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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

奥州藤原氏-10 安倍館遺跡(厨川城跡):「前九年の役」で最後の砦として激戦地

2018年09月27日 | 平安時代

 安倍館遺跡(厨川城跡)は古くから、11世紀の安倍氏の厨川柵跡として伝えられてきた。平安時代の陸奥国の豪族であった安倍氏は、勢力を次第に拡大し、北上川流域の奥六郡(現在の岩手県内陸部)を拠点として現在の青森県東部から宮城県南部にいたる広大な地域に影響力を発揮していた。しかし朝廷と次第に対立するようになって、前九年の役(1051年~1062年)が勃発する。安倍一族は朝廷の討伐軍を率いる源頼義の軍勢と戦い、1062年に厨川柵で滅亡した。

 1189年、源頼朝は平泉の藤原氏を滅ぼした。この奥州征伐の勲功により伊豆国から御家人の工藤行光を岩手郡の地頭とした。当初、工藤氏は里館(厨川館)を拠点にしていたが、次第により堅固で大きな城が必要となったため、新たに厨川城(安倍館遺跡)が築かれ、1592年の豊臣秀吉による一国一城令によって取り壊されるまで続いたと見られる。ちなみに工藤氏は、奥州征伐による奥州藤原氏滅亡後、源頼朝の命に拠り、一帯の精神的支柱である岩手山を神格化した「岩鷲山大権現」の大宮司となり、安倍氏が厨川柵に祀っていた祈願所を継承した。

天昌寺

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会津 若松-15 皆鶴姫の墓と暦応の碑:藤原成道の側室(鬼一法眼の後妻)の娘

2018年07月28日 | 平安時代

 皆鶴姫の解説の前に、平治の乱で平氏敗れた源氏の状況について語らねばならない。源氏方は、頼朝が伊豆へ流され、義経は京都洛北の鞍馬寺に預けられた。この時の名は遮那。成人するに付け平家の追求の手が身辺にも及ぶ様になったので、知人の金売り商人の吉次の手引きで奥州に逃れたのである。途中、1172年名古屋の熱田神宮で元服し、義経と名を改めると平泉の藤原氏を訪ね、1174年に義経は、京都へ戻った。平氏の動向を探っていた義経は、兵法に通じた吉岡・鬼一法眼が所有する兵法書を手に入れようとしたが叶わず、娘の皆鶴姫(母は、藤原成道の側室で皆鶴はその娘、後に皆鶴を連れ吉岡鬼一法眼の後妻となる)に近づき、密かに書き写したという。その時、帽子丸という男子が生まれている。皆鶴姫は、正一位大納言藤原成道卿の側室である桂御前の一人娘、彼女が生まれて直ぐに父である藤原成道卿が亡くなってしまったので、母は皆鶴姫を連れて里に帰りその後、鬼一法眼吉岡憲海と再婚し、姫も鬼一法眼の養女となった。その後義経は、四条の上人正門坊の元に身を寄せていたが、それを訴え出た人があり、上人は捕らえられ義経は奥州へ逃れるのである。皆鶴姫は驚き後を追ったという。1176年、会津若松市柳原に皆鶴姫が2歳の帽子丸を連れて来た時、敵に帽子丸が捕まり沼に投げ入れられ溺死したという。皆鶴姫も18歳で難波池に投じた。その時、義経は報を聞き急ぎ戻り、この池の傍らに皆鶴姫を葬り、墓を築いた。   

暦応の碑の左側には、義経が奥州平泉に下向する際に愛馬を繋いだと伝わる「駒繋石」がある

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一条堀川に住んだ陰陽師・鬼一法眼之古跡@京都貴船

2018年07月17日 | 平安時代

 鬼一法眼は、『義経記』に登場する伝説上の人物である。一条堀川に住んだ陰陽師で、『六韜』という兵法の大家、文武の達人とされる。源義経がその娘・皆鶴姫と通じて兵書『六韜』を盗み学んだという伝説で有名である。ここ「鬼一法眼之古跡」は貴船口駅の近くあり、墓所があったとも伝えられている。鬼一法眼は武術家であり、僧侶であり、医者だったとも見受けられる。「法眼和尚位」という僧の位があるし、法眼という医者の称号まである。義経記によると、奥州に下った義経は、中国から伝わった天下の兵法書「六韜三略」を学ぼうとやってくる。この書は、坂上田村麻呂が愛読し、奥州の悪路王と呼ばれた人物を倒し、平将門もこの書によって、分身の術を体得したと言われる珍本ですある。また鬼一のことを義経記は以下のように描写している。「京の住まいはガッチリと固め、四方に堀を廻らし水を張って、八の櫓を築いていた。夕方には渡していた橋を外し、朝には門を開かず、人の言ふ事など、まったく意に返さない贅沢で華美な人物だった」 義経は、この人物に六韜三略を写させて欲しいと頼み込むが、断られてしまう。そこで義経は、幸寿前というこの家に仕えている若い女性と仲よくなると、鬼一に姫がいることを聞き出し、この姫に近づき、この本十六巻を三ヶ月ばかりかけて写し把握したという。この書「六韜三略」、あの「玉葉」を書いたことで知られる九条兼実が1181年に正装姿で閲覧したと記されている。所有者は中原師景という人物。

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安達ヶ原黒塚伝説-3 鬼婆に殺された恋衣

2018年06月12日 | 平安時代

 観世寺の近隣にある恋衣地蔵は鬼婆に殺された恋衣という女性を祀ったものとされる。この地蔵の由来は次のように伝わっている。その昔、岩手という女性が京の公家屋敷に乳母として奉公していたが、彼女の可愛がる姫は生まれながらにして不治の病におかされており、5歳になっても口がきけなかった。姫を溺愛する岩手は姫を救いたい思いから、妊婦の胎内の胎児の生き胆が病気に効くという易者の言葉を信じて、生まれたばかりの娘を置いて旅に出た。奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は岩屋を宿とし妊婦を待った。ある日、若い夫婦がその岩屋に宿を求めた。女の方は身重で、女が産気づき夫は薬を買いに出かけるという絶好の機会がきた。岩手は出刃包丁で女に襲い掛かり、女の腹を裂いて胎児から肝を抜き取った。しかし女が身に着けているお守りは、自分が京を発つ際、娘に残したものだった。今しがた自分が殺した女は、他ならぬ我が子だったのである。岩手は精神に異常を来たし、以来、旅人を襲っては生き血と肝をすすり、人肉を喰らう鬼婆と成り果てたのだという。

恋衣夫婦が宿を求める図

恋衣が寝るのを待つ図

恋衣がを殺す図

殺した恋衣が自分の娘だとしって狂気する図

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安達ヶ原黒塚伝説-2 東光坊祐慶@726 が見た人間の白骨死体

2018年06月12日 | 平安時代

 黒塚横にある観世寺発行の『奥州安達ヶ原黒塚縁起』によれば、鬼婆の伝説は次のように伝わっている。平安初期の726年頃、紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中で日が暮れたため、岩屋に宿をとった。岩屋の老婆は僧を招き入れると、奥の部屋を見ないように言いつけて出て行った。しかし、祐慶が好奇心奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が累々と積み上げられていた。驚いた祐慶は、安達ヶ原の鬼婆の噂を思い出し、岩屋から逃げ出したのである。岩屋に戻って来た老婆は、祐慶の逃走に気付くと追いかけて来た。祐慶は荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出し経を唱えると、菩薩像が空へ舞い上がり、破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて鬼婆を仕留めたという。祐慶は阿武隈川のほとりの塚に鬼婆を葬り、その地が「黒塚」と呼ばれるようになった。

累々と積み上げられた白骨死体がに驚く祐慶の図 

東光坊祐慶が懸命に逃げる図

破魔の白真弓矢で鬼婆を仕留めた図

  

阿武隈川のほとりの塚に鬼婆を葬る図

 

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安達ヶ原黒塚伝説-1 人を喰らっていたという鬼婆

2018年06月11日 | 平安時代

 御存じだろうか、福島県二本松市にある安達ヶ原には、鬼婆にまつわる黒塚伝説である。安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたという鬼婆として伝えられている。黒塚はこの鬼婆を葬った塚の名で、能、歌舞伎の『奥州安達原』などはこの黒塚の鬼婆伝説に基く。

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平清盛と音戸の瀬戸@1164

2018年05月02日 | 平安時代

 1164年清盛公は音戸の瀬戸開削工事に着手し、竣工まで十ヶ月を要して、さすがの難工事も完成の日戸なった翌、永久元年七月十六日引き潮を見はからって作業が行なわれることになった。この時を期して是が非でも完成させねがならず、清盛公の激励、役人、人夫の血のにじむような努力が続けられたが、すでに夕日は西の空に傾き、長い夏の太陽の光りも、はや、足もとも暗くなりはじめた。今ひと時の陽があればと、さすがに権勢を誇る清盛公もいらだち、遂に立ち上がり、急ぎ日迎山の岩頭に立ち、今や西に沈まんとする真赤な太陽に向い、右手に金扇をかざし、日輪をさし招き「返せ、戻せ」とさけんだ。すると不思議なことに日輪はまい戻った。「それ、陽はあるぞ。」と必死の努力により、ついに音戸の瀬戸の開削工事は見事に成就した。ときに清盛公、四十ハ歳であったと伝えられている。この伝説にもとづき、昭和四十ニ年瀬戸内開削八百年を記念して、当時の英姿をゆかりの地、本土側の日迎山高烏山銅像を建立してその偉徳を偲ぶ。

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愛媛切山の安徳天皇仮御陵院の墓@1184 安徳帝の衣服などを埋めた仮の御陵

2018年03月28日 | 平安時代

 ここは愛媛県四国中央市金生町、日本最古のアーチダムとして有名な豊稔池アーチダムのさらに山奥にある。源平の戦いの1184年、一の谷の戦いに破れた平氏は安徳天皇を安全な場所にうつそうと阿波の祖谷に隠れ住んだ。しかし、源義経が阿波に潜入したとの噂を聞いてさらに安全な地を求めて1184年の6月にここ切山にやって来たという。その時に安徳天皇につきそって切山にやってきたのは田辺太郎・平清国、真鍋次郎・平清房、参鍋三郎・平清行、間部藤九郎・平清重、伊藤清左衛門国久の5人の武士。5人の武士は1185年正月まで安徳帝をお守りして切山に隠れ住んでいた。しかし、屋島の戦いを前に安徳帝を長門にうつしておくことになり、5人の武士は讃岐の須田の浦まで見送り、その後阿波の田内氏をうとうとしたが逆に破れてしまった。真鍋次郎・平清房は戦死し、他の4士も命からがら切山に逃げ帰り、切山に住みついたと真鍋家に伝わる「田辺家系譜」に書かれ、村人により語り継がれてきたそうです。これが切山の平家伝説である。切山にはその平家伝説にかかわるたくさんの遺跡が残っている。平氏が山口県の壇ノ浦で滅んだことを知った人々が、安徳帝の衣服などを埋めて仮の御陵としたと言われる。

   祇園女御・妹兵衛佐局  平完子(清盛六女)            
    ┣清盛1118-1181    ┃平信範娘                   
     ┃┗盛子1156-1179(次女)┃┣近衛家経1184-1238      
    ┃藤原忠通1097-1164┣基通1160-1233養子       
    ┃┣近衛基実1143-1166  ┣近衛家実1179-1242  
    ┃┃ ┣基通1160-1233 源顕信娘 
    ┃┃藤原忠隆娘  
    ┃┃  
    ┃┣近衛基房 1145-1231松殿(法華寺八講会 資盛との車争い)        
    ┃┣九条兼実 1149-1207右大臣月輪殿「玉葉」の作者┣隆忠       
    ┃┗九条兼房 1153-1217太政大臣          ┣師家
    ┃                        ┣伊子(冬姫:義仲側室)     
    ┃有子 池禅尼1104-1164(頼朝を助けた御方)   俊子
    ┃┣家盛1120-1149                
    ┃┣頼盛1131-1186     
    ┃┃     ┣仲盛?-?
    ┃┃     ┣光盛1172-1229
    ┃┃     ┣為盛    -1183
    ┃┃     ┣娘
    ┃┣忠重  大納言の局(待賢門院に仕え俊寛の兄妹)
    ┃┣忠度1144-1184タダノリ薩摩守(母:藤原為忠娘 一の谷で死亡)                  
    ┃┃ ┃   ┣-             教盛・娘
    ┃┃ ┣忠行 熊野別当湛快娘   藤原成親  ┣-
    ┃┃浜御前              ┣藤原成経-1202丹波少将
    ┃┃                  ┗娘1155-
    ┃┃                     ┣六代(高清)1173-1199
    ┃┃        藤原親盛・娘      ┣姫(夜叉御前)      
?-1121 ┃┃         ┣維盛1157-1184(桜梅少将 那智で入水)            
正盛  ┃┃      高階基章娘┣資盛スケモリ1161-1185(建礼門院右京太夫恋人)            
 ┣忠盛1096-1153        ┣小松重盛1138-1179小松左大将(病死) 
 ┗忠正  ┃-1156       ┃ ┣清経1163-1183 
  ┣長盛┃?-?        ┃ ┣有盛1164-1185(鵯越丹波路より屋島へ敗走)   
  ┣忠綱┃?-?         ┃ ┣忠房    -1186(鵯越丹波路より屋島へ敗走)  
  ┗正綱┃?-?         ┃ ┣師盛1171-1184(一の谷で死亡)  
     ┃          ┃ ┣娘  
     ┃          ┃ ┃┣-  
     ┃          ┃ ┃原田小卿種直(筑紫岩戸豪族)  
     ┃          ┃藤原家成娘経子                     
     ┃          ┃(鳥羽院寵臣)               
     ┃          ┣基盛1139-1162右衛門督                 
         ┣清盛 1118-1181 ┏清宗 ┗行盛-1185壇ノ浦で入水
         ┃┣冷泉局   ┣宗盛1147-1185中納言
     ┃厳島内侍迦葉┣知盛1152-1185四位少将                    
     ┃           ┃ ┣知章1169-1184(一の谷で死亡)⇔児玉党                   
     ┃           ┃ ┣知宗1184-1255                    
     ┃           ┃ ┣知忠1180-1196                    
     ┃           ┃ ┣中納言局(藤原範茂室)後堀河天皇に出仕                    
     ┃           ┃治部卿局1152-1231後高倉院に出仕                    
     ┃      ┣重衡1157-1185頭の中将(一の谷で捕虜)          
     ┃      ┃ ┣-        
     ┃      ┃輔子?-?(大納言典侍 建礼門院と大原へ)         
     ┃      ┣清房?-1184(一の谷で死亡)淡路守         
     ┃      ┣清貞?-1184(一の谷で死亡)尾張守        
     ┃藤原家範娘? ┣徳子1155-1214建礼門院       
     ┃ ┣平時子1126-1185┣安徳天皇1178-1185言仁親王       
     ┃ ┣平時忠1127-1189┃         藤原棟子1173-1238北白河院
     ┃ ┣平親宗1142-1199┃藤原殖子1157-1228(七条院)┣後堀河天皇1212-1234         
     ┃平時信?-1149    ┃ ┣守貞親王1179-1223後高倉院           
     ┃ ┣滋子1142-1176 ┃ ┣高成親王1180-1239後鳥羽天皇        
     ┃藤原祐子?   ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181          
     ┃      ┃     
     ┃     後白河天皇77代1127-1192     
     ┃清盛側近  平盛国1113-1186               
     ┃       ┗盛俊?-1184(一の谷で死亡)⇔猪俣小兵六          
     ┃         ┣盛嗣?-1194越中次郎兵衛        
     ┃         ┗盛綱?-?        
     ┣経盛ツネモリ1125-1185 修理太夫参議 壇ノ浦で入水
     ┃      ┣経正    -1184丹波守皇后宮亮琵琶の名手(一の谷で死亡)
     ┃      ┣経俊1164-1184若狭守(一の谷で死亡) 
     ┃      ┗敦盛1169-1184(一の谷で死亡) 
     ┃        ┣-
     ┃       右大弁時宗・娘       小宰相1165-1184(上西門院の女房)
     ┗教盛ノリモリ門脇殿1128-1185壇ノ浦で入水  ┣-
            ┣通盛1169-1184(越前三位)(鵯越で死亡)         
              ┣教経1160-1185(能登守(一の谷で死))       
            ┣教子?藤原範季妻         
            ┣業盛1169-1184(一の谷で死亡)  
            ┗仲快1162-1227(中納言律師)

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応天門の変@866 源信VS良相 藤原氏の勢力拡大する

2017年12月19日 | 平安時代

 国宝・伴大納言絵巻、全3巻全長26mにも及ぶ絵巻には応天門の変の一部始終が描かれている。絵巻の冒頭、各々太刀や弓を手にあわただしく出動しようとする検非違使の役人たちの姿が見える。やがて見えてきたのは大内裏の南門である朱雀門。門をくぐると大群衆。その視線の先には飛び散る火の粉。今まさに朝廷のシンボル応天門が燃え盛っている。正史である日本三大実録には一夜にして応天門と左右の楼閣が焼け落ちたとある。この頃都では咳逆病が蔓延し使者があふれていた。異常気象による不作が続き、富士山が噴火を起こしていた。応天門の炎上はそんな不安に満ちた時代に起こったのである。

 しばらくして政府で二番目に高い地位にある左大臣・源信の屋敷が突如軍勢に包囲された。応天門放火の容疑である。指示したのは右大臣藤原良相と大納言・伴善男。驚いたのは政府の最高位にある太政大臣・藤原良房だった。良相の兄である良房は弟や善男の行動に愕然とし、清和天皇に軽々しく結論をださないように願い出た。源信は陛下に対して大きな功績を立てた臣下です。どうしても罰するというのならまずは年老いた私が罪にふくしましょう。と、清和天皇に進言したのである。赦免の遣いがきて絶望から喜びへと変わる信の屋敷の女たちが絵巻には描かれている。火事の原因はわからず事件は迷宮入りとなる。

 その後都にはしきりにもののけが現れたと三代実録には記されている。朝廷は祈祷を行うが、都を包む不安が収まることはなかった。5か月後、ひとりの下級役人が大納言伴善男とその息子が応天門に放火をしたと訴え出た。善男は全面否定し確たる証拠は見つからなかった。このとき清和天皇に代わって政治を藤原良房が行うという摂政の詔がだされた。かくして事態収拾の全権が良房に委ねられたのである。

 源信は嵯峨天皇の子で臣下に下っていたとはいえ藤原氏をも脅かす大きな一族である。一方大納言・伴善男は名門氏族の大伴氏末流で、積悪の家とされている。大伴氏は神話の時代に天孫降臨の先導を務めたとされる名門、6世紀には天皇を守って軍事権を掌握、壬申の乱では天武天皇を勝利に導き朝廷で確固たる地位を得る。しかし相次ぐ政権争いのなかで暗転する。善男の曾祖父は謀反に加担したとして獄死、祖父・継人は政府要人の暗殺を起こしたとして斬首、善男の父・国道も連座して佐渡に流されている。かくして大伴氏の復権は善男の悲願であった。勉強熱心な善男はどのような質問にも答えたという。そして参議にまで出世した。しかし善男は周囲の人々から悪賢い男とみられていた。時の実力者藤原良房に接近、良房の姉である皇太后に仕えることで大きな信頼を得る。良房の忠実な部下として源信の兄弟達をさしおいて政権No4の大納言となった。こうした背景の中、源信と善男が応天門放火の罪に問われたのである。

 ことの解決を委ねられた良房はどちらを犯人とするのだろうか。藤原良房に対抗する最大は弟の良相である。良房は朝廷の職務からほとんど身を引き、弟の良相に任せていた。良相は次第に力をつけるようになる。すでに60歳を超えていた良房は跡を継ぐ男子に恵まれず、養子しかいなかった。一方良相は後継ぎとなる男子も成人し、天皇に嫁がせた娘も寵愛を受けていた。藤原良相の権勢を誇る出来事がある。応天門放火の17日前、清和天皇が西三条にある良相邸に行幸し、盛大な宴が催されている。近年京都市中京区にある良相邸の発掘調査が行われており、そこから高級輸入陶器が発見されている。弟の力はまさに兄を凌ごうとしていた。平安時代後期の歴史書大鏡裏書には良房と良相の関係を伝える記述がある。藤原良相と伴善男は応天門の炎上後源信を失脚させようと画策し、良房の養子である藤原基経を呼び出した。No.3良相の行動は兄良房を差し置いて次の権力の座を狙おうとする振る舞いであった。

 嵯峨源氏・源信は武力も蓄え最も藤原氏にとっては脅威な存在である。また良相も力を蓄えた脅威でもある。伴善男は野心が強く人から嫌われている。だれに罪を負わせるのかが良房に委ねられたといえる。結果伴善男は罪を背負わされて伊豆の国に配せられた。応天門は元々中国の後宮の門の名前から来ているが、平城宮の時代には大伴門と呼ばれて大伴氏が守護をしていた。従って自分の氏族の名前のついた門を放火することは考えにくい。したがって放火犯という意味では伴善男は無罪であったのではなかろうか。善男は事件の2年後の868年流刑地の伊豆で失意のうちに死去した。こののち大伴氏が政治の舞台に上がることはなかった。また放火の疑いをかけられた源信は事件の後屋敷の門を固く閉ざして世間との交わりを絶った。そして869年落馬により死去。嵯峨源氏もまた力を弱めていくのである。右大臣の良相も右大臣の職を辞することを願い出てるもかなわず、事件の翌年867年に病死。騒動の中ただ一人ゆるぎない地位を得た良房は、養子であった基経が関白に就任し、子孫が摂関家として栄華を独占することとなる。伴大納言絵巻の最後は伴善男の思いを推し量って終わっている。絵巻を造らせたのは後白河法皇だという。 

    藤原鎌足━┳ 定 慧
   (中臣) ┣ 不比等━━━━━━━━┓
        ┣ 耳面刀自       ┃
        ┃            ┃
        ┣ 氷上媛 (天武帝女御) ┃
        ┗ 五百重媛(天武帝女御) ┃
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗┳ 武智麻呂[藤原南家祖]━ 仲麻呂(恵美押勝)
   ┣ 房前[藤原北家祖]━┳ 永手
   ┃           ┣ 真楯━ 内麻呂━ 冬嗣━━━━━━━━━━━━━┓
   ┃           ┗ 魚名┳ 鷹取━━ 藤嗣             ┃
   ┃               ┣ 末茂                  ┃
   ┃               ┗ 藤成━━ 豊沢━━ 村雄━━ 秀郷   ┃
   ┣ 宇合[藤原式家祖]━┳ 広嗣                      ┃
   ┣ 麻呂[藤原京家祖] ┣ 清成━ 種継━┳ 仲成             ┃
   ┣ 宮子 (文武帝后)   ┗ 百川     ┗ 薬子             ┃
   ┣ 長峨子 (長屋王妾)                            ┃
   ┣ 光明子 (聖武帝后)                            ┃
   ┗ 多比野 (橘諸兄室)                            ┃
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗┳ 良房(養父)━明子(文徳天皇女御)
   ┗ 長良 ┏ 基経 ┏ 忠平(四男)兄弟を差し置き嫡家を継ぎ、醍醐天皇の元出世━┳ 実頼
      ┣━┃  ┣━┣ 時平(長男)菅原道真を大宰府に左遷する  871-909年   ┣ 師輔━━┳ 伊尹
     乙春 ┃操子女王┣ 兼平(次男)               875-935年   ┗ 師尹  ┣ 兼通
        ┃    ┣ 仲平(三男)姉温子の女官伊勢と恋愛で知られる温厚な方 875-945年   ┣ 兼家━┳ 道隆━┳ 伊周
        ┃    ┣ 頼子(清和天皇女御)                   -936年   ┣ 公季 ┣ 道兼 ┗ 隆家
        ┣ 遠経 ┣ 妹子(清和天皇女御)                 856年-     ┗ 道長━┳ 頼通
        ┣ 高子 ┣ 温子(宇多天皇女御)                 872-907年        ┣ 頼宗
     (清和天皇女御)┗ 穏子(醍醐天皇中宮)第61代朱雀・第62代村上天皇生母。別名五条后 885-954年   ┗ 長家
        ┗ 淑子    おんし
         (尚侍) 

                伊都内親王(桓武皇女)
       是公娘・吉子-807   伊勢継子┣ 在原行平818-893
    ┣ 伊予親王      ┃   ┣ 在原業平825-880
      ┃乙牟漏皇后 760-790  ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇)
 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839     藤原元善
 ┃ 737-806   ┃┃  ┃ ┗藤原佳美子-898  ┃平等子
 ┃           ┃┃  ┃    ┣-      ┃┣
 ┃           ┃┃  ┣時康親王58光孝天皇830-887
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    藤原穏子885-954(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947    ┣ 康子内親王919-957(師輔妻)
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┃     ┃ 藤原安子(師輔娘)
         ┃┃  ┃┃   ┗周子┃     ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王
 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣ 成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┗胤子┃┃┃┃┃┃  ┃      ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃藤原仁善子┃(和泉式部奉仕)┣-
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃ ┣ 煕子女王-950  冷泉天皇
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┣保明親王901-923
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝 ┗ 慶頼王920-925
 ┃    ┣明子  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王,宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┣源常812-854  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子 ┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃ ┣重明親王   ┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┗源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘    ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
  ┗源昇    ┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘
           ┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
           ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
          ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子
          ┃  ┃┃   ┃   愛宮 ┣頼宗、能信、寛子
           ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長
          ┃  ┃┃   ┃  ┣源雅信┣彰子、頼通、教通
          ┃  ┃┃   ┃  ┃ ┣源倫子  藤原温子 菅原衍子
           ┃  ┃┃   ┃  ┃穆子    ┃橘義子 源貞子 
           ┃  ┃┃   ┃ 時平娘     ┃┃
           ┃  ┃┣ 源定省(59宇多天皇) 867-931
           ┃  ┃┣ 簡子内親王-914       ┃
           ┃  ┃┣ 綏子内親王-925    藤原褒子(時平娘 元良親王と恋愛)
            ┃  ┃斑子女王   ┗━━━━━━━━━━━━━━┓
            ┃  ┃               藤原長良802-856┣-
          ┣正良親王(54仁明天皇)810-850     ┣藤原淑子┃
          ┃        ┃ ┣ -       836-891┣藤原基経┃
          ┣正子内親王┃小野吉子(更衣)   842-910┗藤原高子┃姣子女王?-?
          橘嘉智子      ┃紀名虎娘・静子 良房┓在原行平娘┃  ┃┃
                         ┃ ┣ 紀有常女*5   藤原明子 ┃ ┣陽成天皇876-884
                    ┃ ┣ 惟喬親王(第1皇子)┣清和天皇850-881┣元良親王890-943
                        ┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858 ┣   ┣元平親王
                   藤原順子(冬嗣・娘)     ┣源能有 ┃  藤原遠良娘?-?
                            伴氏娘 ┗源厳子

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桓武平氏の祖・葛原親王の塚

2017年11月01日 | 平安時代

 葛原親王は、桓武天皇の第三皇子で桓武平氏の祖とも言われている。798年異母兄弟の大伴皇子(後の淳和天皇)と共に元服、806年平城天皇の即位後まもなく大蔵卿に任ぜられ、弾正尹を経て、810年薬子の変に前後して式部卿に遷ると嵯峨朝ではこれを10年以上務めている。823年淳和天皇の即位後、子息を臣籍降下させ平朝臣姓を称することを上奏して許さていることから桓武平氏の祖とされている。石清水八幡宮へ行った帰りに見つけたのがこの伝承の墓所と邸宅跡地で、京都府乙訓郡大山崎町にあった。

 

 平安時代に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた平忠常(975-1031房総平氏の祖 藤原教通に侍従)による反乱に於いては、朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。有力武士の源頼信(河内源氏祖とも云われ、源満仲の子で 道兼,道長に近侍していた)が起用されるに及ぶと忠常はあっさりと降伏した。平良文(高望王の子)は下総国相馬郡を本拠に、子の忠頼、孫の忠常の三代に渡り関東で勢力を伸ばした。平忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖・葛原親王以来の広大な所領を有し、傍若無人に振る舞い国司の命に服さず納税の義務も果たさなかった。1028年、平忠常は安房守平惟忠邸を襲撃して焼き殺す事件を起こし、上総国の国衙を占領してしまう。また、上総介縣犬養為政邸を占拠して受領を軟禁し、妻子が京へ逃れ、これを見た上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総三カ国(上総国、下総国、安房国)に広まった。

 当時、在地豪族(地方軍事貴族)はたびたび国衙に反抗的な行動をとっていたが、中央の有力貴族との私的な関係を通じて不問になることが多く、実際に追討宣旨が下されることは稀だった。事件の報は朝廷に伝えられ追討使として源頼信・平正輔・平直方・中原成通が候補にあがり、右大臣・藤原実資は陣定において、源頼信(源義仲の子で源義家の祖父にあたる)を推薦した。頼信は常陸介在任中に忠常を臣従させており、事態の穏便な解決のためには最適と考えられた。他の公卿も同調するが、後一条天皇の裁可により検非違使右衛門少尉・平直方と検非違使左衛門少志・中原成道が追討使に任じられた。直方を追討使に抜擢したのは、関白・藤原頼通だった。直方は貞盛流の嫡流ともいえる立場であり、同じ貞盛流の常陸平氏と連携していた。常陸平氏は、武蔵・下総を勢力基盤とする良文流平氏とは長年の敵対関係にあった。直方は頼通の家人であり、頼通に働きかけることで追討使に任命されたと推測される。

 直方は国家の公認のもとに、平忠常ら良文流平氏を排除する立場を得ることに成功した。8月、京に潜入した忠常の郎党が捕らえられている。郎党は内大臣藤原教通 (忠常の「私君」にあたる人物)や中納言・源師房宛ての書状を持っており、追討令の不当・中止を訴える内容だった。政府側である平直方と中原成道は吉日を選び任命から40余日も後の8月5日亥の刻(午後10時)に兵200を率いて京を出立した。翌年には、直方の父・維時が上総介に任命され追討も本格化する。国家から謀叛人扱いされた忠常は、徹底抗戦を余儀なくされる。 追討使の中原成道は消極的で、関東へ向かう途上、母親の病を理由に美濃国で滞陣している。合戦の詳細は不明だが討伐軍は苦戦し、乱は一向に鎮圧できなかった。1029年2月、朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させるが鎮定はすすまなかった。同年12月には中原成道は解任されてしまう。

 1030年3月、忠常は安房国の国衙を襲撃して、安房守藤原光業を放逐した。朝廷は後任の安房守に平正輔を任じるが、平正輔は伊勢国で同族の平致経と抗争を繰り返している最中で任国へ向かうどころではなかった。忠常は上総国夷隅郡伊志みの要害に立て篭もって抵抗を続けた。乱は長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、安房国の疲弊ははなはだしく、下総守藤原為頼は飢餓にせまられ、その妻子は憂死したと伝えられる。 同年9月、業を煮やした朝廷は平直方を召還し、代わって甲斐守源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。頼信は直ぐには出立せず、準備を整えた上で忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向した。長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした1031年春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常は病死した。頼信は忠常の首をはねて帰京した。忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。1032年功により頼信は美濃守に任じられた。 平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。 この乱の主戦場になった房総三カ国(下総国、上総国、安房国)は大きな被害を受け、上総守辰重の報告によると本来、上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったという。 この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となった。

桓武天皇737-806
 ┣平城天皇774-824
 ┣伊予親王783-807
 ┣淳和天皇786-840
 ┣嵯峨天皇786-842

 ┣葛原親王786-853 
 ┃ ┣高棟王804-867
 ┃ ┣高見王817-855
 ┃ ┗高望王839-911
多治比真宗  ┣平国香-935(桓武平氏祖)⇔平将門
(多治比長野┃┣平貞盛-989(平将門乱で功)
  の娘)  ┃┃ ┣維将(北条氏祖)
       ┃┃ ┣維衡(伊勢平氏祖:伊勢守 一条朝の在京武士)
       ┃┃ ┃ ┗正度-1067?(越前守)
        ┃┃ ┣正輔 ┣正衡(藤原師実に近侍)
        ┃┃ ┗正済 ┃ ┗正盛-1121(源義家近侍 源義親討伐 白河北面武士)
        ┃┃     ┃   ┣忠正-1156(頼長に仕え崇徳天皇側)
        ┃┃     ┣維盛┗忠盛1096-1153(白河・鳥羽上皇近侍)
        ┃┃     ┗季衡  ┣頼盛(母:池禅尼)  
        ┃┃         ┣教盛(母:藤原家隆娘)
        ┃┃         ┣忠度(母:藤原為忠娘)
        ┃┃         ┣経盛(母:源信雅娘)
        ┃┃         ┗清盛(母:祗園女御妹)
       ┃┣繁盛(常陸平氏祖 藤原師輔家人)
       ┃┗兼任
       ┣平良兼-939(母:藤原良方娘)
        ┃┣公雅━致成━致方
       ┃┗公連
          ┣平良将-917
        ┃┣将門903-940(藤原秀郷,平貞盛に討たれる)
       ┃┣将頼-940
         ┃┗将平
       ┗平良文886-953(母:藤原範世娘)
         ┗忠頼
          ┣忠常975-1031(房総平氏祖 教通に侍従 忠常の乱)
            平将門娘 ┣常将━□□━上総氏,千葉氏
                  ┗常近

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奥州藤原氏の中尊寺-2 弁慶堂

2017年10月21日 | 平安時代

 義経一向が淀のふちに到着したときには叔父行家は80騎を伴い待っていた。そこには金売吉次の姿もあり、一の谷、屋島、壇ノ浦での勇姿をなくした義経の姿を見て、いずれ奮起した際には奥州藤原家の助けを借りるべく、いつでもはせ参じる旨の言葉を残す。また、平大納言の娘・夕花とはここで別れた。能登に配流となった父・時忠のもとへ桜間の介能遠を伴わせて下らせた。もとより夕花へは充分に説得はしていたのである。こうして静と百合野と一部の小女房だけを伴い、250騎は西へ向けて大河の岸を下っていった。義経の250騎が江口の里(現在の吹田あたりの淀川が大きく湾曲したところ)に着いたのは日も暮れ宵の頃である。江口近辺では三河守範頼の配下数百騎が駐屯し、乱酔、遊女泣かせなどやりたい放題であった。義経以下が、ここを通るときには明かりは消え、静まっている。里人くまなく怯えているのである。弁慶が事態のありのままを告げ、夜の炊事にとりかかると次第に里人も安堵したのか、ひとりの里長が妙の御の家を宿にと、江口一番の妓家の女主のところへ案内してくれた。そして、静と百合野は妙の御の家で世話になるのである。そして二人はあわただしく都落ちをしてからというもの、ろくに話もできずにいただけに、心ゆくまで語り合い、慰めあうことができたのである。百合野にはもはや帰る家などはない。判官殿と生涯添い遂げよ と父に固く言われていただけに 去る日は生涯が終わる日と健気にも決めていた。そのようなことを語りながら仲のよい姉妹のように慰めあう。そして判官殿に比べれば・・・・と誓っていたのである。

 すこしして百合野は自分の部屋に戻ると、静は一人眠れずにいた。そこへはいってきたのが、妙の御である。妙の御は静の白拍子の舞を知っていた。御酒を勧めにきたのである。とはいっても、妙の御も静に出会い、昔を懐かしみ話をせずにはいられずに来たわけである。妙の御の幼名は瑠璃子といい、父は伊賀守藤原源為義といい、遠い任地で果てたため、瑠璃子は身寄りの中御門家で育てられた。そのときに祗園女御に可愛がられた。祗園女御といえば、もとは祗園の遊女で白川上皇に愛され、清盛の父・忠盛に 嫁いだ女性である。その後全てを捨てて、ここ江口で色禅尼ともいわれ妓家の主となっていた。そして瑠璃子はまたたく、可愛がられ江口の遊君となった。淀川が湾曲した神崎川との分岐点一帯は江口と呼ばれ、平安時代から水上交通の要所であったこの地が急速に発展し始めるのは、785年に淀川と三国川との間に水路が結ばれてからである。この工事で江口の地は、平安京から山陽・西海・南海の三道を必ず通る所の宿場町として繁栄し、とくに平安中期以降は、紀州熊野・高野山、四天王寺・住吉社への参詣が盛んになり、往来する貴族たち相手の遊女の里としても知られるようになった。遊女たちは群をなし小船を操って今様を歌いながら旅船に近づき、旅人の一夜の枕を共にしたと言う。彼女たちは多才で、歌舞・音曲にすぐれ、中には和歌をよくする者もいた。名妓として名を残したのは、小観音・中君・子馬・白女・主殿、その名でもとくに有名なのは、西行との歌問答で「新古今集」に収録されている遊女妙である。1167年旅の途中、雨宿りの宿を断わられた西行が、「世の中を厭う間でこそ難からめ 仮の宿を惜しむ君かな」と詠んだに対して「世の中を厭う人としきけば仮の屋に 心とむなと思ふばかりぞ」と返した女性です。ここで登場する妙は平資盛の娘で、没落後に遊女となったが、発心して作った庵が江口の君堂(寂光寺)として現在も残っています。

 昔、清盛が熊野詣の際に、ここ江口で泊まったことがあり、そのときの清盛に対する乙女心が芽生えたという。いまこうして昔を懐かしみ、静を長々とおしゃべりをしていたのである。まわりは、俄かに騒々しくなっている。義経を追う数多の郎党がいよいよ迫っているらしい。早々に宿をでると、一向は大物の浦(現在の尼崎)へ急いだ。ところが義経の首を討ち取らんとする輩に阻まれ、大物の浦へ着いたときには天候も嵐のごとくくずれていた。そして、ここから船出したものの嵐に見舞われ、義経一向はことごとく難破し、西国への旅が阻まれたのは有名な話である。泉州住吉神社の宮司・津守国平が浜辺で、女房が死人のように倒れているのを見つけたのは、嵐も静まった翌朝である。国平は義経主従の遭難であることはすぐにわかった。そして摂津源氏の追っ手が、ここへくるであろうことも。かくして女房は国平に匿われた。そのころ百合野は息も絶え絶えで、伊勢三郎に助けられ亀井六郎の背につかまっていた。伊勢三郎が頼ったのは、御陵守の長の邸である。義経の旧御を忘れずにいた長は、伊勢、亀井、吾野、渡辺番と河越殿の百合野を匿い、手厚い養生を施した。しかし伊勢、亀井はいまだに行方のわからない判官、静を求めてあてはないが、風聞集まる洛へと向かうのである。そして百合野は東嵯峨の阿部麻鳥のもとへと、渡辺番、吾野余次郎により送られることになった。義経はというと、泉州の一角に上陸し、四天王寺界隈で身を潜めていた。伊豆有綱、弁慶、堀弥太郎、静の5人である。ここ四天王寺では追捕にさらされ、身を寄せる民家もない。そこで弁慶は、吉野山へ身を隠すのが一番かと・・・。そこは鎌倉の権力にも屈しない輩もおり、安全であると考えたのである。

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奥州藤原氏の中尊寺 開基は藤原清衡

2017年10月19日 | 平安時代

 中尊寺は、奥州平泉にある天台宗の寺院で、開基は藤原清衡。奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であるが、平泉浄土を表す考古学的遺跡である。

 奥州藤原氏の初代、藤原清衡
  ・前九年の役の最中の1056年に生まれた
  ・清衡が7歳の時、父・藤原経清は、安倍氏に味方したかどで源頼義988-1075(源義家の父)に斬殺された
  ・清衡の母は安倍氏の出であった
  ・清衡の母は、経清が殺害された後、安倍氏とは敵対関係にあった清原家の清原武貞と再婚
  ・清衡は清原武貞の養子として「清原清衡」を名乗ることになる
  ・つまり、清衡は前九年の役で滅亡した安倍氏の血を引くとともに、後三年の役で滅びた清原家の養子でもあった
  ・清衡の兄弟には兄・真衡(清原武貞と先妻の子)と、弟・家衡(清衡の母と清原武貞の間に生まれた子)がいた
  ・真衡は弟の清衡・家衡とは対立していた
  ・真衡の死後、彼が支配していた奥州の奥六郡は、清衡と異父弟・家衡に3郡ずつ与えられた
  ・これが元となって今度は清衡と家衡の間に争いが生じた
  ・清衡は源義家の助力を得て戦いに勝利し、清原氏は滅亡した
  ・この一連の内紛を「後三年の役」と称する
  
  ・この合戦のさなか、清衡は館に火を放たれ、妻と子を失っている
  ・その後、清衡は現在の岩手県にほぼ相当する奥州奥六郡を支配下に収める
  ・父の姓である「藤原」を名乗って「藤原清衡」と称するようになる
  ・清衡は1089年には陸奥押領使に任命され、1094年頃には居館を江刺郡豊田館から、中尊寺のある平泉に移している
  
 藤原清衡の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たりにしてきた前半生を省み、戦没者の追善とともに、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ったと推測されている。


 清衡が平泉にて中尊寺の中興に着手したのは1105年、50歳の時である。

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奥州藤原氏-9 高館義経堂

2017年10月10日 | 平安時代

 1189年 高館の戦いにて敗れた義経は自刃した。秀衡に対しても、義経の処遇について院宣が下されるなどの圧迫があったが、死後の文治4年になると、俄然その動きがあわただしくなってくる。1188年2月21日に藤原基成と泰衡に義経追討の宣旨が奥州に下り、これに応じなければ共に追討すると報知される。明けて1189年2月22日、頼朝は、命に応じない泰衡の追討や、平泉方に同調する公卿たちの解官を朝廷に求めた。その後の4月30日、泰衡は、家来の長崎太郎を大将にして五百騎の軍勢で義経の居館高館に攻め込んできた。屋敷の大手門には、弁慶、片岡八郎、鈴木三郎と亀井六郎の兄弟、鷲尾三郎、増尾十郎、伊勢の三郎、備前の平四郎の八人が立ちふさがった。常陸坊など十一人は、朝から山寺参りに出向いてまだ帰っていなかった。弁慶は、鎧をまとい大長刀の真ん中を握って立ち構えると、「囃し立ててくれ、殿原達。東の方の奴原にいいものをみせてやる。わしはこう見えても若い頃、比叡山で詩歌管絃を許されていた。一手舞って奴原に見せてやるわい」と言い、鈴木三郎、亀井六郎に囃させて踊り出した。うれしや瀧の水 鳴るは瀧の水 日は照るとも絶えずとふたり 東の奴原が 鎧兜を首もろともに 衣川に切流しつるかな

 弁慶は、喉笛を打裂かれて全身を赤く染めながら、威風堂々の戦いを見せていた。弁慶が持仏堂に入ると、義経は静かにお経を読んでいた。弁慶が、「軍はかぎりになりて候。備前、鷲尾、増尾、鈴木、亀井、伊勢の三郎、各々軍思ひのまゝに仕り、打死仕りて候。今は弁慶と片岡ばかりに成りて候。限りにて候ふ程に、君の御目に今一度かゝり候はんずる為に参りて候。君御先立ち給ひ候はゞ、死出の山にて御待ち候へ、弁慶先立ち参らせ候はゞ、三途の河にて待ち参らせん」と言うと、義経は、「今一入名残の惜しきぞよ、死なば一所とこそ契りしに、我も諸共に打出でんとすれば、不足なる敵なり。弁慶を内に留めんとすれば、御方のおのおの討死する。自害の所へ雑人の入れたらば、弓矢の疵なるべし。今は力及ばず、假令我先立ちたりとも、死出の山にて待つべし。先立ちたらば誠に三途の河にて待ち候へ。御経も今少しなり、読み果つる程は死したりとも、我を守護せよ」と続けて言った。弁慶は、御座する所の御簾をそっと引き上げ、義経に別れを告げた。義経の目に、咽び泣く弁慶の姿が映った。敵の接近する音を近くに聞くと弁慶はあわてて立ち去ろうとしたが、すぐに戻って、六道のみちの巷に待てよ君おくれ先だつならひありとも の歌を詠み、死後にふたたび会う約束を交わすと、義経は、後の世もまた後の世もめぐりあへそむ紫の雲の上まで と返歌して、慟哭した。

 弁慶が戦に戻ると、片岡は、傷を負い精魂使い果たしたかのようにぐったりした。もう、腕も肩も限界だった。片岡は、もうこれまでと自らの手で刀を深く刺した。弁慶、力尽きる。義経の手勢は、大手門に残る弁慶、屋根で弓を引く兼房と喜三太の三人のみとなっていた。弁慶は、血に染まりながらも最後の力を絞って長刀を振るった。人馬の区別なく、狂ったように手当たり次第に長刀を切りつけ戦場に血の雨を降らせた。黒羽、白羽、染羽など、弁慶が受けた矢は数知れず、前身が矢だらけになりながらも縦横無尽の動きを見せていた。とそのとき、弁慶は、一度大きく長刀を振って敵を打ち払い、長刀を逆さまに突き立て、仁王立ちに成った。弁慶の動きが止まった。まさに仁王のようになり、一口笑ったかと思うと微動だにしなくなった。寄り手は、気味悪がって近づかない。寄り手の一人が言った。「剛のものは、立ちながら死ぬ事があるというぞ。だれか行って確かめて来い」 が、誰も近づこうとしない。その時、一人の武者が弁慶の身体に馬を当てた。「弁慶が倒れた!」 長刀をしっかり握ったままで息まだあるかに見えたが、このとき、弁慶は既に昇天していた。 弁慶は、命が絶えようとしたとき義経の最後の言葉を思い出していた。「私が自害するところに下賎の者が入れば、武士の恥となる。お経も今少しで読み終える。読み終えるまでの間、おまえが死んだとしても、私を守護しなさい」 弁慶の大往生は「死んでも殿の自害を守る」弁慶の最後の奉公だったのである。そのころ、兼房と喜三太は櫓の上から飛んで下りたが、喜三太は首を射られ失せていた。

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奥州藤原氏-8 秀衡が建立した無量光院跡

2017年10月09日 | 平安時代

 平安時代末期に奥州一帯に勢力を振るった奥州藤原氏は、初代清衡が中尊寺、二代基衡が毛越寺を造営した。そして三代秀衡が建立したのが無量光院である。無量光院は奥州藤原氏の本拠地平泉の中心部に位置し、『吾妻鏡』にも無量光院の近くに奥州藤原氏の政庁・平泉館があったと記載されている。『吾妻鏡』によれば、無量光院は京都府宇治市の平等院を模して造られ、新御堂と号した。新御堂とは毛越寺の新院の意味である。本尊は平等院と同じ阿弥陀如来で、地形や建物の配置も平等院を模したとされるが、中堂前に瓦を敷き詰めている点と池に中島がある点が平等院とは異なる。本堂の規模は鳳凰堂とほぼ一致だが、翼廊の長さは一間分長い。建物は全体に東向きに作られ、敷地の西には金鶏山が位置していた。配置は庭園から見ると夕日が本堂の背後の金鶏山へと沈んでいくように設計されており、浄土思想を体現していた。

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奥州藤原氏-6 毛越寺-2

2017年10月07日 | 平安時代

毛越寺境内・鎮守社跡

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