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長谷寺

2007年10月28日 | 平安時代

王朝女人が詣でた長谷寺

 奈良・桜井市にある長谷寺には藤原定家、俊成の記念碑があるということで行って参りました。 長谷の地は、その昔泊瀬、初瀬、始瀬、終瀬と云われ、瀬が始まるところ、または瀬が果てるところであった。 古くは神意を仰ぎ、「神河」と呼ばれていた。 初瀬は三方を山に囲まれ西方のみが開けた「隠国(こもりく)の里」であった。 5世紀に泊瀬の小野に遊んだ雄略天皇は雄渾な国褒めの歌を歌っています。

隠国の 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走りでの よろしき山の 隠国の 泊瀬の山は あやにうら麗し あやにうら麗し

 三輪山のすぐ東に位置するこの古寺は、我が国最大の木造仏といわれる本尊十一面観世音菩薩像など、重要文化財が多々ある寺でもあり、草創については686年僧・道明が天武天皇のために銅板法華説相図を西の岡に安置し初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立し、のち727年僧・徳道が聖武天皇の勅願により東の岡に十一面観世音菩薩を祀り、僧・行基が開眼供養し寺が成立したと考えられていますが、正史に見えず、伝承のようです。 四季折々の花が境内を美しく彩る寺でもあり、四月下旬から五月中旬にかけて牡丹の花が見事に咲くことでも知られています。 また、平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集め、1024年には藤原道長が参詣しています。 古くから牡丹の花が咲き乱れ 「花の御寺」と称されていて、「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場します。 中でも「源氏物語」にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っています。 

 蜻蛉日記の著者である藤原道綱母(受領・藤原倫寧の娘で954年に藤原兼家と結婚)が初瀬詣を果たしたのは968年でした。 夫藤原兼家を振り切って少ない供と旅に出ます。 方違いを法性寺(今の東福寺)に定めて早朝出立し、伏見稲荷を横目に進み宇治で昼食後、木津川そばの橋寺(泉橋寺)に泊まり、 二日目は木津川を越えて春日大社を経由して椿市(今の桜井市近辺の海石榴市に泊まります。 椿市は当時交通の中心地として栄え、枕草子や源氏物語にも登場しています。 行きはほとんど一人旅のようで、深い憂色に包まれているが、帰りは、宇治まで兼家が迎えにきており、蜻蛉日記には浮き浮きと明るい調子で描かれています。

仁王門

 

仁王門をくぐらずに境内図の前を右に進むと藤原定家塚・俊成碑へ

 

中央は藤原定家塚 左が俊成碑

  

源氏物語の「玉鬘」の巻に登場する二本(ふたもと)の杉

 

 源氏復権後の栄華を極める生活の中の新たな物語です。夕顔の娘「玉鬘」(21歳)は、筑紫で美しく成人していました。 源氏は、その姫を探し出して引取りたいと考えていました。その夕顔の遺児「玉鬘」は、4歳のころ乳母一家に伴われて、立派に成人していました。その美貌に求婚者が殺到する中、乳母とその家族たちは、玉鬘を上京させて父の内大臣や母に巡り合わせたいと都へ上る決心をし、早船を仕立てます。神仏に願をかけ、長谷寺の御利益を頼みに、参詣の旅にでます。その旅の宿(海石榴市の宿)でかつての夕顔の女房右近とめぐりあいます。 右近は夕顔亡き後、源氏に仕えるようになってからも、夕顔の忘れ形見めぐりあいたいと、長谷寺に祈願をしていたのです。まさに長谷寺の引き合わせでしょう。この感動的な巡り合いをお互いに喜び、右近と乳母は語り合います。右近は、みすぼらしい身なりをしているものの、玉鬘の美しさに驚き、早速京に戻って源氏に報告します。源氏の驚きと喜びは大きく、早速玉鬘に文を送ります。源氏は、玉鬘を六条院に引取り、花散里のもとに預けます。  はじめて見る玉鬘は、夕顔の面影をそのままうつしており、源氏は満足です。夕霧は、玉鬘を姉と信じ、玉鬘を守って筑紫から上ってきた乳母の子も家司に迎えられ、思いがけない幸せの中に年の暮れを迎えました。

 紫式部は「玉鬘」の中で長谷観音の霊験を 「仏の御中には、初瀬なむ、日本の中にはあらたなる験あらはしたまふと、唐土にだに聞こえあむなり」 と讃えています。

本堂 木造の十一面観世音菩薩が祀られています 

 

 本堂は代表的な江戸建築で、創建は奈良時代といい、平安時代には礼堂があったとされている。現本堂には巨大な十一面観音菩薩が祀られ、1650年に徳川家光によって再建された。

 礼堂の前には舞台があり、紅葉の季節には幽玄のつどい「芸能奉納」が行われます。 また、紅葉の季節には舞台から見下ろす長谷寺全景の絶景が想像されます。実はこの「幽玄のつどい」、長谷寺に行って知ったのですが先週13:00から行われていました。 室町時代の貴族・武家社会には、幽玄(美しく柔和な優雅さのことをいいます)を尊ぶ気風がありました。 世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられています。 世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしたのです。 今回「夢幻能」が見れなかったのは誠に残念でした。


 

本堂と仁王門を結ぶ上登廊と上下登廊の中間にある蔵王堂

 

蔵王堂の横には紀貫之・古里の梅と一茶の句碑があります

 

仁王門への下登廊 観音万燈会時には上下の数百の燈籠に火が灯る

 

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第48代称徳天皇・高野陵

2007年10月27日 | 天皇・皇后陵

第46代孝謙天皇/第48代称徳天皇・高野陵

 高野陵は奈良・平城宮跡の北西すぐ、成務天皇陵、日葉酢媛命陵の南に隣接しています。 この辺一帯は自動車の通行を許可していない生活道路が多く、渋滞が慢性化していて近寄りにくいところです。成務天皇陵、日葉酢媛命陵は参拝したにもかかわらず、隣接する高野陵へは参拝していなかったので、再度の訪問です。

 

 孝謙天皇(718-770)の父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后で、史上6人目の女帝である。 天武系からの最後の天皇であり、即位前の名は阿倍内親王と言います。 淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇(稱天皇) 以降、江戸時代の明正天皇に至るまで実に850余年女帝はいません。

 744年、聖武天皇が難波宮へ引越しを始めた頃に、安積親王が恭仁宮(くにのみやこ)で急死した。安積親王は光明子が皇后になったきっかけの人である。 光明子の息子・基皇子が生まれて間もなく病死した頃に、聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた皇子が、その人である。 738年に光明子の娘・阿部内親王(後の孝謙天皇)を皇太子にすえていたものの、朝廷内には反論も多く、藤原四兄弟が亡くなった今では藤原反省力が盛り返していた。 大伴家持などはその筆頭であった。聖武天皇と分かれて恭仁宮にいた安積親王は、同じく留守番をしていた藤原仲麻呂に毒殺されたのかもしれない。後に仲麻呂は孝謙天皇とともに政界を握ることになる。 聖武天皇の彷徨がおさまったのは745年のことである。橘諸兄の政権に指導制が欠如していたために、天皇の専横を許したともいえる。 749年聖武天皇は孝謙天皇に譲位した。安積親王の謎の死によって阿部内親王が女帝として即位したのである。そして光明皇后は孝謙天皇の補佐を行う機関(紫微中台)をつくり、天皇にかわって皇太后が勅をだすのである。 そして紫微中台の長官には藤原仲麻呂がついた。756年、聖武天皇が崩御されたときの遺言には孝謙女帝の次には道祖王(ふなどおう)を立てるようにとあった。 道祖王は新田部皇子の子で、天武天皇の孫に当たる。朝廷内が藤原一族で固められるのを懸念していた。 翌757年に橘諸兄が死去すると公卿のトップには藤原豊成がつき、藤原南家の全盛時代が到来し、反藤原勢力の道祖王は朝廷機密漏洩事件を起こしたとして皇太子を廃し、右大臣・豊成、藤原永手らは、道祖王の兄・塩焼王を推薦。 また他にも船王、池田王、など推薦されるが孝謙女帝は仲麻呂推薦の大炊王を皇太子とした。大炊王の妻は仲麻呂の長男・真従の先妻であった。 皇太子大炊王を手中にした仲麻呂は独裁政権の道を歩み始めるが、反藤原勢力として橘諸兄の長男・奈良麻呂、道祖王、大伴古麻呂が動き出す。 ところが、757年、長屋王の子山背王が仲麻呂、孝謙天皇に密告する。 そしてこのときに、奈良麻呂以下、死刑・流刑に440人余りが処された。仲麻呂の独裁に対する反感の大きさが伺える。

 橘奈良麻呂の某反後の758年、孝謙天皇は皇太子大炊王を立てて、淳仁天皇を即位させると、藤原仲麻呂は天皇より恵美押勝という名を贈られている。 そして760年に太政大臣に、762年には正一位という最高潮を極めた。 その後息子・真先、弟・久須麻呂を参議にしたが、次第に仲麻呂に翳りが見え始める。 760年に光明皇太后が死去した。 淳仁天皇の後ろ盾はあったものの、孝謙太上天皇に近づいた看病禅師・道鏡との仲が親密になると、仲麻呂と孝謙との間に亀裂がはいるようになった。 仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙の態度を戒めると逆に孝謙は、国家の大事に対しての決済を行うようになり、仲麻呂の権力を奪ってしまった。 763年、仲麻呂側の僧を追放し、道鏡を少僧都とすると、益々孝謙と仲麻呂の確執は深まる。 そして仲麻呂は兵を集めて反乱にでるが、坂上刈田麻呂(坂上田村麻呂の父)に阻まれ、 逆賊となった仲麻呂は官位を奪われ、764年処刑される。 その後、淳仁天皇は廃され孝謙は復位して称徳天皇となった。 そしてその後称徳天皇が亡くなるまでの約7年間、女帝と道鏡による政治が行われる。しかし769年、道鏡を天皇にするか、聖武天皇の血を残すか 悩むときがきた。 そして女帝は和気清麻呂を呼びよせ、決断をゆだねる。 和気清麻呂の姉・広虫は紫微中台の官人で、尼法均として女帝に仕えていたため、清麻呂は秀才官僚としてのし上がってきていた。 そして清麻呂は、道鏡の即位は律令制度の王位継承権に違反するとの判断を下すが、これに憤慨した称徳天皇は、清麻呂の官位を剥奪し、姉も備後に流罪となった。この事件後、称徳天皇は継承者を指名しないまま病死し、道鏡も朝廷から姿を消したのである。

   ┏ 蘇我娼子娘-693
   ┣ 安麻呂  ┣ 武智麻呂(南家)680-737

           ┃   ┗ 仲麻呂706-764 後に恵美押勝
 
          ┣ 房前  (北家)681-737元正の内臣
 
           ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737
 
           ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱        白壁王709-781光仁天皇

           ┃  ┣ 良継 白壁王支持           ┣ 他部親王

  ┏許米━大嶋  ┃  ┗ 百川 道鏡追放   県犬養広刀自 ┣ 酒下内親王

┏□ 金(反大海)
 ┃                            ┣ 井上内親王717-775
 
┣□□意美麻呂  ┃五百重669-695(天武夫人)      ┣ 安積親王728-744 
  
┃舒明┓      ┃┣ 麻呂 (京家)695-737       ┃

┃   鏡女王    ┃┃          文武天皇683-707  ┃
 
┃    ┣氷上娘 ┃┃ 賀茂比売         ┣ 首皇子(45代聖武724)701-756

┃    ┣五百重 ┃┃  ┣ 藤原宮子682-754┛     ┣ 基皇太子727-728
  
┗□ 鎌子614-669┃┃  ┣ 長娥子694-(長屋王妾)  ┣ 阿部内親王46代孝謙718-770

           ┣ 藤原不比等659-720               ┃
       ┣ 定恵644-667 ┣━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
        與志古娘       ┃     
       
          県犬養(橘)三千代668-733                   
              ┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用)
 
            ┃  ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757  
  
           美努王

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大山守命・那羅山墓

2007年10月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

応神天皇皇子 大山守命・那羅山墓

 大山守命墓は宇和奈辺陵の東、奈良ドリームランド(現在は閉館になっております)の西にあります。 住宅地の一角にひっそりと位置しているので、しっかり探さないとわかりません。 アクセスも悪くて駐車場も周りにはありません。 大山守命は応神天皇の第一皇子(第二皇子かも。。)にあたり、菟道稚郎子、大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)とは異母兄弟にあたります。この異母3兄弟には以下の王位継承の物語が伝えられています。

 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族で、『播磨国風土記』では宇治天皇とも云われている応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ)の女・宮主宅媛である。 同母妹には八田皇女・雌鳥皇女がいて父・応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたが、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる皇子です。 皇太子となった翌年に天皇が崩じたが、太子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとして即位せず、両者互いに譲り合っっていました。 一方、応神天皇と妃・高城入媛(仲姫命の姉にあたる)との間に生まれた大山守皇子(仁徳天皇とは異母兄弟にあたる)は、 自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を殺そうと挙兵するのであるが、大鷦鷯尊により察知され、太子の謀略に遭って殺されます。 この後、太子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年、永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は決着をつけるべく自ら果てることになります。 尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の矢田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたといいます。

大山守命・那羅山墓(撮影:クロウ)

 

 

 大鷦鷯尊は父応神天皇の命に従い、末弟の菟道稚郎子に天下を譲ろうとしたが、大山守命は弟の即位を認めず、菟道稚郎子を殺そうと謀った。菟道稚郎子は大鷦鷯尊から兄の計画を聞き知り、逆に計略を以て大山守命を宇治川に葬った。船とともに沈んだ大山守命の屍を引き上げたときに菟道稚郎子が詠んだのが、次の歌であるという。 「宇治川の渡りに、川を渡る浅瀬に、立っている、梓の木と檀の木。それで弓を作るために、木を伐ろうと(大山守命を殺すことを言う)、心には思うけれど、一方には君を思い出し、他方には妻を思い出し、痛々しく、あれにつけては思い出し、可哀想にと、これにつけては思い出し、結局伐らずに来てしまったよ、梓弓・檀の木を。」 古事記より

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新陽明門院・笠間山陵

2007年10月26日 | 陵 古墳 墓 遺跡

新陽明門院・笠間山陵

 新陽明門院・笠間山陵は、奈良桜井と榛原の中央の岳山(長谷寺から正面に大きく見える525.5mの山)の中腹にあります。165号線を走っていると、すぐに見つけることが出来ます。 今回はかの有名な長谷寺へいったついでにこの陵に立ち寄ってみました。 この陵に眠っているのは第97代後村上天皇の中宮・源顕子こと新陽明門院(嘉喜門院ともいう。藤原勝子?-?が嘉喜門院との説のほうが有力)です。 因みに新陽明門院といえば、亀山天皇妃で関白基平の娘・近衛位子(1262~1296)もおりますが、ここで紹介する御方では御座いません。   後村上天皇には藤原勝子との間に寛成親王(第98代長慶天皇)、煕成親王(第99代後亀山天皇)を輩出しています。 そういった状況の中で、源顕子を中宮として向かえて坊雲、憲子内親王を設けていますが、中宮源顕子とその子の坊雲は、世を避けて陽雲寺雲上庵に閑居したと云います。

 1333年、後醍醐天皇の第8皇子・義良親王(当時5歳。後の後村上天皇) は、後に中宮となる顕子の父北畠親房と兄顕家に奉じられて東北鎮定のため奥州へ下向し、翌年の建武元年(1334年)、親王宣下。建武新政が瓦解した後、延元三年(1338)秋、東国経営のため再び親房ほかと共に船団を組んで出航したが、暴風に遭って義良親王の船は伊勢に漂着、その後吉野に帰還します。 同四年(1339)三月、父帝の皇太子となると、 同年八月十五日、践祚。時に十二歳でした。 正平三年(1348)正月、高師直らに吉野行宮を攻められて賀名生(あのう)に遷居。同六年、足利氏の内訌により尊氏が南朝に和議を申し入れると、翌年、南朝軍は京都を占拠。 後村上天皇は男山(八幡山)に出陣して光厳院・光明院・崇光院を捕えたが、入京を目前にして事態は急変、足利軍に京都を奪回され、結局賀名生に還幸となります。 同九年十月、河内天野山に遷幸し、金剛寺を行宮とする。 同十四年十二月、天野行宮を侵され、観心寺(大阪府河内長野市寺元)に遷御。 翌年九月、さらに摂津住吉の行宮に遷った。正平二十三年(1368)三月十一日、住吉行宮にて41歳で崩御し、河内観心寺に葬られている。陵墓は同寺境内の檜尾陵。

新陽明門院・笠間山陵(撮影:クロウ)

 

 

 

     (持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                                    藤原立子(東一条院)    ┃
                         修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇      ┃
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181        ┣84順徳天皇         ┃
         ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239    平棟子      ┃     
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇┣宗尊親王   ┃ 
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇     ┃
       ┃ ┃  ┃ ┣87四条天皇    ┃源通子   ┃┣89後深草天皇
       ┃ ┃  ┃ 藤原竴子       ┃      ┃┣90亀山天皇━┓
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子  ┃
         ┃ ┃持明院基家┛                          ┃            ┃
         ┃藤原殖子(七条院)               ┣宗尊親王    ┃

          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)     平棟子       ┃
       徳子1155-1214(建礼門院)                       ┃

 ┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃                                不明 
 ┃     姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)         ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-             阿野廉子  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子 ┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) 藤原(徳大寺)忻子  ┣祥子内親王 ┣憲子内親王(新宣陽門院)(1343?-1391)
            ┃                ┃      ┣坊雲
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339     源顕子?-1359
     藤原忠子 ┣懽子内親王       ┃┃┣護良親王1308-1335         
     西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
         ┣西園寺禧子(礼成門院)   ┃┣尊良親王
         ┣左大臣公衡        ┃┣宗良親王  
         ┣太政大臣兼季       ┃二条為子
         ┣西園寺金章子   藤原実俊┣世良親王
         ┗西園寺瑛子       ┃┣静尊法親王
                      ┗遊義院一条局

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春日宮天皇妃御陵

2007年10月25日 | 天皇・皇后陵

春日宮天皇妃御陵(吉隠よなばり陵)

 春日宮天皇妃御陵は 奈良県宇陀郡榛原町鳥見山(標高740メートルの山)にあります。 鳥見山といえば厩戸皇子や押坂彦人大兄皇子の舎人・迹見赤檮(とみのいちい)の出身地でも有名です。 近鉄大阪線の榛原駅近くの165号線から登山道が伸びています。 この登山道口を登る人はほとんどいないのでしょうか、楽に入れるような道ではありませんでした。 

 

 春日宮天皇妃御陵は 第49代光仁天皇の母・紀橡姫(きのとちひめ)(紀諸人の女) の御陵で、 709年(和銅2)吉隠の地で崩ぜられ、ここに葬られたと伝えられています。 春日宮天皇は、光仁天皇の父・施基皇子 (皇位継承とは全く無縁で、政治よりも和歌等文化の道に生きた人生だった) のことをいい、天智天皇の皇子になります。  奈良時代末期、聖武天皇の娘であった孝謙・称徳天皇(46代、48代の二度天皇となって重祚)には、子供がなかったことから、光仁天皇(天智天皇系)に皇統が移っているのです。 光仁天皇・白壁皇子が即位されると、 亡くなられたあとに春日宮天皇として諡号されてい ます。 また、施基皇子は万葉歌人でもあり、 よろこびの御歌一首を見ることが出来ます。 「石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも

 紀橡姫(きのとちひめ)の出身の紀氏は「記紀」上では元々 天道根命又は御食持命を祖とする「神別氏族」である。宇遅彦命の時、紀国造となりその妹「山下影媛」が8孝元天皇の孫屋主忍男武雄心命の妃となり、その間に「武内宿禰」が産まれたとされている。この武内宿禰が、宇遅彦の子「宇豆彦」の娘の「宇乃媛」を妃として、紀(木)角宿禰が産まれた。これが、外家紀氏の姓を嗣いで「皇別氏族」として中央政界で軍事氏族として活躍する「紀氏」となった。これが紀氏の祖は、武内宿禰であると言われる由縁である。紀の国紀氏は、古墳時代初頭の昔から紀国の豪族であったが、大和王権に媚びてその由緒を捨て去り、神別、皇別氏族へと6世紀後半ー7世紀前半に集団が分断されたらしい。 武内宿禰は、架空の人物(紀記編纂時造られた)とされ、この子紀角宿禰は、渡来系の人物で7世紀あたりで神別紀氏の系譜に入りこんだ、との説も多数ある。

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