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昌平橋の北近辺は神田旅籠町

2010年07月19日 | 池波正太郎 江戸時代

 東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道すべての起点は日本橋であるが、なかでも家康は東海道、中山道の整備に力をいれたことから、それらの宿場につづく街道筋であるこの神田川沿いには多くの旅人が休む旅籠が立ち並び、 昌平橋・万世橋・柳原通り一帯が大変賑わったといいます。

-------------------説明板の記載内容------------------- 

 この周辺は、かつて神田旅籠町と呼ばれていました。 昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。 江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道(とうかいどう)と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。 しかし、天和二年(1682)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694)には、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869)には、昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町三丁目と改称されました。 さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。『諸問屋名前帳』によれば、嘉永(1848~1854)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。

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