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56 最終章 武士にとって自決は名誉ある死

2013年09月02日 | 太平洋戦争

 太平洋戦争が終わり、GHQによる東京裁判でA級戦犯で死刑となったのは7人、終戦直後に責任をとって自決した陸海軍の要人はわずかに35人である。一方太平洋戦争によって亡くなった一般軍人・民間人は、数え切れないが、今まで54の記事で取り上げた戦いだけでも、次となる。1.真珠湾攻撃70名 2.マレー作戦2000名 3.フィリピン戦5000名 4.ビルマ攻略5000名 5.ミッドウエー海戦3000名 6.ガダルカナル戦23000名 7.ソロモン海戦2000名 8.ニューギニア戦120000名 9.アッツ島戦2500名 10.インパール戦60000名 11.マリアナ沖海戦8000名 12.サイパン戦30000名 13.グアム戦18000名 14.フィリピン戦340000名 15.硫黄島戦18000名 16.沖縄戦190000名 17.本土空襲300000名 18.広島原爆投下170000名 19.長崎原爆投下150000名。 以上を合計すると、約145万人となる。靖国神社に祀られている太平洋戦争関係の英霊は213万人であるから、私が取り上げてきた海戦、陸上戦以外においても70万人が犠牲となっているのである。この戦いで一番悲惨なのは一般市民100万人以上が犠牲になっていることであり、この惨状は日本の歴史を顧みても例はない。あの戦国時代ですら領主は庶民を守るために最後は自決したのである。 

  玉音放送から調印までに自決した将官は海軍6名を含む35名であるが、ほかにも責任を取る必要があるのは参謀本部の幹部たち、海軍では軍令部総長である。開戦当時に参謀総長であった杉山元は、妻に自決を迫られて9月12日にピストル自殺を果たしている。夫の自決を確認した妻はその後を追って自決。奥様のほうが覚悟ができているのである。次の参謀総長は東条英機、ピストルによる自殺未遂で死に切れず、後に東京裁判で死刑。終戦時の参謀総長は梅津美治郎、東京裁判で終始禁固刑、服役中に病死し、何ら戦争責任を述べることなく無言死。一方、敗戦当時の海軍軍令部総長は永野修身、海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長をすべて歴任したという唯一の元帥海軍大将であるが、戦後弁明はせずに真珠湾攻撃の責任は自らにあるとし、軍事的見地からみれば真珠湾攻撃は大成功だったと主張、自決はせずに病死している。もちろん労務死扱いで靖国神社に祀られている。驚くべきことは永野修身の出身は高知であり、郷土の英雄・坂本龍馬を深く尊敬していたというから幕末における勤皇の志士たちも尊敬していたはずである。しかも吉田松陰の精神を教育に取り入れたことで評価されていたというが、最後の最後にメッキが剥がれてすべての名誉を失ったと私は考えるから、吉田松陰や坂本龍馬とは雲泥の違いである。次に参謀本部次長クラスになると誰一人として責任を取っての自決などはしていない。当時の将官は楠木正成の忠誠を学び、最後は自決という名誉ある死(獄中病死や死刑などは武士として最も恥じるべき死に方)が美学であると教えてきたはずである。ところがわが身となるとその美学に向かって武士の生き様を実行しなかった。それは何故だろうか。大日本帝国軍の中枢は、幕末の志士とは全く違って名誉など不要であったのか。こうした状況下では、「生き恥をさらして生きることが責任」という意見があり自決を周りが食い止めたという話は多い。それならば「生き恥をさらす」という意義を全うすべきである。インパール作戦立案者のように東京裁判にて判決が決まったにもかかわらず、数万人の犠牲者をだしたにもかかわらず、死ぬまで自己の正当性を主張し続けたというから、崇高な意味での生き恥をさらすことの意味をわかっていないこれらの連中が、責任を放棄しながらただ単に生きながらえるのであるから、200万人は浮かばれないのである。開戦時の海軍軍令部総長は伏見宮博恭王、皇族出身の軍人で、徳川慶喜の娘を妻とした御仁である。博恭王の総長退任時に、及川古志郎海相に意見を求められた井上成美は「もともと皇族の方はこういう重大事に総長になるようには育っておられない」と批判している。批判はさておき、伏見宮博恭王は脳出血や心臓病のため1944年2月以降は療養生活を送り、敗戦1年後には病死しているから、どのように責任をとったのかは見えてこない。くどいようであるが、戦国大将がどのように責任をとったのかを勉強すれば(楠木正成を勉強したはず)海外からの批判にも耐えられるのである。沖縄県民で代表されるように、一般庶民でさえ捕虜よりも自決という名誉の死を選んだことを忘れてはならない。

 最後に今売り出し中の28歳の社会学者・古市憲寿氏は自らの著書「誰も戦争を教えてくれなかった」において日本国民の太平洋戦争に対する意識調査結果を4つの質問結果で紹介している。①戦争の開戦日は?②日本の同盟国は?③原爆が投下された場所は?④終戦記念日は?である。そして残念なことに正解率は20%に満たないという。この結果を若者の責任といえるだろうか。著者は戦争体験者の責任も免れないといいたかったのではないだろうか。

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