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私のメモ帳・・・船村 徹(作曲家)

2016年09月16日 | 音楽

船村徹 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://bit.ly/1LUxZ36 
 
船村徹
出生名 福田博郎
生誕 1932年6月12日(84歳)
出身地 日本の旗 日本栃木県塩谷郡塩谷町
学歴 東洋音楽大学
(現・東京音楽大学)卒業
ジャンル 演歌歌謡曲
職業 作曲家歌手
活動期間 1955年 -
レーベル キングレコード1955年-1956年
コロムビアレコード(1956年-1978年
共同作業者 高野公男

船村 徹(ふなむら とおる、1932年6月12日 - )は、日本作曲家歌手日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。横綱審議委員会委員「日本会議」会員でもある。本名は福田博郎(ふくだ ひろお)。戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。

 船村徹の名曲
40 本の動画

 

美空ひばり 名曲物語 “演歌巡礼”船村徹を歌う
https://youtu.be/yRVuQ0ISCOM

 

 

経歴

栃木県塩谷郡船生村(現塩谷町)出身。父親は獣医だった。

栃木県立今市中学校(現・栃木県立今市高等学校)、東洋音楽学校(現・東京音楽大学ピアノ科卒。

大学在学時はまだ駐留米軍が数多くいた時代であり、船村は米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーを務めたこともあったという。

大学在学時に、作詞家高野公男と組み作曲の活動を開始した(高野は1956年肺結核のため、26歳の若さで死去)。ただ、高野とともに、生活は困窮を極め、バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験する。

1953年、雑誌「平凡」コンクール曲第一席「たそがれのあの人」がレコード化され、作曲家としてデビュー。

作曲家としての本格的な作品は「別れの一本杉」(歌・春日八郎1955年発表)。その後も、「ご機嫌さんよ達者かね」、「あの娘が泣いている波止場」(歌・三橋美智也)などが連続ヒットした。

1956年キングレコードからコロムビアレコードに移り、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」(歌・青木光一)が大ヒット。「王将」(歌・村田英雄)は戦後初のミリオンセラーを記録した。

1993年日本作曲家協会理事長に就任し、1997年吉田正の後を受けて第4代会長に就任、2005年遠藤実へバトンタッチするまで務めた。

1995年紫綬褒章受章、2002年、栃木県県民栄誉賞受賞、2003年、旭日中綬章受章、2008年、文化功労者、2014年、栃木県名誉県民。

妻は元歌手の能沢佳子、長男は作曲家編曲家の蔦将包(つた まさかね)、長女は作詞家真名杏樹、次女は元女優の福田渚子

愛弟子は、男性歌手:北島三郎鳥羽一郎大下八郎・ムーディー松島・香田晋静太郎天草二郎走裕介。女性歌手:森サカエ森若里子である。
このうち、松島・鳥羽・香田・静・天草・走は、船村宅に住み込み、師匠と寝食を共にした内弟子である。

作曲家として知られているが、「演歌巡礼」の活動の際、自ら歌唱する事もある。船村が自ら歌った作品を収めた「愛惜の譜」と言う通信販売限定のボックスCDも出ている。過去に数枚シングルも出している。

2015年4月27日には栃木県日光市今市にある「道の駅日光 日光街道 ニコニコ本陣」に併設して、「日本こころのうたミュージアム・船村徹記念館」がオープンした。同館は、鉄筋コンクリート3階建て、延べ約2800平方メートル。1階の「夢劇場」では、船村の生い立ちや活躍を、最新の映像技術で紹介する。2階には「王将」「みだれ髪」「兄弟船」など船村の代表作が聴けるメロディーボックスや、歌手らと船村とのエピソードを映像化したシアターを設置。3階は、レコードジャケットや交流のあった著名人らの手形などを展示するスペース、入場者が自分の歌う姿をDVDに収録できる「歌道場」と名付けたカラオケルームなどが設けられている。

また、同館のオープニングセレモニーには親交の深かった北島三郎鳥羽一郎舟木一夫由紀さおり大月みやこ瀬川瑛子など多くの著名人が参加した。

エピソード

東洋音楽学校に在学していた当時、一級上に黒柳徹子がいた。黒柳は声楽科でだったが、上級生の伴奏を勤めさせられることがあり、そのことを「指導」と呼び、船村も黒柳から、たびたびそのような「指導」を受けたことがあるという。

大瀧詠一との対談の中で、次のようなエピソードを話している。1959年東映アニメ映画少年猿飛佐助』の音楽を担当し、グランプリを受賞した際に招待されヨーロッパ滞在中ロンドンで、あるオーディションに立ち会う。その中にデビュー前のビートルズがおり、オーディションに参加した面々の中で唯一のバンドだった。「どの組がよいか?」と尋ねられた船村は「あの汚い4人組が一番面白いのでは」と答えたという。 それを聴いた大瀧は驚愕し、周りのスタッフに「凄いでしょう!船村先生は、ビートルズが誕生したオーディションに立ち合っているんですよ」と述べた。

船村の代表曲のひとつ『矢切の渡し』は元々ちあきなおみに提供した楽曲だったが、細川たかしが歌ったものがヒットし、第25回日本レコード大賞を受賞した。しかし、船村は細川盤のほうがヒットしたことに対して「大複雑」と発言し、「ちあきの歌は(楽曲のイメージの)手漕ぎの櫓で、細川の歌はモーター付の船だ。」という評価を下している。また、ちあきの歌は「鑑賞用」なのに対して、細川の歌は省略法でありカラオケのような誰でも歌える歌い方になってしまっているとも発言している

美空ひばりに関して、高音(裏声)に良いものを持っていると発言しており、実際に船村がひばりに提供した作品には、高音部分がある楽曲が多い。ただし、母の喜美枝には「苦手だからやめて」と拒否されていた。また、船村自身が高く評価しているちあきなおみと美空ひばりを対比し、「美空ひばりとちあきなおみの決定的な違いは、裏声の出るか出ないかだ」とも発言している。MLV0MLN0szA2M3JlMzAyZjQ1MmAyYEcHBwAADGORAV]


以下は船村徹作詞作曲「のぞみ(希望)」についてです。

 

のぞみ(希望) 歌:船村徹
https://youtu.be/1Bc3yEaEZJw

船村徹 のぞみ(希望) 歌詞
http://bit.ly/2cdIpn4


船村徹「希望(のぞみ)」(作詞・船村徹、作曲・船村徹)
http://amba.to/2cdIgQB

テーマ: ブログ http://amba.to/2cdIgQB
船村徹「希望(のぞみ)」(作詞・船村徹、作曲・船村徹)
 「母のいない故郷」
 (1997年6月5日発売)

船村徹が、刑務所の慰問を始めたのは、昭和33年からです。26歳です。
プロの作曲家としてのデビューが昭和30年、
日本コロンビアの専属作曲家になったのが昭和31年。
受刑者に捧げた曲も少なくない、と言います。
「希望(のぞみ)」という作品は、自分で作詞作曲した作品。

刑務所に服役中の受刑者の心情を思い作曲した歌です。
五木ひろしがシングル『細雪』のカップリング曲で歌っていたが、こちらは何故か発売数日で別の曲に差し替えられている。この作品は女子刑務所の収容者に贈られた中の1曲であり、発売目的で作られたものではない。

船村徹が1981年、岐阜の笠松にある女子刑務所で服役する女性たちに贈った歌です。

演歌歌手しいの実のシングル曲でもあります。
しいの実がその女子刑務所へ船村氏と同行し、船村氏がギター1本で唄ったこの歌は、服役する約400人の女性たちの心に響き、歌い終わった後には刑務所内の会場内は彼女たちの嗚咽の渦と化していた。

以上の出来事があって、しいの実が「この歌を私に歌わせて下さい」と船村徹に懇願をして18年後のしいの実デビュー30周年記念曲としてレコード化されています。1999年の事です。

 


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