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足利義満と管領・細川頼之

2018年11月03日 | 鎌倉・室町時代

 足利義満が生まれたのは室町前期、つまり南北朝時代である。幼名は春王という。足利義満4歳の1362年、有力大名が室町幕府を裏切り都を攻めてきた。この時、足利義満の父・義詮はすでに都を脱出していた。義満が辿り着いたのは播磨の白旗城である。白旗城といえば、源義経が鵯越を駆け下りて平家を敗走させたときに経由した場所である。ここ白旗城では細川頼之に匿われて育ったのである。この頃、朝廷は南朝の後村上天皇が、北朝は室町幕府の足利義詮が治めるが、混乱は全国に波及する。足利義詮は収束の為に譲歩、上杉氏、山名氏、大内氏を幕府側につけた。

 義満10歳のとき足利義詮が倒れ、細川頼之は育ての親となる。因みに桂の地蔵院は管領・細川頼之が願いを込め、宗鏡禅師を招いて建立した臨済禅の寺である。義満22歳の時、幕府は安定しつつあったが、細川頼之に対して土岐氏、山名氏が反発。土岐氏は細川頼之打倒に向けて挙兵したのである。花の御所を土岐氏数万が取り囲み、関東管領・細川頼之追放の圧力をかけてきたのである。かくして細川頼之は讃岐へ流されることとなったが、花の御所は平穏を取り戻したのである。足利義満は、武家だけではなく公家としての高い地位を獲得することで室町時代の安定を目指した。足利将軍家の格上げの為には官位をあげる必要がある。そのためには朝廷行事にかかわることであるが、その武器は笙であった。仏への功徳という楽器・笙を駆使することで、当時の後小松天皇の時代に、25歳で左大臣となった。

 1389年義満が31歳の時、彼は讃岐へ都落ちした。義満が讃岐の宇多津の細川頼之を訪れたのは、山名、土岐の棟梁が死去したことで、細川頼之を都に迎え入れようと考えたからである。かくして足利義満は、山名満幸の役職をはく奪すると、一族を相手に宣戦布告し都での短期決戦に出た。戦場は内野と言って平安京の中心である。大内裏に兵を集中し、奉公衆5000が山名を打ち破り大勝利し、さらなる平和、つまり南朝との和睦、南北朝統一を考えていた。北朝説得するのに、官位を高めたことはほんとうに役立った。1392年、南北朝収束の直前に、義満を支えてきた細川頼之は64歳で亡くなったが、義満による室町幕府は繁栄の極みを迎えることとなる。

 足利義満には天皇位略奪説がある。明との貿易で日本国王を名乗ったことが理由のひとつであるが、これは交易のための便宜的な措置である。またもうひとつは、息子・義嗣を親王の待遇としたことが挙げられる。しかし狙いは別にあった。これが武士の世の礎となる。つまり幕府の財政基盤の強化を朝鮮との交易ではかろうとしたが、そのため倭寇を取り締まり航路の安定をはかることが重要であった。交易で膨大な利益をあげ、北山邸や金閣寺での祭りごとの折には、嫡男・義持を公家や帝に披露することで、この後継者を公家のトップにしようとしたのである。次男・義嗣が笙が苦手な嫡男・義持のかわりに演奏し、後小松天皇や公家に披露したという。これらは出世、格挙のためのものであり、天皇家乗っ取りではない。やがて義満は流行り病に倒れ、1408年義満は51歳で死去した。義持は4代将軍として幕府を納め、義嗣は公家を納める。これにより支配の正当性をはかり、長期安定を得るといった武家政治の流れをつくったのである。     

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なっちゃん@竹原-3-2

2018年11月03日 | 仲山美姫 成島桃香 なっちゃん なつみ

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