埋葬される。エレアザルの死と埋葬。
関連項目
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