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2018年の撮影を纏めました
来年も宜しくお願い致します
2007/12/28、ここ開成皇子の御陵墓を目指したが断念。今回は二回目の訪問挑戦です。開成皇子724-781年は、奈良時代の僧で父は光仁天皇、母は不明。つまり桓武天皇とは13歳違いの異母兄になります。摂津国勝尾寺の開基と伝えられ、765年宮中を出て勝尾山に入って禅居し、善仲・善算の二人の師に出会って出家・受戒した。両師の発願した大般若経書写の遺志をつぎ、八幡大菩薩の加護を受けて6年の歳月をかけて完成させたという。勝尾山中にその経を安置する道場を建立し、弥勒寺(勝尾寺)と号したという。 781年に58歳で没。
天武天皇631-686 軽皇子(42代文武天皇) 683-707
┣ 草壁皇子662-689 ━┛ ┃
持統天皇41代645-703 ┃
蘇我娼子娘 ┃
┣武智麻呂(南家)680-737 ┃
┃ ┣ 豊成704-765 ┃
┃ ┃ ┗継縄━ 乙叡 ┃母:百済王明信
┃ ┃ -796 -808 ┃
┃ ┣ 乙麻呂 ┃
┃ ┃ ┗是公 ┃
┃ ┃ ┗ 吉子,雄友┃
┃ ┃ 大伴犬養娘-764 ┃ 多治比真宗769-813
┃ ┃ ┣ 刷雄?-? ┃ ┃是公娘・吉子 -807
┃ ┣ 仲麻呂706-764 ┃後に恵美押勝 ┃┣ 伊予親王
┃ 貞姫 ┣ 真従,真先 ┃ ┃┃乙牟漏皇后 760-790 伊勢継子
┃ 房前娘・袁比良女┃ ┃┃┣ 高志内親王789-809┣高岳親王
┣房前(北家)681-737 ┃元正の内臣 ┃┃┣ 安殿親王774-824(51平城天皇)
┃ ┣ 永手714-771 ┃ 和新笠┃┃┣ 賀美能親王 -842(52嵯峨天皇)
┃ ┣ 魚名-783 ┃ ┣山部王(桓武天皇)737-806
┃ ┣ 真盾━内麻呂 ┃右大臣 ┃ ┃
┃ ┗ 鳥養 ┗ 冬嗣 ┃ ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
┃ ┗子黒麻呂-794 ┃平安京視察 ┃百川娘・旅子 759-788
┃ ┗葛野麻呂 ┃-818 ┣ 早良親王(大伴家持派)
┣宇合ウマカイ(式家)694-737 ┃ ┃
┃ ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃ ┃?
┃ ┣ 良継 白壁王支持 ┃ ┃┣ 開成皇子724-781(勝尾寺開基)
┃ ┃ ┣ 乙牟漏 ┃ 白壁王(49光仁天皇)709-781
┃ ┃ 阿部古美奈 ┃ ┣ 他部親王
┃ ┣ 百川 道鏡追放 ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮 桓武妃)
┃ ┃ ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃ ┃ ┗朝原内親王779-817(平城妃)
┃ ┃ ┗ 旅子 ┃ ┣ 井上内親王717-775
┃ ┗ 清成 ┃ ┣ 不破内親王
┃長岡造 ┣ 種継737-785 ┃ ┃ ┣ 氷上川継782の謀反
┃ ┃ ┣ 薬子-810 ┃ ┃ 塩焼王 大伴家持 坂上苅田麻呂
┃ ┃ ┗ 仲成 ┃ ┃
┃ ┗ 正子(桓武妃)┃ ┃
┃五百重(天武夫人) ┃ ┣ 安積親王728-744
┃┣麻呂(京家)695-737 ┃ ┃
┃┃ ┗浜成流罪で京家没┃ ┃ 701-756
┃┃ 賀茂比売 ┣首皇子(45代聖武天皇)
┃┃ ┣ 藤原宮子-754 ━┛ ┣ 基皇太子727-728
┃┃ ┣ 長娥子(長屋王妾) ┣ 阿部内親王(46代孝謙/称徳718-770)
藤原不比等 659-720 ┃ 吉備真備 玄坊 行基を重用
┣━━━━━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
県犬養(橘)三千代-733
┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用)
┃ ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757
┣ 佐為王(聖武天皇教育係)-737
┣ 牟漏女王
美努王
栗隅王┛
大俣王┛
難波皇子┛
勝尾寺
本堂
二階堂
開成皇子墓への遊歩道 2018年の台風による倒木が酷い
初めて戦国大名になったとされる北条早雲、500年前小田原を攻め取り5代に渡って拠点とした様子が記載されているのが北条五代記といって小田原城に残されている。家臣が記した軍記物語である。元々は浪人、初陣は56歳といわれていたが、これはあやまりで32歳のようである。最近の研究では浪人ではなく、幕臣であったと考えられる。早雲の元々の名は伊勢新九郎。伊勢氏は鎌倉幕府以来の名門で室町幕府では財政をつかさどる政所のトップを代々務めた。伊勢新九郎盛時の名が将軍側近の要職申し次衆として記されている。これは守護と将軍の仲立ちをするような要職である。
元々伊勢氏の出身で実力でのし上がってきた戦国大名の筆頭である。早雲は出家号であり、伊勢長氏、盛時との説があるがはっきりはしていない。早雲の父は伊勢盛定、母は伊勢貞国 (室町幕府の執事で子に伊勢貞親がいる。室町将軍の足利義教・義勝・義政の3代に仕える)の娘である。北条氏は鎌倉時代に執権を世襲する勢力であったが、足利氏に滅ぼされた後は伊豆の地方豪族に没落した。伊勢氏は関西地方を基盤としたが関東へ進出する際に北条の姓を得るために婿入りしたと考えられる。 関東・駿河に名を上げようと下ったのは1490年頃で、早雲の妹が駿河守護の今川義忠の側室(北川殿という)として竜王丸(後に今川氏親)を産んでいたためである。今川家に食い込もうと駿河へ下ったときに、今川家では御家騒動が起こっており、当主義忠は亡くなり妹・北川殿との間の嫡男・竜王丸が残っていたが幼少ということもあり小鹿範満を跡継ぎにする動きがあった。つまり妹と竜王丸を排除する動きに対して待ったをかけたのである。早雲は揉め事の調停役である関東管領上杉家の家老・太田道灌をも後ろ盾にして、竜王丸を後嗣とする(この時元服して今川氏の当主・氏親と名のる)とその功により駿河に興国寺城をもらいうけ、今川氏親を補佐する。
この頃、管領・細川政元が足利義澄を立てて河内にいた将軍義稙を追放すると宣言し、1493年4月にクーデターを起こした。そして足利義澄を新将軍として擁立した。義澄にとって茶々丸は母と弟を殺した敵である。かくして早雲は隣国の伊豆を狙う(伊豆討ち入り)ことになる。早雲はこの決断をきっかけに出家し、伊勢新九郎盛時あらため早雲庵宗瑞となった。伊豆では関東堀越公方の相続争いが起こっていた。先の公方・足利政知(足利義教の子)には茶々丸という名前に似ず気の荒い息子がいたが、家督を奪うために義母・円満院とその子・潤を殺害していた(1491年)。茶々丸は主君になっていたものの真の従者はいなかったのであろう。早雲は今川氏親からも兵を借りて総勢500の軍勢で挙兵し、興国寺城を出撃すると堀越御所の茶々丸を奇襲攻めて追放したのである。一見容易く追放し滅ぼしたようにも見えるが、茶々丸追討に5年もの歳月を要したという説もある。この時早雲が恐れていた上杉の援軍は来なかった。この頃上杉家は山内上杉家と扇谷上杉家とに分裂し勢力争いを繰り広げていた。早雲は扇谷上杉家と同盟を結び、茶々丸支持派だった山内上杉家の動きを封じ込めていたのである。こうして早雲は伊豆をも領国とし一気に関東領土を手中にしようと目論んだ。さらには隣の相模・小田原を狙ったのである。当初小田原の大森氏は勢力もあり手を出せない状態であったが、小田原城主大森氏が急死し、藤頼という若い城主が後を継いだときに、早雲は贈り物をして親交を深めることに努力をした。これにより大森氏の隙を突いた早雲は、一気に小田原城に攻め入り落としたのである。小田原城は後に豊臣秀吉に滅ぼされるまで5代に渡って栄えることになる。
早雲が次に狙ったのは三浦半島一帯を勢力圏に持つ三浦氏である。三浦氏といえば、鎌倉時代からの名族であり、上杉氏の一族である当主・三浦義同(道寸)とその息子・義意は三浦半島一帯の豪族である。そして新井城という難攻不落の名城を持っていた。三浦同寸は相模を拠点に太平洋の海運を取りしきっていた。大森氏と姻戚関係にある三浦氏は将来の禍根になりかねないと考え、この難攻不落の三浦氏に対して海上、陸上を封鎖することによって三浦氏の篭城作戦に対抗した。1513年早雲58歳の時、新井城に籠城する同寸を包囲するがなんせ難攻不落である。おりしも八丈島の代官が三浦半島に来ると聞きつけ、生け捕りにすると、早雲は代官の弟を説得し、代官を寝返らせることに成功した。八丈島との繋がりを絶たれた同寸は次第に勢いをなくし、やがて1516年早雲は同寸を滅ぼし、八丈島を支配下に置いた。この時早雲61歳であったという。八丈島では桑が群生し、蚕の要職が盛んであり、絹織物が発達した。絹織物の長さが八丈であったことから、八丈島の名が残っているという。三浦氏滅亡の3年後の1519年8月に早雲はその生涯を閉じた。後に早雲の曾孫の氏政は江戸に新たな宿場町を置き街道を整備し、世田谷を自由に商いができる楽市とした。そして現在の「ボロ市」に続くという。これらをうまく引き継いだのが徳川家康であり、徳川300年の礎になったのである。
上杉清子
┣足利直義1306-1352
┗足利尊氏1305-1358
┃┣義詮1330-1367 ┏憲忠1433-1455
┃┃┃藤原慶子 関東管領上杉氏 ↑
┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷 享徳の乱1455-
┃┃┃┃ ┣義量1407-1425 ↑ ↓
┃┃┃┃日野栄子 武者小路隆光 三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
┃┃┃┃ ┣━━━━ 娘 関東公方足利持氏 小笠原元長娘,政清娘(南陽院殿) 不要な人物は居ない
┃┃┃┃ ┗円満院 ┣細川澄之 ┣北条氏綱1487-1541(蒜山城主→小田原城主) 勝って兜の緒を締めよ
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┣北条氏康1515-1571 臆病者→算術、兵法→合理的精神
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 小沢原戦で初陣勝利 税一本化
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 河越夜戦→北条氏の時代へ
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣北条氏政1538-1590
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗北条氏直1562-1591
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗上杉景虎1554-1579
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┣北条為昌1520-1542
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃養珠院宗栄
┃┃┃┃ ┣潤童子 九条政基 伊勢盛定?-? ┣北条氏時?-1531(初代玉縄城主)
┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸 ⇔ ┣北条早雲1456-1519
┃┃┃┃ ┣政知1435-1491関東堀越公方 ┣北川殿?-1529
┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐 ┏貞国娘 ┣竜王丸(今川氏親1471-1526)⇔┏小鹿範満(母は上杉氏、今川忠義の従兄弟)
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┗貞親 今川義忠1436-1476駿河守護
┃┃┃┃ ┃ ┃
┃┃┃┃ ? ┣- ┣義勝1434-1443 満元┓
┃┃┃┃ ┣宗子 ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 管領細川持之1400-1442
┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児 ┗細川勝元1430-1473
┃┃┃┃ ┣義資 ┃┃今参局-1459 ┃┗政元1486-1507(明応政変)
┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489 ┣- ┣澄之(養子)
┃┃┃┃ ┃ ┣┃日野富子1440-1496 ┏春林寺殿 ┗澄元(養子)
┃┃┃┃ ┃ ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┣豊久(細川養子→出家)
┃┃┃┃ ┃ ┃┃┗娘義尚夫人 山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護
┃┃┃┃ ┃ ┃┣義視1439-1491(義尋)
┃┃┃┃ ┃ ┃┃┣義材1466-1523⇔政元 満家(山城守護)┓
┃┃┃┃ ┃ ┗┃日野美子 妙音院 管領畠山持国1398-1455
┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局 畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護
┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413 ┗政長(勝元保護)┗畠山基家
┃┃┃┃春日局 ┗義英
┃┃┃┃┣義嗣1394-1418
┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)
┃┃┃┃┃ 日野康子
┃┃┃┃┃ ┣-
┃┃┣義満1358-1408
┃┃┃ ┣女子
┃┃┣満詮 日野業子
┃┃紀良子
┃┃藤原仲子(崇賢門院)
┃┣基氏1340-1367
┃赤橋登子
┣直冬1327-1400
越前局