ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

私のメモ帳・・・美空ひばり 東京ドーム公演

2016年09月16日 | 音楽

伝説のステージ「東京ドーム」公演 

出典→美空ひばり - Wikipedia
http://bit.ly/1eT3Ua9

美空ひばり、東京ドーム公演 

1988年(昭和63年)初頭はハワイで静養、2月中には帰国。同年4月に開催予定の東京ドーム公演に向けて、下見や衣装、当日の演出など準備段階は止められない処まで来ていたが、足腰の痛みは殆ど回復する事はなく、体調が思わしくないまま公演本番の日を迎える。

1988年4月11日、東京ドームのこけら落しとなる「不死鳥コンサート」を実施(実際にはそれ以前にミック・ジャガーBOØWYがコンサートを同場所で既に行っていた)。このコンサートのようすは、現在もテレビ番組でしばしば映像が使われる。「不死鳥」をイメージした金色の衣装など、舞台衣装は森英恵がデザインしたものである。

ひばり自身フィナーレの「人生一路」を歌い終えた際、思い通りに歌えなかったのか首を傾げたという。この頃のひばりは既に、体調の悪化で前年の退院会見の頃と比べると痩せて、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。常人であれば歌うことはもちろん、立つことすら難しい病状の中でステージに立った。

公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師も控えていた。また、万一の事態に備えて裏手に救急車も控えていた。公演の際に楽屋を訪れた親友の浅丘ルリ子は、まるで病室のような楽屋とひばりの様子に衝撃を受けたと語る。楽屋でひばりはベッドに横たわっており、浅丘が「大丈夫?」と問いかけると、ひばりは「大丈夫じゃないけど頑張るわ」と答えたという。

ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと歩いたひばりの顔は、まるで苦痛で歪んでいるかのようであった。とても歩ける状態では無いにも拘らず、沢山のひばりファンに手を振り続けながら全快をアピール。

そのゴール地点には息子・和也が控え、ひばりは倒れこむように和也の元へ辿り着き、そのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にしたという。

当時マスコミ各社はひばりの「完全復活」を報道したが、ひばり自身にとっては命を削って臨んだ、伝説のステージとなった。

東京ドーム公演を境に、ひばりの体調は次第に悪化し、段差を1人で上ることさえ困難になり、リフトを使い舞台上にあがる程の状態だった。ドーム公演後全国13カ所での公演が決まっており、翌1989年2月7日小倉公演までの10か月間、全国公演を含めテレビ番組収録など精力的に仕事を行った。1988年6月7日には極秘で一時入院したが、すぐ仕事を再開。同年7月29日に「広島平和音楽祭」(「一本の鉛筆」を歌唱)に加え、8月21日には「佐久音楽祭」に出演した。ひばりにしては珍しく「佐久音楽祭」では屋外ステージで歌った。映像は残され、現在の特番でも放映されている。

生涯最後のシングル「川の流れのように」

1988年10月28日には、前日神津はづきからのお友達紹介で、フジテレビの人気番組『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングコーナーに最初で最後の出演を果たした(ひばりからのお友達紹介は岸本加世子)。またその頃、作詞家秋元康の企画による『不死鳥パートII』との題名で、生前最後となるオリジナルアルバムのレコーディングも行い、秋元や作曲家見岳章といった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。そのアルバムの中には、生涯最後にレコーディングしたシングル曲『川の流れのように』(作詞・秋元康、作曲・見岳章)が入っていた。同曲はまたひばり自らシングル化を強く迫り、希望通りに形となった。

そのきっかけとなったのが、同年10月11日にオリジナルアルバム製作の報告も兼ね、日本コロムビア本社内で行われたひばり生涯最後の記者会見の時であった。この記者会見前にひばりは、当初はシングル化されるはずだったアルバム内の1曲『ハハハ』を秋元康が立ち合いの下、公開初披露された後で会見が組まれた。ある記者が「ひばりさん、今回のアルバムを楽しみにされているファンの方々が沢山いらっしゃるかと思いますけれども、アルバムに収録されている10曲がどんな曲なのか、紹介していただけますか?」と投げかけた。するとひばりは「えー… もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか。だからこれからの私。大海へスーッと流れる川であるか、どこかへそれちゃう川であるかっていうのは誰にも分からないのでね。だから『愛燦燦』とはまた違う意味のね、人生の歌じゃないかなって思いますね…」との全てを覆す回答を残した。ひばりの記者会見後、製作部はバタバタしながら1989年1月のリリース準備に入ったエピソードが残されている。

同年12月中旬、翌1989年(昭和64年)1月4日にTBSテレビで放送の、生涯最後のワンマンショー『春一番! 熱唱美空ひばり』の収録に臨んだ。総合司会は堺正章が担当し、特別ゲストには森光子尾崎将司が出演。収録前に歓迎会が行われ、スタッフからひばりへ花束の手渡しなどがあり、ひばり自身スタッフの熱意を肌で感じていた。ひばりは演出スタッフに向かって「この番組が最後になるのよ、これ」と話していたという。後に堺がひばりの追悼番組で、当時「どういう意味の最後かは定かではないが…」と話している。脚の激痛と息苦しさで、歌う時は殆ど動かないままの歌唱であった。立っているだけで限界だったひばりは、歌を歌い終わる度に椅子に腰掛け、息を整えていたという。それでも同番組のフィナーレでは、番組制作に携わったスタッフやゲストらに感謝の言葉を述べ、「これからもひばりは、出来る限り歌い続けてゆくことでしょう。それは、自分が選んだ道だから」という言葉で締め括る。そして新曲『川の流れのように』の歌唱後、芸能界の大先輩でもある森繁久彌からの激励の録音メッセージを受けると、感極まったひばりは堪えきれずに涙を流し続けた。

1988年12月25日、26日と帝国ホテルにて、生涯最後のクリスマスディナーショーが行われ、石井ふく子王貞治らひばりの友人も足を運んだ。無理を押しての歌中、激しいツイストで観衆を沸かせていた。ディナーショー終了後、石井と王らが会食していた神楽坂の料亭に連絡無しにいきなり現れたひばりが、浪曲「唄入り観音経」を歌唱。石井は2010年6月にTBS系で放映された特番で「全身が総毛立ったの。素晴らしかったですよ。なんで録っておかなかったんだろうと今でも悔いています」と語った。

美空ひばりメドレー、東京ドーム公演 part1
悲しき口笛、東京キッド、越後獅子の歌など全5曲
https://youtu.be/0fR3mDg9lHE

美空ひばりメドレー 東京ドーム公演 part2...
お祭りマンボ、鼻歌マドロス、初恋マドロス、港町十三番地など、全6曲
https://youtu.be/Bd5Ok6By_mg

美空ひばりメドレー 東京ドーム公演 part3
柔、乱れ髪、塩屋崎、りんご追分の4曲
https://youtu.be/L2J0w9EW3Gc

美空ひばり執念の復活コンサ-トの舞台裏
https://youtu.be/aSagzzGQRAs

【最後の映像】 美空ひばり/川の流れのように
ひばりはドーム復活公演の後も体調の悪化と戦いながら歌い、1曲を完唱した画像として残ったのはこれが最後のものとなった。全身黒い衣装は彼女が何かを感じていたのかも知れない。
https://youtu.be/d_Ns_B23LT0

 


 

美空ひばり - Wikipedia
http://bit.ly/1eT3Ua9 

美空 ひばり(みそら ひばり、1937年昭和12年)5月29日 - 1989年平成元年)6月24日)は、日本歌手女優横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業

12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍し自他共に「歌謡界の女王」と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手・女優の1人であり、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は御嬢(おじょう)。身長153cm。

 


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