藤原旅子・宇波多陵 (京都府京都市西京区大枝中山町)
京都・嵐山の南へ10kmくらいのところに、桓武天皇夫人・藤原旅子の御陵・宇波多陵はあります。 すこし狭い県道でしょうか、いけるところまで車でいき、途中の竹林からは歩くこと約5分。 暫くすると御陵が見えてきます。 (撮影:クロウ)
宇合の長男・広嗣は橘諸兄に対乱して失脚し、弟の良継は大伴家持らとともに仲麻呂殺害を企てて失敗したが、後に仲麻呂追討の功を挙げ、光仁擁立に尽力して内大臣に至った。 弟の百川は北家左大臣の永手と計って光仁(白壁王)擁立、道鏡追放を実現させた。 (永手の働きが大きく、百川は中心ではないという説もある) 皇太子には第四皇子の他部親王が、聖武天皇の血筋であるがゆえになった。 しかし1年後には身分の低い山部親王(後の桓武天皇)が皇太子になる。 他部親王が廃太子となったのは母・井上皇后が夫の光仁天皇を呪詛したため、他部親王にも及んだというが、これは百川の策略による可能性が高い。 こうして百川の活躍で式家は藤原氏をリードし、桓武天皇は後に百川の娘・旅子を妃とし淳和天皇を出している。 また、百川の子・緒嗣は重用され20代で参議となっている。 尚、「日本後紀」は嵯峨天皇の勅命により緒嗣らが編纂したものである。
┃ 多治比真宗769-813 ┣娘
┃ ┣ 葛原親王786-━高望王 薬子┃
┃ ┃是公娘・吉子-807 ┃┃
┃ ┃┣ 伊予親王 -807 ┃┃帯子(百川娘)
┃ ┃┃乙牟漏皇后 760-790 ┃┃┃伊勢継子
┃ ┃┃┣ 高志内親王789-809 ┃┃┃┣高岳親王
┃ ┃┃┣ 安殿親王774-824 (51平城天皇)
┃和新笠┃┃┣ 賀美能親王786-842(52嵯峨天皇)┣阿保親王
┃ ┃┃┃┃ ┣業良親王 ┣正子 藤子 ┃
┃ ┃┃┃┃ 高津内親王 橘清友┣54仁明810-850 *
┃ ┃┃┃┃ ┣橘嘉智子┣55文徳帝(道康)
┃ ┃┃┃┃ ┗橘安万子順子 ┗56清和天皇
┃ ┃┃┃┃ 藤原真作┃ ┣貞数親王
┃ ┃┃┃┃種継 ┣三守 ┣女
┃ ┃┃┃┃ ┗藤原東子-807┗美都子 * ┏文子
┃ ┃┃┃┃ ┣ 甘南備内親王800-817 ┣在原行平818-893
┃ ┣山部王(50代桓武天皇)737-806 ┣在原業平825-880
┃ ┃ ┃┣良峯安世785-830 ┣ 伊都内親王801-861
┃ ┃ ┃永継 ┗良峯宗貞815- 平子(乙叡娘)
┃ ┃ ┃ヨウキョウ ┣素性法師
┃ ┃ ┃ ┗由性法師
┃ ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
┃ ┃百川娘・旅子 759-788
┃ ┣ 早良親王750-785(崇道天皇 大伴家持派)
┃ ┣ 能登内親王733-781
┃白壁王709-781(49代光仁天皇)
┃ ┣ 他部親王761-775
┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮)
┃ ┃ ┃ ┣朝原内親王779-817(斎宮)
┃ ┃ ┃ 桓武天皇 ┣
┃ ┣ 井上内親王717-775 平城天皇
┃ ┣ 不破内親王
┃ ┃ ┣ 氷上川継782の謀反
┃ ┃ 塩焼王 大伴家持
┃ ┃ 坂上苅田麻呂
┃ ┣ 安積親王728-744
┗首皇子(45聖武天皇)701-756
┣ 基皇太子727-728
┗ 阿部内親王(46孝謙/称徳718-770)