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将軍綱吉時代の勘定奉行・荻原重秀

2010年04月12日 | 池波正太郎 江戸時代

 荻原近江守重秀1658-1713は、江戸幕府の勘定奉行で、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで有名である。 重秀は将軍綱吉時代の経済政策を一手に任された。 金銀の産出量が低下する一方、経済発展による貨幣需要は増大し、幕府は大幅な財政赤字危機にあった。 このとき荻原重秀は実物貨幣から信用貨幣へのシフトによる市中に流通する貨幣量の増大を目指して慶長金銀を改鋳し金含有率を減らした元禄金銀を作ったのである。  貨幣改鋳は経済の混乱を招き、未曾有のインフレをもたらしたのである。 一方、改鋳により商業資本と富裕層がストックしていた大量の慶長金銀の購買力は低下し、幕府の改鋳差益金は約500万両となった。 商人たちは貨幣価値の下落というリスクに直面し、金銀の退蔵が減少し貯蓄から投資へという流れが生じた。こうして幕府の金蔵から商家の蔵へ金銀が移動する経済構造が変化し、財政赤字を縮小しつつ緩やかなインフレが実現され、経済は発展し好景気に沸いた。しかし元禄地震(関東)・宝永地震(東南海)・富士山宝永噴火など大災害が続いたこともあって赤字財政からの脱却は難しく、上記の様に佐渡金山のテコ入れ策を講じ、長崎貿易の代替物を増額して運上金を徴収し、全国の酒造家にも50%の運上銀をかけるなど、一貫して幕府歳入の増加に努めた。しかし財政赤字補填を目的とした宝永3年(1706年)に始まる宝永金銀の発行に至って、特に銀貨の品位が低下し通貨量が増大したことから著しいインフレが発生し、商人の保有する資産価値が低下し元禄文化に終止符を打った。

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