平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

長谷寺

2007年10月28日 | 平安時代

王朝女人が詣でた長谷寺

 奈良・桜井市にある長谷寺には藤原定家、俊成の記念碑があるということで行って参りました。 長谷の地は、その昔泊瀬、初瀬、始瀬、終瀬と云われ、瀬が始まるところ、または瀬が果てるところであった。 古くは神意を仰ぎ、「神河」と呼ばれていた。 初瀬は三方を山に囲まれ西方のみが開けた「隠国(こもりく)の里」であった。 5世紀に泊瀬の小野に遊んだ雄略天皇は雄渾な国褒めの歌を歌っています。

隠国の 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走りでの よろしき山の 隠国の 泊瀬の山は あやにうら麗し あやにうら麗し

 三輪山のすぐ東に位置するこの古寺は、我が国最大の木造仏といわれる本尊十一面観世音菩薩像など、重要文化財が多々ある寺でもあり、草創については686年僧・道明が天武天皇のために銅板法華説相図を西の岡に安置し初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立し、のち727年僧・徳道が聖武天皇の勅願により東の岡に十一面観世音菩薩を祀り、僧・行基が開眼供養し寺が成立したと考えられていますが、正史に見えず、伝承のようです。 四季折々の花が境内を美しく彩る寺でもあり、四月下旬から五月中旬にかけて牡丹の花が見事に咲くことでも知られています。 また、平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集め、1024年には藤原道長が参詣しています。 古くから牡丹の花が咲き乱れ 「花の御寺」と称されていて、「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場します。 中でも「源氏物語」にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っています。 

 蜻蛉日記の著者である藤原道綱母(受領・藤原倫寧の娘で954年に藤原兼家と結婚)が初瀬詣を果たしたのは968年でした。 夫藤原兼家を振り切って少ない供と旅に出ます。 方違いを法性寺(今の東福寺)に定めて早朝出立し、伏見稲荷を横目に進み宇治で昼食後、木津川そばの橋寺(泉橋寺)に泊まり、 二日目は木津川を越えて春日大社を経由して椿市(今の桜井市近辺の海石榴市に泊まります。 椿市は当時交通の中心地として栄え、枕草子や源氏物語にも登場しています。 行きはほとんど一人旅のようで、深い憂色に包まれているが、帰りは、宇治まで兼家が迎えにきており、蜻蛉日記には浮き浮きと明るい調子で描かれています。

仁王門

 

仁王門をくぐらずに境内図の前を右に進むと藤原定家塚・俊成碑へ

 

中央は藤原定家塚 左が俊成碑

  

源氏物語の「玉鬘」の巻に登場する二本(ふたもと)の杉

 

 源氏復権後の栄華を極める生活の中の新たな物語です。夕顔の娘「玉鬘」(21歳)は、筑紫で美しく成人していました。 源氏は、その姫を探し出して引取りたいと考えていました。その夕顔の遺児「玉鬘」は、4歳のころ乳母一家に伴われて、立派に成人していました。その美貌に求婚者が殺到する中、乳母とその家族たちは、玉鬘を上京させて父の内大臣や母に巡り合わせたいと都へ上る決心をし、早船を仕立てます。神仏に願をかけ、長谷寺の御利益を頼みに、参詣の旅にでます。その旅の宿(海石榴市の宿)でかつての夕顔の女房右近とめぐりあいます。 右近は夕顔亡き後、源氏に仕えるようになってからも、夕顔の忘れ形見めぐりあいたいと、長谷寺に祈願をしていたのです。まさに長谷寺の引き合わせでしょう。この感動的な巡り合いをお互いに喜び、右近と乳母は語り合います。右近は、みすぼらしい身なりをしているものの、玉鬘の美しさに驚き、早速京に戻って源氏に報告します。源氏の驚きと喜びは大きく、早速玉鬘に文を送ります。源氏は、玉鬘を六条院に引取り、花散里のもとに預けます。  はじめて見る玉鬘は、夕顔の面影をそのままうつしており、源氏は満足です。夕霧は、玉鬘を姉と信じ、玉鬘を守って筑紫から上ってきた乳母の子も家司に迎えられ、思いがけない幸せの中に年の暮れを迎えました。

 紫式部は「玉鬘」の中で長谷観音の霊験を 「仏の御中には、初瀬なむ、日本の中にはあらたなる験あらはしたまふと、唐土にだに聞こえあむなり」 と讃えています。

本堂 木造の十一面観世音菩薩が祀られています 

 

 本堂は代表的な江戸建築で、創建は奈良時代といい、平安時代には礼堂があったとされている。現本堂には巨大な十一面観音菩薩が祀られ、1650年に徳川家光によって再建された。

 礼堂の前には舞台があり、紅葉の季節には幽玄のつどい「芸能奉納」が行われます。 また、紅葉の季節には舞台から見下ろす長谷寺全景の絶景が想像されます。実はこの「幽玄のつどい」、長谷寺に行って知ったのですが先週13:00から行われていました。 室町時代の貴族・武家社会には、幽玄(美しく柔和な優雅さのことをいいます)を尊ぶ気風がありました。 世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられています。 世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしたのです。 今回「夢幻能」が見れなかったのは誠に残念でした。


 

本堂と仁王門を結ぶ上登廊と上下登廊の中間にある蔵王堂

 

蔵王堂の横には紀貫之・古里の梅と一茶の句碑があります

 

仁王門への下登廊 観音万燈会時には上下の数百の燈籠に火が灯る

 

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第48代称徳天皇・高野陵

2007年10月27日 | 天皇・皇后陵

第46代孝謙天皇/第48代称徳天皇・高野陵

 高野陵は奈良・平城宮跡の北西すぐ、成務天皇陵、日葉酢媛命陵の南に隣接しています。 この辺一帯は自動車の通行を許可していない生活道路が多く、渋滞が慢性化していて近寄りにくいところです。成務天皇陵、日葉酢媛命陵は参拝したにもかかわらず、隣接する高野陵へは参拝していなかったので、再度の訪問です。

 

 孝謙天皇(718-770)の父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后で、史上6人目の女帝である。 天武系からの最後の天皇であり、即位前の名は阿倍内親王と言います。 淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇(稱天皇) 以降、江戸時代の明正天皇に至るまで実に850余年女帝はいません。

 744年、聖武天皇が難波宮へ引越しを始めた頃に、安積親王が恭仁宮(くにのみやこ)で急死した。安積親王は光明子が皇后になったきっかけの人である。 光明子の息子・基皇子が生まれて間もなく病死した頃に、聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた皇子が、その人である。 738年に光明子の娘・阿部内親王(後の孝謙天皇)を皇太子にすえていたものの、朝廷内には反論も多く、藤原四兄弟が亡くなった今では藤原反省力が盛り返していた。 大伴家持などはその筆頭であった。聖武天皇と分かれて恭仁宮にいた安積親王は、同じく留守番をしていた藤原仲麻呂に毒殺されたのかもしれない。後に仲麻呂は孝謙天皇とともに政界を握ることになる。 聖武天皇の彷徨がおさまったのは745年のことである。橘諸兄の政権に指導制が欠如していたために、天皇の専横を許したともいえる。 749年聖武天皇は孝謙天皇に譲位した。安積親王の謎の死によって阿部内親王が女帝として即位したのである。そして光明皇后は孝謙天皇の補佐を行う機関(紫微中台)をつくり、天皇にかわって皇太后が勅をだすのである。 そして紫微中台の長官には藤原仲麻呂がついた。756年、聖武天皇が崩御されたときの遺言には孝謙女帝の次には道祖王(ふなどおう)を立てるようにとあった。 道祖王は新田部皇子の子で、天武天皇の孫に当たる。朝廷内が藤原一族で固められるのを懸念していた。 翌757年に橘諸兄が死去すると公卿のトップには藤原豊成がつき、藤原南家の全盛時代が到来し、反藤原勢力の道祖王は朝廷機密漏洩事件を起こしたとして皇太子を廃し、右大臣・豊成、藤原永手らは、道祖王の兄・塩焼王を推薦。 また他にも船王、池田王、など推薦されるが孝謙女帝は仲麻呂推薦の大炊王を皇太子とした。大炊王の妻は仲麻呂の長男・真従の先妻であった。 皇太子大炊王を手中にした仲麻呂は独裁政権の道を歩み始めるが、反藤原勢力として橘諸兄の長男・奈良麻呂、道祖王、大伴古麻呂が動き出す。 ところが、757年、長屋王の子山背王が仲麻呂、孝謙天皇に密告する。 そしてこのときに、奈良麻呂以下、死刑・流刑に440人余りが処された。仲麻呂の独裁に対する反感の大きさが伺える。

 橘奈良麻呂の某反後の758年、孝謙天皇は皇太子大炊王を立てて、淳仁天皇を即位させると、藤原仲麻呂は天皇より恵美押勝という名を贈られている。 そして760年に太政大臣に、762年には正一位という最高潮を極めた。 その後息子・真先、弟・久須麻呂を参議にしたが、次第に仲麻呂に翳りが見え始める。 760年に光明皇太后が死去した。 淳仁天皇の後ろ盾はあったものの、孝謙太上天皇に近づいた看病禅師・道鏡との仲が親密になると、仲麻呂と孝謙との間に亀裂がはいるようになった。 仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙の態度を戒めると逆に孝謙は、国家の大事に対しての決済を行うようになり、仲麻呂の権力を奪ってしまった。 763年、仲麻呂側の僧を追放し、道鏡を少僧都とすると、益々孝謙と仲麻呂の確執は深まる。 そして仲麻呂は兵を集めて反乱にでるが、坂上刈田麻呂(坂上田村麻呂の父)に阻まれ、 逆賊となった仲麻呂は官位を奪われ、764年処刑される。 その後、淳仁天皇は廃され孝謙は復位して称徳天皇となった。 そしてその後称徳天皇が亡くなるまでの約7年間、女帝と道鏡による政治が行われる。しかし769年、道鏡を天皇にするか、聖武天皇の血を残すか 悩むときがきた。 そして女帝は和気清麻呂を呼びよせ、決断をゆだねる。 和気清麻呂の姉・広虫は紫微中台の官人で、尼法均として女帝に仕えていたため、清麻呂は秀才官僚としてのし上がってきていた。 そして清麻呂は、道鏡の即位は律令制度の王位継承権に違反するとの判断を下すが、これに憤慨した称徳天皇は、清麻呂の官位を剥奪し、姉も備後に流罪となった。この事件後、称徳天皇は継承者を指名しないまま病死し、道鏡も朝廷から姿を消したのである。

   ┏ 蘇我娼子娘-693
   ┣ 安麻呂  ┣ 武智麻呂(南家)680-737

           ┃   ┗ 仲麻呂706-764 後に恵美押勝
 
          ┣ 房前  (北家)681-737元正の内臣
 
           ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737
 
           ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱        白壁王709-781光仁天皇

           ┃  ┣ 良継 白壁王支持           ┣ 他部親王

  ┏許米━大嶋  ┃  ┗ 百川 道鏡追放   県犬養広刀自 ┣ 酒下内親王

┏□ 金(反大海)
 ┃                            ┣ 井上内親王717-775
 
┣□□意美麻呂  ┃五百重669-695(天武夫人)      ┣ 安積親王728-744 
  
┃舒明┓      ┃┣ 麻呂 (京家)695-737       ┃

┃   鏡女王    ┃┃          文武天皇683-707  ┃
 
┃    ┣氷上娘 ┃┃ 賀茂比売         ┣ 首皇子(45代聖武724)701-756

┃    ┣五百重 ┃┃  ┣ 藤原宮子682-754┛     ┣ 基皇太子727-728
  
┗□ 鎌子614-669┃┃  ┣ 長娥子694-(長屋王妾)  ┣ 阿部内親王46代孝謙718-770

           ┣ 藤原不比等659-720               ┃
       ┣ 定恵644-667 ┣━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
        與志古娘       ┃     
       
          県犬養(橘)三千代668-733                   
              ┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用)
 
            ┃  ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757  
  
           美努王

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大山守命・那羅山墓

2007年10月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

応神天皇皇子 大山守命・那羅山墓

 大山守命墓は宇和奈辺陵の東、奈良ドリームランド(現在は閉館になっております)の西にあります。 住宅地の一角にひっそりと位置しているので、しっかり探さないとわかりません。 アクセスも悪くて駐車場も周りにはありません。 大山守命は応神天皇の第一皇子(第二皇子かも。。)にあたり、菟道稚郎子、大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)とは異母兄弟にあたります。この異母3兄弟には以下の王位継承の物語が伝えられています。

 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族で、『播磨国風土記』では宇治天皇とも云われている応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ)の女・宮主宅媛である。 同母妹には八田皇女・雌鳥皇女がいて父・応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたが、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる皇子です。 皇太子となった翌年に天皇が崩じたが、太子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとして即位せず、両者互いに譲り合っっていました。 一方、応神天皇と妃・高城入媛(仲姫命の姉にあたる)との間に生まれた大山守皇子(仁徳天皇とは異母兄弟にあたる)は、 自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を殺そうと挙兵するのであるが、大鷦鷯尊により察知され、太子の謀略に遭って殺されます。 この後、太子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年、永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は決着をつけるべく自ら果てることになります。 尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の矢田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたといいます。

大山守命・那羅山墓(撮影:クロウ)

 

 

 大鷦鷯尊は父応神天皇の命に従い、末弟の菟道稚郎子に天下を譲ろうとしたが、大山守命は弟の即位を認めず、菟道稚郎子を殺そうと謀った。菟道稚郎子は大鷦鷯尊から兄の計画を聞き知り、逆に計略を以て大山守命を宇治川に葬った。船とともに沈んだ大山守命の屍を引き上げたときに菟道稚郎子が詠んだのが、次の歌であるという。 「宇治川の渡りに、川を渡る浅瀬に、立っている、梓の木と檀の木。それで弓を作るために、木を伐ろうと(大山守命を殺すことを言う)、心には思うけれど、一方には君を思い出し、他方には妻を思い出し、痛々しく、あれにつけては思い出し、可哀想にと、これにつけては思い出し、結局伐らずに来てしまったよ、梓弓・檀の木を。」 古事記より

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新陽明門院・笠間山陵

2007年10月26日 | 陵 古墳 墓 遺跡

新陽明門院・笠間山陵

 新陽明門院・笠間山陵は、奈良桜井と榛原の中央の岳山(長谷寺から正面に大きく見える525.5mの山)の中腹にあります。165号線を走っていると、すぐに見つけることが出来ます。 今回はかの有名な長谷寺へいったついでにこの陵に立ち寄ってみました。 この陵に眠っているのは第97代後村上天皇の中宮・源顕子こと新陽明門院(嘉喜門院ともいう。藤原勝子?-?が嘉喜門院との説のほうが有力)です。 因みに新陽明門院といえば、亀山天皇妃で関白基平の娘・近衛位子(1262~1296)もおりますが、ここで紹介する御方では御座いません。   後村上天皇には藤原勝子との間に寛成親王(第98代長慶天皇)、煕成親王(第99代後亀山天皇)を輩出しています。 そういった状況の中で、源顕子を中宮として向かえて坊雲、憲子内親王を設けていますが、中宮源顕子とその子の坊雲は、世を避けて陽雲寺雲上庵に閑居したと云います。

 1333年、後醍醐天皇の第8皇子・義良親王(当時5歳。後の後村上天皇) は、後に中宮となる顕子の父北畠親房と兄顕家に奉じられて東北鎮定のため奥州へ下向し、翌年の建武元年(1334年)、親王宣下。建武新政が瓦解した後、延元三年(1338)秋、東国経営のため再び親房ほかと共に船団を組んで出航したが、暴風に遭って義良親王の船は伊勢に漂着、その後吉野に帰還します。 同四年(1339)三月、父帝の皇太子となると、 同年八月十五日、践祚。時に十二歳でした。 正平三年(1348)正月、高師直らに吉野行宮を攻められて賀名生(あのう)に遷居。同六年、足利氏の内訌により尊氏が南朝に和議を申し入れると、翌年、南朝軍は京都を占拠。 後村上天皇は男山(八幡山)に出陣して光厳院・光明院・崇光院を捕えたが、入京を目前にして事態は急変、足利軍に京都を奪回され、結局賀名生に還幸となります。 同九年十月、河内天野山に遷幸し、金剛寺を行宮とする。 同十四年十二月、天野行宮を侵され、観心寺(大阪府河内長野市寺元)に遷御。 翌年九月、さらに摂津住吉の行宮に遷った。正平二十三年(1368)三月十一日、住吉行宮にて41歳で崩御し、河内観心寺に葬られている。陵墓は同寺境内の檜尾陵。

新陽明門院・笠間山陵(撮影:クロウ)

 

 

 

     (持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                                    藤原立子(東一条院)    ┃
                         修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇      ┃
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181        ┣84順徳天皇         ┃
         ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239    平棟子      ┃     
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇┣宗尊親王   ┃ 
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇     ┃
       ┃ ┃  ┃ ┣87四条天皇    ┃源通子   ┃┣89後深草天皇
       ┃ ┃  ┃ 藤原竴子       ┃      ┃┣90亀山天皇━┓
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子  ┃
         ┃ ┃持明院基家┛                          ┃            ┃
         ┃藤原殖子(七条院)               ┣宗尊親王    ┃

          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)     平棟子       ┃
       徳子1155-1214(建礼門院)                       ┃

 ┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃                                不明 
 ┃     姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)         ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-             阿野廉子  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子 ┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) 藤原(徳大寺)忻子  ┣祥子内親王 ┣憲子内親王(新宣陽門院)(1343?-1391)
            ┃                ┃      ┣坊雲
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339     源顕子?-1359
     藤原忠子 ┣懽子内親王       ┃┃┣護良親王1308-1335         
     西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
         ┣西園寺禧子(礼成門院)   ┃┣尊良親王
         ┣左大臣公衡        ┃┣宗良親王  
         ┣太政大臣兼季       ┃二条為子
         ┣西園寺金章子   藤原実俊┣世良親王
         ┗西園寺瑛子       ┃┣静尊法親王
                      ┗遊義院一条局

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春日宮天皇妃御陵

2007年10月25日 | 天皇・皇后陵

春日宮天皇妃御陵(吉隠よなばり陵)

 春日宮天皇妃御陵は 奈良県宇陀郡榛原町鳥見山(標高740メートルの山)にあります。 鳥見山といえば厩戸皇子や押坂彦人大兄皇子の舎人・迹見赤檮(とみのいちい)の出身地でも有名です。 近鉄大阪線の榛原駅近くの165号線から登山道が伸びています。 この登山道口を登る人はほとんどいないのでしょうか、楽に入れるような道ではありませんでした。 

 

 春日宮天皇妃御陵は 第49代光仁天皇の母・紀橡姫(きのとちひめ)(紀諸人の女) の御陵で、 709年(和銅2)吉隠の地で崩ぜられ、ここに葬られたと伝えられています。 春日宮天皇は、光仁天皇の父・施基皇子 (皇位継承とは全く無縁で、政治よりも和歌等文化の道に生きた人生だった) のことをいい、天智天皇の皇子になります。  奈良時代末期、聖武天皇の娘であった孝謙・称徳天皇(46代、48代の二度天皇となって重祚)には、子供がなかったことから、光仁天皇(天智天皇系)に皇統が移っているのです。 光仁天皇・白壁皇子が即位されると、 亡くなられたあとに春日宮天皇として諡号されてい ます。 また、施基皇子は万葉歌人でもあり、 よろこびの御歌一首を見ることが出来ます。 「石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも

 紀橡姫(きのとちひめ)の出身の紀氏は「記紀」上では元々 天道根命又は御食持命を祖とする「神別氏族」である。宇遅彦命の時、紀国造となりその妹「山下影媛」が8孝元天皇の孫屋主忍男武雄心命の妃となり、その間に「武内宿禰」が産まれたとされている。この武内宿禰が、宇遅彦の子「宇豆彦」の娘の「宇乃媛」を妃として、紀(木)角宿禰が産まれた。これが、外家紀氏の姓を嗣いで「皇別氏族」として中央政界で軍事氏族として活躍する「紀氏」となった。これが紀氏の祖は、武内宿禰であると言われる由縁である。紀の国紀氏は、古墳時代初頭の昔から紀国の豪族であったが、大和王権に媚びてその由緒を捨て去り、神別、皇別氏族へと6世紀後半ー7世紀前半に集団が分断されたらしい。 武内宿禰は、架空の人物(紀記編纂時造られた)とされ、この子紀角宿禰は、渡来系の人物で7世紀あたりで神別紀氏の系譜に入りこんだ、との説も多数ある。

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大伴皇女・忍坂内墓

2007年10月24日 | 陵 古墳 墓 遺跡

大伴皇女・忍坂内墓

 粟原道は二回目の訪問となります。 以前は舒明天皇陵を参拝したのみで、ここ忍坂内墓まではきませんでした。 途中の鏡女王の墓を過ぎると畦道の奥には大伴皇女の墓があります。 わが国で最古の石仏といわれる白鳳時代の三尊石仏がある石位寺、額田王が老後の身を養った終焉の地といわれる粟原廃寺などや古墳なども近くにあります。   父は欽明天皇、母は堅塩媛で兄弟は13人、嫡男が厩戸皇子の父の用明天皇で推古天皇も姉に持ちます。また妹・弟には桜井皇子、舎人皇女などもいます。 

 

 

 ところで大伴皇女欽明天皇の皇女とあるだけで、詳しいことは全く分からず、『日本書紀』には、欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩姫との間に生まれた七男六女の名前を列挙し、その第9番目に名があるにすぎない。   『古事記』では大伴王と表記されているが、その足跡は古書には一切示されていない。ただ、諸陵式に「大和国城上郡押坂陵域内に大伴皇女の墓がある」と記載されているだけで、現在宮内庁は陵墓として管理している。

24代仁賢天皇449-498 
   ┣ 第25代武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)489-507 
   ┣ 春日山田皇女      堅塩姫(石川渡来系豪族)          
   ┣ 手白香皇女       ┣ 大兄皇子(第31代用明天皇)
   ┃    ┃        ┣ 磐隈皇女,臘嘴鳥皇子,額田部皇女,椀子皇女          
   ┃    ┃        ┣ 大宅皇女,石上部皇子,山背皇子,大伴皇女          
   ┃    ┃        ┣ 桜井皇子,肩野皇女,橘本稚皇子,舎人皇女          
 春日大娘皇女 ┃        ┣ 豊御食炊屋姫(推古天皇)          
            ┣ 第29代欽明天皇 509-571        ┣ 菟道貝鮹皇女  
           ┃     ┣32代崇峻天皇  ┣八田大兄皇子┣ 竹田皇子
           ┃     ┣茨城皇子    ┣第30代敏達天皇  
             ┃     ┣穴穂部間人皇女┣笠縫皇女  ┣ 押坂彦人大兄皇子
           ┃     ┃  ┗厩戸皇子 ┃     広姫(息長真手王・娘)
           ┃     ┣穴穂部皇子  ┃
           ┃     ┣宅部皇子   ┃
           ┃   小姉君(物部系)  ┃
        振姫 ┃ 橘仲皇女(顕宗天皇娘)┃
         ┣ 第26代継体天皇450-531┣石姫皇女
         ┃        ┃      ┣小石姫皇女(欽明妃)
         ┃        ┃      ┣倉稚綾姫皇女(欽明妃)━石上皇子
         ┃        ┃      ┣上殖葉皇子(欽明妃)
         ┃        ┣ 神前皇女  ┃ ┏日影皇女(欽明妃)━倉皇子
     ┣ 迂斯王      ┣ 第28代檜隈高田皇子(宣化天皇)467-539
   ┣ □             ┣ 第27代勾大兄皇子(安閑天皇)466-536
 ┣ 大郎子        目子媛(尾張連草香の女) ┃┃┃┃
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃┃春日山田皇女(仁賢天皇皇女)  
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃紗手媛(許勢男人大臣の女)  
 ┣ 伊自牟良君              ┃
香香有媛(紗手媛の妹)  
美美濃美濃豪族娘(息長氏系?)            宅媛(物部木蓮子大連の女

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鏡女王・忍坂墓

2007年10月23日 | 陵 古墳 墓 遺跡

鏡女王忍坂墓

 舒明天皇陵の奥の小路(忍坂の山と歌われた外鎌山(292m)の南ふもと)を進むと一番奥には大伴皇女(欽明天皇と堅塩姫の皇女で、敏達天皇とは異母兄妹)の忍坂内墓があります。 その畦道の途中には鏡女王の忍坂墓があります。鏡女王(鏡王を父に山背姫王が母という王族の娘 628年-683年)は額田王の姉にあたり(舒明天皇の皇女という説もある)、中大兄皇子の後宮に入っていましたが、後に安見児とともに鎌足の妻になっています。 鏡女王は鎌足との間に氷上娘、五百重を生んでいます。 五百重は天武の妃となりますが、後に藤原不比等の妻として藤原氏京家の麻呂を生んでいます。 

 

秋山のの下隠<り行く水の我こそまさめ思ほすよりは

皇太子であった中大兄皇子(天智天皇)の  「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」  に答えた歌で、  「秋の山の、木々の下をひそかに流れてゆく川の水のように、おもてには表さなくとも、お逢いしたいという思いは私の方がまさるでしょう。殿下が思っておられるよりは。」

玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど我が名し惜しも

鏡王女をふ時に、鏡王女が内大臣鎌足に贈った歌で、  「お化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってからお帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ。」

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倭彦命・身狭桃花鳥坂墓

2007年10月21日 | 陵 古墳 墓 遺跡

倭彦命・身狭桃花鳥坂墓(桝山古墳

 奈良橿原市にある第28代宣化天皇陵のすぐ南にあるのが倭彦命・身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)です。旧家沿いの狭い路地を通っていくため駐車場もなく、かといって徒歩も困難。 倭彦命は崇神天皇の皇子で垂仁天皇とは同母弟にあたります。 母は御間城媛(第八代孝元天皇の子の大彦命の娘)。異母兄弟には初代斎宮の豊鍬入姫命や豊鍬入彦命がいます(母は紀伊国の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ))。   橿原市鳥見町にある枡山古墳に眠る倭彦命が亡くなった時、従者を殉死させたので生き埋めになった人たちの泣き叫ぶ声が何日も続いた。それが哀れなので、次に日葉酢媛命が亡くなった時に野見宿禰の建言によって人を殉死させる代わりに埴輪を立てた。 その為に出雲の国から100人の土師部を呼んで埴輪を作らせたという。 倭彦命自身の功績は全くの不明で御座います。

 桝山古墳は古墳時代中期の築造で、96m×90mの我が国最大規模を誇る方墳とされている。しかし、蒲生郡平の研究の成果を利用した幕末の文久の修陵において、天皇陵など皇族の墓は前方後円墳であるとする考えに基づき、桝山古墳も前方後円墳形に外形が改変がされているという。

 

             大物主神(蛇)      尾張大海媛
第七代孝霊天皇  ┣                   ┣ 渟名城入媛命(倭大国魂神を祭る)
     ┣ 倭迹迹日百襲姫命(台与かも)  ┃ 遠津年魚眼眼妙媛(紀伊)
     ┣ 吉備津彦      ┣ 開化天皇  ┃   ┣ 豊鍬入姫命(天照大神を祀る)
    ┣ 稚武彦命  孝元天皇   ┣ 崇神天皇(御間城入彦)   (
みまきいり彦
)
   倭国香媛      ┃   伊香色謎命 ┃    ┣ 倭彦命
 
             ┃         ┃    ┣ 彦五十狭茅命
 
             ┃         ┃    ┣ 千千衝倭姫命

             ┃         ┃    ┣ 五十日鶴彦命  
 
            ┃         ┃    ┣ 垂仁天皇━┓(いくめいり彦
)  
             ┃              x  御間城媛 ┣  ┃ 
                         ┣ 武埴安彦命 ━┛     ┏迦具夜比売┃ 
            埴安媛  ┣           大筒木垂根王    ┃
                 吾田媛(隼人族)                  ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

┃    
肥長姫(蛇)                            葛城高額姫
┃狭穂姫命┃                                             ┣ 神功皇后
┃ ┣ 誉津別   播磨稲日太郎姫 -122        垂仁天皇       ┃ 
11代垂仁天皇-69-70┣ 櫛角別王(
くしつのわけのみこ
)  ┣両道入姫命  ┣ 15代応神天皇
  ┣ 五十瓊敷入彦┣ 大碓皇子(おおうすのみこ) 綺戸辺┣ 14代仲哀天皇 
  ┃ イニシキイリヒコ    ┣ 小碓尊  (おうすのみこと) 日本武尊    ┣坂王
  ┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇) -13-130                  ┣忍熊皇子
  ┣ 倭姫命      ┣ 稚足彦尊(
わかたらしひこのみこと
13代成務天皇)大中姫 
 ┣日葉酢媛命     ┣ 神櫛皇子(
かむくしのみこ
)讃岐国造の祖   
 ┣渟葉田瓊入媛  ┣ 稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ)針間国造の祖 
 ┣真砥野媛    ┣ 五百野皇女(いおののひめみこ、久須姫命)伊勢斎宮   
 ┣薊瓊入媛    ┣ 豊国別皇
子(とよくにわけのみこ)日向国造の祖 
丹波道主王    ┣ □ 
10代崇神天皇   ┣ □ 
  ┣ 八坂入彦命 ┣ □
 御間城姫 ┣ 八坂入媛命(
やさかいりびめのみこと)

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坂合黒彦皇子墓

2007年10月21日 | 陵 古墳 墓 遺跡

坂合黒彦皇子墓

 前々から参拝したいと思っていた坂合黒彦皇子墓に今回初めて行って参りました。 歴史的に弟の雄略天皇が有名でありますが、供に允恭天皇の皇子で弟に抹殺された悲運の皇子です。坂合黒彦皇子墓は奈良の南部・近鉄吉野線の薬水駅の近く、309号線沿いの山の中腹にあります。(撮影:クロウ)

 

 坂合黒彦皇子は、弟の大初瀬皇子(雄略天皇)により異母兄の眉輪王や義父葛城円とともに円の屋敷ごと焼き殺された(眉輪王の変 456年)といわれており、ここに葬られているのは、坂合黒彦皇子だけではなく葛城円や眉輪王も含まれているかもしれません。 安康3年(456年)、第20代安康天皇は、即位して3年ほどした頃、樓(たかどの)での湯浴宴の席で、妻(長田大郎女)と眉輪王のことを話していた。 「眉輪王が成長して、自分の父が私に殺されたことを知ったらどう思うであろうか。私は眉輪王がこわい」と。 実は、眉輪王は、仁徳天皇の皇子である大草香皇子と中帯姫皇女(長田大郎女)の間に生まれた子供で、その実の父である大草香皇子が安康天
皇によって殺され、母である中帯姫皇女がその敵の妻となり、后になっているのである。そして、安康天皇には子どもがいなかったので、眉輪は皇子として育てられていたのです。  眉輪王は幼くして、樓の下でたわむれ遊んでいた時に、その話を聞いてしまい、安康天皇が、皇后の膝を枕にして昼寝をしてしまわれた時に、刺し殺してしまったのです。 事件はただちに大初瀬皇子(雄略天皇)にも伝えられ、兵を率いて自ら将軍となって、すぐ上の兄である八釣白彦(やつりのしろひこ)皇子を責め問いつめると即座に刀を抜いて、斬ってしまいます。 坂合黒彦皇子は深く疑われることを恐れて、ひそかに眉輪王に事の次第を尋ね調べられたところ、眉輪王は「私は皇位を望んだのではなく、父の仇を討っただけなのです。」と語ります。 同情した坂合黒彦皇子は、隙をみて、義父である葛城の円大臣の家に逃げこみます。それを知った大初瀬皇子(雄略天皇)は使いを遣わせて、引き渡しを求められましたが、大臣が使いを出して答えるには、 「人臣が、事あるときに逃げて王宮に入るということは聞きますが、いまだ君主が人臣の家に隠れるということを知りません。まさに今、坂合黒彦皇子と眉輪王は、深く私の心をたのみとして、私の家にこられました。どうして強いて差し出すことができましょうか。」といいます。 これに腹を立てた雄略天皇は軍事豪族の大伴氏や物部氏を味方につけ、葛城の円の大臣の家を大軍で取り囲み、激しく攻め立てます。 大臣は装束をつけ、軍門に進み出て拝礼して、「私は誅殺されようとも、あえて命をうけたまわることはないでしょう。古の人もいっています。『賤しい男の志も奪うことは難しい』とは、まさに私の場合にあたっています。伏して願がわくは、私の娘・韓媛(からひめ)と、葛城の領地七ヶ所を献上し、罪をあがなうことをお聞きいれください。」と頼みます。しかし、雄略天皇は、韓姫と領地は受け入れたのだが、命乞いは許さず、葛城の大臣の屋敷に火を放ちます。こうして、大臣と黒彦皇子、眉輪王はともに焼き殺されてしまったのです。 その舎人たちは、死骸を取り収めましたが、骨を選び分けるのは難しく、ひとつの棺に入れて新漢(いまきのあや)の槻本の南丘に合葬されたということなのです。

 

 

                                                                                   春日大娘皇女
           宮主宅媛                  ┣橘仲皇女 
葛城高額媛       ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)    ┣白香皇女 
 ┣神功皇后170-269   ┣菟道稚郎子皇子   ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣ 億計王(24代仁賢天皇)袁祁命449-498 
       ┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)意祀命450-487
1414代仲哀天皇┣ 荒田皇女         ┣ 市辺押磐皇子(忍歯王)-456
 ┣ 坂皇子  ┣ 16代仁徳天皇257-399    ┣ 御馬皇子
 ┃      ┣ 根鳥皇女┃       ┃
 
 ┣ 忍熊皇子┏仲姫命   ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人)
 
大中姫     ┣高城入媛   ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
 品陀真若王┛┣大山守   ┣ 18代反正天皇336-410
  
         応神天皇   ┣ 19代允恭天皇  -453
  
         ┏━   磐之媛命   ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
 
 
          ┃ 仁徳天皇      ┃長田大郎女                     ┃
 
 
         ┃   ┃        ┏ ┃┻眉輪王┣                     ┃ 
   
         ┃   ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
 
          ┃   ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
         ┃  日向髪長媛 ┃ ┃       和珥童女君

甘美内宿禰   ┃       ┗ ┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰
   ┣ 葛城葦田宿禰   ┣ 21代雄略天皇(大長谷王)418-479
  ┣葛城襲津彦-347┃      ┃ ┣ 磐城皇子  ┃
  ┣巨勢小柄宿禰 ┃      ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 
┣葛城玉田宿禰┃ 吉備稚媛      ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰  ┃ ┣葛城円 ┣ 八釣白彦皇子  ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰      ┃ ┗毛媛  ┃        ┣葛城韓姫
 ┣羽田矢代宿禰
  ┣黒媛    ┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
            ┣葛城蟻臣  ┏忍坂大中姫      
                   ┣荑媛  ┗衣通姫(そとおりひめ

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春日山田皇女・古市高屋陵

2007年10月21日 | 陵 古墳 墓 遺跡

春日山田皇女・古市高屋陵

 羽曳野市にある春日山田皇女・古市高屋陵を訪れました。ここ羽曳野には、第27代安閑天皇・古市高屋丘陵を含めた古市古墳群があります。以前訪問したときに、ここだけ訪問を忘れていたため再度の参拝です。 古市高屋陵は古市高屋丘陵のすぐ南へ200mほどいった住宅地にあります。

 春日山田皇女は仁賢天皇の皇女で、安閑天皇の皇后でもあります。母は和珥臣日爪(ひづま)のむすめ糠君娘(あらきみのいらつめ)。安閑天皇即位の年(534)、皇后となるが子はなさなかった。安閑二年(535)十二月、天皇は崩じ、宣化天皇に替わる。宣化四年(539)、天皇が崩ずると、次期天皇欽明より皇位の継承を慫慂されたが、これを固辞、結局欽明天皇の即位となっています。 没年は不明。欽明天皇の即位前紀に次の文章があります。“皇子(欽明天皇)は、群臣に、「自分は年が若く知識も浅くて、政事に通じない。山田皇后は政務に明るい。どうか皇位に就いて、万機を決して頂きたい」と云われた。しかし、山田皇后は恐れかしこまって辞退された。” これは、春日山田皇后が一時的に皇位を継いだことを暗に示唆するものと考えられます。

 安閑天皇である勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)(古事記では広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)尊は、継体天皇(男大迹天皇)の長子で、母を目子媛(めのこひめ)といいます。尾張連草香(くさか)の娘である。 天皇の人となりは幼少のころから器量すぐれ、いつまでも奢らず寛大で、人君としてふさわしい人柄であった。 二十五年の春二月辛丑朔丁未の日に、男大迹天皇は大兄尊を天皇とされ、その日に男大迹天皇は崩御され、元年歳次甲寅の春正月に、都を倭の勾(まがり)の金橋宮(かなはしのみや)といいます。 三月癸未の朔戊子の日に、役人に命じて高御坐を設け即位し、春日山田(かすがのやまだ)皇女をむかえて皇后とする。 皇后のまたの御名は山田赤見皇女、億計天皇の皇女である。 別に許勢男人(こせおひと)大臣の娘、紗手媛(さてひめ)、紗手媛の妹、香香有媛(かかりひめ)、物部木蓮子大連の娘、宅媛(やかひめ)の三人の妃を立てたが、御子はなかった。 二年の冬十二月癸酉の朔己丑の日に、天皇は、勾の金橋宮で崩御され、(七十歳)河内の古市高屋丘陵(ふるいちのたかやのおかのみささぎ)に、皇后春日山田皇女と、天皇の妹・神前(かんざき)皇女とともに合葬された。

春日山田皇女・古市高屋陵

 

24代仁賢天皇449-498 
   ┣ 第25代武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)489-507 
   ┣ 春日山田皇女      堅塩姫(石川渡来系豪族)          
   ┣ 手白香皇女       ┣ 大兄皇子(第31代用明天皇)
   ┃    ┃        ┣ 磐隈皇女,臘嘴鳥皇子,額田部皇女,椀子皇女          
   ┃    ┃        ┣ 大宅皇女,石上部皇子,山背皇子,大伴皇女          
   ┃    ┃        ┣ 桜井皇子,肩野皇女,橘本稚皇子,舎人皇女          
 春日大娘皇女 ┃        ┣ 豊御食炊屋姫(推古天皇)          
            ┣ 第29代欽明天皇 509-571        ┣ 菟道貝鮹皇女  
           ┃     ┣32代崇峻天皇  ┣八田大兄皇子┣ 竹田皇子
           ┃     ┣茨城皇子    ┣第30代敏達天皇  
             ┃     ┣穴穂部間人皇女┣笠縫皇女  ┣ 押坂彦人大兄皇子
           ┃     ┃  ┗厩戸皇子 ┃     広姫(息長真手王・娘)
           ┃     ┣穴穂部皇子  ┃
           ┃     ┣宅部皇子   ┃
           ┃   小姉君(物部系)  ┃
        振姫 ┃ 橘仲皇女(顕宗天皇娘)┃
         ┣ 第26代継体天皇450-531┣石姫皇女
         ┃        ┃      ┣小石姫皇女(欽明妃)
         ┃        ┃      ┣倉稚綾姫皇女(欽明妃)━石上皇子
         ┃        ┃      ┣上殖葉皇子(欽明妃)
         ┃        ┣ 神前皇女  ┃ ┏日影皇女(欽明妃)━倉皇子
     ┣ 迂斯王      ┣ 第28代檜隈高田皇子(宣化天皇)467-539
   ┣ □             ┣ 第27代勾大兄皇子(安閑天皇)466-536
 ┣ 大郎子        目子媛(尾張連草香の女) ┃┃┃┃
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃┃春日山田皇女(仁賢天皇皇女)  
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃紗手媛(許勢男人大臣の女)  
 ┣ 伊自牟良君              ┃
香香有媛(紗手媛の妹)  
美美濃美濃豪族娘(息長氏系?)            宅媛(物部木蓮子大連の女)

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メスリ山古墳

2007年10月17日 | 陵 古墳 墓 遺跡

メスリ山古墳

 奈良の飛鳥地方の東側、阿倍寺後の近くにはメスリ山古墳があります。 崇峻天皇陵へ行く途中の住宅街の裏手の小高いところに位置しているメスリ山古墳は、「東出塚古墳」とも「鉢巻山古墳」とも呼ばれてきた古墳ですが、最終的には「メスリ山古墳」と決定されています。

 古墳は西面する大規模な前方後円墳で、全長224m、後円部径128m、前方部幅80m、後円部高さ19m、前方部高さ8m、三段築成で構築され、昭和34年12月から36年3月の第三次調査と三回にわたっての発掘調査が実施され、 従来からこの古墳には茸石があり,埴輪列のあることが知られていましたが、調査によって後円部西側で整理をした埴輪列がめぐっている状態が確められ、またこの埴輪列は前方部にも連っていることが明確になっています。

 磐余地域の前期古墳として最大規模を誇り、王権や軍事権をも掌握した人物が披葬者として推定され、安倍氏の祖「オオビコ:崇神天皇の大叔父」の墓とも云われ、桜井茶臼山古墳(神武東征説に出てくる王者手水伊彦の墓ではないか)と並んで4世紀前半の代表的な前方後円墳です。

 

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建仁寺

2007年10月11日 | 鎌倉・室町時代

建仁寺

 建仁寺は四条川原町の南・祗園花見小路の南に位置します。 祗園花見小路は舞妓さんに出くわす確率が大変高い京都情緒のある雰囲気小路であります。 建仁寺はその南にあり、小路の突き当たりが北門になります。 北門をくぐると、方丈、法堂、三門、勅使門が直線上に並んでいます。 ここ京都最古の禅寺は、臨済宗建仁寺派大本山として五山制度の第三位にあり、 建仁2年(1202)、修行先の宋・百丈山にならって栄西が開山し、寺号は年号を賜ったものと伝えられており、 室町時代の最盛期には塔頭寺院が60以上もありました。 勅使門・山門・仏殿・方丈が一直線に並ぶ境内への入場は自由ですが、 堂内は通常非公開となっており、事前に往復ハガキで申請をすると拝観が可能となるらしいのですが、今回は特別拝観期間中となっており、方丈の庭園及び法堂の天井に描かれている双龍図(小泉淳作筆) 等々を見ることが出来ました。  

方丈前庭・大雄苑(撮影:クロウ)

 

俵屋宗達作「風神雷神図」(国宝:江戸初期)の屏風

 

法堂 :江戸時代の明和2年(1765)東福寺から移し、再建。瓦葺き重櫓の禅宗様式仏殿

 

創建800年を記念して描かれた法堂の天井画「双龍図」 阿吽(あうん)の龍

 

正面須弥壇には本尊釈迦如来座像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者

 

 開山栄西禅師(茶祖でもあります)の入定塔(墓所)である開山堂。その南側には浴室がある。僧堂、食堂、三黙堂とも呼ばれる修行の場である。中央部の床上に四方の板戸と屋根で囲まれた蒸し風呂形式である。江戸初期の寛永年間の創建だが、現在の建物は平成14年(2002)に復元されたもの。建仁寺を創建した栄西禅師は、岡山吉備津(きびつ)宮の神官の出身であったと伝えられている。このためか、禅師は仏門に帰依されながらも、日本古来の神を信仰されていて、建仁寺の建立にあたり守護神として「恵比須神社」(寺の西側に)を建立。そして、建仁寺の建立が始まっている。この関係の証として、禅師は自らの墓所を恵比須神社の真正面に向かい西向きに建てるよう遺言。その遺志のとおり、開山堂は恵比須神社の真正面東に当たる位置に建てられている。

茶碑                         三門

 

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順子後山階陵

2007年10月09日 | 天皇・皇后陵

藤原順子 後山階陵

 京都府京都市山科区御陵沢ノ川町にある後山階陵は山科駅のすぐ北側にあります。 山科駅の西からまっすぐ安祥寺に伸びる道を進むと第一疎水にかかる小さな橋があり、これをわたると安祥寺入り口があります。 今回訪れた時には門は閉まっていて残念ながら中にはいることができませんでした。 ここ安祥寺の境内の安祥寺川上流西岸に東面して築かれた円墳が後山階陵だそうで、左大臣藤原冬嗣(775~826)の娘順子(809~871)が眠っています。 藤原順子は 「美姿色。雅性和厚」と伝えられていて、女御より皇太夫人に昇った初例でもあります。 のちに皇太后となり、東五条院(五条宮)を居所としたことから、五条后と称されています。 『伊勢物語』によると、姪の高子が一時同居した時、在原業平との間に問題を起こしています。 また、.藤原順子は仏法に帰依深く、宇治郡に安祥寺を建立しました。 

安祥寺 (撮影:クロウ)

 

 後山階陵一帯は、日本古来の方法による製鉄・をたたら製鉄の遺跡でもあり,比良山系から湖西・湖南地域に分布する製鉄遺跡の一つ,如意ヶ岳南麓遺跡群に含まれます。 これらの地域の製鉄は6・7世紀を最盛期とし,鉄鉱石を原料としていたと考えられている。また、輪王寺宮御墓参道もあります。

石碑

                                  801-861
     
              伊都内親王(桓武皇女)
       
                            ┃
       是公娘・吉子-807   
伊勢継子┣ 在原行平818-893
    
┣ 伊予親王       ┃   ┣ 在原業平825-880
      
┃乙牟漏皇后 760-790   ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃┃   ┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┗藤原沢子   -839
 830-887 
 ┃ 737-806   ┃  ┣ 時康親王58光孝天皇 
白壁王(光仁)   ┃  ┃ ┃     藤原穏子885-954(時平・妹)
         ┃  ┃ ┃      ┃ 安子
         ┃  ┃ ┃      ┃  ┣
         ┃  ┃ ┃      ┣ 成明親王(62村上)926-967
         ┃  ┃ ┃高藤┓┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
         ┃  ┃ ┃  胤子┣ 保明親王901-923
         ┃  ┃ ┃  ┣60醍醐天皇 ┗ 慶頼王920-925
          ┃  ┃ ┗ 源定省(59宇多天皇)┏58光孝天皇
        
正良親王(54仁明天皇)810-850   ┗源順子   
      藤原嘉智子┃  ┣
           ┃ 小野吉子(更衣)
   
   
        ┃                          *5
  
         ┃紀名虎娘・静子
┏━━━━━┛ 
                 ┃    ┣
紀有常女              
            ┃   ┣ 惟喬親王(第1皇子)
   
        藤原冬嗣
┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858        
           ┣ 藤原順子(冬嗣・娘) ┣清和天皇        
 
    美都子           藤原明子

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仁明天皇皇后・沢子中尾陵

2007年10月08日 | 天皇・皇后陵

仁明天皇皇后・藤原沢子中尾陵

 京都府京都市東山区今熊野宝蔵町の住宅地にあるのは仁明天皇皇后藤原沢子中尾陵で、泉涌寺への参道の近くにあります。写真の角度が悪いのですが、石碑の鳥戸野陵と書いている右の面に中尾陵と刻まれています。 実はわたくし、この道は何度も通っております。 恐らく10回くらいは・・・。 今思えば何故ここに中尾陵があると気がつかなかったのか、車で通ると見逃すことは多いのです。 

 贈皇太后藤原沢子(?~839)は、藤原総継の娘で、一説に『源氏物語』中の桐壺更衣のモデルといわれている。 仁明天皇の女御・藤原順子(808~871)(藤原冬嗣の娘) が文徳天皇を産んだのに対して、藤原沢子は光孝天皇を産んだ。 仁明天皇の沢子に対する寵愛は後宮に並ぶ者がないといわれたというが、宮中にて急病となり、小車に乗って宮中を退出し、里邸に着くと生き絶えます。 天皇はこれを聞き哀悼し、使を遣わして従三位を贈り官に喪事を監護させました。 のちに所生の時康親王(光孝天皇)が即位。没後45年を経て皇太后を追贈されます。

 

                                  801-861
     
              伊都内親王(桓武皇女)
       
                            ┃
       是公娘・吉子-807   
伊勢継子┣ 在原行平818-893
    
┣ 伊予親王       ┃   ┣ 在原業平825-880
      
┃乙牟漏皇后 760-790   ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃┃   ┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┗藤原沢子   -839
 830-887 
 ┃ 737-806   ┃  ┣ 時康親王58光孝天皇 
白壁王(光仁)   ┃  ┃ ┃     藤原穏子885-954(時平・妹)
         ┃  ┃ ┃      ┃ 安子
         ┃  ┃ ┃      ┃  ┣
         ┃  ┃ ┃      ┣ 成明親王(62村上)926-967
         ┃  ┃ ┃高藤┓┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
         ┃  ┃ ┃  胤子┣ 保明親王901-923
         ┃  ┃ ┃  ┣60醍醐天皇 ┗ 慶頼王920-925
          ┃  ┃ ┗ 源定省(59宇多天皇)┏58光孝天皇
        
正良親王(54仁明天皇)810-850   ┗源順子   
      藤原嘉智子┃  ┣
           ┃ 小野吉子(更衣)
   
   
        ┃                          *5
  
         ┃紀名虎娘・静子
┏━━━━━┛ 
                 ┃    ┣
紀有常女              
            ┃   ┣ 惟喬親王(第1皇子)
   
        藤原冬嗣
┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858        
           ┣ 藤原順子(冬嗣・娘) ┣清和天皇        
 
    美都子           藤原明子

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京都にまつわる川の話

2007年10月07日 | 明治維新以降

京都にまつわる川の話

平安時代から続く保津川下り

平安京遷都の前、長岡京遷都のときから都の造営のための膨大な木材の供給を丹波の国・山国に求めたのは桓武天皇であった。 陸路もあったが、なんといっても大量輸送に適しているのは筏である。 桂川が淀川と合流したあたりから保津峡にさしかからまでを大堰川と呼び、保津川、桂川と名称をかえるが、大堰川・保津川の急流は最大の難所の連続であった。 明治の後半には鉄道・トラック輸送が発達したため筏流しはなくなったが、現在高瀬舟の急流下りとして、その伝統は約1200年続いている。

 

保津峡の開削(1606年)を行った角倉了以(すみのくらりょうい)は、京都の町に数多くの開削を行い、運河を作っている。 その代表的なのが高瀬川である。 高瀬川は鴨川の西側、木屋町通に沿って流れていて、巨大な木材を運搬するための鴨川水道が起源である。 これによって豊臣秀吉の方広寺再建が達成された。 現在、木屋町通の二条大橋近くに、船着場の跡があるらしい。「高瀬川一之船入」がそれである。 又同様の運河で、その名を「東高瀬側」「西高瀬側」「古高瀬川」「旧高瀬川」とする運河もある。

 

同じ床なのに「ゆか」と「とこ」

初夏になると鴨川一帯では清涼床での料理を楽しむ風景が日常的である。 床は「ゆか」と言い、決して「とこ」とは言わない。 鴨川の床の歴史は古く、秀吉の桃山時代に遡ると言う。 一方、貴船神社のそばを流れる貴船川での床は「とこ」と言い、川床料理などと言う。 両者ともに趣があって鴨川の床などは舞妓さんの姿などをみると、京都に遊びに来てよかったと痛感する。 

 

鴨川の床(五条大橋付近)          鴨川の床(四条大橋付近) 

 

 

上賀茂神社と下鴨神社

上と下では何故「かも」の字が異なるのか前々から気になっていたが、少しわかってきた。 京都の御所の東を縦断する鴨川は出町柳のところで、賀茂川と高野川にわかれます。 その分岐点にあるのが下鴨神社で、ずっと北西に位置する賀茂川沿いにあるのがのが上賀茂神社である。 では鴨川と賀茂川の違いはどこからきているのか。 色々と調べてみたが不明であった。 京都ならではの風情がなせる技ということにして、川のY字の合流部にかかる橋の名前は加茂大橋という。 昔の京都人は色々な漢字をあてて地名を楽しんだとしか言いようがない。 極めて合理的ではないが、なんだか面白い。

加茂大橋

 

京都には北流する川がある

京都の川は北から南へ流れているのは誰もが知っている。ところが一箇所だけ、逆に流れている川がある。 それは哲学の道沿いに流れる疏水である。 琵琶湖と京都を船で結ぶ運河として疏水は拓かれたが、その疏水分線が蹴上から南禅寺の水道橋を通って哲学の道のほうへと延びたのである。 そしてこの北上する疏水は銀閣寺前から北白川疏水となる。 すなわち疏水は北大路通を越えて松ヶ崎に届いたあと、西南に曲がり、下鴨の下を貫き、紫明通を流れて堀河を終着点とする。 松ヶ崎が北上の端なのは、このあたりの海抜が琵琶湖と同じだからである。 ところで、当時、この疏水大事業の設計を行ったのは疏水開削を卒業論文とした大学出たての青年技師・田辺朔郎という人らしい。 

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