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疑似科学  ウィキペディア(2)・・・科学的方法論・科学と疑似科学の区別の問題

2015年09月17日 | 好きな歌

科学的方法論

科学的な多数の知識、方法論、実践の決定のための基準は分野の間で様々であるが、多くの基本原則は科学者において広く意見が一致している。その基本的な概念は、すべての実験的な結果が再現的である必要があり、他者によって間主観的に検証可能であるということである。実験を確保するというこれらの原則の目的は、同様の条件下である程度再現され、現象に関した仮説理論の、妥当性と信頼性の両方を判断するためのさらなる調査を許容する。科学的方法に求められる基準は至る所で応用され、バイアスは、ランダム化や、偏りのない抽出手続き、盲検法、あるいは他の方法によって、管理あるいは抑制される。実験や環境条件を含むすべての収集データは、精査と査読に利用するために文献化することが期待されており、結果を確認あるいは反証するようなさらなる実験や研究を実施することを許容している。有意の統計的な数量化、信頼区間誤差の範囲も科学的方法のための重要な道具である。

科学と疑似科学の区別の問題

伝統的な実証主義の科学観に立つ物理学者マイケル・フリードランダーによる一般書『きわどい科学 ウソとマコトの境域を探る』 At the Fringes of Science によれば、全ての立場の要求に適いどのような批判にも耐えうる「科学の定義」は存在せず、同様に過去に繰り返された「科学」と「そのまがいもの(=疑似科学)」の境界確定の試みも全ての人の満足を勝ち得たことはない。そして極端な疑似科学であればほとんどの科学者は比較的容易に見分けることができるが、その周辺には明瞭に峻別できない領域が存在し、科学者でも分類に苦しむ研究報告や革新的な主張が存在する[6]。フリードランダーは、科学者も科学者でない人も往々にしてこうした「シャドーゾーン」の微妙さを忘れがちであると述べている。

この峻別の難しさは新しい知識(科学)の受容の際も同様であり、内容の妥当性にも関わらず時代に先んじていた、すなわち同時代の科学者の理解を超えていた研究成果が永らく不遇を託つことがままある。

科学と疑似科学をいかに区別や線引きしたらいいのか? そもそも線引きはできるのか? という問題は「demarcation problem (境界設定問題、線引き問題)」と呼ばれている。

以下の節で、線引き問題に関連する言及などを歴史に沿って見てゆくことにする。

ウィーン学団などの見解

科学と疑似科学の境界を決定する境界設定問題(線引き問題)は、科学哲学などで扱われてきた。 20世紀前半、ウィーン学団は、論理実証主義の立場に立ち、この問題について詳細な探求を行い、既存の科学を検証した。その結果、「あらゆる理論の中には、必ず未実証の部分が含まれている」ため、存在する全ての科学は「最終的には疑似科学と区別ができない」という結論に達した。

科学哲学者スティーヴン・トゥールミンは、『科学哲学入門』(1953)において「法則」と科学者が呼んでいるものの有効性について問題点を指摘した。法則というのは、どこまでなのか有効範囲が、事前には予測がつかなく、法則の適用というのは一種のギャンブルのような性質を備えている。だから、科学者が作り出した“法則”なるもので、本当は確かさをもって未来を予測することはできない、ということを述べた。

カール・ポパーの見解(反証主義)

1934年、科学哲学者のカール・ポパーは『科学的発見の論理』[19]で、命題というのは、それまで科学者らがナイーブに信じてきたように帰納法によって正しさを示せるようなものではなく、いかなる命題であれ正しさを保証することはそもそもできないのであって、命題というのは反証されるまでのあいだ暫定的に認められるものだとの見解を示した。(反証主義)。そして反証が可能であるという意味の「反証可能性 (falsifiability)」をもつ理論を科学とした。「反証が不可能」な理論は、科学では無いとして線引きされる、という考え方である。

このポパーの考え方を継承する形で、現代の科学哲学者の間では、命題のうち、いくつかの有限の回数の実験あるいは観察で命題が成立していると確認されたをものを、暫定的に「今のところ正しい可能性がある」と認め、「あくまで仮説」と認識しつつ慎重に扱う、という考え方が、一般的になった。

ただし、このもしポパーの考え方が正しくて、なおかつ、もし現場の科学者たちがそうしたルールを忠実に守っているならば、1度でも反証された理論を科学者は破棄するはずなのだが、実際にはそうではないこと、現場ではもっと不純で複雑なことが起きているということが、現場で科学者の行動や言動を逐一観察した科学社会学等の研究者らによって、1960年代以降指摘されて行くことになる(後述)。

マーティン・ガードナー

マーティン・ガードナーは1950年ころの著書において、科学/疑似科学の区別について、「区別がむずかしいボーダーラインのケースは常にある」「黒色がさまざまな灰色(グレー)の段階をへて白色に移るという事実がある」と認めつつ、だが「それは黒色と白色の区別がむずかしいことを意味するものではない」と主張した。 そして二種類の連続体(連続的に変化する一連のものをグループとして扱う概念)がこれ(=科学と疑似科学の判定)に関係している、と主張した。そして「一つはある科学理論がどれほど証拠によって確かめられるかという実証の度合いだ」と主張した。「この連続対の片方の端には、間違っていることがほとんど確実な理論がある」「連続体のなかほどには、作業仮説として提案されているものの、データが不足しているため賛否両論がたたかわされている理論がある」「連続対のもう一方の端には、正しいことがほとんど確実な理論がある」といったことを主張した。 ある理論がどの程度まで確証されているのか、ということに関して、その度合いを決定するというというのは、きわめて困難で専門的な問題であり、実際問題として、ある仮説に対して正確な“確率値”を与える方法などというのはまだ知られていない、とガードナーは述べた。また、ガードナーは第二の連続体として“科学者としての資格の尺度”を主張した。「これにも両極端があって、明らかに尊敬できる科学者から、同じくらい明らかに不適格な人までにわたる」とした。不適格な人(奇人)と呼ぶ根拠になるのは、その理論自体を評価するよりどころになる専門的基準である、と主張した。(上記のガードナーの主張に見られるような考え方は後にラカトシュ・イムレやトーマス・クーンらによって疑問視されてゆくことになる。後述)

ラカトシュ・イムレ

科学哲学者のポパーは、科学者というのが現場で純粋に合理性に基づいて行動しているだろうなどと夢想しつつ彼の理論を構築したわけだが、それに異議を唱える人が出てきた。たとえば、ポパーの元で学んだラカトシュ・イムレは、科学者の実態というのは、科学哲学者や科学者たちが信じたがっているようなものではなく、科学者の集団において、ある理論が採用される/されない、というのはそのような合理的な論理によってではない、と指摘した。ある時代ごとに科学者の集団を駆り立てている、特定の信念や思い込みやプログラムのようなもの(科学におけるリサーチプログラム、「科学的リサーチプログラム」)があり、そのリサーチプログラムには、中心(コア)になっている命題(ハードコア)、そのコアの周囲をとりかこむ命題がある、とした。そして、科学者の集団というのは、実際には、ある命題がある実験を行った結果、彼らの意に反して反証された場合、それを素直に認めることはなく、自分たちが信仰している中心的な命題を守りたがるもので、「他の(周辺的な)命題が間違っていたのだ」などと解釈することで(たとえば実験のほうが失敗だったのだろう)などと解釈したり、アドホックな仮説を付け加えることで、信仰対象の命題を守ってしまう。 科学哲学者ポパーが想定していないようなそうした不純なことを、実際の科学の現場における科学者たちというのは日々行っている、ということがその後の科学社会学者らの研究でも明らかになっている。

トーマス・クーン

科学の世界では歴史的に見て、ある時代に当然だと認められていて、(疑うことも許されない)大前提であるかのように扱われていた命題が、後代になってあっけなく覆ってしまうことが何度も繰り返されてきた。

トーマス・クーン(1922 - 1996)は、1962年に刊行されたThe structure of scientific revolutions(『科学革命の構造』)において、パラダイムという用語を用いながら、科学の現場で起きていることを説明した。理論体系というのは観察された内容で反証され放棄されるということは行われておらず、たとえ理論に反する観察事実があろうとも、科学者というのは頑なにその理論を守ってしまう。これを「観察の理論負荷性」という[21]。実際には、理論体系(信念体系。ある科学者の集団の一種の信仰対象となっている体系)を打ち倒しているのは、別の理論体系である。

科学者の集団における信念体系・信仰体系の変化はクーンの用語を用いつつ「パラダイムシフト」と呼ばれている。


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