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ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

ナチスドイツのユダヤ人大量虐殺を陰で支えた男「カール・アドルフ・アイヒマン」 (2)

2017年04月08日 | 戦争

ナチス親衛隊

アドルフは石油会社に勤めていた頃の1932年4月1日にオーストリア・ナチ党に入党のうえ、親衛隊に入隊している(オーストリアナチ党員番号889,895、オーストリアSS隊員番号45,326)[11]。アドルフの父アドルフ・カールの事業仲間である弁護士ヒューゴ・カルテンブルンナーの息子で同じく弁護士のエルンスト・カルテンブルンナー博士の薦めであったという[12][11]。アドルフ自身はイデオロギーにはさほど興味はなかったようだ[4]

1933年夏、アドルフがベロニカ・リーベル(Veronica Liebl、愛称ベラ)と結婚の準備を進めていた頃、オーストリア・ナチ党がオーストリア政府から禁止されたため、1933年8月1日に大管区本部の命令でアドルフはドイツへ派遣されることとなった。アイヒマン一家はドイツ市民権を放棄していなかったし、アドルフは失業中だったので再度ドイツへ移住することになんら問題はなかった。婚約者ベラとともにドイツのパッサウへ移住。ベラとは1935年にパッサウで結婚している[13]

1933年8月から1934年9月までレヒフェルトドイツ語版ダッハウバイエルン州地方警察から「オーストリア人部隊」として訓練を受けていた。なお、アドルフはダッハウの親衛隊の訓練場にはいたが、同じ場所にあったダッハウ強制収容所の運営とは何も関係していない[14][4][15]

アドルフはこの時の訓練時代を「軍務の単調さが耐えられなかった。毎日毎日が全く同じで、くりかえしくりかえし同じことをさせられる」[14]、「訓練は国防軍の兵士と全く変わらないものでした。(中略)徹底的な匍匐前進でした。肘に貼った絆創膏なんかすぐにはがれてしまって。(中略)私はどうやってここから抜け出すか、そればかり考えていました。そんなときにSDの人員募集の噂を聞きつけたんです。私は、これだ、と思いました。」と回顧している[15]

SD勤務時代

1934年9月、当時親衛隊伍長であったアイヒマンは、SDに応募し、SD長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将により採用される。SDII/111課(フリーメーソン担当課)の補助員となった。同僚のディーター・ヴィスリツェニーによるとこの頃からアイヒマンは記録や組織的な整理といった体系的な作業を好んだという[16]。しかし数か月で人事異動となり、レオポルト・フォン・ミルデンシュタインドイツ語版親衛隊少尉が課長をしていたII/112課(ユダヤ人担当課)へ異動した[17][18]。以降一貫してアイヒマンはユダヤ人問題に携わることとなる。

ユダヤ人課の上官フォン・ミルデンシュタインから読むよう命じられたテオドール・ヘルツルの著作『ユダヤ人と国家』にアイヒマンは強い影響を受けたという[17]。アイヒマンはドイツ在住のユダヤ人をパレスチナへ移住させる計画に関心を示すようになった。1933年から1937年にかけて2万4000人の在独ユダヤ人がパレスチナへ移住していた[19]。アイヒマンは、これをさらに拡大できないかと考え、1937年夏に長官ハイドリヒの許可を得てパレスチナ移住計画の可能性を評価するため、上官のヘルベルト・ハーゲン(フォン・ミルデンシュタインの後任のII/112課課長)とともに英国委任統治領パレスチナに赴いた[18]。彼らはハイファに到着したが通過ビザしか得られず、カイロへ進んだ。カイロではハガナーのメンバーに会った。さらにパレスチナでアラビア人のリーダーに会うことを計画したが、パレスチナへの入国はイギリス当局によって拒絶された。そのため外遊の成果はほとんどなかった。しかもナチスの政策は後にユダヤ人国家の設立を妨げる方向で定められたので、結局、経済的理由のためのパレスチナへの大規模移住に反対する報告書を書いている。

ウィーン勤務時代

 
1938年3月18日、ウィーンのザイテンシュテッテンのユダヤ人協会。手前の親衛隊員がアイヒマン

オーストリア併合後の1938年3月、当時親衛隊少尉だったアイヒマンは「ユダヤ人問題の専門家」としてオーストリアのウィーンへ派遣された。ロスチャイルド家の財閥ユダヤ人ルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト(de)男爵からナチスが没収した邸宅は親衛隊の建物となり、アイヒマンはここの一室をあてがわれて「ユダヤ人移民局」を起こし、オーストリアのユダヤ人の移住に取り組んだ。ユダヤ人たちの亡命の代償は全財産であり、その所有物はすべて没収された。移住者は「提示金」として不可欠な外国為替を滅茶苦茶なレートで購入させられた。アイヒマンは移住政策を巨額のビジネスに仕立て上げたのだった[20]。アイヒマンは1938年10月21日の報告書で着任の日から9月末までに5万人のユダヤ人をオーストリアから追放した、と報告している。同時期のドイツでは1万9000人であったからアイヒマンの成果は歴然であった[21]

1938年6月の親衛隊内部の勤務評定はアイヒマンに「秀」の成績をつけており、「彼の格別な能力は交渉、話術、組織編成」「精力的かつ機敏な人物であり、専門分野の自己管理に優れた能力を備えている」と記している[22]。1939年1月24日には名目上のユダヤ人問題責任者であるヘルマン・ゲーリングの命令でベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が開設されることとなったが、これはハイドリヒがアイヒマンのウィーンでの働きを高く評価し、アイヒマンの方式を全国に拡大しようと設置したものであった。アイヒマンは親衛隊内でユダヤ人移住の権威として知られるようになり、ユダヤ人移住の「マイスター」などと呼ばれるようになった[23]

アイヒマンも後に述べているが、ウィーン時代はアイヒマンの人生で最良の時代であった。アイヒマンは、ロスチャイルドから没収した高級リムジンを公用車にして乗り回し、旧ロスチャイルド邸のワイン蔵からワインを持ち出して同志たちと飲みかわして楽しんだ[22]

プラハ勤務時代

1939年3月、チェコスロバキア併合によりベーメン・メーレン保護領が誕生し、4月に旧チェコスロバキア首都プラハへ派遣されることが決まった。当時親衛隊大尉だったアイヒマンは、ウィーンの移民局の仕事を部下のロルフ・ギュンターRolf Günther)やアロイス・ブルンナーに任せて次なる任地プラハへ移動した[24][23]。しかしアイヒマン自身は後に「最初、私はウィーンを離れたくなかった。万事円滑、かつ秩序正しく動いているのであるから(ウィーン勤務を)手放しくないのは当然だった。」と語っている[25]

しかもプラハではアイヒマンはウィーンでの仕事ほど成果を上げられなかった。すでにほとんどの国でユダヤ人の受け入れを拒否するようになっていた上、ベルリンも保護領のユダヤ人追放よりライヒ(ドイツとオーストリア)内のユダヤ人追放を優先したがっていた[23]。しかしプラハ勤務時代はすぐに終わりを迎えた。

 

 

 

ナチスドイツのユダヤ人大量虐殺を陰で支えた男「カール・アドルフ・アイヒマン」 (1)
ナチスドイツのユダヤ人大量虐殺を陰で支えた男「カール・アドルフ・アイヒマン」 (2)
ナチスドイツのユダヤ人大量虐殺を陰で支えた男「カール・アドルフ・アイヒマン」 (3)
ナチスドイツのユダヤ人大量虐殺を陰で支えた男「カール・アドルフ・アイヒマン」 (4)

 


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