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崇俊を追い込むための蘇我馬子の思惑

2010年04月26日 | 奈良・飛鳥時代

 蘇我馬子が崇俊大王を孤立させて傀儡とするための準備が厩戸皇子の母・穴穂部間人皇女の再婚である。

 母・穴穂部間人皇女の再婚相手であるが、馬子は田目皇子を考えていたようだ。 田目皇子の父は用明大王で母は馬子の姉・石寸名郎女である。従って厩戸皇子にとっては異母兄になる。用明大王が亡くなって以来上宮にほとんどこなかった田目皇子が穴穂部間人皇女に会いに来たのは馬子が勧めたからであろう。 楽しく歓談したという来目皇子の言葉に厩戸皇子はいい気がしない。 昔から冷たい感じの田目皇子には人間味が感じられず、我侭放題の竹田皇子のほうがまだましなくらいである。 母が再婚するのでは・・・と思うと余計に苛立ってくるのである。しかし母は頻繁に上宮を訪れる田目皇子を愛するようになった。 今まで倉梯宮へ弟を訪問する頻度も少なくなるほどである。まだ幼い殖栗(えくり)皇子や茨田(まむた)皇子がいるが、もともと放任主義の母は子供のことについては深く考えない。 豊御食炊屋姫の竹田皇子に対する気持ちとは大違いである。そして穴穂部間人皇女が田目皇子との婚姻を決意した頃、蘇我馬子は飛鳥の屋形の近くに二人の為に新しい屋形を造る計画をし、厩戸皇子も飛鳥へ呼び寄せ新しい屋形へ住まわせようと考えていた。今の上宮は父・用明大王が厩戸皇子の為に造った宮であり厩戸皇子はここを離れたくはなかった為、いったんは断っている。

 また、厩戸皇子の舎人の長・秦河勝と別れなければならないということも悩みの原因である。 秦河勝はこれまで5年以上に渡って厩戸皇子に仕えてきたが、馬子の勧めもあって、そろそろ山背の葛野の王者として戻る日が近づいている。 しかも馬子の勧めで秦河勝の替わりに田村皇子の舎人の長である迹見赤檮(とみのいちい)を厩戸皇子の舎人として迎えようとしていた。 迹見赤檮は昔、押坂彦人皇子の舎人として仕えていたが、物部守屋が押坂彦人皇子を殺害したときに、物部守屋を弓矢で射て蘇我馬子率いる蘇我連合軍に勝利をもたらした人物である。しかし、厩戸皇子にとっては威圧感のある剛直な武人であるだけに、親しみにくいと感じていたが、秦河勝も一目置いている人物であり、徐々に厩戸皇子は信頼感は抱くようになるのである。 迹見赤檮は物部守屋を射殺した人物であり、彼の力は伝説上の人物・野見宿禰に比較されるようになっている。秦河勝も厩戸皇子も迹見赤檮が公任の舎人の長であることに安堵した。  甘樫山から眺めることのできる鳥見山は迹見赤檮の故郷であり、迹見は鳥見から来ているのである。

 ともかく、馬子が迹見赤檮を厩戸皇子の舎人と考えた裏には、厩戸皇子を大兄皇子(皇太子)と考えていたに違いない。 豊御食炊屋姫の長子・竹田皇子も馬子がかわいがっていた皇子ではあるが、厩戸皇子よりも3歳年上であるにもかかわらず、知識、武術全ての面で劣っていた。しかも蘇我氏の血も厩戸皇子に比べると薄い。 後の推古女帝・豊御食炊屋姫の後押しがなければ厩戸皇子の比ではないことは言うまでもない。  この頃竹田皇子は病に伏せていたと思われる。 物部守屋との合戦後に泊瀬部皇子は即位するのであるが、竹田皇子は史料から登場しなくなる。 恐らくこの前後に薨去したものと思われる。 馬子と厩戸皇子が竹田皇子を見舞った屋形は甘橿丘のすぐ東の豊浦にあり、稲目や馬子の屋形の近くに豊御食炊屋姫が建てたものである。 また竹田皇子の妃・志紀郎女の屋形も近くにあった。竹田皇子は多くの兄弟も駆けつけてきている。 長女の菟道貝鮹皇女 (後に厩戸皇子の妃となっている)、厩戸皇子と同年代の鸕鶿守皇女(うもりのひめみこ)、尾張皇子、押坂彦人大兄皇子の妃である小墾田皇女(おはりたのひめみこ)、田村皇子の妃となった田眼皇女などである。 この時、厩戸皇子に熱い視線を注ぐ菟道貝鮹皇女に対して刀自古郎女は嫉妬を感じている。 吉野川の水に効果があったせいか、竹田皇子は快復したが、以前に増して病弱な体質になったのは確かである。

豊御食炊屋姫の屋形があった飛鳥寺近辺(甘橿丘より) と 蘇我馬子の墓・石舞台古墳の石室

 

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