ある「世捨て人」のたわごと

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ナチスドイツのユダヤ人大量虐殺を陰で支えた男「カール・アドルフ・アイヒマン」 (4)

2017年04月08日 | 戦争

逃亡

 
「リカルド・クレメント」の偽名で交付されたアイヒマンの赤十字渡航証

第二次世界大戦終結後、アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束されたが、偽名を用いて正体を隠すことに成功すると、捕虜収容所から脱出。1947年初頭からドイツ国内で逃亡生活を送り、1950年初頭には難民を装いイタリアに到着。反共産主義の立場から元ドイツ軍人やナチス党員の戦犯容疑者の逃亡に力を貸していたフランシスコ会の修道士の助力を得る。

リカルド・クレメント(Ricardo Klement)名義で国際赤十字委員会から渡航証(難民に対して人道上発行されるパスポートに代わる文書)の発給を受け、1950年7月15日、当時親ナチスのファン・ペロン政権の下、元ナチス党員を中心としたドイツ人の主な逃亡先となっていたアルゼンチンブエノスアイレスに船で上陸した。その後約10年にわたって工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、家族を呼び寄せ新生活を送った。上記のアイヒマンの偽造渡航証は2007年5月にアルゼンチンの裁判所の資料庫から発見された。

拘束

 
収監されたアイヒマン

1957年、西ドイツのユダヤ人検事フリッツ・バウアーは、イスラエル諜報特務庁(モサド)にアイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという情報を提供した。ブエノスアイレスに工作員が派遣されたが、アイヒマンの消息をつかむことは容易ではなかった。しかし、アイヒマンの息子がユダヤ人女性と交際しており、彼女に度々父親の素性について話していたことから、モサドは息子の行動確認をしてアイヒマンの足取りをつかもうとした。2年に渡る入念な作業のすえ、モサドはついにリカルド・クレメントを見つけ出した。

モサドイサル・ハルエル長官はラフィ・エイタン率いる作業班を結成させ、エイタンらと共に長官自らブエノスアイレスへ飛んだ。作業班はリカルド・クレメントに「E」とコードネームを付け行動確認した。クレメントも慎重に行動していたが、最終的に作業班が彼をアイヒマンであると断定したのは、アイヒマンの結婚記念日に、クレメントが花屋で妻へ贈る花束を買ったことであった。1960年5月11日、クレメントがバス停から自宅へ帰る道中、路肩に止めた窓のないバンから数人の男がいきなり飛び出し、彼を車の中に引きずりこんだ。車中で男たちはナチスの帽子を出して彼にかぶせ、写真と見比べて「お前はアイヒマンだな?」と言った。彼は当初否定したが、少し経つとあっさり認めたという。

その後アイヒマンは、ブエノスアイレス市内のモサドのセーフハウスに置かれた後に、アルゼンチン独立記念日の式典へ参加したイスラエル政府関係者を帰国させるエル・アル航空ブリストル ブリタニアで、5月21日にイスラエルへ連れ去られた[42]。出国の際に彼は、酒をしみこませたエル・アル航空の客室乗務員の制服を着させられた上に薬で寝かされ、「酒に酔って寝込んだデッドヘッドの客室乗務員」としてアルゼンチンの税関職員の目を誤魔化したという。

さらに同機は当初ブラジルサンパウロ市郊外にあるヴィラコッポス国際空港を経由して同空港で給油する予定だったにもかかわらず、空港への到着前に同機にアイヒマンが搭乗していることが知られた場合、元ドイツ軍人やナチス党員の戦犯容疑者を含むドイツ系移民が多く、ドイツ系移民が一定の影響力を持つブラジル政府により離陸が差し止められる危険性があることから、ヴィラコッポス国際空港での給油を行わずにセネガルダカールまで無給油飛行を行うなど、移送には細心の注意が図られた。

イスラエル政府は暫くの間、サイモン・ヴィーゼンタールをはじめとする「ユダヤ人の民間人有志によって身柄を拘束された」として政府の関与を否定した。しかしながら最終的にその主張は覆された。ダヴィド・ベン=グリオン首相は1960年5月25日にクネセトでアイヒマンの身柄確保を発表し世界的なニュースとなった。ハルエルは後にアイヒマンの身柄確保に関して『The House on Garibaldi Street』を著した。作戦に参加していたとされる元モサドのピーター・マルキンも『Eichmann in My Hands』という本を著した。

獄中のアイヒマンは神経質で、部屋や便所をまめに掃除したりするなど至って普通の生活を送っていた。獄中のアイヒマンを知る人物は「普通の、どこにもいるような人物」と評した。この逮捕および強制的な出国については、イスラエル政府がアルゼンチン政府に対して犯人逮捕および正式な犯罪人引き渡し手続きを行ったものではなかったため、後にアルゼンチンはイスラエルに対して主権侵害だとして抗議している。

アイヒマン裁判

 
アイヒマン(エルサレムでの裁判にて)。Help:音声・動画の再生

アイヒマンの裁判は1961年4月11日にイスラエルのエルサレムで始まった。「人道に対する罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、その裁判は国際的センセーションと同様に巨大な国際的な論争も引き起こした。275時間にわたって予備尋問を行われた。裁判の中でヒトラーの『我が闘争』は読んだことはないと述べている。

証言にしばしば伴ったドイツ政府による残虐行為の記述はホロコーストの現実および、当時ドイツを率いていたナチスの支配の弊害を直視することを全世界に強いた。一方で、自分の不利な証言を聞いている人物が小役人的な凡人であったことが、ふてぶてしい大悪人であると予想していた視聴者を戸惑わせた。裁判を通じてアイヒマンはドイツ政府によるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたものの、自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張した。

この公判時にアイヒマンは「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残した(ソ連の指導者で数十万から数百万人とも言われる政敵を粛清したことで知られるヨシフ・スターリンも同じような言葉を残したとされるが、実際にはこの言はスターリンではなく、ドイツの反戦作家のエーリヒ・マリア・レマルクの言葉だった事が近年証明された[要出典])。アイヒマンは死刑の判決を下されてもなお自らを無罪と抗議しておりその模様は記録映像[43]にも残されている。

処刑

1961年12月15日、すべての訴因で有罪が認められた結果、アイヒマンに対し死刑の判決が下された。翌1962年6月1日未明にラムラ刑務所で絞首刑が行われた。イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないため、イスラエルで執行された唯一の法制上の死刑である。遺体は焼却され遺灰は地中海に撒かれた。

処刑前に「最後に何か望みが無いか」と言われ、「ユダヤ教徒になる」と答えた。何故かとたずねると「これでまた一人ユダヤ人を殺せる」と返答をした問答の逸話もある。と言われているが、彼にネガティブな戦犯としての印象を与える創作ではないかとの指摘もある[要出典]。最期の言葉は「ドイツ万歳、オーストリア万歳、そしてアルゼンチン万歳」であったと伝えられている。

処刑後、アイヒマンはいかなる服従の心理に基づいて動いたのかそれが学者の研究対象となり、役者の演技によって擬似的に作り出された権威の下にどれ程の服従を人間は見せるのかが実験で試され、「アイヒマンテスト」と呼ばれる事に話が繋がって行く(ミルグラム実験を参照)。

家族

アドルフ・アイヒマンは、1931年8月に彼の妻となるヴェロニカ・リーベル(Veronica Liebl、愛称ヴェラ)と知り合った。ヴェラはチェコスロヴァキアボヘミア地方ムラダーの農家出身のチェコ人女性であった。ヴェラによると2人が知り合ったのはリンツで行われた演奏会だったという。ヴェラは出会って一目でアイヒマンにひかれたという。ヴェラは熱心なカトリックであり、プロテスタントのアイヒマンとは信仰が異なったが、彼女はそれでもアイヒマンと結婚することに決めた。2人は1933年夏から結婚の準備を進めていたが、この頃オーストリア・ナチ党が禁止されたため、アドルフは妻のヴェラを伴ってドイツへ移住し、そこで結婚することとなった。アイヒマンは1934年10月30日に親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)に結婚許可の申請をした。親衛隊の結婚にはRuSHAの許可が必要であり、妻となる女性が「アーリア人」であることを証明せねばならなかったが、ヴェラはチェコ人であったため、アイヒマンは書類の形式を整えるのに苦労したようである[13]。許可が下りた後、2人は1935年3月21日にパッサウで挙式した。しかしアドルフの同僚の親衛隊員達の間ではヴェラがチェコ人であることは公然であり、ヴィルヘルム・ヘットルde:Wilhelm Höttl)SS少佐によるとチェコ人妻の存在はアドルフへの風当たりに原因の一つになっていたという[44]。ヴェラも反教会的なナチ党を好ましく思っておらず、ナチ党への入党は最後までしなかった。アイヒマン夫妻は、1936年にベルリンで長男クラウス(Klaus)[13]、1940年にウィーンで次男ホルスト(Horst)[45]、更にその後三男ディーター(Dieter)を儲けている。親衛隊大尉ディーター・ヴィスリツェニーによるとアドルフは自分の子供には大変強い愛着を抱いていたが、逆に妻はどうでもよい存在になっていたという[46]

ヴェラはドイツの敗戦後、オーストリアのアルトアウスゼーで子供とともに暮らしていたが、アメリカの諜報部から尋問を受けた。ヴェラは「アドルフとは1945年3月に離婚しており、それから彼から連絡はない。自分が知る限りアドルフは死んだはずだ。」と主張した。さらにヴェラはアイヒマンを指名手配犯からはずそうとして、1947年にアイヒマンの死亡宣告をもらおうとしているが、アイヒマンがプラハで銃殺されたのを見たと主張している者がヴェラの義兄弟であることをナチハンターのサイモン・ヴィーゼンタールが立証してこれを阻止した[47]

1952年夏にアイヒマンはヴェラと子供たちをアルゼンチンへ呼び、再び一家で暮らすようになった。ここで四男リカルド・フランシスコ・クレメントをもうけた。1959年にはアイヒマンの継母マリアが死去し、父アドルフ・カールも後を追うように1960年2月5日に死去した[48]

人物

  • アイヒマンはみずからが反ユダヤ主義者ではないことをイスラエル警察の尋問や裁判で強調していたが、実際、アイヒマンの学生時代にはユダヤ人の友達もおり、特にミッシャ・セバ(Mischa Sebba)というユダヤ人とはアイヒマンがナチスに入党した後も親交があったという[1]
  • アイヒマンはユダヤ人移送の任務については息苦しいまでの厳格さを見せ、移送列車の発着時刻が正確に守られるよう気を配っていたという。1942年7月14日にパリからポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所へ向かう列車が故障した事件があったが、アイヒマンは、電話で現地の指揮官に対して「今回のことは威信に関わる問題であり、事の全体は極めて屈辱的である」と激昂したという。
  • アイヒマンの信仰はプロテスタントであったが、教会からの脱会を定めたSDの内部規則にしたがって1937年にプロテスタント教会を脱会している[49]
  • アイヒマンはナチス幹部であるマルティン・ボルマンハインリヒ・ミュラーヨーゼフ・メンゲレが南米で生き延びているとイスラエルの裁判で証言した(実際に確認されたのはメンゲレのみ)。

語録

アイヒマン本人の発言

戦前戦中の発言

  • 「先ごろ一連の地域で行われたユダヤ人の東方移住は、ドイツ本国、オストマルク(オーストリア)、及びベーメン・メーレン保護領におけるユダヤ人問題の、その最終的解決の幕開けである。」(1942年1月31日、アイヒマンがドイツの占領地の全ゲシュタポ局に宛てた文書)[50]
  • 「百人の死は天災だが、一万人の死は統計にすぎない。」[51]
  • 「金貨など不要なのだ。金貨なら自分でも持っている。ほしいのは命令だ。これからどう進展するのか知りたいのに。」(敗戦直前エルンスト・カルテンブルンナーに面会を拒否され、その副官から金貨を渡された際に語った言葉)[52]

逮捕後

  • 「あの当時は『お前の父親は裏切り者だ』と言われれば、実の父親であっても殺したでしょう。私は当時、命令に忠実に従い、それを忠実に実行することに、何というべきか、精神的な満足感を見出していたのです。命令された内容はなんであれ、です。」(イスラエル警察の尋問で)[53]
  • 「連合軍がドイツの都市を空爆して女子供や老人を虐殺したのと同じです。部下は(一般市民虐殺の命令でも)命令を実行します。もちろん、それを拒んで自殺する自由はありますが。」(一般市民を虐殺する命令に疑問を感じないか、というイスラエル警察の尋問に)[54]
  • 「戦争中には、たった一つしか責任は問われません。命令に従う責任ということです。もし命令に背けば軍法会議にかけられます。そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、自らの誓いによっても縛られていたのです。」(イスラエル警察の尋問で)[54]
  • 「私の罪は従順だったことだ。」[55]
  • 「ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。この3つの国は私が最も親しく結びついていた国々です。これからも忘れることはありません。妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。私は戦争と軍旗の掟に従わなくてはならなかった。覚悟はできています。」(絞首刑になる直前のアイヒマンの言葉)[56]

 

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