私は老健施設「ユウアイ久楽部」のお世話になっている。
籠の鳥同然の生活で許可がなければ外出も出来ない。出来るとしても単独行動はダメだ。
身の回りのことはすべて施設職員がやってくださるので、自分ですることは何もない。
しかし、私の気持ちを察してか、朝の体操の時間に、一曲だけだが歌の伴奏をさせていただけるのは、とても嬉しい。
今朝は天皇、皇后両陛下が26日から5日間、フィリピンをご訪問中なので、「あゝモンテンルパの夜は更けて」を伴奏した。
毎日のことだが、楽譜なしのメモでの伴奏なので、正確ではない。しかし、何も出来ない私にとってせめてお役に立つことが出来るのは幸せとおもう。職員さんの配力に感謝である。
あゝモンテンルパの夜は更けて
ああモンテンルパの夜は更けて 薬師丸ひろ子
- 薬師丸 ひろ子ウィキペディア
- 薬師丸 ひろ子(やくしまる ひろこ、本名:薬師丸 博子(読み同じ)、1964年6月9日 - )は、東京都港区北青山出身の女優、歌手。東京都立八潮高等学校、玉川大学文学部英米文学科卒業。
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- 中略
- 2009年9月12日放送の土曜プレミアム『戦場のメロディ〜108人の日本人兵士の命を救った奇跡の歌〜』(渡辺はま子の実話を基にしたドラマ)において、主役の渡辺はま子役を演じ、1か月の歌のレッスンをした上でドラマの中で「ああモンテンルパの夜は更けて」などのはま子の歌を歌唱した。
- この歌唱が『今度は愛妻家』(2010年)の公開記念イベントのコンサート開催へと繋がった。また、『今度は愛妻家』で第34回日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞する。
あゝモンテンルパの夜は更けては、渡辺はま子、宇都美清が歌ってヒットした流行歌で、1952年(昭和27年)9月、ビクターレコードから発売された。
作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康、歌唱:渡辺はま子、宇都美清
曲誕生まで
1952年(昭和27)1月、歌手の渡辺はま子は、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから衝撃的な事実を知らされた。同国モンテンルパのニュービリビット刑務所には、多数の元日本兵が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞きかされた。戦後7年もたつのに、なお刑を受け続け、なかには死刑を待つだけの人たちもいると聞いた彼女は、銀座の鳩居堂からお香を同刑務所宛に送った。 1952年6月、当時鎌倉にあった渡辺はま子の自宅に一通の封書が届けられた。その封書の中には、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。二人はフィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあったニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた人物であった。作詞の代田銀太郎は元フィリピン憲兵隊少尉。作曲の伊藤正康は元陸軍将校。「モンテンルパの歌」は、刑務所で収容されていた日本人111名の望郷の念を込めた曲であった。
封書を受け取った渡辺は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『ああモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた。
『ああモンテンルパの夜は更けて』が大ヒットしていた1952年12月25日、渡辺がニュービリビット刑務所を訪れた。吹き込み以来刑務所慰問の決意を固めていた渡辺が、国交が無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった。
渡辺来訪時、作詞の代田銀太郎と作曲の伊藤正康は開演前に対面し、歌を作ってもらった事に対し礼を述べた。 慰問のステージは、ドレス姿の渡辺が「蘇州夜曲」などの往年のヒット曲を歌い、ステージ終盤に『ああモンテンルパの夜は更けて』は披露された。この曲を聞いた100人近くの収容者は、死刑が執行された戦犯たちの事を想い、またある者は望郷の想いを胸に、皆感極まって涙し、最後には全員で大合唱となった。作詞者の代田も、作曲者の伊藤も涙を流していた。
その後、この歌のヒットや渡辺はま子をはじめ加賀尾秀忍ら関係者の努力が、当時のフィリピン当局を動かし、1953年(昭和28年)エルピディオ・キリノ大統領の特赦によって戦犯の帰国が計られた。
ああモンテンルパの夜は更けて
平成21年4月18日「第32回帝国陸海軍軍樂隊大演奏会・軍装会」九段会館における熱唱「ああモンテンルパの夜は更けて」。歌手・三枝万祐、フィリピン遺族会「曙光会」
渡辺はま子、宇都美清; あゝモンテンルパの夜は更けて
ああモンテンルパの夜は更けて
作詞:代田銀太郎
作曲:伊藤正康
歌唱:渡辺はま子・宇都美清
(一)
モンテンルパの 夜は更けて
つのる思いに やるせない
遠い故郷 しのびつつ
涙に曇る 月影に
優しい母の 夢を見る
(二)
燕はまたも 来たけれど
恋しわが子は いつ帰る
母のこころは ひとすじに
南の空へ 飛んで行く
さだめは悲し 呼子鳥
(三)
モンテンルパに 朝が来りゃ
昇るこころの 太陽を
胸に抱いて 今日もまた
強く生きよう 倒れまい
日本の土を 踏むまでは
《蛇足》 この歌は、フィリピンの刑務所につながれていたBC級戦犯と、ある女性歌手との交流から生まれました。
第二次大戦が終わると、連合国による敗戦国ドイツや日本に対する軍事裁判が行われました。戦争犯罪人、いわゆる戦犯はA、B、Cの3クラスに分けて裁かれました。
A級は「平和に対する罪」で、指導者たちによる侵略戦争の計画、開始、遂行等、B級は「通例の戦争犯罪」で、戦争法規に対する違反行為、C級は「人道に対する罪」で、戦前・戦時中になされた殺害・虐待などの非人道的行為です。B級は従来の戦争法規に規定されていましたが、A級とC級はドイツと日本の戦犯を裁くために、1945年8月のロンドン協定で新たに設けられた罪科です。
日本のA級戦犯に対する裁判は、東京に設置された国際軍事法廷で行われましたが、B・C級戦犯への裁判は、アメリカ、オーストラリア、オランダ、イギリス、中華民国、フィリピン、フランスの7カ国ごとに行われました。おもな訴因は、俘虜や一般人に対する殺害、虐待、虐待致死で、B・C級戦犯5163名のうち、927名が死刑を宣告されました。
しかし、B・C級戦犯に対する裁判は、かなりいいかげんなものでした。もちろん、実際に戦争犯罪を犯した者も少なくありませんでしたが、軍隊という組織の中で上官の命令に逆らえずに捕虜を刺殺した者や、捕虜に1回ビンタを食らわしただけの者なども含まれていました。文化の違いから来る誤解によって告発されたり、まったく関係のない者が刑を受けた例もかなりありました。
勝者による軍事裁判は、かつて公正に行われたためしがありません。しかも、多かれ少なかれ敗者に対する報復の色彩を帯びるのが普通です。もし、日本やドイツが勝っていたら、同じような裁判をしただろうし、日独の全体主義体制下では、もっとひどい裁判をしたかもしれません。戦争は、戦犯の裁判まで含めて戦争と考えたほうがいいのでしょう。
さて、昭和27年(1952)1月、歌手の渡辺はま子は、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから、同国モンテンルパのニュービリビット刑務所には、多数の元日本兵が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞きました。戦後7年もたつのに、なお刑を受け続け、なかには死刑を待つだけの人たちもいると聞いて衝撃を受けた彼女は、銀座の鳩居堂からお香を同刑務所宛に送りました。
同年の6月のある日、ニュービリビット刑務所の戦犯から、「ぜひ渡辺さんに歌っていただきたい」という手紙とともに、歌詞と楽譜が渡辺はま子のもとに送られてきました。それが『ああモンテンルパの夜は更けて』です。作詞の代田銀太郎は長野県出身の元大尉、作曲の伊藤正康は愛知県出身の元大尉で、ともに死刑判決を受けていました。
渡辺はま子がただちにビクターに持ち込んだところ、そのいきさつに感動した幹部がレコード化を決断、渡辺はま子と宇都美清の歌で発売されました。レコードは瞬く間にベストセラーとなり、現地にも送られました。
しかし、彼女は、それだけでは満足しませんでした。なんとか現地の戦犯たちの前で歌いたいと思ったのです。一般国民の海外渡航が禁止された状況で、フィリピン行きの許可を取るのは困難を極めましたが、あらゆる伝手をたどって奔走した結果、同年12月下旬、彼女はやっと念願を果たしました。ニュービリビット刑務所で、59人の死刑囚を含む109人の戦犯たちを前にして、この歌を歌うことができたのです。
翌28年、同刑務所に駐在していた教誨師・加賀尾秀忍は、奔走してフィリピンのキリノ大統領に面会しました。戦犯たちの釈放や減刑を請願するためでしたが、彼はまず『ああモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールを聞かせました。「この悲しいメロディはどういう曲か」と尋ねた大統領に、彼は「モンテンルパの死刑囚が作った歌です」と答え、歌詞の意味を説明しました。大統領はしばらく沈思したあと、自分の辛い記憶を物語りました。それは、マニラでの日米の市街戦に巻き込まれて、自分の妻と娘が亡くなった話でした。
モンテンルパの全受刑囚の日本送還と死刑囚の無期への減刑が同国政府から発表されたのは、この面会から1ヶ月後のことでした。
写真はフィリピン政府から特赦を受けた日本人戦犯たちを乗せた白山丸を横浜港で出迎える人びと(昭和28年〈1953〉7月22日)。
2番の呼子鳥はカッコウまたはホトトギスのことです。
(二木紘三) |
ムンティンルパ (Muntinlupa City) は、フィリピン共和国ルソン島にある市である。首都のマニラに隣接する。
太平洋戦争(大東亜戦争)中の激戦地フィリピンにおいて、戦後処刑された山下奉文大将以下17名が葬られた場所である。また、渡辺はま子のヒット曲『ああモンテンルパの夜は更けて』で知られる戦犯収容所の所在地であった。
姉妹都市
1991年群馬県群馬郡群馬町と姉妹都市提携を結んで交流を始めた。群馬町は高崎市と合併したため、2006年10月28日に改めて高崎市と姉妹都市提携を結んだ。ムンティンルパの丘には太平洋戦争にまつわる悲しい記憶や、当時のトップ歌手渡辺はま子が戦犯慰問を行うなど、戦後の戦犯釈放にまつわる逸話の舞台ともなった場所であり往時を知る日本人にもなじみが深い。
「モンテンルパの夜は更けて」〜BC級戦犯の命を救った人びと〜(最終回) http://bit.ly/1OXUbds
◆ モンテンルパを歌った歌手 渡辺 はま子
▲渡辺 はま子(1930年代) 渡辺はま子は、1910年(明治43年)に横浜市で生まれました。1933年(昭和8年)、音楽学校を卒業すると、ビクターの専属歌手になります。この頃国内的には大衆文化が花開き、はま子は、押しも押されぬ流行歌手になっていきました。
その後1937年(昭和12年)、日中戦争がはじまると陸軍省報道部の依頼で従軍慰問に明け暮れますが、1945年(昭和20年)、終戦を迎え、天津で捕虜となります。
帰国後、相模原の旧陸軍病院、巣鴨拘置所などで再び戦犯者への慰問をはじめます。そこでデュランと出会い、後にモンテンルパ僧正と呼ばれる加賀尾に巡り合うこととなるのでした。
そのころ加賀尾は、モンテンルパの局面を打開するためには「歌によって日本人の心に訴えるしかない」と考えるようになり、死刑囚に対し、自分自身の手による詞曲作りを依頼します。
1952年(昭和27年)4月、サンフランシスコ講和条約が発効され占領時代が終わりました。戦犯者にとっても一気に期待感が膨らむ同年9月、応えるかのように「モンテンルパの歌」は完成し、はま子の歌声で吹き込まれたレコードは20万枚を超える大ヒットとなりました。「あゝモンテンルパの夜は更けて」と名付けられたこの歌は、国民的人気番組のNHK紅白対抗歌合戦で歌われました。一方、辻が書いた「モンテンルパ比島幽囚の記録」も、日本国内の人びとに、戦犯者に対する考え方を大きく変える役割を果たしました。更にモンテンルパをテーマにした映画が二本封切られました。
◆ 対話を通して助命に 尽力した画家 加納 辰夫
加納は、島根県出身の日本人画家です。1949年(昭和24年)から4年余りにわたり200通を超える嘆願書や書簡をキリノ大統領や関係者に送り続けました。加納の嘆願は、「目には目を」という復讐から平和は生まれないとの考えに基づいたものです。また、赦免を受けることにより、日本がモラルを向上させ、世界平和に貢献していく契機になればと考えたのです。
◆ 特赦を実行した フィリピン キリノ大統領
日本国内が大きく動く1952年(昭和27年)の前年に悲しいことが起こりました。キリノ大統領の署名により、14人が死刑執行されたのでした。その2か月後、加賀尾の書いたローマ法王への「死刑囚の嘆願書」が法王の心を動かし、敬虔なクリスチャンであるキリノ大統領に伝わります。大統領は、「日本人の処刑については考慮を払います」という手紙を法王に送られたそうです。
それから約2年経ち、1953年(昭和28年)加賀尾は、キリノ大統領と会見します。持参したオルゴール入りのアルバムを開けると音楽が流れました。3回繰り返し聞いた大統領が「非常に哀調に富んだ音楽ですが、なんという音楽ですか」と尋ねられました。
加賀尾は「これは『モンテンルパの夜は更けて』という音楽で死刑囚が作詞、作曲したものです。家族も待っております。本人たちも帰りたがっています。どうかよろしくお願いします」と答えました。この時、キリノ大統領の心の中で雪が溶けるように大きな変化が起こりました。思いがけない大統領の告白。「日本軍によって身柄を拘束され毎日拷問を受けた日々。しかもその間に、最愛の妻と娘が殺されてしまっていた」。深い怨みは、フィリピン国民全体のものであると同時に大統領個人のものであったことを加賀尾は知りました。
その後、大統領は決断し7月の独立記念日を機会に特赦式が行われ、全員が帰国の途に就きました。うち56人は終身刑に減刑され、いったん巣鴨に拘置されますが、半年後大統領は、巣鴨に収容中のフィリピン関係の戦犯全員の釈放を公式発表し、ここにすべての人間が晴れて自由の身になったのです。
賠償協定が締結され講和条約の批准を得て、両国の国交正常化が実現されるのは、戦犯釈放から3年を経た1956年(昭和31年)のことでした。いわば正式な国交なき中で、戦犯全員に対する大統領恩赦令が発せられたのでした。
平和な日本で生活している私たち、忙しさにかまけていつのまにか戦争を忘却の彼方に追いやってはいないでしょうか・・・。
参考文献
「モンテンルパ 比島幽囚の記録」(辻豊著/朝日新聞社)、「モンテンルパの夜明け」(新井恵美子著/光人社NF文庫)、「歴史と地理」(林博史著/山川出版社)、NHKアーカイブス あの人に会いたい、「フィリピンBC級戦犯裁判」(永井均著/講談社)
モンテンルパ刑務所(無実の叫びより)
正に冤罪であった。このモンテンルパの刑務所で絞首刑第1号であった。バイ事件、それは日本兵達がこの町を通過したときに起こった。フィリピンゲリラ部隊に攻撃され、一人が捕虜となり、残り全員が虐殺されたのである。その復讐として、一般民を巻き込んだ殺戮が開始されたのである。戦後このバイ事件の真相を確かめるべき裁判が始まった。現地住民の曖昧な証言により秋田県出身の工藤忠四郎大尉が浮かび上がったのである。彼は全く無関係でバイと言う所へ行った事もなくこの時アラミノスにいたのであった。本人は元より何人もの部下が証言台に立ち、その真実を言ったが聞き入れられず、ついにこのモンテンルパ刑務所で絞首刑なった。立派な最後であった。彼の最後の言葉。深々と日本に向かって礼をし、「日本、フィリピンバンザイ」と叫んだ。その冷静沈着な態度はマニラ新聞にも取り上げられ、本当に彼はやったのかと疑問視まで記載されていた。その裁判記録が「無実の叫び」としてご家族が自費出版されている。風化してはならないと思い、
記録映像と投稿しました。
モンテンルパ処刑55年追善法要
2009/12/16 にアップロードかつての太平洋戦争の終戦後、モンテンルパで戦争犯罪人として約2万人の日本人が裁かれた。しかし明らかに無罪なのに、死刑を宣告され処刑された人たちがいた。モンテンルパ世界平和記念公園では、その55周年の慰霊祭を執り行った。読経は長島病院院長 長島洋先生。他多数の方々が出席し、無念の死を遂げる事となった先人の霊を弔った。
アキーラさん慰霊!フィリピン・モンテンルパの日本人墓地・刑務所1!
新東宝映画「モンテンルパの夜は更けて」 昭和27年
1952(昭和27)年■映画は「モンテンルパ」ばやり■太平洋戦争の戦犯収容所があったフィリピン・マニラ郊外の丘。渡辺はま子さんの歌「モンテンルパの夜は更けて」のヒットを受け、新東宝が「モンテンルパの夜は更けて」、松竹は「母は叫び泣く~ああモンテンルパの夜は更けて」を同時に封切り。
モンテンルパの夜は更けて→ http://bit.ly/1PjSE4X
原題: モンテンルパの夜は更けて
製作国: 日本
製作年: 1952
配給:
スタッフ
監督: 青柳信雄 アオヤギノブオ
製作: 瀧井孝二 タキイコウジ
青柳信雄 アオヤギノブオ
原作: 八住利雄 ヤスミトシオ
脚色: 八住利雄 ヤスミトシオ
撮影: 小原譲治 オバラジョウジ
音楽: 斎藤一郎 サイトウイチロウ
美術: 松山崇 マツヤマタカシ
録音: 片岡造
照明: 矢口明 ヤグチアキラ
キャスト(役名)
東野英治郎 トウノエイジロウ (河井幸三)
上原謙 ウエハラケン (河井道夫)
小笠原弘 オガサワラヒロシ (河井正一)
香川京子 カガワキョウコ (河井美津子)
北林谷栄 キタバヤシタニエ (河井房子)
土井口正志 ドイグチマサシ (河井武)
花井蘭子 ハナイランコ (植松君枝)
伊東隆 イトウタカシ (植松良一)
音羽久米子 オトワクメコ (木崎まさ)
左幸子 ヒダリサチコ (木崎春恵)
山内明 ヤマウチアキラ (井野圭介)
見明凡太朗 ミアケボンタロウ (教頭本橋)
解説
製作は瀧井孝二と青柳信雄の共同製作で、「トンチンカン捕物帳 -まぼろしの女-」の八住利雄がオリジナル・シナリオを書き、「水色のワルツ」の青柳信雄が監督に当っている。撮影は「母を恋う歌」の小原譲治。出演者の主なものは「美女と盗賊」の東野英治郎、北林谷栄、「稲妻(1952)」の香川京子、「泣虫記者」の上原謙のほか、花井蘭子、山内明その他の助演者たちである。
ストーリー
元陸軍少将河井幸三は、いまもって水師営の歌を愛唱する頑固一徹な老人であったが、比島に戦犯死刑囚として残されている次男正一の帰りを唯一の願いとしていた。正一は戦時中挺身隊で働いていたとき、美津子と知り合い、彼が学徒出陣で急に出征した後、美津子は彼の希望で、留守宅の河井家へ嫁し、それ以来帰る希望のない正一を待つ忠実な嫁として幸三に仕えて来たのだった。美津子は実家へ帰ると、妹春恵からは、彼女の立場がていのよい河井家の女中だといわれ、美津子自身も時には自分の生活に自信を失うことがあった。正一の兄道夫は、美津子の理解者であり、同情者であって、彼の支持で美津子は英会話の夜学に通い、そこで小学教員の井野圭介と親しくなった。圭介は美津子を愛するようになり、美津子も彼に好意を持ったが、その事をひどく幸三に詰られ実家に帰った美津子は、やがて、自分と同じく一人息子を守って夫の帰りを待つ君枝の姿を見て、待っているのは自分だけでないことを思い、心現れて、再び正一への慕情を新たにするのであった。
フィリピン・モンテンルパの日本人墓地慰霊訪問&ニュービリビッド刑務所!渡辺はま子!ああモンテンルパの夜は更けて 2014/12/26 に公開
日本人必見動画アップ!日本人が絶対訪れるべきところ!フィリピン・モンテンルパの日本人墓地!フィリピン・モンテンルパの日本人墓地&ニュービリビッド刑務所!渡辺はま子!ああモンテンルパの夜は更けて !
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