平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

蘆山寺陵 紫式部と宣孝の結婚後に住んだ寓居

2007年12月30日 | 陵 古墳 墓 遺跡

蘆山寺陵

蘆山寺は、京都御所の東隣にあり、紫式部が源氏物語を執筆したのがこの地であるとされています。
  ・紫式部の曾祖父堤中納言 藤原兼輔(877-933 百人一首 権中納言)の寓居跡
  ・紫式部が宣孝との結婚後に住んだところ
    これを機に源氏物語の執筆を始める
  ・この近辺には藤原道長の法成寺( 藤原道長(966~1027)が建立した寺で、
   晩年阿弥陀信仰に傾倒した道長は,法成寺内に九体阿弥陀堂の建立を発願,その後次々と堂舎が建てられた。
  ・康平元(1058)年悉く焼失したが,息子頼通(992~1074)は直ちに再建に着手,孫師実(1042~1101)に引き継がれた。
   紫式部は法成寺の敷地内に邸宅を構えていたものと思われます。 
  ・法成寺跡の石碑が 鴨沂高等学校の荒神口通りにあるはずなのですが、見つかりませんでした。 
  ・本堂前の「源氏の庭」は白砂を敷き、苔を配して、そこに紫式部にちなんで桔梗が植えられていています。
  ・938年に慈恵大師によって船岡山に創建されましたが、1571年に織田信長の焼き打ちをまぬがれ、現在地に移されました。
  ・また、皇室の帰依が厚く、皇室関係の陵墓も多くあり、盧山寺陵として祀られています。 
  ・本堂の尊牌殿は、光格天皇の勅命により、仙洞御所から移築されたものです。

盧山寺陵・紫式部邸宅跡で知られる盧山寺

 

 蘆山寺陵には慶光天皇及び祖父・東山天皇の皇子達が眠っています。慶光天皇は明治になって与えられた尊号で、江戸時代には閑院宮典仁親王といい、閑院宮第二代当主です。因みに父・直仁親王は初代当主であり東山天皇の第六皇子になります。

慶光天皇盧山寺陵

 

東山天皇後宮・藤原賀子                光格天皇・皇子 園鏡院

 

奥には御陵墓が数多く並んでいますが残念ながら中には入れません

103後土御門天皇(成仁1442-1500)
┗104後柏原天皇1464-1526 
 ┗105後奈良天皇1497-1557   
    ┗106正親町天皇1517-1593
       ┗誠仁親王(陽光太上天皇)
107後陽成天皇┛        櫛笥隆子(逢春門院)
 ┣聖興女王         ┣光子内親王
 ┣清子内親王        ┣良仁親王(111後西天皇)
 ┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680 
 ┣尊英女王   ┃┃┣興子内親王(109明正天皇)
 ┣近衛信尋   ┃┃┣昭子内親王
 ┃       ┃┃┃  ┣近衛基熙(左大臣)  ━┓
 ┃       ┃┃┃  ┣好君(伏見宮貞致親王妃)┃
 ┃       ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣)  ┃
 ┃       ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室) ┃
 ┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王      ┏━━━┛
 ┣一条昭良   ┃┃徳川和子(東福門院)  ┃
 ┣貞子内親王  ┃┣紹仁親王(110後光明天皇┃
 ┣庶愛親王   ┃┣守澄法親王      ┃        
 ┣尊蓮女王   ┃園光子(壬生院)    ┃幸子女王(承秋門院)
近衛前子(中和門院)┣常子内親王       ━┛┣秋子内親王 成子内親王1729-1771  
         ┣識仁親王(112霊元天皇)   ┃ 讃岐(伊藤一中娘) ┣-
    園国子(新広義門院)┣栄子  ┣朝仁親王(113東山天皇)┣典仁親王1733-1794┓慶光天皇  
             ┃ 松木宗子(敬法門院)┣直仁親王閑院初代1704-1753 ┃
           鷹司房子(新上西門院)     ┃    ┣治子女王1720-1747┃    
                          ┃   近衛脩子        ┃    
                          ┣慶仁親王(114中御門天皇)   ┃    
                          櫛笥賀子(新崇賢門院) ┃          ┃
                             ┣昭仁親王━┓     ┃
                           近衛尚子    ┃     ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛     ┃
┃姉小路定子(開明門院)       近衛維子(盛化門院)              ┃
┃      ┣遐仁親王(116桃園天皇)  ┣欣子内親王(光格天皇中宮)       ┃  
┗昭仁親王(115桜町天皇)     ┣英仁親王(118後桃園天皇)           ┃  
  ┣智子内親王(117後桜町天皇) 一条富子(恭礼門院)               ┃        
 二条舎子(青綺門院)                              ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃大中臣祐智女     鷹司吉子
 ┃ ┃         ┣致宮
 ┃ ┣美仁親王1757-1818 ┣愛仁親王1818-1842
 ┃ ┃ ┣-   ┣孝仁親王1792-1824
 ┃ ┃近衛因子随願院 欣子内親王1779-1846
 ┗典仁親王1733-1794   ┣温仁親王 鷹司繁子(新皇嘉門院)1798-1823 
  ┃         ┣悦仁親王   ┣安仁親王1820-1821              
  ┣兼仁親王(119光格天皇) 1771-1840┣慈悲心院宮        九条夙子(英照皇太后)      
大江磐代┣治宮1822┃┃  ┣恵仁親王(120仁孝天皇)        ┣122睦仁親王(明治天皇)養子  
(蓮上院)┃    ┃┃   ┣多祉宮1808┃┃ ┣鎔宮1825-1826 ┣順子内親王1850-1852
 富小路明子?-1828┃┃   勧修寺婧子 ┃┃ ┣統仁親王(121孝明天皇)1831-1866
         ┃┣俊宮1793-1794 ┃┃正親町雅子(新待賢門院)1803-1856┣寿万宮1859-1861
         ┃葉室頼子1773-1846┃┣摩尼珠院宮1829-1831     堀河紀子1837-1910
         ┣猗宮1815-1819  ┃鷹司祺子(新朔平門院)1811-1847
         高野正子1774-1846 ┣胤宮1844-1845 
                    橋本経子1826-1865 

 

 

源氏の庭

 平安朝の庭園の「感」を表現したものであり、白砂と苔の庭です。 源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のことであり、紫式部に因み、紫の桔梗が6月から8月末まで静かに花開きます。 紫式部が住んだ 「平安京東郊の中河の地」すなわち現在の廬山寺の境内にあったといわれる邸宅は紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅であり、この邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産んだといわれています。 また、「源氏物語」の花散里の屋敷もこのあたりであったろうといわれています。 花散里は明石・須磨へ都落ちする直前に、光源氏の心を安らげることの出来る女人でした。 橘の香りの懐かしいその住まいに源氏が訪ねていったのは心の憂いさに耐え兼ねてのことでした。 亡き桐壷院の女御のひとりだった麗景殿女御の妹であり、のちに源氏の子「夕霧」や後に出てくる「玉鬘」の養母となります。

 

源氏物語絵巻 三十八帖鈴虫

 

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法然院

2007年12月29日 | 鎌倉・室町時代

法然院

 京都・哲学の道の北の端にワンちゃんもはいれるおしゃれなカフェテラス・Terrazzaがあります。ここでスパ昼食をとった後に訪れたのは裏隣にある法然院です。

 

 平安後期から新たな仏教が発展して一世を風靡する。 それは宇治平等院鳳凰堂で代表される阿弥陀を信仰して極楽浄土へ往生することを目的とした浄土教であった。 日本の浄土教の先駆者は名僧・空也であるが、当時の要求に応えたのは源信であった。 しかし、最も効果のある念仏方法が観想念仏はだれにでもできることではなく、一部の貴族に限られたことであり、これに問題提起をしたのが法然上人である。 法然は浄土宗の開祖であり、阿弥陀信仰以外の方法は一切排除した。 源信は往生要集のなかで浄土にうまれかわるのは日ごろ善根を積み、その上で念仏を唱えよといっているが、法然は善根を積めとはいっておらず、専ら念仏することを説いた。 阿弥陀如来の絶対的な力を信じて往生を遂げようという他力本願なものである。法然は比叡山で仏教学を極めた学者であるが、その教えはわかりやすく、当時の関白九条兼実が帰依したこともあって 流行した。 しかし仏教界からの反発はおおきく、理論的に法然を批判したのが華厳宗の明恵であった。 つまり浄土宗は仏教なのか? ということであるが、 この疑問は法然の弟子の親鸞によってますます拡大されていった。 法然の弟子で悪行をしても念仏を唱えれば許されるとした者がでてきたことにより、その責任をとらされて念仏停止を言い渡され、僧籍も剥奪され俗人の身分で土佐に流される。 また主だった弟子も各地へ配流された。 親鸞も藤井善信と改名させられたうえで、越後に流された。

法然(1133-1212)

 15歳で出家して比叡山で修行を積んだ法然が専修念仏を確信したのは43歳である。 主著「選択本願念仏集」をあらわしたのは66歳で親鸞が弟子入りしたのが69歳、流罪となったのは75歳のときだった。 この時親鸞は35歳である。 親鸞が出家したのは1181年、9歳のときで「愚管抄」を著した慈円のところに入門した。 この頃女性を抱いてはいけないという戒律を守っている僧は少なく、この戒律に疑問をもっていた。 後に親鸞の妻となる恵信尼という女性との悩みで京の六角堂という寺に参籠した。 このとき夢告を受けた親鸞はすぐに比叡山を離れて法然の下に弟子入りした。 親鸞は僧でありながら初めて公式に妻帯したのである。 親鸞が越後に流罪になったときに恵信尼との間に信蓮という男子がうまれた。 親鸞にはその前に善鸞という子もおり、三男三女の子福者であった。 「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」 は親鸞の言葉として有名であるが、 これは親鸞の晩年の弟子である唯円が「歎異抄」に記載している言葉である。 この親鸞の教えはたちまち広まったと誤解されているが、実は室町時代には忘れ去られた存在であり、 戦国時代の本願寺に布教家である蓮如がでてきたが、彼が親鸞を深く広く知らしめたのである。

 鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。1206年(建永元)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。江戸時代初期の1680年(延宝8)、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。  

 

白砂壇:山門を入ると、両側に白い盛り砂がある。水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味している。

 

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怨霊と鎮魂の能

2007年12月26日 | 鎌倉・室町時代

怨霊と鎮魂の能

 能は狂言とともに南北朝時代から演じ継がれた怨霊と鎮魂をテーマにしたものである。ほとんどの主人公は亡霊であり古跡・古戦場といった場所が舞台になる。能を大成したのは世阿弥1363-1443年であるが、創始した父・観阿弥と出資した足利義満の功績は大きい。将軍義満と最も下級の役者・観阿弥の出会いは京都の新熊野神社であるという。1374年当時17歳の将軍義満はこの地で初めて世阿弥の舞を見た。 絶世の美男子・世阿弥は能面を外して「翁」という演目を舞ったが、以来魅了された義満は関白・二条良基を世阿弥につけて教育し、「藤若」という名も授けている。

将軍義満と役者・観阿弥が出会った京都の新熊野神社(撮影:クロウ)

  

 世阿弥は、60歳になって修羅(恨み、妬み、業)について深く考えたといいます。能の優雅さ・幽玄を追求した彼が、何故その境地に立ったのか・・。修羅と鬼は表裏一体だそうです。安達が原の鬼婆は自分の娘・恋衣を食ろうたがために、業により鬼と化しました。能の演目で有名です。 世阿弥は室町時代初期の猿楽役者であり、作者。 父・観阿弥とともに猿楽(現在の能)を大成し、観世流として現代に受け継がれている。 幼名は鬼夜叉、そして二条良基(南北朝時代の公卿、足利尊氏・義満に深く接し4度にわたって摂政・関白の座に就く)から藤若の名を賜る。 世阿弥は、40代以降に名乗った芸名である世阿弥陀仏が略されて世阿弥となったものである。  観阿弥31歳のとき生まれ、母は播磨国揖保庄の永富左衛門六郎の娘とか・・・不詳。 観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。 観阿弥が今熊野で催した猿楽能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまり、庇護されるようになった。 1384年に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐことになる。

  当時の貴族・武家社会には、幽玄(微かに暗い、という仏教概念が美しく柔和な優雅さという実践的な概念に変化) を尊ぶ気風がありました。 世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。 世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。  義満の死後、将軍が足利義持(田楽の増阿弥の冷えに冷えた芸を愛好した)の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。『風姿花伝』『至花道』(必ず散るからこそ咲いているときが見事である花を喩えた花のある芸を記載した) が著されたのもこのころである。 義持は猿楽よりも田楽好みであったため、次第に恩恵を受けられなくなり、足利義教の代になると弾圧が加えられるようになります。 1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。この時に「初心忘るべからず」「命には終わりあり、能には果てあるべからず」「ただ美しく柔和なる体、これ幽玄の本体なり」の言葉を残しています。  しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用するようになり、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていきます。 義教は兄弟の義嗣と仲が悪く、義嗣に気に入られていた世阿弥を嫌い、また能役者も世阿弥よりも音阿見を好んでいたので、世阿弥に露骨な迫害を加え始めていくのです。

 66歳、世阿弥親子は突然御所への出入りを禁じられ、翌年には元雅が猿楽主催権を奪われ、義教はそれを音阿弥に与えます。 未来に希望を失った次男は猿楽師を辞めて出家します。 1432年(69歳)、元雅は都での仕事がなくなり地方巡業先(伊勢)にて32歳の若さで病没します。 元雅の遺児はまだ幼児で観世家を継げず、観世座は崩壊したのです。 しかも義教は世阿弥に後継者がいなくなったことを理由に、音阿弥に観世4世家元を継がせることを強要してきました。 世阿弥は大和で大活躍していた娘婿の金春禅竹(28歳)に4世を譲るつもりでこれに抵抗したところ、将軍に謀反した重罪人として逮捕され、実に71歳という高齢で佐渡に流されてしまいます。1436年には『金島書』を著す。  1441年、暴政を行なった義教が守護大名の反乱で暗殺されると、一休和尚の尽力で78歳になっていた世阿弥の配流も解かれ、娘夫婦の元に身を寄せ80歳で亡くなりました。 

 豊臣秀吉は大の能ファンであり役者を養い、徳川幕府は能を幕府の公式式楽とした。(撮影:クロウ)

彦根城の能楽堂

 

亡霊からの憑依を防ぐ能面

 

厳島神社の国内でも唯一の海に浮かぶ能舞台

姫路城で行われる薪能

 

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禮子内親王墓 源頼朝の孫・実朝とも親密な関わりがあった内親王

2007年12月25日 | 陵 古墳 墓 遺跡

禮子内親王墓

鎌倉幕府、北条政権と来れば後鳥羽上皇の皇女・禮子内親王の墓を訪れなければなりません。
 ・源頼朝の孫・実朝とも親密な関わりがあった内親王であります。  
 ・頼家が伊豆に幽閉された後将軍は実朝により引き継がれた(1203年)が、
   実朝の妻には公家・坊門信清の娘・西八条禅尼が選ばれた。 これにより実朝は京の文化に強い親しみを持つことになる。 
 ・百人一首の第97番「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱でかなしも」は鎌倉右大臣・実朝が詠んだものである。 
   これは新勅撰集にあるが、実朝は個人歌集である金槐(鎌倉大臣の意味)和歌集を作った。 
 ・妻・西八条禅尼とは姉妹にあたる坊門局は後鳥羽の宮廷に入ったが、仁和寺の御室である長仁親王や禮子内親王をもうけており、
   実朝は益々後鳥羽天皇と親密になり、和歌にのめりこんでいくのである。 
 ・こうして鎌倉三代将軍が武芸に励まず、歌人となっていたのでは、東国御家人は黙っていない。
   憎悪といっていいほどの感情を御家人は抱くようになる。 
   1205年、後鳥羽上皇から新古今和歌集が実朝に贈られたことにより、鎌倉武士の怒りは頂点に達する。   
 ・賀茂斎院は、有智子内親王から始まり、鎌倉時代初頭の、後鳥羽天皇皇女 ・禮子内親王まで約4百年、34代にわたって続き
   後鳥羽院と鎌倉幕府との政変、承久の変で途絶えてしまいます。
   以後、葵祭へは勅使は出るものの、斎王が復活することはありませんでした。

 

┏源頼朝1147-1199(乳母比企の局)   
┣義賢   ┃    ┣比企能員 
┃     ┃    ┣丹後局   
┣範頼   ┃    ┗長女   
┗妹坊門姫 ┃      ┣
  ┣    ┃九条兼実┓ 藤九郎盛長
 一条能保 ┃  中宮任子1173-1238      
      ┃   ┣昇子内親王1195-1211     
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239      
      ┃ ┃ ┣83土御門天皇1196-1231    
      ┃ ┃源在子     
      ┣ 大姫1178-1197       
      ┣ 頼家1182-1204(乳母は比企一族 北条氏により暗殺)       
      ┃  ┣ 一幡(藤原氏に敗れる)    
      ┃  ┣ 公暁(乳母は三浦一族)     
      ┃  ┃   (三浦義村は実朝・義時暗殺を計画)   
      ┃ 比企能員(よしかず)娘・若狭局     
      ┃藤原棟子       藤原立子1192-1247
      ┃ ┣86後堀河 藤原重子 ┣85仲恭天皇1218-1234(懐成親王)  
      ┃守貞親王(後高倉院)┣84順徳天皇1197-1242  
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239    
      ┃    ┣道助入道親王1196-1249仁和寺御室 
      ┃    ┣禮子内親王(嘉陽門院)1200-1273 
      ┃坊門信清┣頼仁親王1201-1264 承久の乱後備前へ配流    
      ┃ ┣坊門局    
      ┃ ┗西八条禅尼    
      ┃   ┣    
      ┣ 実朝1192-1219(乳母は北条・阿波局三浦氏に暗殺される)      
      ┣ 三幡(乙姫)1186-1199後鳥羽天皇入内を図るが暗殺の疑       
北条政子1157-1225尼御台

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足利将軍の廟所・等持院

2007年12月25日 | 陵 古墳 墓 遺跡

足利将軍の廟所 等持院

 これまで足利一族について書いてきましたので、足利氏縁の等持院へ是非いかなくてはと思い立ち、早速行ってきました。 京都の龍安寺のすぐ南、立命館大学の南隣にあるごく小さなお寺ではありますが立派な方丈庭園には足利尊氏の墓、室町幕府の将軍の木像が納められた霊光殿など興味溢れる刹寺です。  等持院は足利尊氏が等持寺の別院としてこの地に創建したもので、疎石を開山に迎えたことに始まり、五山の下に列する十刹寺院の筆頭に位置する。 尊氏の死後、菩提寺であった等持寺と併合して、尊氏の法号をもって等持院とし、以後歴代足利将軍の廟所となった。 因みに、十刹寺院として、この東側に相国寺山外塔頭の真如寺が在ります。この相国寺が義満により出来るまでは幕府の重要な行事を果たしていたのが、この等持院です。

 

方丈庭園

 水が主役の庭園にとって変わり砂、苔が水の替わりに其れを現し、枯れ山水が生まれたのであるが、神聖な庭の意識を持つ一般には知る所ではなかったが、方丈庭園は必ずと言っても過言ではなく手前には何も無い空間を造っている。此れが幾多の歴史の中から生まれた知恵と云うか、戦火、火災、地震の時には本尊や寺宝を大方消失してきたが、一時的にこの空間がそれらの避難場所になっていたのであろうと想う。 現在の方丈(本堂兼)は福島正則が妙心寺塔頭海福院から移築させた建築物で広縁には鴬張りを施してある。

 

霊光殿に安置された足利将軍木像               徳川家康木像

 

初代足利将軍尊氏             二代足利将軍義詮   

 

三代足利将軍義満             四代足利将軍義持

 

六代足利将軍尊氏             七代足利将軍義勝

 

八代足利将軍義政             七代足利将軍義勝

十二代足利将軍義澄             十三代足利将軍義晴

 

十四代足利将軍義輝             十五代足利将軍義昭

 

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応仁の乱

2007年12月23日 | 鎌倉・室町時代

応仁の乱

 応仁の乱の口火を切ったのが西側・山名持豊(出家して宗全)と東側・細川勝元である。西軍には山名教之、斯波義廉、畠山義就、大内政弘が加わり、東軍には細川成之、畠山政長、赤松政則、山名是豊が加わった。 当初優勢であった山名宗全は畠山政長を破り幕府の主導権を握り勝元派の管領・守護の要職から排除を行ったが、山名宗全の油断につけこんだ勝元は山名宗全の領土・播磨を赤松政則を使って奪回させ、斯波義廉の領国越前・尾張には斯波義敏の軍勢に攻めさせた。そして最後に京の山名宗全を一気に攻め幕府を占領して将軍を手中に入れた。山名宗全勢は堀河西に退き陣を固めたことから山名宗全側を西軍というようになったが、西軍の巻き返しがあり東西全力を挙げての戦いは京の都を壊滅状態にした。 細川勝元は朝廷に対して山名宗全の追討宣旨を求めた。山名宗全を賊軍にするためにである。しかし義政の妻・日野富子は反対する。細川勝元が実子の義尚の敵である義視の後見人であったからである。結局幕府、朝廷ともに乱に対して中立の立場をとる。後花園上皇は初めから乱は大名同士の私闘と決め込んでいたが後に責任をとって出家した。東軍有利のまま混乱は激しさを増したころ、西軍大内政弘という大大名の存在は伊予の河野水軍道春を見方に引き入れ一気に西軍に加勢したことから西軍は京を奪回し、義尚に不満を持つ義視を迎え入れようとした。 義視は細川勝元が後見人であるから義視を迎えようという山名宗全の考えは日野富子への裏切りであり対立覚悟の施策であるともいえる。 このような全てにおいてルール違反がまかりとおる世の中になると、名もない武士にとっては格好のチャンスとなる。いわゆる下克上であるが、その代表的な武士が越前の国人・朝倉敏景である。それまでは斯波氏の代官にすぎなかった者が戦国大名(室町幕府から正式には守護職に任免されていないが実質上領土を支配した大名)になった。 東軍の細川勝元は越前守護を餌に東軍寝返りを持ちかけ、将軍義政も認めた上で孝景から敏景に名を変えて東軍斯波義敏を越える国主となったのである(越前一乗谷に遺跡がある)。美濃の守護代・斉藤道三、北条早雲、毛利元就なども戦国大名である。

 1467年に始まった応仁の乱は10年に及んで続くが、1473年に西軍の総大将山名宗全が病死した。西軍敗北を恐れていた山名一族は一気に和平への動きを示すが、これに抵抗したのが領地を持たない畠山義就であった。しかし再び和平路線が細川勝元の死によって復活し山名の当主・政豊が東軍側と接触し九代将軍義尚に休戦を告げた。 この時足利義政は完全に政治を9歳の義尚に預けて逃げ出していた。幕府は山名政豊の降伏を認め西軍から離脱したのである。1477年には畠山義就も京を退去し、条件通り大内政弘の援護の下に河内へ攻め込み、見届けた大内政弘も西国を安堵してもらい退去し、応仁の乱は終結したのである。

上杉清子  
┣足利直義1306-1352    ⇔  新田義貞1301-1338  
足利尊氏1305-1358    ⇔  後醍醐天皇1288-1339
  ┃┣義詮1330-1367                     ┃┃
      ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                       ┃┃関東管領上杉氏 ↑
      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷  ┃┃
       享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425              ┃┃     ↑  ↓
 
┃┃┃┃栄子 武者小路隆光         ┃┃三宝院満斎↓
┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃   ┣━━━━ 娘         ┃┃関東公方足利持氏   
 
┃┃┃┃   ┗円満院  ┣細川澄之     ┃┃   
 
┃┃┃┃    ┣潤童子 九条政基      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃  大内義興娘      ┃┃   
 
┃┃┃┃    ┃斯波氏┣義栄ヨシヒテ1538-1568┃┃(三好氏で養育)   
 ┃┃┃┃    ┃┣義維1509-1573      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃日野永俊娘          ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┣義晴1511-1550      ┃┃   
 
┃┃┃┃    ┃┃┃┣義輝1536-1565    ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)   
 
┃┃┃┃    ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃  (三好三人衆:義栄派)  
 
┃┃┃┃    ┃┃┃近衛娘          ┃┃  伊勢貞親1417-1473 
 
┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸   ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏   
 
┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方  ┃┃
 ┗北川殿  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐  ┃┃  ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃
  今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃
   
 
┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443        ┃┃満元┓
   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442
     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児         ┃┃ ┗細川勝元1430-1473 
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459      ┃┃   ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 
┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489       ┃┃   ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496    ┃┃
 ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃
 ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人         ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護
   
 
┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)   ┃┃   
 
┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元  ┃┃満家(山城守護)┓   
 
┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院       ┃┃管領畠山持国1398-1455
   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局          ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護
   
 
┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413         ┃┃
 ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 
┃┃┃┃春日局                ┃┃
           ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418                 ┃┃
   
 
┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)              ┃┃  
 ┃┃┃┃┃ 日野康子   ┏━━━━━━━━━┛┃ 

 
┃┃┃┃┃ ┣-      ┃┏━━━━━━━━━┛
 
 ┃┃┣義満1358-1408   ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)
  
 ┃┃┃   ┣女子    ┃┃

 ┃┃┣満詮 日野業子   ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368
  
 ┃┃紀良子        ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394     
           
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃     
           
 ┃┣基氏1340-1367    ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424     
           
 ┃赤橋登子        ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
 ┣直冬1327-1400      ┃阿野廉子1301-1359             
 越前局           ┣護良親王1308-1335 
                    ┣懐良親王1329-1383 
            源師親娘

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足利義満死亡後

2007年12月21日 | 鎌倉・室町時代

足利義満死亡後

 足利義満が頂点の地位に就き、天皇にとって代わろうとした時、あっけなく亡くなったが、この時奇妙なことが起きた。というのは朝廷側が義満に「上皇」を追贈しようというのである。先例から言っても異例の出来事に幕府側の4代将軍義持と斯波義将は断った。清和源氏の斯波氏ら有力守護は、同じ清和源氏である足利氏が他氏を超越する地位に就くことを嫌ったからである。それにしても義満が尊号宣下をうける理由として考えられることは、その資格であるが、義満が後小松天皇の父であった、ということである。後小松の妃・三条厳子と義満はかつて密通しており後小松がそのときの子であるということである。 後小松天皇の皇子・称光天皇には子がなく28歳の若さで亡くなった。そのとき遠縁の伏見宮彦仁親王を即位させて後花園天皇とした。称光天皇には異母兄・宗純親王がいたにもかかわらずである。義満は宮中を我が物顔で歩き回っていたから、この宗純親王も義満の子であるとすれば、それを次期天皇に担ぎ上げるのに躊躇った朝廷は遠縁から選んだ可能性がある。 実はこの宗純親王こそ出家して一休と名乗ったあの一休さんである。

 義満の死後、義持が将軍職を受け継ぎ、長老の管領斯波義将が右腕となって補佐するが、このあたりから足利氏と有力大名との抗争の次代へと突入するのである。管領は細川、斯波、畠山氏が、職という侍所の長官には山名、京極、一色、赤松、土岐氏が選ばれた。要塞鎌倉には義詮、基氏が派遣され関東公方と呼ばれ鎌倉将軍が生まれたのであるが、これを補佐したのが関東管領と呼ばれる上杉家である。 奥州、九州などの僻地には探題が置かれ大きな統治権を与えた。このように支配権を分散させたことが戦国の世に繋がっていったのはいうまでもない。京では義持が息子の義量に家督を譲ったが1425年に19歳で亡くなると、次の後継人になったのが義教で、醍醐寺の座主であり義満の猶子でもあった三宝院満済によるくじ引きで決まった。候補者は青蓮院の義円、大覚寺の義昭、相国寺の永隆、梶井門跡の義承の4人であったが決まったのは35歳の義円であり、還俗して義教となのった。 義教は将軍に真の力がなく、諸大名の力が大きいために発生した乱世を収束させようと権力の集中を狙った。かつて義満が創始した奉公衆を強化し、関東公方の足利持氏の討伐計画を計ったがこれは失敗するも、今川了俊が事実上の王となっていた九州の統一を図り、1434年比叡山延暦寺の武力制圧を行った。そしてかつて失敗に終わった関東公方の征伐を1439年再開すると、追い詰められた持氏は側近、嫡子・義久とともに鎌倉の永安寺で自害をとげた。これにより義教にとっての敵は一掃されたのであるが、酒宴に浸っていた1441年、赤松満祐の暗殺計画にはまった。

 足利6第将軍義教の後継者には、管領細川持之以下有力守護大名により嫡男・義勝が選ばれ、赤松満祐の追討が決まり、後花園天皇より追討の綸旨がでた。満祐は播磨・備前・美作の兵により体制を整えたが、但馬守護の山名持豊を総司令官とする幕府軍にはかなわず播磨坂本城から木山城に後退し1441年落城する。 将軍義教が暗殺された3ヵ月後のことである。ところでこの時徳政(借金を全て無かったことにするというもの)を求める人々が京の都を占領し主要な神社仏閣を焼き払うと言う風に脅迫する徳政一揆が起こった。山名持豊などの有力守護大名の軍勢が赤松満祐討伐に向かった留守を狙ったのである。徳政一揆の鎮圧に動いたのは将軍代行の管領細川持之であるが、逆に武力鎮圧に反対してのが畠山持国である。

                      ┏北畠顕信-1338            
                      ┗北畠顕家1318-1338            
                      ┏楠木正季-1336             
                      ┗楠木正成-1336 
                                      ┣正行-1348
                         赤松円心1277-1350    ┗女(伊賀観世家に嫁ぐ)
            ┏足利直義1306-1352 ⇔ 新田義貞1301-1338┣観阿弥  
                   ┃上杉重能 畠山直宗(直義執権)   上島元就┗世阿弥
                   ┃ ┗能憲                  ┣観世元雅
                   ┃  ↑                   ┗音阿弥
                   ┃  ↓
                   ┃ 佐々木導誉 
                      ┃ 赤松則祐
┏北条泰家-1335    ┃┏高師直  
┗北条高時1303-1333  ┃┗高師泰         【大覚寺統】     
  ┗北条時行-1353 ⇔ ┣足利尊氏1305-1358  ⇔  後醍醐天皇1288-1339
         上杉清子┃┣義詮1330-1367                   ┃┃      
           
             ┃┃┃藤原慶子                     ┃┃      
           
             ┃┃┃┣義持1386-1428 斯波義将       ┃┃      
           
             ┃┃┃┃ ┗義量1407-1425             ┃┃      
           
             ┃┃┃┣義教1394-1441 ⇔ 赤松満祐    ┃┃      
           
             ┃┃┃┃ ┣-  ┣義勝1434-1443       ┃┃      
           
             ┃┃┃┃日野宗子┣義政1436-1490       ┃┃      
           
 
            ┃┃┃┃    ┣義視1439-1491       ┃┃                 
 
            ┃┃┃┃春日局 日野重子1411-1463⇔今参局┃┃      
           
             ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418               ┃┃      
           
 
            ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)            ┃┃                 
             ┃┃┃┃┃ 日野康子  ┏━━━━━━━━┛┃

 
 
           ┃┃┃┃┃ ┣-     ┃┏━━━━━━━━┛
 
             ┃┃┣義満1358-1408  ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)      
           
             ┃┃┃   ┣女子   ┃┃      
           
             ┃┃┣満詮 日野業子  ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368      
           
             ┃┃紀良子       ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394     
           
             ┃┃藤原仲子(崇賢門院)┃┃┃     
           
┏西園寺公宗1310-1335  ┃┣基氏1340-1367   ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424     
           
┗西園寺公重
       ┃赤橋登子       ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
             ┣直冬1327-1400     ┃阿野廉子1301-1359             
            越前局          ┣護良親王1308-1335            
                         ┣懐良親王1329-1383           
┏1光厳上皇1313-1364                         源師親娘      
┃ ┣3興仁親王(崇光天皇)1334-1398      
┃ ┣4弥仁親王(後光厳天皇)1338-1374    宮人 
┃ ┃        ┣後円融天皇1359-1393 ┣宗純王1394-1481 
┃ ┃藤原仲子(崇賢門院)1339-1427┣後小松天皇1377-1433
┃三条秀子       三条厳子1351-1406   ┣称光天皇1401-1428
┗2光明天皇 豊仁親王1321-1380              日野資子
                                     日野資国┛(日野業子の兄)  

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足利義満の狙い

2007年12月20日 | 鎌倉・室町時代

足利義満の狙い

 管領として幕府に君臨した細川頼之であったが、1378年大和土豪の反乱を鎮圧しようと斯波・赤松・佐々木の有力大名を差し向けるが、この時斯波義将は足利義満に頼之の排斥を訴える。義将を支持する大名の多さに義満は訴えを聞き入れ、頼之を追放(地位を奪われ四国へ敗走)する。1379年細川頼之にかわって斯波義将が管領になり、足利義満は「奉公衆」という近衛軍を作った。この奉公衆とは将軍固有が持つ軍団であり、これにより斯波義将に操られることなく自己の権力を強化したのである。1381年には京室町にあった室町第(花の御所)の落慶供養が行われた。貴族・武士の屋敷にあった名花・名木を移植させ義満の権力を誇示した。 この間に後円融天皇は息子・幹仁親王に皇位を譲り、6歳の後小松天皇が即位した時には義満は武家出身の征夷大将軍としては最高位の左大臣となっていた。左大臣以上の大臣を相国というが、彼が後に京の中央に建てた相国寺は義満の権力の象徴である。

北山鹿苑寺・金閣寺境内の茶所では金箔入り菓子と抹茶が楽しめます(撮影:クロウ) 現在金閣寺で親しまれるものは鹿苑寺の舎利殿であるが、当時は義満の大内裏(御所と中央官庁)であり規模が縮小されていった。義満は室町に花の御所と言われた邸宅を築いたが息子の義持に譲り、北山第を宮殿とした。
 

 南北朝統一を行うのはこの9年後であるが、まずは北朝の乗っ取りを試みた。その一つとして義満に反抗的な公家・西園寺実俊を圧迫し北山第の土地を奪った。後にこの土地に建てられた北山鹿苑寺が金閣寺である。源氏長者である久我家からは地位・名誉を取り上げている。また 後円融天皇の宮人・三条厳子(後小松天皇の母で後に通陽門院)と密通した。1383年に後円融は厳子に大怪我を負わせた事件は珪子内親王を産んで実家三条家から帰ってきたときのことである。前日に後光厳天皇の法事が行われたが義満を恐れた皇族・公家が誰も参加しなかったことに心不安定になっていたことも原因と思われる。実は義満、出世を望む皇族・公家等他人の美しい妻を所望して側室に容れることは有名であり、側室の加賀局(中山親賀妻)、誠子(弟・満詮の妻)、池尻殿(日野資康の妻)などは差し出されて妾となっている。そしていよいよ義満は後円融が1393年に亡くなると若い後小松天皇を無視して人事権を天皇家から奪取した。つまり南朝の後亀山に対して「上皇」の尊号を贈り、ひきかえに三種の神器を取り返したのである。また息子女を門跡寺院にいれ、僧侶に関する人事権も手中にする。門跡寺院として格式の高い青蓮院に入り天台座主になった義円は側室・藤原慶子との間に生まれ、後に6代将軍義教になっている。 こうして仏教界をも手中に収めた義満は1394年太政大臣となり、八瀬童子に輿をかつがせ叡山の講堂供養に出席(天皇だけが徴用)したのは翌年の1395年のことである。これで足利義満は実質上のほとんどの権力を得たことになるがそれを世に知らしめる行事として行われたのが1399年相国寺の落慶法要であった。 左大臣以上の大臣を意味する「相国」とは義満自身のことなのである。御所の北に位置する相国寺には当時最も高い109mの七重の塔「七重大塔」が建てられ、御所を見下ろす権力の象徴とした。いよいよ義満は北山第に後小松天皇を招いて義嗣を後継者とすべく天盃を賜った。そして元服のときにもこの方式が踏襲され、親王の格式に準拠し参議に任じられ1408年親王となった。ところが義満はこの数日後に発病してあっけなく死んだのである。

京都御所のすぐ北に位置する相国寺

豊臣秀頼の寄進 法堂は1605年建立  

 

1807年再建の方丈

 

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室町幕府の設立

2007年12月16日 | 鎌倉・室町時代

 室町幕府の設立

 室町幕府が設立されたのは1336年、建武式目という幕府の基本法が発布されたときである。この時楠木正成は湊川の戦いで戦死し、尊氏は京を奪回して後醍醐天皇を軟禁し神器をとりあげた。実はこの時幕府の将軍の御所は室町にあったわけではなく、三大将軍義満の時に室町御所ができたのである。 幕府は本来東国武士団の政権であり足利氏も東国であったが、幕府軍の中核が畿内の武士であったために京に幕府が置かれた。 建武式目は鎌倉幕府の全盛体制を理想とし、保守的なものであったため、足利直義の政治体制に激しい不満を示した人々がいた。婆沙羅大名がその中核で、高師直という足利家の執事、名門京極氏出身の佐々木導誉、土岐頼遠が代表される。 尊氏の弟で政権を握っていた直義はこれらの横暴に対して土岐頼遠を死罪にしたが、尊氏が寵愛する高師直は抑制できないでいた。天皇家、公家、寺社の訴えに対して直義は高一族を抹殺する決意をした。1349年直義は高師直を評定所に呼び出し暗殺を実行しようとしたが、これは失敗する。師直の弟・師泰はこれを聞いて大軍勢を率いて京に向かうと直義が脱げ込んだ御所を包囲した。要求は直義の執事・上杉重能、畠山直宗の引渡しである。この時尊氏が仲裁にはいり事件は一応解決するが、越前に流罪になった上杉重能、畠山直宗は契約違反により流罪先で殺害され、直義も出家に追い込まれた。義直の養子で 越前局を母に持ち尊氏を実父とする足利直冬も地位を追われて九州に逃亡していたが、勢力を中国へも広げていた。尊氏は高師泰軍団を送り込んだが手ごわく、自ら討とうとする。これに激怒したのは直冬を実子同様に寵愛していた直義である。当時壊滅状態であった南朝側の後村上天皇を見方にし南朝を完全復活させ、これを後ろ盾として反尊氏派・文治派を集めて、若い足利義詮を攻め、京を陥落する。弟・直義との直接対決を避けた尊氏は和議を申し立て高師直、師泰兄弟を出家させたが、その途中で暗殺されている。 今度は上杉重能の養子となっていた能憲の手にかかったのである。

 尊氏は近江の佐々木導誉、義詮は播磨の赤松則祐と連携して東西から直義を挟み撃ちにして討とうとしたが、察知した直義は京を脱出して北陸で兵を集めると鎌倉に向かった。尊氏はなんとしても武家政権発祥の鎌倉を陥落させるわけにはいかない。京を留守にするにあたって直義が復活させた南朝側に攻められるわけにもいかない。 そこで尊氏は南朝側に無条件降伏することによって支持を仰ぎ、後村上天皇から直義追討の宣旨を受けた後、鎌倉を攻め直義を降伏に追い込み毒殺するが、この時北畠親房の画策により北朝側の天皇・上皇・皇太子は息を吹き返した南朝側に捕われ、留守番をしていた義詮は京を逃げ出したことによって京は再び南朝側の支配下となった。1352年、北朝の光厳・光明・崇光上皇と直仁皇太子は捕虜として幽閉された。 ところが近江で勢力を立て直した義詮は佐々木・土岐氏の支援を得て再び京を攻め、後村上天皇・北畠親房は敗走し、短い南朝の時代は終わり二度と復権することはなかった。  

 義詮率いる幕府は朝廷政権の北朝を再建する必要があったが、北朝の光厳・光明・崇光上皇と直仁皇太子は捕虜として賀名生におり、三種の神器とともに奪回しようと試みるが抵抗は激しく、皇族の一人を無神器で天皇に祭り上げた。これが後光厳天皇である。皇位継承法的には無効になる処置である。このように天皇家の分裂、権威の失墜、幕府組織の統率力の欠如といった問題が後の戦国の世を生むことになる。尊氏は1353年にようやく京に戻り、中国地方は直冬が押さえ、九州地方は後醍醐天皇の皇子・懐良親王が勢力を保つなか、1358年に亡くなった。1367年には二代将軍足利義詮が亡くなると義満が三代将軍となったが当時11歳であり、四国一円の守護であった細川頼之を呼び寄せて管領とした。 管領とは藤原摂関時代における摂政のような役割で幼い義満を補佐した。 九州では懐良親王が君臨していたが、今川了俊なる守護大名を九州探題に任命して懐良親王から本拠地の大宰府奪回して筑後の高良山に追い落とした。次に延暦寺にかわって禅宗・特に臨済宗を保護し延暦寺の勢力を殺ごうとした。因みに尊氏は臨済宗僧・夢窓疏石の薦めで後醍醐天皇慰霊の目的で全国に安国寺を建て京には天龍寺を建てている。京五山の制度も禅宗勢力の育成の措置である。 これに反対する延暦寺・興福寺・東大寺などの勢力をなだめる策として、1368年応安の半済令を発した。これは天皇家・高級公家・寺社の持つ荘園に対しては年貢の兵糧米徴収を行ってはならないというもので、三者の権益を保護したものであるが逆にそれ以外からの徴収を奨励する形となる。 また南禅寺の桜門を建立する費用を捻出するために関銭徴収を始めたが、旧勢力の園城寺との対立を招いた。幕府は事の収拾のために南禅寺桜門を破壊して旧仏教派の勝利となる。禅宗派は頼之に対する協力を拒否し、両者は冷戦状態となるが、足利義満が成人するまで続くのである。

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後醍醐天皇新政崩壊

2007年12月15日 | 鎌倉・室町時代

後醍醐天皇新政崩壊

 後醍醐天皇の新政崩壊の前兆は北条時行の反乱に始まる。北条氏が代々守護として統治していた国で北条氏譜代の家臣が多く、諏訪神社の神官でもある諏訪氏は密かに高時の遺児である時行を匿っていたのである。また、公家の中ではかつて最も幕府とつながりを持っていた西園寺の当主・公宗がこの反乱の首謀者であった。 公宗は高時の弟・泰家を匿い、全国の北条残党を一斉発起させる予定であった。 ところが公宗の反乱は弟・公重の密告により失敗するが、1335年時行は鎌倉奪回を目指して兵を挙げた。 そして時行は尊氏の弟・直義を破って朝廷軍を追撃し鎌倉攻略に成功する。 この時直義は兄・尊氏から預かっていた護良親王を暗殺している。都では鎌倉陥落により北条の残党が集結する報がもたらされた。 足利尊氏は征夷大将軍として弟・直義の取り戻すべく軍を率いる許可を後醍醐天皇に求めたが、後醍醐天皇は拒否した。阿野廉子との間にもうけた三河の成良親王を征夷大将軍にすると、足利尊氏は無許可で鎌倉に向かった。後醍醐天皇に不満を持つ武士が尊氏を支援するとは限らない。北条時行への支持武士が多ければ尊氏の前には破滅が待っていることになるが、尊氏は勝利し、後醍醐天皇は折れた。

 敗走してきた義詮と三河で合流した尊氏は遠近橋本の戦いで北条時行を撃破し鎌倉を陥落させたのである。 一方京では反乱の首謀者である西園寺公宗は北条泰家とともに死罪に処せられた。この時後醍醐天皇は尊氏に京へ戻るように命令するが、弟の義詮はそれを制し結果的には鎌倉に居を定め、配下の武士に恩賞を与えることによって実質的には幕府を復活したのである。 そして足利尊氏・直義兄弟は新田義貞を討つために兵を募った。新田義貞は後醍醐天皇側の武士であり後醍醐天皇より尊氏尊氏追討の命を受けたのは1335年11月であった。この時尊氏は天皇に逆らうことはできないと参戦しなかったため、新田義貞は足利直義を破る。 直義の敗戦を聞いた尊氏は鎌倉の建長寺に入って出家しようと考えたが、直義の画策により再び発起し、新田義貞を敗走させた。 これを機に中立派の武士が続々と尊氏の新政権に加担を表明したのである。その代表が赤松円心という流通業で富を得た播磨の武士である。1335年十二月には鎌倉から京へ攻め上がり1336年1月11日には京へ突入すると、後醍醐天皇は京を捨て比叡山に避難する。しかし今度は京の市中の合戦で尊氏は新田義貞に惨敗した。楠木正成の謀略が加勢したらしい。また公家でありながら武士以上の軍事力を持つ奥州の北畠顕家が後醍醐天皇の危機を救うべく上洛してきたのである。 尊氏は敗れて丹波から播磨を経由し、ここで播磨(現在の上郡町)の武士・赤松円心を寝返らせると九州で兵を募るという知恵も授かった。 そして南北朝時代に突入する決定的な作戦をも授かった。 それは持明院統の光厳上皇から京回復の院宣を貰うというものである。かくして後醍醐天皇の大覚寺統と光厳上皇の持明寺統の争いが本格的に始まる。

 足利尊氏が九州で兵を募っている間、赤松円心は播磨白旗城で新田義貞軍と奮闘し、尊氏は十数万の軍を率いて京に攻め上がった。しかも伊予の河野水軍をも見方につけて瀬戸内海を進撃してきた。後醍醐天皇は楠木正成に尊氏追討を命じると弟・正季とともに兵庫・湊川の合戦が始まった。主力の新田義貞は脆くも崩れ、楠木正成軍は僅か73騎になり力尽き、兄弟で刺し違えた。孤立した後醍醐天皇が比叡山に篭っている間、尊氏は1336年五月、京の石清水八幡宮に本陣を構え、光厳上皇と豊仁親王と合流した。そして光厳上皇に豊仁親王の天皇即位を要請する。 北朝第二代光明天皇の誕生である。足利尊氏は強大な軍事力で後醍醐天皇を追い詰め、三種の神器を光明天皇に渡し、正式に譲位するかわりに後醍醐天皇の皇子が、光明の皇太子になるという和議を持ちかけ、後醍醐天皇は承諾したのである。息子の成良親王を皇太子とすると京を脱出して吉野に入った。そして「光明に渡した三種の神器は偽物であり朕こそ真の天皇である。朕に忠誠を誓う者は逆賊尊氏を討て」と言った。この日から南北朝が統一される1392年までの56年間に渡り皇室は分裂することになる。この直後1338年、後醍醐天皇は北畠顕家、新田義貞という両腕を亡くし、翌1339年に義良親王を皇太子とすると亡くなった

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後醍醐天皇の討幕

2007年12月14日 | 鎌倉・室町時代

後醍醐天皇の討幕計画

 後醍醐天皇の討幕は2回行われた。 その一回目は1324年の正中の変は後醍醐天皇の無礼講メンバー多治見国長、土岐頼兼、日野資朝、日野俊基らによって実行された。 この行動の直接のきっかけは大覚寺統の後宇多法皇の死去である。 後宇多は後二条、 後醍醐天皇兄弟の父であり、大覚寺統では後醍醐天皇の次の天皇は後二条の子・邦良親王と決められていた。 本来なら兄の後二条が後を継ぐ予定であったが、早くに死んだために次男の後醍醐天皇がつなぎとして即位した。 ところが後宇多が死んでしまったから皇太子の邦良親王の立場は微妙なものとなる。 そこで、邦良親王は幕府を動かして後醍醐天皇を退位させ、一刻も早く天皇になろうと考えたのである。 鎌倉武士に強要され実権のない上皇になることに抵抗を覚えた後醍醐天皇は決行した。 幕府の京の拠点である六波羅探題を襲撃して北条範貞を殺害すると、奈良興福寺の僧侶に挙兵させ、機内の武士を呼びかけた。 一気に鎌倉に圧力をかけようというのである。 ところがこの計画が土岐頼兼の舅にあたる斉藤利行という六波羅の御家人の耳にはいり漏れたのである。 これにより先手を打った六波羅は多治見国長、土岐頼兼を滅ぼして、日野資朝、日野俊基を生け捕りにされ、 資朝は佐渡に流罪、俊基は放免という寛大な処置であった。 後醍醐天皇はこれに懲りずに六波羅の要人・伊賀兼光を寝返らせ、楠木正成、足利尊氏、新田義貞といった有力御家人を味方につけていく。 楠木正成は河内の出身であるが、その家系、身分は不明である。 ただ楠木正成が幼少の頃朱子学を学んだという河内の観心寺は後醍醐天皇の属する大覚寺統の寺であり、後醍醐天皇の側近・万里小路藤房を通して繋がったらしい。

 二回目の討幕計画・元弘の変は1331年起こった。 しかしまたもや側近の吉田定房によって鎌倉にしらされ計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流された。 しかし後醍醐天皇は笠置山に脱出すると、ここで挙兵し、楠木正成は本拠地で呼応した。 このとき幕府は本格的に笠置山を攻めて落城させている。 この時の幕府側の大将が足利尊氏である。 後醍醐天皇は捕獲され京に連行されると、二条為子との間にできた尊良親王は京で捉えられ、護良親王は吉野にはいった。 護良親王はもともと延暦寺の僧・尊雲法親王として押し込められていたが、還俗して護良親王と改名していた。 このとき楠木正成は河内の赤坂で孤立状態で奮闘していたが、とうとう夜陰に乗じて逃げてしまった。 百倍もの敵を相手にまんまと逃げおおせたというのは勝利に等しい。 後醍醐天皇は隠岐へ流罪、宗良親王は讃岐、尊良親王は土佐に流され、持明寺統の量仁親王(後伏見天皇と西園寺寧子との間の親王)が即位して光厳天皇となった。 このとき護良親王と楠木正成は俄かに体力を回復させていた。 幕府はこれをみて、再び大軍を動員して二人の征伐を決意する。 しかし楠木正成の奮闘中に、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、名和長年という豪族の支援を受けて船上山で挙兵し全国の武士に討幕の綸旨をばらまいた。楠木正成らの奮闘に全国の武士は勢いづくと、幕府は再び足利尊氏を投入する。 ところがここで足利尊氏は後醍醐天皇の綸旨を受けて幕府討伐側に寝返ったのである。

 足利尊氏は諸国に呼びかけて軍勢を加え京に進撃し六波羅を陥落させた。 このとき幕府の本拠地である鎌倉を攻撃して陥落させたのは尊氏ではなく新田義貞である。 両者の家系は源氏の本流に遡る。 八幡太郎義家の子・義親の系統が源頼朝の本系統であるが、義国には兄・義重と弟・義康がいて、義重が新田を名乗り、義康が足利を名乗った。 尊氏が攻めた六波羅探題はあっけなく陥落し、探題の北条仲時は北朝の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇をつれて鎌倉へ逃げようとしたが、近江で完全に阻まれ、絶望した仲時は伊吹山の蓮華寺にはいり一族全員430人余りが自害した。 一方関東では新田義貞を大将軍とする軍勢は鎌倉を目指し、北条高時以下一門は菩提寺の東勝寺にはいり六波羅と同様に自刀した。 これにより150年続いた鎌倉幕府は1333年に滅亡したのである。

 後醍醐天皇が政権に復帰すると、光厳天皇を廃して建武の新政を始めた。つまり律令政の復活と天皇親政である。 後醍醐天皇は土地所有に対する習慣、既得権を白紙にもどした。また、知行国制を取りやめた。 これは特定の家系が国司の任免権を独占し世襲させる制度であり、多くの貴族が私物化していた土地を取り上げられることになる。また、関白職そのものも廃止し、征夷大将軍には尊氏ではなく、護良親王を任命した。 当然足利尊氏は激怒し、後醍醐天皇と対立する持明寺統の公家達は知行国を召し取られて対立していく。 そして後醍醐天皇の夢であった大内裏の建設を始めたのであるが、その費用は全国の地頭、御家人からの税金によりまかなおうとした。 これでは武士たちが不満を持つのは当然である。 そして新政の崩壊は旧幕府系の人々の反乱によって始まるのである。 北条高時の遺児・時行が反乱の首謀者である。 また後醍醐天皇に解任された大納言・西園寺公宗は各地の北条氏の残党を集めて、再び持明寺統を立てようと画策した。 この時、密告により公宗は逮捕され持明寺統の後伏見、花園、光厳上皇は幽閉されたが、北条時行の軍勢は諏訪の豪族・諏訪氏に庇護されながら1335年に兵を挙げた。 公宗を密告したのは弟の公重で、西園寺の家督を得たうえに知行国の返還という恩賞を後醍醐天皇から与えられている。 

   (持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                                    藤原立子(東一条院)    ┃
                         修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇      ┃
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181        ┣84順徳天皇         ┃
         ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239    平棟子      ┃     
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇┣宗尊親王   ┃ 
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇     ┃
       ┃ ┃  ┃ ┣87四条天皇    ┃源通子   ┃┣89後深草天皇
       ┃ ┃  ┃ 藤原竴子       ┃      ┃┣90亀山天皇━┓
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子  ┃
         ┃ ┃持明院基家┛                          ┃            ┃
         ┃藤原殖子(七条院)               ┣宗尊親王    ┃

          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)     平棟子       ┃
       徳子1155-1214(建礼門院)                       ┃

 ┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃                                不明 
 ┃     姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)         ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-             阿野廉子  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子 ┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) 藤原(徳大寺)忻子  ┣祥子内親王 ┣憲子内親王(新宣陽門院)(1343?-1391)
            ┃                ┃      ┣坊雲
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339     源顕子?-1359
     藤原忠子 ┣懽子内親王       ┃┃┣護良親王1308-1335         
     西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
         ┣西園寺禧子(礼成門院)   ┃┣尊良親王
         ┣左大臣公衡        ┃┣宗良親王  
         ┣太政大臣兼季       ┃二条為子
         ┣西園寺金章子   藤原実俊┣世良親王
         ┗西園寺瑛子       ┃┣静尊法親王
                      ┗遊義院一条局

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日蓮

2007年12月11日 | 鎌倉・室町時代

日蓮(1222-1282)

 日蓮は承久の乱の翌年1222年に生まれた。 北条泰時が後鳥羽天皇を配流し、御成敗式目を制定して幕府権力が着々と形成されていく過程で育った。 日蓮は仏法を信じるものは救われ、国家は平穏になるはずと考えたが、実際は違っていた。 これは今信じられている仏教は間違っているのではないかと考えたからである。 そして日蓮は12歳の少年期に自発的に宗教的な疑問の解決の為に出家した。 まず故郷安房国の清澄山の寺にはいり16歳で蓮長と名乗った。 鎌倉、延暦寺、三井寺、四天王寺と勉学に励み、自らの思想を完成させると、父母を弟子とし、父には妙日、母には妙蓮という法号を授けて、自らは両親の法号から1字をとって日蓮とし、妙法蓮華経を選んだのである。 そして「法華経」を絶対の真実とし、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることを勧めた。 この題目のなかに釈迦の説いた正しい教えがこめられていると考えた。 叡山の天台宗も法華経を最高の経典とする考え方である。 最澄の開いた天台法華宗は他の仏教の方法論を一部認める四宗兼学をとっているが、そのなかでも法華が最高であり円教であるとしている。 ところが日蓮は法華至上主義者であった。 他の教えは全て間違っているという「四箇格言」がでてくるのである。  「念仏無間」「禅天魔」「真言亡国」「律国賊」がそれである。 こうして他宗に対して非難を繰り返す日蓮に対して弾圧の手が伸びるが、これにより日蓮の信念は固まっていくのである。

 日蓮は鎌倉幕府の北条時頼(第五第執権で北条泰時の孫にあたる)に対して「日本が平和にならないのは邪法を皆が信じているからであり、このままだと外国から侵略されて(他国侵逼難)国が滅びる」という内容の建白書を送った。 これが「立正安国論」である。 ところが法華経には世間を承服させるための充分な記載がないから一切経蔵に籠もって探求閲覧を続けたという。 そしてついに日蓮は金光明経、大集経、薬師経にその根拠を見つけた。 当時現役の執権は北条長時であったが、長時は大の念仏信者であったから、宗教に対しては比較的公平な立場をとっていた時頼を選んだ。 北条時頼は建白書を黙殺するにとどめたが、念仏の徒は黙っておれず、当時の執権長時の父・北条重時という念仏信者の極楽寺入道の応援を得て、日蓮の草庵を焼き討ちしたのである。日蓮はからくも弟子に守られて脱出したが、これが日蓮宗のいう法難の第一で、1260年のことである。 翌年日蓮は鎌倉にもどり、街頭に立って他宗の批判を始めた。 死んだと思っていた日蓮が念仏批判を再開したと知った念仏信者は法律を使って日蓮を葬ることを考える。 つまり北条重時と長時に、御成敗式目第12条違反であると訴えたのである。 「悪口は流罪及び禁固刑」により、幕府は日蓮を捕らえ、伊豆への流罪を決めた。 日蓮の草庵を焼き討ちした信徒のほうは罪に問われていないから不公平である。 日蓮流罪後の1261年に極楽寺重時が急死したために赦免の道が開けたようで、北条時頼の動きによって1263年に日蓮は伊豆の流罪生活から開放された。 翌1264年に日蓮は故郷安房に帰るが土地の領主・東条景信は熱心な念仏信者であったから日蓮を襲撃した。 これが3回目の法難であるが、この時弟子・鏡忍が討ち死にしている。 そして日蓮法難の第四・龍口の法難は1268年の蒙古襲来の予兆から始まった。 日蓮は幕府に対して立正安国論を再び提示し、十一通御書といわれる挑戦状を幕府、他宗の僧へ送った。 幕府は日蓮を評定所に呼び出し、平頼綱が取り調べにあたったが、日蓮の過激な主張はとどまるところをしらなかった。 念仏信者の頼綱は激怒し、斬首の刑に処せられることとなった。 処刑を前にして日蓮は「法難にあうということは法華経が正しい証拠である」として意気揚々としていたという。 ところが奇跡が起こる。 突然処刑が取りやめになったのである。 これは日蓮の首をはねようとした武士の刀に落雷が襲ったという説もあるが、当時の執権北条時宗の妻・堀内殿が懐妊しており、祟りを避けるために日蓮処刑を中止したという説もある。 かくして日蓮は佐渡に流されることになるが、これにより自らの思想をさらに深めたという。 日蓮の宗教理論で最も重要な著作「勧心本尊抄」は佐渡流罪中にかかれたものである。

 日蓮がその晩年に信仰対象を曼荼羅に描いたが、そこには「南無妙法蓮華経」が中央にあり、釈迦如来は多宝如来とともに、その七文字の左にかかれているにすぎない。

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天竜寺

2007年12月10日 | 鎌倉・室町時代

天龍寺

 天龍寺は、臨済宗天龍寺派大本山の寺院で山号は霊亀山。寺号は天龍資聖禅寺と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は室町時代を開いた足利尊氏で、開山(初代住職)は夢窓疎石である。 足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺 (大覚寺統の後醍醐天皇による建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統に統一されたかに見えたが、新政は2年半にして崩壊。吉野に逃れた後醍醐天皇に代えて、足利尊氏は持明院統(北朝)の光明天皇を擁立。後醍醐は自己の正統性を主張し(南朝)、南北朝時代となる。) として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山の第一位とされてきた。

吉野にある後醍醐天皇塔尾陵 

 

 天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(786-850)が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242-1246)とその皇子である亀山天皇(在位1259-1274)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。  足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(後醍醐天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。 足利尊氏は1338年、征夷大将軍となり、後醍醐天皇が吉野で死去したのは、その翌年の1339年である。 足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の死去に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。 寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。  寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船が仕立てられたことは著名である。 落慶供養は後醍醐天皇七回忌の1345年に行われた。

第88代後嵯峨天皇嵯峨南陵 第90代亀山天皇亀山陵

 

 

  亀山天皇陵 後嵯峨天皇陵天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約33万平方メートル、現在の京福電鉄帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。 応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、蛤御門の変(禁門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。 なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。 方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。 境内東端に勅使門、中門があり、参道両側に塔頭が並び、正面に法堂、その奥に大方丈、小方丈、庫裏、僧堂、多宝殿などがあるが、いずれも近代の再建である。   法堂-禅寺の中心堂宇としては珍しい、寄棟造単層の建物で、本尊釈迦三尊像を安置する。 大方丈-1899年(明治32年)の建築。 小方丈-1924年(大正13年)の建築。 多宝殿-1934年(昭和9年)の建築。近代の建築だが、鎌倉時代頃の建築様式を用いており、後醍醐天皇の木像を安置する。

 

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北条氏

2007年12月09日 | 鎌倉・室町時代

源実朝暗殺後の北条氏

  もともと北条氏と他の御家人との間に差はあまりなかったが、実朝暗殺後は梶原、比企、和田氏を次々と滅ぼし、幕府の権限を手中に収めていった。特に和田義盛を討ったことで幕府の要職・侍所を手に入れた。 ところが三浦氏は将軍宣下をうけると北条氏に対抗しようとしてきた。 時の将軍は5代将軍・頼嗣(1239-1256 九条頼経と藤原親能娘・大宮殿との間にうまれる )であるがまだ推さなく、大殿として君臨していた前の4代将軍・藤原頼経(1218-1256 九条道家と西園寺綸子の間に生まれる)を京に追放することによって三浦氏の暗躍を絶とうというのである。 そして翌1247年に北条時頼は三浦氏を討伐して、5第将軍頼嗣も京へ追放された。 武家政治は北条氏のみが支える体制となり朝廷の干渉を一切排除した強固な得宗体制となる。 そういう意味で北条時頼は天下を確立した。 得宗の二代目を継いだのは時頼の嫡子・時宗であるが執権は何人か交代するが実権は得宗にあり、日蓮は得宗を国王と呼んだくらいである。 1263年に時頼は亡くなり、宮将軍宗尊親王が青年になり、反北条派に不穏な様子がみえたときに、得宗を継いだ時宗は執権の北条政村と相談して宗尊親王を追放して僅か3歳の子の惟康親王に将軍宣下をうけさせてる。 お飾りの将軍をおくことによって得宗体制を築いていった北条氏であるが、 元寇において危機が訪れる。 元寇で活躍した肥後の御家人・竹崎季長は武功が与えられなかったとして鎌倉へいき、幕府の恩沢奉行・安達泰盛に直談判して恩賞を取り付けた。 これを契機に 元寇の戦後処理は北条氏が一手にすることになるが、翌年、時の執権・時宗はなくなり14歳の貞時が執権を受け継いだ。 時宗の妻であり貞時の母・堀内殿が安達泰盛の娘であったことから、御家人重視の方向で政治を始める好機が安達泰盛にやってくる。 しかしこれに危機を感じて安達一族を滅亡に追いやった者がいたのである。 平頼綱といって、熱心な念仏信者で、日蓮を佐渡へ配流した張本人である。 平頼綱は執権・貞時の乳母を妻としていたこともあり幕府の要職についていたが、安達泰盛の嫡子・宗景が謀反を起こそうとしているとして、貞時を説き伏せ安達一族の滅亡を計った。 かくして泰盛、宗景、盛宗親子は討たれ、得宗体制は固まった。 安達泰盛に恩のある竹崎季長は、後に安達親子の鎮魂のために「蒙古襲来絵詞」を完成させた。 完成した永年元年は平頼綱が息子の宗綱の裏切りで自害に追い込まれた年である。

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源頼朝

2007年12月09日 | 鎌倉・室町時代

源頼朝

東国武士に暗殺された源頼朝

 頼朝が東国鎌倉にて武士団のトップとして台頭したとき、朝廷側の後白河法皇はそれまで非合法であった独立政権を認めざるを得なかった。なにしろ後白河には軍事力がないから東国の支配権を与えてしまったのであるが、 しばらくして東国武士団を失望させる行為を頼朝は行おうとする。 長女・大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしたのである。子を生ませてそれを次代の天皇とし、自分は外祖父になろうとしたのであるが、この行為は藤原摂関家の手法であり、東国武士が最も嫌っていたことである。 結果的には頼朝は落馬により死亡し、二代目頼家は殺され、三代目実朝も殺されている。 後白河法皇の死によって頼朝は1193年征夷大将軍となったときに富士の巻狩りが行われた。 武士にとっての山ノ神を祭る行事である。 ところが曽我十郎祐成と五郎時致兄弟が夜陰に乗じて切り込みをかけ頼朝の側近・工藤祐経が殺され、頼朝自身の陣屋にも討ち入った。 つまりこれは平家討伐以来の有力御家人・岡崎義実、大庭景義らが曽我兄弟を使って頼朝や側近の北条時政を狙った事件である。 このとき 頼朝の弟・範頼は巻狩りに出席していなかったために謀反の疑いにより伊豆へ流罪となった。 この事件以来、北条家は源氏との距離を置くことになる。 源氏はわずかに三代で絶えたが、北条氏は京から貴族を招いて将軍を推挙するということを始めた。 つまり京には天皇が、鎌倉にはその息子が将軍の座につき、実際に政治は北条氏が行った。

 1999年、頼朝が落馬により急死した頃には、幕府の朝廷に対する影響力はかなり低下していた。 それまで藤原兼実は朝廷・後白河法皇を激しく批判していたため、頼朝と政治姿勢を同じくすることから両者は盟友であった。 しかし頼朝が大姫を後鳥羽の後宮にいれようと考えたときから問題は発生する。 盟友藤原兼実はすでに娘を入内させていたからである。後白河亡き後も後鳥羽を強く推した丹後局と策士・源(土御門)通親は、兼実と朝廷を二分していた。 通親は武士ではなく公家の源氏で、平家全盛期には平清盛の姪を娶り、平家が没落すると後鳥羽の乳母を務めていた女と再婚していた。 頼朝は大姫の入内のために、それまでの盟友兼実から丹後局・通親に取り入った。 丹後局は頼朝から荘園の所有権問題で譲歩を勝ち取り、兼実の追い出しにとりかかる。 兼実は「玉葉」の作者、弟の僧・慈円は「愚管抄」をあらわし、娘の任子は後鳥羽の中宮であったが、1196年兼実は関白を罷免され、任子は宮中を追われ、慈円は天台座主からおろされた。 こうして頼朝の支援を失った九条一派は破滅することになる。 この間に源通親は後鳥羽天皇に養女・在子を入内させ、この二人にできたのが後の土御門天皇である。 大姫の若死ににより入内は実現せず、丹後局・通親に煮え湯を飲まされた 頼朝は失意の中で死亡するのである。

頼家暗殺という北条氏の陰謀

 頼朝の急死によって二代目将軍となったのは18歳長男頼家である。 ところが頼家は頼朝とちがって苦労人ではない。自分の置かれた立場を見抜く聡明さはなかったのである。武士への権益保護には力をいれなかった。自分の乳母である比企一族や梶原景時らを重用し、有力御家人の意見をしばしば無視したという。 これにより頼家は独裁権を奪われ、御家人たち(和田義盛、北条時政、三浦義澄など)によって鎌倉政治は行われた。 また、比企能員、大江広元もくわわった。 この3年後、比企氏の謀反が発覚して一族は討ち取られて、一幡とともに滅びる。 一幡は頼家と比企の娘・若狭局との間にできた長男であるが、一幡の成長とともに比企氏が台頭するのを恐れた北条一族の陰謀であることは明白である。 そして北条氏を乳母にもつ次男の千幡が実朝として三代将軍となるのであるが、比企一族の滅亡の翌年に頼家は修善寺の湯で亡くなっている。 これは慈円の「愚管抄」に記述されている。

実朝の公家化と暗殺

 頼家が伊豆に幽閉された後将軍は実朝により引き継がれた(1203年)が、実朝の妻には公家・坊門信清の娘・西八条禅尼が選ばれた。 これにより実朝は京の文化に強い親しみを持つことになる。 百人一首の第97番「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱でかなしも」は鎌倉右大臣・実朝が詠んだものである。 これは新勅撰集にあるが、実朝は個人歌集である金槐(鎌倉大臣の意味)和歌集を作った。 妻・西八条禅尼とは姉妹にあたる坊門局は後鳥羽の宮廷に入ったが、仁和寺の御室である長仁親王や礼子内親王をもうけており、実朝は益々後鳥羽天皇と親密になり、和歌にのめりこんでいくのである。 鎌倉三代将軍が武芸に励まず、歌人となっていたのでは、東国御家人は黙っていない。憎悪といっていいほどの感情を御家人は抱くようになる。 1205年、後鳥羽上皇から新古今和歌集が実朝に贈られたことにより、鎌倉武士の怒りは頂点に達する。

 一方幕府創設の功労者・北条時政はこの頃、政子・義時親子に追放され、幽閉されていた。幕府創立時には大江広元とともに政所別当となり、いわば藤原摂関政治における摂政関白と同じ地位についていながら、若い後妻・牧の方にそそのかされて、牧の方との娘婿・平賀朝雅を将軍にしようとしたのである。 これを知った北条政子・義時は有力御家人・三浦義村と組んで、父・時政を追放するとともに朝雅を討った。 時政が幽閉されたまま亡くなった1215年には義時は実朝将軍のもとで別当となり、北条体制を確立していく。 そしてその4年後1219年に実朝は、頼家の遺児・公暁によって暗殺された。 実朝が右大臣となり、鶴岡八幡宮で式典を行った帰りのことである。 文章博士の源仲章の先導(もともとは北条義時が先導するはずであった) で八幡宮の石段を降りるときである。 八幡宮別当阿闍梨公暁は仇討ちを決行したのである。 公暁は同時に源仲章も討ったが、これは義時と間違えて殺害したようである。 一説では有力御家人の三浦義村が実朝暗殺の黒幕であるとしている。 三浦義村の妻は公暁の乳母であり両者は極めて親しい関係であった。 そこで義村は公暁をそそのかして実朝と義時を暗殺させ、幕府の実権を握ろうとした。 公暁が三浦の邸に逃げ込もうとしたときに殺害されたのは三浦による口封じである。 こうして頼朝直系の子孫は1219年1月に絶えた。

後鳥羽上皇の御謀反・承久の乱 

 源実朝に対する後鳥羽上皇の期待は大きく、上皇が寵愛する坊門局の妹を妻としていた実朝は政治のうえでも上皇の弟子にあたる。実朝の政所別当には源頼茂、惟信、仲章が増員されたが、これらはいずれも上皇の近習であり、仲章はなかでも第一の側近である。 後鳥羽上皇の鎌倉幕府操作に対する回答が実朝の暗殺であった。 実朝の後継者については朝廷(太政大臣・藤原頼実の妻・藤原兼子)と幕府(北条政子)間で親王将軍の合意ができていた。 しかし後鳥羽上皇はこれを拒否する。 これに対して幕府側は時政の子・北条時房以下千騎の軍勢で朝廷に迫った。 軍事力に欠ける後鳥羽上皇側は左大臣・九条道家の子・三寅を派遣することで妥協する(1219年6月)のであるが、 実は約2年後の戦争に備えて着々と準備を積み重ねていた。 翌月、後鳥羽の計画を感じた源頼茂(源三位頼政の孫)は無実の罪をきせられて後鳥羽上皇に葬られた。 いよいよ1221年、後鳥羽は北条義時追討の院宣をくだして承久の乱が始まるのである。つまり東国の御家人は朝廷から賊と決め付けられたから、その動揺は隠し切れない。 この動揺を静めたのは、かの有名な北条政子の大演説である。 「頼朝が打ち立てた武家政治から以前の惨めな武士の生活にもどっていいのか!」 というわけである。 結局、朝廷側に味方すると考えられていた三浦義村は応じず、鎌倉御家人は全て朝廷の敵となった。 後鳥羽は討幕に消極的な土御門天皇を退位させ、異母弟で自分の意に従う順徳天皇を即位させた。 戦が近づくと順徳を退位させ上皇とすると、子の懐成親王を天皇とし、自由に動ける順徳上皇を片腕とする。 しかし後鳥羽上皇側は戦いに敗れ、幕府は後鳥羽の兄で出家していた行助法親王を還俗させ上皇(後高倉院)とし、その子・が後堀河天皇として即位する。 皇位からわずかに70日でおろされた懐成親王(仲恭天皇)は廃帝されて、歴史から消されることとなった。 環境が整ったところで後鳥羽、順徳は島流しとなったのである。 臣下である幕府側が主君を追放するというのは前代未聞の出来事である。

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