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北条時宗の中継ぎ執権・北条長時

2010年06月08日 | 鎌倉・室町時代

 時の執権・北条時頼が1256年に流行り病に倒れたため、執権職を義兄の北条長時1230-1264に譲って出家し最明寺入道と名乗った。 しかし幸運にも病が完治したため、執権職を退いたにもかかわらず、実際の政治は時頼が取り仕切っていたという。 嫡男の時宗はこの時はまだ6歳で、執権職を継がせる訳にもいかず、長時を代行として執権職に据え、時宗の成人後に長時から時宗へ執権を継がせる約束をさせて出家したと言われている。 だが、北条長時は執権職を担うだけの器量を備えていなかった。 実はこの期間に時頼は嫡男・時宗と安達泰盛を従えて、鎌倉から京へ、世の実情を見極めるたびをしており、兵庫県・三日月町へも立ち寄ったと云われている。 こうした経験が善政を敷くきっかけとして語られ、時頼の評価が高いゆえんなのかもしれない。 この時頼の旅の最中に、長時は町人に刺激されて切り捨てるという事件を起こした。 その責任をとって長時の父・北条重時は切腹を覚悟したが、時頼の庶子・北条時輔にいさめられて思いとどまった。 

 ところで、時頼から傀儡の執権を託された北条長時は、居所から赤橋長時とも称され、六波羅探題北方・連署を務めた北条重時の嫡男である。 異母兄為時が病弱なために廃嫡となったことから家督をついだ。  母は4代将軍藤原頼経に仕えた女房で正室の平基親の娘で、北条氏赤橋流の租である。 最後の執権・北条守時は赤橋流北条氏であり、守時の妹・赤橋登子は北条氏と姻戚関係にあった有力御家人・足利氏の尊氏に嫁ぎ、正室となった。 足利尊氏といえば、室町幕府初代の征夷大将軍で、清和源氏の血を引く八幡太郎義家の子・義国を祖とする足利氏の嫡流である。 源氏の棟梁・源頼朝が鎌倉幕府を開いた後に、伊豆の御家人・北条氏が執権として鎌倉幕府の実権を握って以来、約100年後には、時の執権・北条高時の名を受けた足利高氏が、その名を尊氏とかえて鎌倉幕府滅亡に関与していくのである。

京都・等持院には足利将軍の木像や尊氏の墓がある

 

 

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得宗家8代執権・北条時宗

2010年06月07日 | 鎌倉・室町時代

北条時宗1251-1284

1251 鎌倉幕府第8代執権は鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれる

   内政的には得宗権力の強化を図り、国力の勝るモンゴルの侵攻を退けたことから、国難を救った英雄と云われている。    
   1251年、相模国鎌倉、安達氏(鎌倉有力御家人で、父時頼の母方が安達氏系統)の甘縄邸に生まれた。     
   異母兄に3歳年上の宝寿丸(北条時輔)がいたが、宝寿丸は側室(讃岐殿)の子であったため、正寿丸が後継者となった。 

1257 将軍御所にて宗尊親王を烏帽子親として元服し、相模太郎時宗を名乗る

   時宗が名実共に北条の次期棟梁であることが周知された。

1260 将軍の供奉などを務める小侍所の別当に就任

   当時、既に金沢流北条氏の実力者・北条実時が別当の任にあり、小侍所の別当が複数置かれることが慣行となる。     
   時宗の小侍所入りは、執権になるための時頼の配慮だで、小侍所の別当であった実時は深慮に富んだ教養深い人物であったことから、    
   時宗の人格は形成されたと考えられる。 

1261 安達義景の娘の堀内殿と結婚

1264 6代執権北条長時が出家し北条政村が7代執権

   次いで時宗は14歳で執権の補佐を務める連署に就任する。 執権政村や一族の重鎮北条実時と協力

1266 幕府転覆を計画していたとされる宗尊親王の廃位、惟康親王の擁立

1268 高麗の使節がモンゴルの国書を持って蒙古への服属を求める国書が鎌倉へ送られ、国内不安がつのる

   幕府は国書を無視

   

    

   政村から執権職を継承して第8代執権となる。時宗は政村や北条実時・安達泰盛・平頼綱らに補佐され、対外問題にあたる。 

1272 朝廷に接近する六波羅探題南方の別当で兄の時輔や、一族の評定衆・北条時章・教時兄弟を誅殺し(二月騒動)

1274 『立正安国論』を幕府に上呈した日蓮を佐渡に配流 

   「文永の役」 幾度となく国書を無視されたモンゴル・フビライはいよいよ武力行使。

   モンゴル : 支配下の高麗から900隻の船、3万兵

          対馬に侵攻 ⇔ 宗助国80騎 @小茂田浜(小茂田浜神社に兵は祀られている 郷土料理は佐須餅)

          壱岐に侵攻 @10/14 武力制圧

          博多(南宋との貿易拠点)に侵攻 @10/20 ⇔ 日本軍1万騎

            →博多のうどんは全粒粉:饂飩、蕎麦、饅頭発祥の地

          亀山上皇必勝祈願が筥崎宮にある 亀山上皇立像はJR吉塚駅近くにある

          蒙古襲来絵詞(国宝20m) By 竹崎季長@熊本(この戦はお家復興のチャンス)

            ・モンゴルの組織化(てつはう、ドラ、太鼓)

            ・日本は家単位(軍功重視 甲冑、弓矢--つのみ威力)大将:少弐景資  

   モンゴル軍が日本に襲来した元寇では苦戦(モンゴルは博多制圧 日本はへ大宰府撤退@水城)したが、    
   
暴風雨の到来によるモンゴル軍の撤退で全面的戦闘は回避された。    
    ・
武力誇示等の初期の目的は達成したのが真意?    
    ・
暴風雨と云われているが、日本軍の善戦の驚いたモンゴル軍(高句麗軍)は翌日撤退?

1275 翌年、降伏を勧める使節団が来日すると、時宗は鎌倉で引見後、5人全員処刑する。

   土地恩賞問題勃発(与える土地は無い) → 竹崎季長不満を直談判@鎌倉・安達泰盛の屋敷

   防衛体制強化 :朝廷・寺社が抱える御家人 

           西国の守護を北条氏に入れ替え

           沿岸警備増強 :防塁約20km---上陸する前に戦闘

                   H=2~2.5m(上半分は復元) 半年で完成

 

1281 「弘安の役」@5月 

   モンゴル : 14万騎 朝鮮半島4万-900隻     (東路軍--単独侵攻)

              旧南宋兵士対策10万-3500隻 (江南軍--出航遅れ)

          壱岐で合流後博多侵攻予定だったが江南軍指揮官の病気で遅延       

   時宗の名で出された得宗被官が戦場で指揮にあたり、モンゴル軍は苦戦

   土塁で上陸できないモンゴル軍は志賀島を占拠

   幕府軍は志賀島を偵察、モンゴル軍に夜襲、船に放火 ---蒙古襲来絵詞後半

   6月に江南軍到着@平戸 → 鷹島 -- 水軍・松浦党の本拠地

   7月に暴風雨が鷹島沖到来のために大船団壊滅沈没@伊万里湾 :沈没船発見@2011 水深25m 推定27m

                                 :沈没船発見@2015 水深25m 推定20m  

                                  遺品は松浦市立埋蔵文化財センター 

   元亨釈書 --- 僧侶が著した史書@鎌倉末期

          この神風は神仏のの力によるものと主張して、恩賞を訴えている     
      
   【モンゴル軍とは】    
   ・東路軍とはモンゴルに制圧された高句麗軍4万    
   ・江南軍とはモンゴルに制圧された南宋軍 10万    
     南宋軍に於いては主要武器が鍬などの農機具。日本を征圧した後は日本の領土を奪って移住農業せよという命令があったという    
     それでは士気があがらないし、少数であっても最強の日本軍が勝つのが道理    
     従って、暴風雨でなくても日本が勝利していたと言える

   ベトナム、インドネシア侵攻失敗+日本侵攻失敗によるモンゴル内部クーデター

   フビライは3度目の日本侵攻計画を断念      

1284 病床にあった時宗は、出家後すぐに34歳で病死、自らが開いた鎌倉山ノ内の瑞鹿山円覚寺に葬られた。

1294 フビライ・ハーン死去@80才

   鎌倉幕府はフビライの死=日本侵攻中止を知らず

   室町時代まで防塁の維持、警護体制の維持を行ったことで武士の負担は大きく続いた →幕府崩壊

 

┏源頼朝 1147-1199 (乳母比企の局)    
┣義賢   ┃          ┣比企能員
┃     ┃藤原忠通1097-1164┣丹後局   
┣範頼   ┃┃         ┗長女   
┗妹坊門姫 ┃┃ ┏玉日姫(親鸞室)┣-
 ┣高能  ┃┣九条兼実      藤九郎盛長
 ┣良経室 ┃加賀┣九条良通1167-1188        
 ┣全子  ┃  ┣九条良経1169-1206      
 ┣保子  ┃   ┃┣九条道家1193-1252     
 一条能保 ┃   ┃┃┣九条教実1211-1235     
      ┃   ┃┃┣二条良実1216-1271     
      ┃   ┃┃┣藤原頼経1218-1256 鎌倉4代将軍     
      ┃   ┃┃┃┣九条頼嗣1239-1256鎌倉5代将軍      
      ┃   ┃┃┃大宮殿(藤原親能娘)  ┣-    
      ┃   ┃┃┣一条実経1223-1284  桧皮姫1230-1247北条経時妹   
      ┃   ┃┃西園寺綸子     
      ┃   ┃┣九条教家1194-1255     
         ┃   ┃┣九条立子1192-1248     
      ┃   ┃一条能保娘     
      ┃  ┣中宮任子1173-1238      
      ┃ 兼子┃     
      ┃   ┣昇子内親王1195-1211     
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239      
      ┃ ┃ ┣83土御門天皇1196-1231    
      ┃ ┃源在子       ┣後嵯峨天皇1220-1272   
      ┃ ┃  ┏西園寺姞子1225-1292 ┣宗尊親王1242-1274鎌倉6代将軍
      ┃ ┃西園寺実氏1194-1269    平棟子  ┗惟康親王1264-1326鎌倉7代将軍
      ┣大姫1178-1197       
      ┣頼家1182-1204(乳母は比企一族 北条氏により暗殺)       
      ┃ ┣一幡(藤原氏に敗れる)    
      ┃ ┣公暁(乳母は三浦一族)     
      ┃ ┃  (三浦義村は実朝・義時暗殺を計画)   
      ┃比企能員(よしかず)娘・若狭局     
      ┃藤原棟子       
      ┃ ┣86後堀河 藤原重子  藤原立子1192-1247   
      ┃守貞親王(後高倉院)┃    ┣85仲恭天皇1218-1234(懐成親王) 
      ┃            ┣84順徳天皇1197-1242
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239    
      ┃    ┣道助入道親王1196-1249仁和寺御室 
      ┃    ┣禮子内親王(嘉陽門院)1200-1273 
      ┃坊門信清┣頼仁親王1201-1264 承久の乱後備前へ配流    
      ┃ ┣坊門局    
      ┃ ┗西八条禅尼    
      ┃   ┣    
      ┣実朝1192-1219(乳母は北条・阿波局三浦氏に暗殺される)      
      ┣三幡(乙姫)1186-1199後鳥羽天皇入内を図るが暗殺の疑       
  ┏北条政子1157-1225尼御台 
 ┃姫の前(比企朝宗娘)    
 ┃  ┣北条朝時1193-1245         
 ┃ ┃ ┣北条光時?-?(宮騒動) 
 ┃ ┃ ┗娘
 ┃ ┃  ┣家氏?-?
 ┃ ┃ 足利泰氏1216-1270
 ┃ ┃  ┣頼氏1240-1297    北条時盛娘
 ┃ ┃ 北条時氏娘(時頼兄妹)     ┣北条義宗1253-1277六波羅探題北方
 ┃ ┣北条重時1198-1261(極楽寺流)┃       ┃
 ┣②北条義時1163-1224 ┣⑥北条長時(1229-1264) ┗北条久時1272-1307
 ┃ ┃┣⑦政村1205-  ┣北条時茂1240-1270探題   ┃
 ┃ ┃┃        ┣北条義政1242-1282探題   ┃
 ┃ ┃┃        ┣北条時頼室(葛西殿)    ┃
 ┃ ┃┃        ┣安達泰盛室・藤岡     ┃
 ┃ ┃┣実泰1208-1263 平基親娘(治部卿)       ┃
 ┃ ┃┃ ┗実時1224-1276(金沢流)          ┃
 ┃ ┃伊賀の方 ┗顕時1243-1301 (室:安達千代野) ┃
 ┃ ┃                                   ┃
 ┃ ┣③北条泰時(承久の乱時総司令官)1183-1242   ┃
 ┃ ┃       ┃ ┃              ┣⑯北条守時1295-1233
 ┃阿波局?-?     ┃ ┣北条時実1212-1227    ┃
 ┣北条宗時?-1180    ┃ 安保実員娘        ┃
 ┃         ┣北条時氏1203-1230      ┣赤橋登子1306-1365
 ┃         ┃ ┣桧皮姫1230-1247        ┃   ┃
 ┃         ┃ ┣北条時定-1290宝治合戦  ┃   ┃
 ┃三浦義澄1127-1200 ┃ ┣④北条経時1224-1246  北条宗頼娘┣足利義詮1330-1367
 ┃ ┣三浦義村-1239 ┃ ┃   ┣隆政            ┃┣義満1358-1408
 ┃伊東 ┣矢部禅尼1187- ┃    ┗頼助1245-1296       ┃┃
 ┃祐親娘┃          1256┃大江広元1148-1245         ┃┃
 ┃   ┣三浦泰村1184- ┃┗毛利季光1201-1247(宝治合戦)  ┃┃
 ┃   ┣三浦光村1205- ┃  ┣経光?-?・・・毛利元就    ┃┃
 ┃   ┣土岐光定室  ┃  ┣娘              ┃┃
 ┃   ┣━━━━━━━┃ ━娘┣北条時宗(否定説)      ┃┃
 ┃ 一条忠頼娘(公暁乳母)┃   ┃辻殿            ┃┃
 ┃            ┃   ┃┣北条宗頼?-1279      ┃┣満詮1364-1418
 ┃              ┃    ┃┃                 ┃紀良子
 ┃              ┃    ┃┃     小山長村娘     ┃
 ┃              ┃    ┃┃讃岐局┣時朝       ┃
 ┃     家時(報国寺)┃   ┃┃┣北条時輔1248-1272   ┣足利基氏1340-1367
①北条時政     ┣-  ┣⑤北条時頼1227-1263        ┣足利頼子?-1353鶴王
  ┃        ┃  ┃    ┃            ┃           ┃
 ┣阿波 平賀朝雅 ┏娘 ┏松下禅尼┣北条宗政1253-1281   足利尊氏1305-1358┣-
 ┣鏡子 ┣- ┏常葉時茂┃ ?-?   ┃┣⑩師時1275-1311                崇光天皇
 ┣百合子┏重時1198- ┃    ┃北条政村娘
 ┣江馬四郎義時1163- ┃    ┣北条時宗1251-1284     
牧の方         ┃   北条重時娘   ┣⑨貞時1272-1311(乳母)         
            ┃   (葛西殿)   ┃┣⑭高時1303-1333┃
             安達景盛-1248       ┃北条宗政娘    ┣宗綱?-?
            ┃               ┃      ┏平頼綱1241-1293(日蓮を配流)
            ┣安達義景1210-1253 ┃ 平盛綱?-?得宗家執事
          武藤頼佐娘┣堀内殿1252-1306覚山尼
                ┣安達泰盛1231-1285        
                ┃ ┣宗景1259-1285         
                ┃北条重時娘・藤岡         
                  北条時房娘

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大江広元の子・季光は毛利元就の祖

2010年06月06日 | 鎌倉・室町時代

 毛利季光1201-1247は鎌倉幕府の御家人で、大江広元の四男である。 平城天皇(桓武天皇の嫡男で、子には阿保親王、孫には在原業平がいる) の流れを汲む学者家系である。 父の大江広元は源頼朝に招かれて鎌倉幕府創業に尽力した。 毛利季光は父・広元の所領・相模国毛利庄を相続して毛利氏の祖となり、公家の父親と違って、武士として東国に土着した。 三代将軍・源実朝に仕えたが、実朝の死後は出家し、1221年の承久の乱では北条泰時に従って後鳥羽上皇と戦い武名をあげている。 1233年に時の執権・北条泰時(5代執権・北条時頼の祖父で、初代執権で北条政子の夫・北条時政の孫) から評定衆に任命されると1246年には、藤原頼経・頼嗣父子(鎌倉第4代、第5代将軍)に仕えた。

                                                                 鶴岡八幡宮と源頼朝公の墓所

 

 妻は三浦義村の娘である。 三浦氏といえば、河内源氏・源頼義-源義家の時代から源氏に仕えて相模国の三浦の領地を与えられた豪族であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝の有力御家人であった。 有力御家人であっただけに執権・北条氏と対立を繰り返し、1247年には妻の実家・三浦氏方に付いて敗北する。 (宝治合戦) 最後は鎌倉法華堂で息子の広光・光正・泰光ら郎党500余名とともに自刃した。 宝治合戦の直前まで、季光は北条氏につくか、三浦氏につくか迷っていたようであるが、 「兄・泰村を見捨てる事は、武士のする事ではない」との妻の言葉で三浦陣営に付いたという。 三浦一族の滅亡とともに、毛利一族も大半が果てたが、 越後国にいた四男の毛利経光の家系だけが唯一残った。 この経光の子孫が安芸国吉田荘の国人領主から戦国時代の覇者となる毛利元就である。 季光の娘は宝治合戦の勝者、第5代執権・北条時頼の正室であったが、戦後に離別している。 従って北条時宗の母・葛西殿は継室・北条重時の娘であり、季光の娘ではない。 しかし大河・北条時宗では、季光の娘が執権・北条時頼の正室として、北条時宗を生んでいる。 宝治合戦での毛利季光の心情と、娘・葛西殿の夫・時頼に対する憎しみを描くには、時宗の母は毛利季光娘説のほうが、迫力がある。

                                              鶴岡八幡宮近くにある第3代執権・北条泰時と大江広元の墓

 

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北条時宗の異母兄・北条時輔

2010年06月05日 | 鎌倉・室町時代

 北条時輔1248-1272の幼名は宝寿丸。父は5代執権・北条時頼。 母は将軍付きの女房讃岐局という側室であったため、嫡男であるにもかかわらず、得宗家の後継としての道は幼少のうちに断たれた。 3年後の1251年に時頼の正室・葛西殿に男子が生まれると側室の讃岐殿と時輔は北条邸から退去し、正室と幼名を正寿丸と称した時宗がはいることとなった。 宝寿丸は9歳で元服すると、烏帽子親の足利利氏の名を一字受け「時利」と名乗り、11歳のときに下野国の有力御家人・小山長村の娘と結婚。 時輔と改名したのは13歳のときで、既に弟の正寿丸が元服し時宗となっており、「輔」つまり弟・時宗の補佐役であることを父の時頼が示している。 また時頼は家督争いを事前に回避しようと兄弟の序列を定め、これにより側室の子であった時輔は長男でありながら正室腹の異母弟の二人の下の立場とした。

 1264年、17歳で六波羅探題南方(執権職につぐ重職)に任じられ、1267年に将軍・宗尊親王が時宗暗殺陰謀の嫌疑で京都に追われると、朝廷との交渉にあたり親王の第一皇子惟康王に将軍宣下を受けるなど六波羅探題として鎌倉に貢献していることから、弟・時宗の補佐役として京の六波羅探題職を果たしていると考えられる。 ところがその平穏も1269年の蒙古からの国書によって揺らぐこととなる。 穏便路線の朝廷に対して、幕府は「抗戦も辞さず」と使者に対応したことから、対外政策を引き金に、北条時輔が反得宗家の人間として担ぎ出されるには、絶好の存在であった。 そして遂に事件は勃発します。 常に得宗家との反目していた庶流名越氏の時章・教時兄弟が謀反の疑いありとして討たれると、六波羅探題北方北条義宗のもとに時宗から時輔誅殺の下知がもたらされます。 義宗は直ちに武装兵を率いて南方を急襲。燃え盛る炎の中で時輔は命を落とします。 後に 「二月騒動」と呼ばれるこの事件、保暦間記では時輔の「年来謀反ノ志」が発覚したためと伝え、吾妻鏡では時輔の死去を伝えていますが、保暦間記や兼仲卿記では生存をうかがわせる記事があり、時輔は生きていたという説もある。 ところで、2001年のNHK大河北条時宗では、生存説をとって密かに脱出し、妻子と別れてからは時宗を支え続けている。

鎌倉幕府が朝廷を見張る目的で平家ゆかりのこの地に六波羅探題を設置した

 

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鎌倉幕府創設以来の雄族・三浦氏の滅亡

2010年06月04日 | 鎌倉・室町時代

1219 源実朝暗殺

1226 九条頼経が第5代執権@8歳

1242 後嵯峨天皇擁立 By 北条氏

1246 北条時頼が第5代執権@20歳 → 鎌倉不安定

   宮騒動:謀反人九条頼経を孤立化 三浦泰村を味方につけて収束 名越氏を流罪 頼経追放

1247 宝治合戦: 安達影盛(時頼の妻方) VS 三浦泰村(時氏の母方)    

         三浦泰村、光村など三浦勢自刃@法華堂:頼朝の墓

1251 宮騒動の残党による謀反計画:九条頼経の指示

1252 6代将軍九条頼嗣を解任、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を将軍に擁立

    撫民政策、裁判所、評定

 

 執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から1247年に鎌倉において武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその郎党が滅ぼされた乱を宝治合戦という。 遡ること5年の1242年、有力御家人を統率してきた3代執権・北条泰時(室は三浦義村の娘・矢部禅尼)が死去し、その嫡孫で19歳の北条経時が跡を継いだ。 北条泰時の嫡男・北条時氏は1230年に若くして亡くなっていたため、その子・経時が跡を継いで第4代執権となったのである。  北条得宗家主導の政治に不満を募らせていた御家人達は、泰時時代には幼少だった鎌倉4代将軍・藤原頼経(藤原道家と西園寺公経の娘・倫子との子) の元に集って北条反対勢力を形成していた。 このように、鎌倉幕閣は北条執権派と将軍派との対立を続けていたが、1246年、4代執権・北条経時が病死すると、得宗家の専制に反発していた北条朝時(北条泰時の弟)の子・名越光時は前将軍・藤原頼経と共謀して、得宗家・北条時頼を廃そうと謀反を起こしたのである。 これを宮騒動という。因みにこの騒動で代表される得宗家と名越家の対立は後の世にも続くこととなるのである。    

 北条経時の病死により、急遽5代執権となった弟の北条時頼(母は松下禅尼)により前将軍・頼経は京都へ送還され、将軍派であった御家人達は処分されることとなった。 このとき、鎌倉の地元相模国を本拠とする幕府創設以来の大族・三浦氏は将軍派の背後にありながらも動かず、処分を受ける事はなかったため、有力御家人が次々と排斥されていった中で生き残り、北条氏に匹敵する最大勢力を保っていた。  三浦氏の長・三浦義村は娘・矢部禅尼を北条泰時の室として、北条得宗家と縁戚関係を結んでいたからである。  しかしながら、三浦氏当主・三浦泰村には北条氏への反抗の意志はなかったものの、弟の三浦光村は反北条の強硬派であり、前将軍・頼経の京都送還に同行するなど常に得宗家とは緊張関係にあった。

紅葉の名所として知られた京都・光明寺は北条経時、時頼の帰依を受けて整備された

 

 第5代執権・北条時頼は宮騒動として知られる北条名越系の謀反によって1246年に前将軍・頼経を京都に送還した後、頼経の父・九条道家の関東申次職を罷免し、代わって西園寺実氏(後嵯峨天皇の母・西園寺姞子の父)を任命する。 道家の後ろ盾を失った将軍復権派の三浦光村は、反北条の勢力を集結すべく動き、実力行使の動きを見せ始めたのである。

西園寺姞子が眠る粟田山陵

 

 宝治元年(1247年)になると、いよいよ鎌倉に不穏な噂が流れ始めた。 北条氏と三浦氏の対立が深まり、鎌倉中が異常心理に陥る中、打倒三浦の強硬派である安達景盛(北条時頼の祖父)が25年ぶりに高野山を下りて鎌倉へ戻り、執権・時頼の邸に参上し、三浦攻撃を説いたものと見られる。 しかし北条時頼は三浦泰村の次男・駒孫丸を養子に迎え、 将軍頼嗣の正室となっていた檜皮姫の病没により時頼は服喪のために三浦泰村邸に滞在して三浦氏への敵意が無い事を示し、合戦を回避すべく務めていた。 泰村も緊迫した状況の中、合戦の回避を望んでいたが、強硬派の弟光村によって和平の手ははねのけられた。 服喪のために泰村邸に逗留していた時頼が、館内で合戦の準備を始める音を聞いて本宅に戻ると、三浦光村が武具をそろえているという。 鎌倉に軍勢が集結して厳戒態勢となる中、時頼は腹心・平盛綱を泰村邸に遣わし、和平の義を成立させた。  

 事態は一転和平の途を辿るかに見えたが、安達景盛は、泰盛を先陣として一族に出撃を命じたのである。 武装した安達の軍勢が三浦泰村の館を強襲した。 奇襲を受けた泰村は舘に立て籠もり、三浦方には妹婿の毛利季光、将軍派の御家人達が集まった。 合戦に引きずり込まれる形になった時頼は、北条実時に将軍御所の守護を命じ、弟の北条時定を大将軍に任じて三浦泰村の討伐を命じた。 三浦泰村館への攻撃は明け方に始められ、舘に火がかけられ、燻り出された泰村達は舘を出て右大将家(源頼朝)法華堂に向かったという。 光村は泰村に永福寺での合流を勧めたが、泰村はすでに戦う意志はなく、兄弟一緒に亡き頼朝公の御影の前で死ぬべしとして光村に法華堂へ来るように命じると、法華堂には三浦一族とその縁戚、将軍派であった御家人達500余名が集まった。 出家していた毛利季光が念仏を唱え、三浦光村が調声の任を努め、三浦一族と与党500余名はそれぞれに自刃して果てた。上総国にあった泰村の妹婿千葉秀胤も追討軍と戦って敗れ、一族と共に自害した。 鎌倉幕府創設以来の雄族・三浦氏の滅亡により将軍側近勢力は一掃され、北条得宗家による専制体制が確立した。 これが世に言う宝治合戦なのである。

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鎌倉御家人筆頭の北条氏

2010年06月03日 | 鎌倉・室町時代

 北条氏は鎌倉幕府を開いた源頼朝の御家人にすぎず、比企氏、足利氏、安達氏、三浦氏、梶原氏、和田氏と同等の家人にすぎなかった。 しかし鎌倉幕府の実権を握るために、比企氏をはじめ次々と有力御家人を没落させていった北条時政は、北条氏の執権としての地位を確立していった。

 もともと北条氏と他の御家人との間に差はあまりなかったが、実朝暗殺後は梶原、比企、和田氏を次々と滅ぼし、幕府の権限を手中に収めていった。特に和田義盛を討ったことで幕府の要職・侍所を手に入れた。 ところが三浦氏は将軍宣下をうけると北条氏に対抗しようとしてきた。 時の将軍は5代将軍・頼嗣 (1239-1256 九条頼経と藤原親能娘・大宮殿との間にうまれる) であるがまだ推さなく、大殿として君臨していた前の4代将軍・藤原頼経(1218-1256 九条道家と西園寺綸子の間に生まれる) を京に追放することによって三浦氏の暗躍を絶とうというのである。 そして翌1247年に北条時頼は三浦氏を討伐して(宝治合戦)、5代将軍頼嗣も京へ追放された。 武家政治は北条氏のみが支える体制となり朝廷の干渉を一切排除した強固な得宗体制となる。 そういう意味で北条時頼は天下を確立した。 得宗の二代目を継いだのは時頼の嫡子・時宗であるが執権は何人か交代するが実権は得宗にあり、日蓮は得宗を国王と呼んだくらいである。 

  1263年に時頼は亡くなり、宮将軍宗尊親王が青年になり、反北条派に不穏な様子がみえたときに、得宗を継いだ北条時宗は執権の北条政村と相談して宗尊親王を追放して僅か3歳の子の惟康親王に将軍宣下をうけさせてる。 お飾りの将軍をおくことによって得宗体制を築いていった北条氏であるが、 元寇において危機が訪れる。 元寇で活躍した肥後の御家人・竹崎季長は武功が与えられなかったとして鎌倉へいき、幕府の恩沢奉行・安達泰盛に直談判して恩賞を取り付けた。 これを契機に 元寇の戦後処理は北条氏が一手にすることになるが、翌年、時の執権・時宗はなくなり14歳の貞時が執権を受け継いだ。 時宗の妻であり貞時の母・堀内殿が安達泰盛の娘であったことから、御家人重視の方向で政治を始める好機が安達泰盛にやってくる。 しかしこれに危機を感じて安達一族を滅亡に追いやった者がいたのである。 平頼綱といって、熱心な念仏信者で、日蓮を佐渡へ配流した張本人である。 平頼綱は執権・貞時の乳母を妻としていたこともあり幕府の要職についていたが、安達泰盛の嫡子・宗景が謀反を起こそうとしているとして、貞時を説き伏せ安達一族の滅亡を計った。 かくして泰盛、宗景、盛宗親子は討たれ、得宗体制は固まった。 安達泰盛に恩のある竹崎季長は、後に安達親子の鎮魂のために「蒙古襲来絵詞」を完成させた。 完成した永年元年は平頼綱が息子の宗綱の裏切りで自害に追い込まれた年である。 

 ところで、兵庫県三日月町の最明寺には北条時頼坐像が収蔵されている。 世直しで知られる時頼はこの地に訪れ約三ヶ月滞在したことから、三日月町となったそうである。

┏源頼朝 1147-1199 (乳母比企の局)    
┣義賢   ┃          ┣比企能員
┃     ┃藤原忠通1097-1164┣丹後局   
┣範頼   ┃┃         ┗長女   
┗妹坊門姫 ┃┃ ┏玉日姫(親鸞室)┣-
 ┣高能  ┃┣九条兼実      藤九郎盛長
 ┣良経室 ┃加賀┣九条良通1167-1188        
 ┣全子  ┃  ┣九条良経1169-1206      
 ┣保子  ┃   ┃┣九条道家1193-1252     
 一条能保 ┃   ┃┃┣九条教実1211-1235     
      ┃   ┃┃┣二条良実1216-1271     
      ┃   ┃┃┣藤原頼経1218-1256 鎌倉4代将軍     
      ┃   ┃┃┃┣九条頼嗣1239-1256鎌倉5代将軍      
      ┃   ┃┃┃大宮殿(藤原親能娘)  ┣-    
      ┃   ┃┃┣一条実経1223-1284
  桧皮姫1230-1247北条経時妹   
      ┃   ┃┃西園寺綸子     
      ┃   ┃┣九条教家1194-1255     
         ┃   ┃┣九条立子1192-1248     
      ┃   ┃一条能保娘     
      ┃  ┣中宮任子1173-1238      
      ┃ 兼子┃     
      ┃   ┣昇子内親王1195-1211     
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239      
      ┃ ┃ ┣83土御門天皇1196-1231    
      ┃ ┃源在子       ┣後嵯峨天皇1220-1272   
      ┃ ┃  ┏西園寺姞子1225-1292 ┣宗尊親王1242-1274鎌倉6代将軍
      ┃ ┃西園寺実氏1194-1269    平棟子  ┗惟康親王1264-1326鎌倉7代将軍
      ┣大姫1178-1197       
      ┣頼家1182-1204(乳母は比企一族 北条氏により暗殺)       
      ┃ ┣一幡(藤原氏に敗れる)    
      ┃ ┣公暁(乳母は三浦一族)     
      ┃ ┃  (三浦義村は実朝・義時暗殺を計画)   
      ┃比企能員(よしかず)娘・若狭局     
      ┃藤原棟子       
      ┃ ┣86後堀河 藤原重子  藤原立子1192-1247   
      ┃守貞親王(後高倉院)┃    ┣85仲恭天皇1218-1234(懐成親王) 
      ┃            ┣84順徳天皇1197-1242
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239    
      ┃    ┣道助入道親王1196-1249仁和寺御室 
      ┃    ┣禮子内親王(嘉陽門院)1200-1273 
      ┃坊門信清┣頼仁親王1201-1264 承久の乱後備前へ配流    
      ┃ ┣坊門局    
      ┃ ┗西八条禅尼    
      ┃   ┣    
      ┣実朝1192-1219(乳母は北条・阿波局三浦氏に暗殺される)      
      ┣三幡(乙姫)1186-1199後鳥羽天皇入内を図るが暗殺の疑       
  ┏北条政子1157-1225尼御台 
 ┃姫の前(比企朝宗娘)    
 ┃  ┣北条朝時1193-1245         
 ┃ ┃ ┣北条光時?-?(宮騒動) 
 ┃ ┃ ┗娘
 ┃ ┃  ┣家氏?-?
 ┃ ┃ 足利泰氏1216-1270
 ┃ ┃  ┣頼氏1240-1297    北条時盛娘
 ┃ ┃ 北条時氏娘(時頼兄妹)    ┣北条義宗1253-1277六波羅探題北方
 ┃ ┣北条重時1198-1261      ┃      ┃
 ┣②北条義時1163-1224┣⑥北条長時(1229-1264) ┗北条久時1272-1307
 ┃ ┃┣⑦政村1205- ┣北条時茂1240-1270探題北方 ┃
 ┃ ┃┃       ┣北条義政1242-1282探題北方 ┃
 ┃ ┃┃       ┣北条時頼室          ┃
 ┃ ┃┣実泰1208-1263平基親娘            ┃
 ┃ ┃┃ ┗実時1224-1276(金沢流)          ┃
 ┃ ┃伊賀の方 ┗顕時1243-1301 (室:安達千代野) ┃
 ┃ ┃                                   ┃
 ┃ ┣③北条泰時(承久の乱時総司令官)1183-1242   ┃
 ┃ ┃       ┃ ┃              ┣⑯北条守時1295-1233
 ┃阿波局?-?     ┃ ┣北条時実1212-1227    ┃
 ┣北条宗時?-1180    ┃ 安保実員娘        ┃
 ┃         ┣北条時氏1203-1230      ┣赤橋登子1306-1365
 ┃         ┃ ┣桧皮姫1230-1247        ┃   ┃
 ┃         ┃ ┣北条時定-1290宝治合戦  ┃   ┃
 ┃三浦義澄1127-1200 ┃ ┣④北条経時1224-1246  北条宗頼娘┣足利義詮1330-1367
 ┃ ┣三浦義村-1239 ┃ ┃   ┣隆政            ┃┣義満1358-1408
 ┃伊東 ┣矢部禅尼1187- ┃    ┗頼助1245-1296       ┃┃
 ┃祐親娘┃          1256┃大江広元1148-1245         ┃┃
 ┃   ┣三浦泰村1184- ┃┗毛利季光1201-1247(宝治合戦)  ┃┃
 ┃   ┣三浦光村1205- ┃  ┣経光?-?・・・毛利元就    ┃┃
 ┃   ┣土岐光定室  ┃  ┣娘              ┃┃
 ┃   ┣━━━━━━━┃ ━娘┣北条時宗(否定説)      ┃┃
 ┃ 一条忠頼娘(公暁乳母)┃   ┃辻殿            ┃┃
 ┃            ┃   ┃┣北条宗頼?-1279      ┃┣満詮1364-1418
 ┃              ┃    ┃┃                 ┃紀良子
 ┃              ┃    ┃┃     小山長村娘     ┃
 ┃              ┃    ┃┃讃岐局┣時朝       ┃
 ┃     家時(報国寺)┃   ┃┃┣北条時輔1248-1272   ┣足利基氏1340-1367
①北条時政     ┣-  ┣⑤北条時頼1227-1263        ┣足利頼子?-1353鶴王
  ┃        ┃  ┃    ┃            ┃           ┃
 ┣阿波 平賀朝雅 ┏娘 ┏松下禅尼┣北条宗政1253-1281   足利尊氏1305-1358┣-
 ┣鏡子 ┣- ┏常葉時茂┃ ?-?   ┃┣⑩師時1275-1311                崇光天皇
 ┣百合子┏重時1198- ┃    ┃北条政村娘
 ┣江馬四郎義時1163- ┃    ┣⑧北条時宗1251-1284     
牧の方         ┃   北条重時娘   ┣⑨貞時1272-1311(乳母)         
            ┃   (葛西殿)   ┃┣⑭高時1303-1333┃
             安達景盛-1248       ┃北条宗政娘    ┣宗綱?-?
            ┃               ┃      ┏平頼綱1241-1293(日蓮を配流)
            ┣安達義景1210-1253 ┃ 平盛綱?-?得宗家執事
          武藤頼佐娘┣堀内殿1252-1306覚山尼
                ┣安達泰盛1231-1285        
                ┃ ┗宗景1259-1285         
                  北条時房娘

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北朝花園天皇の離宮・妙心寺

2010年04月06日 | 鎌倉・室町時代

 後醍醐天皇の一代前の花園天皇は生涯の大半を法皇として南北朝の動乱の中で過ごし、和漢の学問に通じ突出した長い期間にわたって日記を続けた。 この花園天皇が花園の離宮を寺にしたのが妙心寺である。 妙心寺には花園天皇の書跡が多く伝えられていて1347年には玉鳳院を妙心寺と混ぜないようにとの遺書を残している。玉鳳院は微笑庵ともいわれ法堂の東にあり、離宮の中心であったことから非公開になっているという。 妙心寺の境内には所狭しと建物が群在しており、塔頭の数は46に及ぶ。 伽藍の北側にある法堂には天井いっぱいに描かれた狩野探幽の作の雲龍図があり、建仁寺と同じく禅寺の特徴ともいえ、どの方向からみてもこちらを睨んでいるようにみえる「八方睨みの龍」ともよばれている。 探幽は江戸幕府の御用絵師で二条城にも多くの障壁画を残している。 妙心寺の見所のひとつである銅鐘は、内面に陽刻の銘文があり、698年の作であることがわかる。 この時期は古墳時代の末期・都が藤原京にあった頃で、筑前・糟屋で春米連広国により鋳造されたことも表記されている。 継体天皇と磐井氏の戦いのあと磐井の子・葛子が糟屋屯倉をさしだしており、糟屋は磐井氏の勢力の拠点であった。 作者の春米連広国は春米宿禰・石上祖とあり、物部系の一支族である。 継体・磐井戦争のときに継体天皇が派遣した将軍が物部連麁鹿火であり大いに関連がある。 また、徒然草には西園寺の鐘を黄銅調に仕上げようとしたが叶わず、遠国より尋ねだしたのが亀山殿の浄金剛院の鐘、とあるらしい。遠国とは筑前のことであり、北山鹿苑寺 つまり今の金閣寺をもともと別荘としていた西園寺家が西国各地に土地を所有し情報通であったこととも関わっている。

 又、細川勝元が開いたという石庭に有名な竜安寺は妙心寺系の寺であり、足利将軍の廟所である等持院の方丈は、福島正則が妙心寺から移築したものだという。

--------大和を治めようとしていた有力豪族物部氏--------

 雄略天皇の亡き後、実質上の王家の実力がなくなったとき、各豪族が実権を握ろうとしていた6世紀の始めに現れたのが継体天皇である。実はここでいったん天皇の血筋は途切れていると考えられます。 継体の『継』とは血筋が途切れていることを意味し、繋がっていれば、『嗣』の字が当てられたと考えられます。 継体は越の出身とか近江の出身とか言われており、また応神天皇の5世であるとも言われているが、応神天皇自体謎ですから謎多き大王である。 聖徳太子と蘇我馬子が編纂した「上宮記」によると継体の父・迂斯王は近江の息長氏系出身で、振媛を妃に向かえた。 妃は越の出身で九頭竜川あたりで勢力を誇っていた三国の豪族の娘である。 継体は三国で成長すると、近江、尾張、河内などの諸豪族と婚姻関係を結び、朝鮮半島と交易を持つ海人族の豪族として成長していたのである。 大和を治めようとしていた有力豪族には物部・大伴・蘇我・巨勢・平群・安倍・三輪君などがいたが、朝鮮との交易を持つ継体を大王として擁立することによって筑紫の豪族・磐井に対抗しようと考えたと思われます。 継体が河内の樟葉宮で即位し、葛城系の仁賢大王の娘・春日大娘皇女と結婚したのは507年で、雄略天皇がなくなってから約30年後のことです。 このときに特に反対したのは平群真鳥という大臣で、自分が大王たらんと考えていたようです。 継体天皇擁立の首謀者は大伴金村大連で、このとき挙兵した平群真鳥を滅ぼしています。そして物部、蘇我を誘って継体を大和に迎え、大伴の勢力拡張を狙ったのです。 大伴金村大連は最初、仲哀天皇の5世の孫・倭彦王を王位に迎えようと兵を向かわせたが、兵に恐れをなした倭彦王は行方不明になった。そこで次に白羽の矢が立ったのが男大迹王(おおどのおおきみ)だったという。物部麁鹿火(もののべのあらかひ)大連や巨勢男人(こせのおひと)大臣の同意を得たが、本人は断っている。そこで説得役を演じたのが河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)という。

                     三条治子(西御方)
              足利尊氏1305-1358    ┣治仁王1370-1417 
               ┣足利頼子 源資子 ┣貞成親王1372-1456
                赤橋登子┃   ┣栄仁親王(伏見宮)1351-1416    
                 三条秀子┃   ┣興信法親王    藤原資子
  藤原公子1232-1304         ┣興仁親王( 3崇光天皇 )  三条厳子┣101称光天皇
   ┣貴子内親王 西園寺寧子   ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 ) ┣6後小松天皇1377-1433
   ┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364  ┣緒仁親王(5後円融天皇) 1359-1393
   ┃   藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380  ┣熈永親王
 ┏89後深草天皇 ┣胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336  ┣尭仁法親王
 ┃  ┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317 ┃    藤原仲子1339-1427
 ┃  ┃  ┃┣尊園親王1298-1356   ┣尊道親王1332-1403
 ┃  ┃  ┃三善衡子     正親町実明女
 ┃  ┃  ┗━━━━┓
 ┃藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348
 ┃        藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398
 ┃              藤原(正親町)実子
 ┗━(持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                                                          ┃
                  伊岐致遠女                               ┃
    源懿子1116-1143   ┣79六条天皇1164-1176                       ┃
       ┣78二条天皇1143-1165                               ┃
 ┏77後白河1127-1192      更衣尾張局                            ┃
74鳥羽    ┃                    ┣道覚親王1204-1250 藤原立子(東一条院)  ┃
 ┣覚快法┃親王1134-1181        ┃   修明門院藤原重子┣85仲恭天皇1218-1234┃
  紀家子 ┣80代高倉天皇1161-1181┃     ┣84順徳天皇1197-1242     ┃
   平滋子┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239             ┃     
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇1196-1231    ┃ 
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇1220-1272 ┃
       ┃ ┃  ┃┣87四条天皇1231-1242 ┃  源通子  ┃┣89後深草天皇┛
       ┃ ┃  ┃藤原竴子1209-1233   ┃      ┃┣90亀山天皇━┓
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子  ┃
      ┃ ┃ ┃持明院基家┛                       ┣宗尊親王    ┃
         ┃藤原殖子(七条院)               ┃1242-1274   ┃
          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)     平棟子       ┃
       徳子1155-1214(建礼門院)                       ┃
 ┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃平時仲女 
 ┃┣慈道親王1282-1341 
 ┃┃藤原嬉子1252-1318(今出河院)                  不明 
 ┃┃ ┣-   姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)        ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-         阿野廉子1301-1359  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇1343-1394
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇1347-1424       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子┃┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) ┃藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王
            ┃      ┣邦良親王1300-1326┃
            ┃      ┣邦省親王1302-1375┃
            ┃     藤原(五辻)宗子    ┃
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
            ┃ ┃             ┃┃┣恒性皇子
     藤原忠子 ┣懽子内親王1315-1362   ┃┃┣護良親王1308-1335         
               ┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
 ┏西園寺禧子1303-13333(礼成門院 後醍醐中宮) ┃┣尊良親王1310-1337
 ┣左大臣公衡1264-1315            ┃┣宗良親王1311-1385  
 ┣太政大臣兼季1281-1339            ┃二条為子
 ┣西園寺金章子1271-1342伏見天皇中宮)藤原実俊┣世良親王-1330
 ┣西園寺瑛子1273-1336(亀山天皇後宮)     ┃┣静尊法親王?-?
西園寺実兼1249-1322              ┗遊義院一条局

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藤原定家と親交を深めた宇都宮頼綱の庵

2010年03月25日 | 鎌倉・室町時代

 京都嵯峨野の小倉は藤原定家が庵を営んだところで有名であるが、鎌倉時代の初めには定家の庵のすぐ近くに僧・蓮生の中院山荘があった。   それがここである。 蓮生は俗名を宇都宮頼綱といい、下野国の豪族の出身で鎌倉幕府の有力な御家人の一人であったが、政争に巻き込まれるのを避けて郎党60余人とともに出家し、実信房蓮生と名乗った。 後に上洛すると、法然上人、善恵上人証空に師事しこの地に山荘を営んだ。 蓮生は和歌の名手で、近くの小倉山麓に山荘を構えていた藤原定家とも親交があり、彼の娘は定家の子・為家に嫁いでいる。 1235年、75歳の定家は蓮生が山荘の障子に貼る色紙の執筆を依頼したのに快く応じ、色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書き、「小倉百人一首」はこの時の選歌に、後世、後鳥羽、順徳両天皇の作品を加えるなどの補訂を施して完成したものといわれている。 

藤原経輔女  
  ┣藤原俊忠1073-1123 堀河院歌壇で活躍
 忠家 ┃
    ┃    六条院宣旨
    ┃     ┣八条院坊門局
    ┣藤原俊成1114-1204 崇徳天皇に親近し藤原基俊に入門
  藤原敦家娘  ┃  ┣後白河院京極局
             ┃ 為忠娘
       ┣八条院三条(鳥羽院皇女八条院に出仕)
       ┃    ┣隆季(四条家の祖) 
       ┃    ┣俊成卿女1171-(後鳥羽上皇に出仕)
       ┃    ┃    ┣具定
       ┃    ┃源通親┓┣女
       ┃    ┃   源通具
       ┃    ┃    ┣
       ┃家成┓ ┃   土御門天皇の乳母
       ┃  ┣藤原盛頼
       ┃  ┗藤原成親(平家討伐を陰議)
       ┃  
       ┣高松院新大納言(祗王御前)
       ┣八条院按察(朱雀尼上)
       ┣八条院中納言(建御前)
           ┣前斎院大納言(竜寿御前)
          ┣藤原定家1162-1241
         ┃    ┣因子(後鳥羽院に出仕 民部卿典侍)
      藤原親忠女      ┣定長(寂蓮)後鳥羽院歌壇 
    (美福門院加賀)   ┣為家
         藤原実宗女┃┣為氏(二条家の祖) 
              ┃┣為教(京極家の祖)
              ┃┣為子(九条道良室)
              ┃宇都宮頼綱娘 
              ┣為守(冷泉) 
               ┣為相(冷泉家の祖)
  阿仏尼(安嘉門院四条:十六夜日記)

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京都御所南にある二条殿跡

2010年03月01日 | 鎌倉・室町時代

 現在の京都御苑は、江戸時代の公家町跡地である。 幕末の志士を巡りながら歩いていると「此の付近二条殿跡」 という石碑があったので、後で調べてみようととりあえず写真に納めた。 二条家は・・・藤原北家から分岐した五摂家の九条家から発し・・・・幕末においては将軍徳川慶喜を支持したお家柄・・・という風に歴史はつながっていく。 それはあとで追記するとして、まずはこの地が発見されたときの様子から・・・。  1997年から行われた京都御苑内での発掘調査では様々な家紋瓦が出土し、その家紋瓦が公家屋敷の屋根を飾っていたという。1741年に描かれた公家町の古絵図には仙洞御所の周りに公家屋敷が長屋のように並んでいて、邸の名前が武者小路、押小路、有栖川、壬生、万里小路、櫛笥、三条、三室戸・・・とあるらしく、 御所南では平安時代以降、皇族や貴族の邸宅が営まれており、この調査地には二条殿があったのである。 二条殿の邸内庭園や池が、「洛中洛外図」 に描かれており、調査からも池があったことがわかっているという。 庭園の池の名は「龍躍池」で、二条殿の敷地の東向かいにある龍池小学校の名前の由来となっていることがわかる。 その龍池小学校付近にあるのがこの石碑「此付近 二条殿址」である。 

 二条殿はもともと藤原氏北家の九条道家の二男・二条良実が、二条富小路の邸宅を二条殿と称したのが由来で、後に押小路烏丸殿を指すようになる。 二条家は五摂家のなかでは近衛家・一条家に次ぐ、九条家・鷹司家と同格扱いのお家柄であった。 維新後、五摂家のなかでは最も親幕府派とされ、史上最後の関白(二条斉敬公)を出した家でもある。 鎌倉時代末期の元弘の変において後醍醐天皇の関白・二条道平が倒幕関与の疑いを受け、二条家は一時断絶の危機に陥ったが後醍醐天皇の復帰で危機を回避する。 また、南北朝時代には、北朝方二条良基のもとで勢力を取り戻す。 以来、即位式における「即位灌頂の儀」を掌る役目は二条家が独占していた。

                   源顕信娘
                     ┣道経
                     ┣基教(鷹司家)
                     ┣家実1179-1243(良経後猪隈関白)
  具平親王              ┃  ┣家通
    ┗源師房             ┃  ┣兼経
       ┣源俊房1035-1121(堀河左大臣)┃  ┗兼平(鷹司家の祖 摂政関白)     
   道長┣源顕房1037-1094(六条右大臣)┃    ┣兼忠
     ┣尊子 ┃┣源国信  藤原忠隆娘 ┃    ┗基忠
   明子   ┃雅実 ┣信子 ┣基通(1160-1233後白河上皇から寵愛 後鳥羽摂政)
           ┃      ┃ ┣近衛基実(1143-1166近衛家の祖 二条関白 六条摂政)
           ┣賢子  ┃ ┃  ┣
         隆子┣堀河┃ ┃ 盛子(平清盛娘) 
             白河  ┃ ┃ 三条公教娘  花山院忠雅娘忠子(安徳乳母)   
                   ┃ ┃   ┣藤原家房  ┣伊子(木曾義仲側室)
                   ┗ ┃俊子 ┣藤原隆忠  ┣松殿師家
                ┃┣近衛基房(後白河側 松殿祖 六条高倉摂政) 
                   ┣┛  
                  ┃藤原仲光娘・加賀 
                 ┃┣九条兼実1149-1207(頼朝推薦 後鳥羽摂政 関白) 
            ┃┣兼房┣良通
             ┃┣慈円┣良経1169-1206(土御門摂政 後鳥羽推薦)
             ┣┛  ┃ ┃藤原清季娘
             ┃   ┃ ┃ ┣忠成王1221-1279(四条皇太子)  
             ┃   ┃ ┃順徳天皇(守成親王)1197-1242
             ┃   ┃ ┃ ┣諦子内親王1217-1243
             ┃   ┃ ┃ ┣85仲恭天皇1218-1234
             ┃   ┃ ┃ ┃  ┣義子内親王
忠実          ┃   ┃ ┃ ┃ 右京大夫局
┣泰子(高陽院1095-1155)┃   ┃ ┃ ┃
┗忠通(法性寺関白1097-1163)  ┃ ┃ ┃ 徳子(建礼門院)
  ┗藤原呈子(伊通娘)       ┃ ┃ ┃    ┣安徳天皇
     ┣-            ┃ ┃ ┃ 高倉天皇
   近衛天皇1139-1155      ┃ ┃ ┃    ┣82後鳥羽天皇1180-1239
  頼長  ┣-             ┃ ┃ ┃信隆  ┣守貞親王1179-1223(後高倉院)
  ┗藤原多子(公能娘)       ┃ ┃ ┃┣坊門殖子  ┃
                  ┃ ┃ ┃休子     ┃
                  ┃ ┃ ┃       ┣利子内親王
                  ┃ ┃ ┃持明院通基  ┣邦子内親王1206-1283
                  ┃ ┃ ┃┣持明院基家 ┣86後堀河天皇1212-1234
                  ┃ ┃ ┃源師隆娘┣藤原棟子 ┃
                  ┃ ┃ ┃    ┗基宗   ┃ 
                  ┃ ┃ ┃          ┃
                  ┃ ┣立子1192-1247     ┣子内親王
                  ┃ ┣道家1193-1252(仲恭摂政)┣87四条1231-1242 
                 ┃能保娘   ┣九条竴子(藻壁門院) ┃ 
                              ┃     ┣教実(九条家を継ぐ)  ┣-
                              ┣任子-1238 ┣良実(二条家の祖)┗彦子(宣仁門院)
                            季行娘┃    ┣頼経(鎌倉4代将軍)
                                  ┣昇子 ┣実経(一条家の祖)
                 82後鳥羽天皇 綸子(西園寺公経娘)

徳川慶喜を支持した関白・二条斉敬公墓(二尊院にて)

 朝廷から一橋慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、島津久光の6名で始まった政治参与が終焉を迎えた後、薩摩藩では西郷隆盛が沖永良部島から戻され禁門の変を指揮していた。 1865年将軍徳川家茂の江戸からの征長を契機に薩摩藩は幕府から離れて長州藩に近づくのである。 大久保利通ら薩摩藩は朝廷に対して暴威をもって言を貫く一橋慶喜の恐るべき政治力を認め幕府への危機感を深めて長州藩に近づいたのである。 長州藩は坂本龍馬の仲介もあって薩摩藩を通じて長崎のグラバー商会などから1万挺以上のゲベール銃を購入し幕長戦争に備えている。 通商条約では諸藩は外国商人から兵器を買えないことになっていたが、雄藩の威力がものを言った。こうして薩長交易が深まり、1866年、木戸孝允は密かに京都伏見の薩摩藩邸に入り西郷隆盛らと会見する。 こうして坂本龍馬が仲をとりもち薩長同盟が合意に至ったのである。 合意内容は藩内でも秘密にされ、幕府との戦争の際には薩摩藩が京都と大阪に兵を出すこと、長州藩が敗戦しても薩摩藩が援助を続けること、幕府が朝廷を掌握してしまったときは薩摩藩が兵力で戦うことなどが合意事項であった。 

 1866年6月、幕府は長州藩に対して石高36万石から10万石を削減する要求を出したが、これに対して長州藩は拒否し、瀬戸内海の大島で幕長戦争は始まった。 長州藩の主力は奇兵隊らの諸隊で、参謀は高杉晋作、大村益次郎、山県狂介である。 将軍がいる大阪・兵庫では打ちこわし一揆がおこり、大阪城において徳川家茂が21歳で病没し、徳川宗家を受け継いだ慶喜が撤兵を命じた。 長州・高杉晋作が指揮した騎兵隊は農耕をしながらの民兵との混成部隊ではあったが、狙撃距離、命中確立が高いライフル銃(銃身の螺旋で弾丸に回転が与えられ、ジャイロ効果により弾道が格段に安定する)を藩から支給され、厳格に統制された部隊であった。 軍事訓練を行ったのが大村益次郎で、その日課は極めて厳しいものであった。 そして脱隊事件は起きた。 浪士出身の立石孫一郎ら第二奇兵隊の隊士約130人が隊の幹部を殺害して陣営を脱走したのである。 この動きは諸隊全域に広がったために、木戸孝允は脱走して帰藩した隊士を全員斬罪に処したから、長州藩の地域社会を戦慄させることとなる。 

 幕長戦争中に一橋慶喜が徳川宗家を相続し征長軍を引き上げて休戦した。 朝廷では孝明天皇をはじめ関白二条斉敬や朝彦親王らが慶喜を支持する一方、慶喜に反対する公家勢力があった。 岩倉村に隠棲を強いられていた岩倉具視と裏で連絡をとっていた中御門経之たちである。 これら22人の公家が列参して孝明天皇に対して関白二条斉敬や朝彦親王らの罷免を求めたが、天皇は激怒しこれに応じず、逆に慶喜は地位を強めた。 結果、岩倉具視が敗北し、薩摩藩の大久保利通や中岡慎太郎、坂本龍馬が岩倉具視に近づくきっかけとなる。 年末慶喜は天皇の信任を得て将軍職につき、幕政改革を行う。

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九条兼実と親鸞上人

2010年02月07日 | 鎌倉・室町時代

 九条兼実と親鸞上人にゆかりのある西岸寺というお寺が京都南ICの南西にあります。 ここはもともと関白藤原忠通が法性寺小御堂を建立し、子の兼実も愛して花園御殿と呼ばれた地だそうです。 親鸞聖人は兼実の娘・玉日姫を娶りますが、後に越後に流されたために玉日姫は小堂を守ってここで亡くなります。 

 藤原氏の中でも特に選りすぐりの五摂家の一部の公家しか関白にはなれない。 藤原北家の出である藤原忠通は保元の乱で死亡した藤原頼長の兄にあたり、法性寺関白と当時云われていた。 忠通には基実、基房、兼実という息子がいたが基実は近衛家の祖となり、兼実は九条家の祖となった。 また近衛基実の系統から近衛兼平が鷹司家の祖となり、九条兼実の系統から良実が二条家を、実経が一条家の祖となり、これらの近衛、鷹司、九条、二条、一条の五家を特に五摂家とよんでいる。 1000年以上もの長きに渡って政界を支配し続けた藤原北家から近衛、九条家が分家し、各々から鷹司、一条、二条家がさらに分家し鎌倉4代将軍・頼経の時代には五家による摂関が行われた。その後、京都の大路や寺の名前をとって多くの名家が誕生することとなる。 

 藤原忠通のあと嫡男の基実が摂関となるが24歳で亡くなった為、基実の実弟・基房が摂関となり、やがて基通に引き継がれた。 基房は平清盛と対立していて後白河上皇寄りであったのに対して近衛家の祖・基実、基通親子は平清盛の娘を妻にしていて、基通は平家の都落ちの際に行動を共にしている。 またその一方で基通は後白河法皇の男色の相手として寵愛を受け、後鳥羽天皇の摂関になった所以として知られている。 弟の九条兼実は基通の男色を恥ずべきこととして「玉葉」に記した。 しかし源頼朝は義経に追討の院宣に賛同した基通を嫌って、1186年に兼実に摂関を与えている。 10年後に基実が失脚すると基通は摂関として返り咲いたことがあるが、その後、後鳥羽上皇の意向により兼実の後継者である九条良経が摂関となるが5年後に死亡し、基通の嫡男・近衛家実がかわった。家実は1221年承久の乱の頃まで22年の長きに渡って摂関の地位にあったが、この頃は武家政治の最中であり、公家の復活を願った後鳥羽上皇が討幕計画を起こしたが失敗におわり、公家は完全に武家の監視下におかれたのである。

 ところで、親鸞上人の師である法然は法然房源空ともいい、美作の出身で父は漆間時国という押領使(平安時代、兵を率いて反乱などの鎮定にあたった令外の官)で母は秦氏の出自である。 法然が幼いころに館が夜討ちをかけられ父が殺された。その後法然は延暦寺にはいって修行を重ね専修念仏を唱えることとなる。やがて身分の上下に関係なく帰依を受けるようになり、関白・九条兼実(東福寺開基の九条道家の祖父にあたり慈円の兄)も信者のひとりとなった。 法然の代表作・選択本願念仏集は兼実が政界で失脚していたときに書いたものである。 法然の人望が高まるにつれて延暦寺・興福寺などの旧勢力から敵視されるようになり、法然の弟子は死罪、自身も土佐へ流される事件もおきている。 因みにこのとき弟子である親鸞も越後に流された。 罷免された法然はやがて帰洛し東山大谷の禅房に篭ったが、5年後の80歳に亡くなった。法然の死後16年たって再び法然教団への弾圧が始まり、延暦寺の宗徒が法然の墓を破却しようとした。(嘉禄の法難) 

 平安後期から新たな仏教が発展して一世を風靡する。 それは宇治平等院鳳凰堂で代表される阿弥陀を信仰して極楽浄土へ往生することを目的とした浄土教であった。 日本の浄土教の先駆者は名僧・空也であるが、当時の要求に応えたのは源信であった。 しかし、最も効果のある念仏方法が観想念仏はだれにでもできることではなく、一部の貴族に限られたことであり、これに問題提起をしたのが法然上人である。 法然は浄土宗の開祖であり、阿弥陀信仰以外の方法は一切排除した。 源信は往生要集のなかで浄土にうまれかわるのは日ごろ善根を積み、その上で念仏を唱えよといっているが、法然は善根を積めとはいっておらず、専ら念仏することを説いた。 阿弥陀如来の絶対的な力を信じて往生を遂げようという他力本願なものである。法然は比叡山で仏教学を極めた学者であるが、その教えはわかりやすく、当時の関白九条兼実が帰依したこともあって流行した。 しかし仏教界からの反発はおおきく、理論的に法然を批判したのが華厳宗の明恵であった。 つまり浄土宗は仏教なのか? ということであるが、 この疑問は法然の弟子の親鸞によってますます拡大されていった。 法然の弟子で悪行をしても念仏を唱えれば許されるとした者がでてきたことにより、その責任をとらされて念仏停止を言い渡され、僧籍も剥奪され俗人の身分で土佐に流される。 また主だった弟子も各地へ配流された。 親鸞も藤井善信と改名させられたうえで、越後に流された。

 九条兼実が残した日記・玉葉では平家物語の一場面についての記載を伺うことができます。 平家調整役の重盛を悩ます事件といえば、「殿下乗合の事」がある。 摂政殿下である藤原基房の車と重盛の次男・資盛の車争いである。 基房の従者が資盛の従者に対して恥辱を与えたのに対して怒った清盛が部下を差し向けて基房の従者を袋叩きにしたというものである。 平家物語では驚いた重盛は父・清盛を諌めたとなっているが、九条兼実の玉葉や慈円の愚管抄では異論を唱えている。

 また、二尊院の復興の歴史を見てみると法然と九条兼実との深いつながりの一端がわかる。二尊院の創建は9世紀初めで嵯峨上皇の勅願により慈覚大師円仁が開いた。当初は二尊院と華台寺の二つの寺が存在していたが、荒廃後、法然(摂政・関白に登り詰めた九条兼実が失脚すると、讃岐に配流となる)が鎌倉初期に九条兼実の助力を得て再興した。九条兼実をはじめ、多くの貴族が帰依し、法然の高弟である湛空が堂宇を増築するなどして中興の祖となった。

 昇子内親王(春華門院)といえば後鳥羽天皇第一皇女で、母は九条兼実の女・中宮任子である。 土御門天皇とは4ヶ月違いの異母姉弟で、 昇子内親王の誕生の翌年、政変により外祖父・兼実が失脚。母任子は内裏を退出する。  14才で東宮守成親王(後の順徳天皇)の准母となり、皇后宮に冊立。翌年、15才で女院号を宣下される。  幼時より八条院・璋子内親王の養育受け、その死後、八条院の莫大な所領を相続するが、同じ年の11月、崩御。八条院に仕えた女房の健寿御前(建春門院中納言)が、後に日記に追悼を述べ比類無き美しさであったと九条兼実の弟・慈円の『愚管抄』に記されています。

                   源顕信娘
                     ┣道経
                     ┣基教(鷹司家)
                     ┣家実1179-1243(良経後猪隈関白)
  具平親王              ┃  ┣家通
    ┗源師房             ┃  ┣兼経
       ┣源俊房1035-1121(堀河左大臣)┃  ┗兼平(鷹司家の祖 摂政関白)     
   道長┣源顕房1037-1094(六条右大臣)┃    ┣兼忠
     ┣尊子 ┃┣源国信  藤原忠隆娘 ┃    ┗基忠
   明子   ┃雅実 ┣信子 ┣基通(1160-1233後白河上皇から寵愛 後鳥羽摂政)
           ┃      ┃ ┣近衛基実(1143-1166近衛家の祖 二条関白 六条摂政)
           ┣賢子  ┃ ┃  ┣
         隆子┣堀河┃ ┃ 盛子(平清盛娘) 
             白河  ┃ ┃ 三条公教娘  花山院忠雅娘忠子(安徳乳母)   
                   ┃ ┃   ┣藤原家房  ┣伊子(木曾義仲側室)
                   ┗ ┃俊子 ┣藤原隆忠  ┣松殿師家
                ┃┣近衛基房(後白河側 松殿祖 六条高倉摂政) 
                   ┣┛  
                  ┃藤原仲光娘・加賀 
                 ┃┣九条兼実1149-1207(頼朝推薦 後鳥羽摂政 関白) 
            ┃┣兼房┣良通 ┗玉日姫(母不明)
             ┃┣慈円┣良経1169-1206(土御門摂政 後鳥羽推薦)
             ┣┛  ┃ ┃藤原清季娘
             ┃   ┃ ┃ ┣忠成王1221-1279(四条皇太子)  
             ┃   ┃ ┃順徳天皇(守成親王)1197-1242
             ┃   ┃ ┃ ┣諦子内親王1217-1243
             ┃   ┃ ┃ ┣85仲恭天皇1218-1234
             ┃   ┃ ┃ ┃  ┣義子内親王
忠実          ┃   ┃ ┃ ┃ 右京大夫局
┣泰子(高陽院1095-1155)┃   ┃ ┃ ┃
┗忠通(法性寺関白1097-1163)  ┃ ┃ ┃ 徳子(建礼門院)
  ┗藤原呈子(伊通娘)       ┃ ┃ ┃    ┣安徳天皇
     ┣-            ┃ ┃ ┃ 高倉天皇
   近衛天皇1139-1155      ┃ ┃ ┃    ┣82後鳥羽天皇1180-1239
  頼長  ┣-             ┃ ┃ ┃信隆  ┣守貞親王1179-1223(後高倉院)
  ┗藤原多子(公能娘)       ┃ ┃ ┃┣坊門殖子  ┃
                  ┃ ┃ ┃休子     ┃
                  ┃ ┃ ┃       ┣利子内親王
                  ┃ ┃ ┃持明院通基  ┣邦子内親王1206-1283
                  ┃ ┃ ┃┣持明院基家 ┣86後堀河天皇1212-1234
                  ┃ ┃ ┃源師隆娘┣藤原棟子 ┃
                  ┃ ┃ ┃    ┗基宗   ┃ 
                  ┃ ┃ ┃          ┃
                  ┃ ┣立子1192-1247     ┣子内親王
                  ┃ ┣道家1193-1252(仲恭摂政)┣87四条1231-1242 
                 ┃能保娘   ┣九条竴子(藻壁門院) ┃ 
                              ┃     ┣教実(九条家を継ぐ)  ┣-
                              ┣任子-1238 ┣良実(二条家の祖)┗彦子(宣仁門院)
                            季行娘┃    ┣頼経(鎌倉4代将軍)
                                  ┣昇子 ┣実経(一条家の祖)
                 82後鳥羽天皇 綸子(西園寺公経娘)


  

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足利尊氏の重臣・高師直 乱世の英雄

2010年01月25日 | 鎌倉・室町時代

 高師直?-1351(高:高階の略)というお方、源氏の棟梁・八幡太郎義家の庶子と云われる高階惟章が、義家の三男源義国とともに下野国に住して以来高氏と称して、足利氏の執事職を代々つとめた。 弟の師泰とともに古典『太平記』に記される逸話や後世の創作などによって「悪逆非道」の烙印を押されている高兄弟である。 元禄時代に実際に江戸城内で起こった刃傷事件 「赤穂事件」を描いた「仮名手本忠臣蔵」での最大の悪役として登場する。 当時の人形浄瑠璃では、赤穂事件をそのまま取り上げることができなかったために、実際の悪役・吉良上野介を「太平記」に登場する高師直になぞらえているのである。 高師直は武蔵守として筆頭に登場するのであるが、江戸時代に実は武蔵守を名乗った大名・旗本は誰もいない。 武蔵国江戸城に本拠を構えた徳川将軍家に対して、地方官という身分の低い官位・武蔵守が存在すること自体失礼にあたるわけで、徳川300年の歴史上武蔵守は誰もいなかったのである。 楠木正行を死に追いやった足利尊氏腹心の高師直は塩谷高貞(宇多源氏佐々木氏の出で、足利尊氏に従い出雲・隠岐の守護となった。 )の妻に横恋慕し塩谷高貞も死に追いやる。 この塩谷高貞こそ仮名手本忠臣蔵における浅野内匠頭なのである。

 1333年、後醍醐天皇の第8皇子・義良親王(当時5歳。後の後村上天皇) は、後に中宮となる顕子の父北畠親房と兄顕家に奉じられて東北鎮定のため奥州へ下向し、翌年の建武元年(1334年)、親王宣下。建武新政が瓦解した後、延元三年(1338)秋、東国経営のため再び親房ほかと共に船団を組んで出航したが、暴風に遭って義良親王の船は伊勢に漂着、その後吉野に帰還します。 同四年(1339)三月、父帝の皇太子となると、 同年八月十五日、践祚。時に十二歳でした。 正平三年(1348)正月、高師直らに吉野行宮を攻められて賀名生(あのう)に遷居。同六年、足利氏の内訌により尊氏が南朝に和議を申し入れると、翌年、南朝軍は京都を占拠。後村上天皇は男山(八幡山)に出陣して光厳院・光明院・崇光院を捕えたが、入京を目前にして事態は急変、足利軍に京都を奪回され、結局賀名生に還幸となります。

【1336-5 湊川の戦い 対 後醍醐天皇(新田義貞--敗走、楠木正成--自害)】 室町幕府が設立されたのは1336年、建武式目という幕府の基本法が発布されたときである。この時楠木正成は湊川の戦いで戦死し、尊氏は京を奪回して後醍醐天皇を軟禁し神器をとりあげた。実はこの時幕府の将軍の御所は室町にあったわけではなく、三大将軍義満の時に室町御所ができたのである。 

【1336-11 足利幕府創設 後醍醐天皇は吉野に南朝樹立】

【1337    後醍醐天皇方北畠顕家1318-1338が鎌倉を攻略 対 高師直】

【1338-02 師直は北畠軍を撃破@奈良般若坂---分捕切捨ての法:敵の首を持ち帰る必要なし】

     05 南朝側・北畠顕家を討ち取る 石清水八幡宮を焼き討ち

幕府は本来東国武士団の政権であり足利氏も東国であったが、幕府軍の中核が畿内の武士であったために京に幕府が置かれた。 建武式目は鎌倉幕府の全盛体制を理想とし、保守的なものであったため、足利直義の政治体制に激しい不満を示した人々がいた。婆沙羅大名がその中核で、高師直という足利家の執事、名門京極氏出身の佐々木導誉、土岐頼遠が代表される。 

【1347-00 楠木正行挙兵@紀伊--河内に侵攻 目標は京】

師直(7000騎)は四条畷に本陣(東は生駒山 西は湿地)、弟・師泰を堺浦に布陣させて、楠木正行軍(3000騎)を迎える。四条畷の戦いでは楠木正行は弟正時と刺し違えて自害。師直軍は吉野に進み南朝の行宮を焼き払う。(太平記では師直は傍若無人:執事施行状---恩賞あてがいを行うシステム)

尊氏1305-1358(息子・義詮@関東1330-1367)の弟で政権を握っていた直義1307-1352(息子・直冬1327-1400を長門探題@中国に就任)はこれらの高師直の横暴に対して、土岐頼遠を死罪にしたが、尊氏が寵愛する高師直は抑制できないでいた。天皇家、公家、寺社の訴えに対して直義は高一族を抹殺する決意をした。

【1349-06 直義は高師直を評定所に呼び出し暗殺を実行】しようとしたが、これは失敗する。

【1349-6-15 師直は執事(代々高氏の役目だった:のちの管領)解任】(直義が尊氏に直談判)---施行状の発行は師直に代わって直義が行う

【1349-8-13 師直は直義攻撃のため出陣】 師直の弟・師泰はこれを聞いて大軍勢を率いて京に向かうと直義が脱げ込んだ御所(尊氏邸)を包囲した。要求は直義の執事・上杉重能、畠山直宗の引渡しである。この時尊氏が仲裁にはいり事件は一応解決するが、越前に流罪になった上杉重能、畠山直宗は契約違反により流罪先で殺害され、直義も出家に追い込まれた。義直の養子で 越前局を母に持ち尊氏を実父とする足利直冬も地位を追われて九州に逃亡していたが、勢力を中国へも広げていた。

師直は執事に復帰。尊氏は高師泰軍団を送り込んだが手ごわく、自ら討とうとする。

【1350-10-26 出家していた直義は京を脱出】これに激怒したのは直冬を実子同様に寵愛していた直義である。当時壊滅状態であった南朝側の後村上天皇を見方にし南朝を完全復活させ、これを後ろ盾として反尊氏派・文治派を集めて、若い足利義詮を攻め、京・北朝を陥落する@1351-1-15。

【1351-2-17摂津・打出浜の戦い 尊氏・師直軍は直義軍に圧倒される】尊氏、師直は敗走して松岡城に逃げ込む。弟・直義との直接対決を避けた尊氏は和議を申し立て高師直、師泰兄弟を出家させたが、都への護送途中で暗殺されている@1351-3-24。今度は直義の腹心・上杉重能の養子となっていた能憲の手にかかったのである。義直側にくみしたのは、細川、畠山、吉良、桃井といった足利一族。天龍寺の落慶法要では足利代表で吉良氏、家臣代表で高氏が出席。この時吉良氏は高との参列に激怒したという。

1352-2-26 直義死去 その後足利義詮が二代目将軍に就任

 

尊氏は近江の佐々木導誉、義詮は播磨の赤松則祐と連携して東西から直義を挟み撃ちにして討とうとしたが、察知した直義は京を脱出して北陸で兵を集めると鎌倉に向かった。尊氏はなんとしても武家政権発祥の鎌倉を陥落させるわけにはいかない。京を留守にするにあたって直義が復活させた南朝側に攻められるわけにもいかない。そこで尊氏は南朝側に無条件降伏することによって支持を仰ぎ、後村上天皇から直義追討の宣旨を受けた後、鎌倉を攻め直義を降伏に追い込み毒殺するが、この時北畠親房の画策により北朝側の天皇・上皇・皇太子は息を吹き返した南朝側に捕われ、留守番をしていた義詮は京を逃げ出したことによって京は再び南朝側の支配下となった。1352年、北朝の光厳・光明・崇光上皇と直仁皇太子は捕虜として幽閉された。 ところが近江で勢力を立て直した義詮は佐々木・土岐氏の支援を得て再び京を攻め、後村上天皇・北畠親房は敗走し、短い南朝の時代は終わり二度と復権することはなかった。
                      ┏北畠顕信-1338            
                      ┗北畠顕家1318-1338            
                      ┏楠木正季-1336             
                      ┗楠木正成-1336 
                                      ┣正行-1348
                         赤松円心1277-1350    ┗女(伊賀観世家に嫁ぐ)
            ┏足利直義1306-1352 ⇔ 新田義貞1301-1338┣観阿弥  
                   ┃上杉重能 畠山直宗(直義執権)   上島元就┗世阿弥
                   ┃ ┗能憲                  ┣観世元雅
                   ┃  ↑                   ┗音阿弥
                   ┃  ↓
                   ┃ 佐々木導誉 
                      ┃ 赤松則祐
┏北条泰家-1335    ┃┏高師直  
┗北条高時1303-1333  ┃┗高師泰         【大覚寺統】     
  ┗北条時行-1353 ⇔ ┣足利尊氏1305-1358  ⇔  後醍醐天皇1288-1339
         上杉清子┃┣義詮1330-1367                   ┃┃                 
             ┃┃┃藤原慶子                     ┃┃                 
             ┃┃┃┣義持1386-1428 斯波義将       ┃┃                 
             ┃┃┃┃ ┗義量1407-1425             ┃┃                 
             ┃┃┃┣義教1394-1441 ⇔ 赤松満祐    ┃┃                 
             ┃┃┃┃ ┣-  ┣義勝1434-1443       ┃┃                 
             ┃┃┃┃日野宗子┣義政1436-1490       ┃┃                 
             ┃┃┃┃    ┣義視1439-1491       ┃┃                 
             ┃┃┃┃春日局 日野重子1411-1463⇔今参局┃┃                 
             ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418               ┃┃                 
             ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)            ┃┃                 
             ┃┃┃┃┃ 日野康子  ┏━━━━━━━━┛┃
             ┃┃┃┃┃ ┣-     ┃┏━━━━━━━━┛ 
             ┃┃┣義満1358-1408  ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)                 
             ┃┃┃   ┣女子   ┃┃                 
             ┃┃┣満詮 日野業子  ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368                 
             ┃┃紀良子       ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
             ┃┃藤原仲子(崇賢門院)┃┃┃                
┏西園寺公宗1310-1335  ┃┣基氏1340-1367   ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
┗西園寺公重       ┃赤橋登子       ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
             ┣直冬1327-1400     ┃阿野廉子1301-1359             
            越前局          ┣護良親王1308-1335            
                         ┣懐良親王1329-1383           
┏1光厳上皇1313-1364                         源師親娘      
┃ ┣3興仁親王(崇光天皇)1334-1398      
┃ ┣4弥仁親王(後光厳天皇)1338-1374    宮人 
┃ ┃        ┣後円融天皇1359-1393 ┣宗純王1394-1481 
┃ ┃藤原仲子(崇賢門院)1339-1427┣後小松天皇1377-1433
┃三条秀子       三条厳子1351-1406   ┣称光天皇1401-1428
┗2光明天皇 豊仁親王1321-1380              日野資子
                                     日野資国┛(日野業子の兄) 

西陣舟橋 高師直邸宅跡

高師直は足利尊氏を支えた室町幕府のNo2。室町幕府成立の立役者。また南北朝の争いでも功績をあげている。その高師直の屋敷があったところが「船ばし」と呼ばれていた。堀川は昔からよく氾濫し、その時には船を並べて橋としました。これが船橋と呼ばれるゆえん。師直は足利直義と利害対立が頻発し、最初は直義を抑えますが、最終的には直義派に殺される。この石碑があるのは和菓子屋「鶴屋吉信」さんのお店の前。

 

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名和長年が戦死した三条猪熊

2010年01月24日 | 鎌倉・室町時代

 京都で幕末の史跡巡りをしていますと、こんな史跡にも出会います。名和長年は隠岐に流されていた後醍醐天皇を助けて以来忠誠を誓い、最後はここ京都御所の北西にある三条猪熊にて足利軍の松浦党に討たれた。 殉節の地と彫られた石碑は名和公園内にあります。

 名和氏の先祖は村上天皇の第七子具平親王であるから赤松氏と系統が同じである。そこから9代目の僧侶・常陸房昌明という人物が源義経の伯父である行家を捕まえて恩賞として鎌倉幕府から但馬の多田荘と葉室荘を与えられ、承久の変でも鎌倉幕府の側に付き但馬の守護職と多数の荘園を与えられた。 そしてその子の行明にも伯耆の長田が与えられたという。 山奥の長田から海岸近くの名和に館を移し姓を『名和』と名乗り、海運業、漁業などで財力のある豪族となっていった。

村上天皇-具平親王-源師房1008-1077
          ┣顕房1037-1094-季房┳忠房-憲房-憲政-豪運-昌運-昌明-行明-行盛-行高-名和長年?-1336
          ┃         ┗季則--赤松則景-家範-重則→
         藤原尊子1003-1087(藤原道長娘)
→赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┣赤松則祐1314-1372 
  ┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
  ┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
  ┃ (摂津有馬氏祖)  ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
  ┃           ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
   ┃           ┗赤松時勝 
   ┃   置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
   ┃              ┗娘 
   ┗赤松氏範          ┣
    ┣氏春          赤松義村?-1521(置塩城主)
    ┣家則           ┣赤松晴政1513-1565
    ┣祐春           ┗赤松政元1500-?(上月城主)
    ┣季則
   ┗乙若丸

  鎌倉倒幕に失敗し(元弘の変)、隠岐に流された後醍醐天皇は幕府討伐を諦めず密かに山陰の武士達への協力を求めた。 1333年になると播磨の赤松円心など西国の武士が幕府に反旗を翻し、吉野山では天皇の息子・護良親王が奮戦しており、、後醍醐天皇は隠岐を脱出しようとする。 天皇の警護をしていた佐々木義綱を味方にし出雲の豪族である塩谷高貞に協力するように伝えたが、高貞は態度を明らかにしなかった。 1633年2月24日、後醍醐天皇は一緒に流されていた千種忠顕らとともに隠岐を脱出した。 途中で追手の船に追いつかれたが、なんとか船頭の機転により追手の船から難を逃れることができた。 後醍醐天皇らは最初出雲の杵築浦を目指したが西風に流されて伯耆国の名和湊に漂着したという。  千種忠顕が先に上陸し道行く人に武勇で知られた名和長年という財力・思慮に富んだ人物のことを聞くと、忠顕は名和氏の館に行き、その武勇に頼った。 酒宴の最中だった名和一族のなかでも長年の弟である長重が進み出て「名を後の世に残すのは名誉なことである」として、名和一族は天皇を奉じて挙兵することを決意したのである。 

 琴浦町にある船上山の要害に立て籠もることを決めた長重は天皇を背負って船上山に向かった。 一方長年は兵糧5千石を用意したという。 立て篭もった150騎の名和軍は逆木を打って守りを固め、1333年2月隠岐守護の佐々木清高が率いる2000ほどの幕府軍を船上山で迎えた。 幕府軍の指揮官・佐々木昌綱が流れ矢により右眼を負傷し戦死すると、昌綱の部下500は戦意を失い、また別の指揮官・佐々木定宗は800騎を率いて搦手で戦っていたが、降伏してしまったという。 佐々木清高は攻め立てていたが、今が好機と見た名和長年は射手を率いて攻撃に転じ、幕府軍を討ったのである。 この勝利によって後醍醐天皇は上洛のために諸国の武士に綸旨を発して兵を集めると、西国中の兵士が船上山の周囲2~30里に集まり人馬の波で埋まったという。 これらの功により名和長年は伯耆守に任ぜられた。 

 当時、長年は『長高』と名乗っていたが後醍醐天皇の進言により長年と改名した。 京都に上洛した長年は従四位下に叙せられ京都の東の市場を管轄する東市正に任ぜられた。 また息子の義高も正五位下左衛門少尉に叙せられ天皇の親衛隊である検非違使に任ぜられた。 京都の人々は栄進し権勢を振るった名和伯耆守長年・楠木正成・結城親光・千種忠顕を『三木一草』と呼んで噂したという。  政権を獲った後醍醐天皇だったが、その政治は公正なものとはいえず、戦功のないものに領地が与えられたり、戦功のあった赤松円心には恩賞が少ないなど公家に厚く武家に薄い恩賞に武士達の不満は募っていった。 1335年6月、西園寺公宗の天皇暗殺計画が発覚する。 西園寺公宗は北条氏と親しかった為、建武の親政では没落していたが、その一族を盛り立てて再び世に出ようと、北条氏の残党と組んだのであった。 西園寺公宗は名和長年らに捕らえられた後、処刑されたため計画は未然に防がれた。 1335年、鎌倉で最後の執権北条高時の息子・時行が兵を挙げて足利直義を一蹴して鎌倉を占領した。 これを源氏再興の機会だと見た足利尊氏は勅許を待たずに鎌倉に向かって出発すると直義と合流し3万騎の兵で北条軍を破り鎌倉に入り居座った。 そんな尊氏に対して後醍醐天皇は新田義貞を討伐軍として鎌倉に向かわせた。 足利軍と新田軍は三河の矢作川で激突し新田軍は勝利を得たが、再び結集した足利軍の逆襲を受け敗北する。

 1336年1月、西進する足利軍を止めるため、名和長年らは近江の勢多に陣を構えて迎え撃ったが脇屋義助の守る山崎が敗れたため、足利軍は京都に入り、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。 長年は足利軍を破らずに天皇のもとに帰る訳にはいかないとして京都に入ったが、名和軍の旗印を見た西国の兵士達は一斉に襲い掛かってきた。しかしこれを17度まで破り100騎あまりになりながら内裏に行き、伏し拝んでから天皇のもとに向かったという。  その頃、奥州の北畠顕家が尊氏を討つため大軍を率いて西進しており、1月27日に京都を取り返すために名和長年や楠木正成らとともに攻撃をしかけた。 尊氏の援護がなかった足利軍は大敗し九州へと落ち延びた。 いったん九州に落ちた足利尊氏は兵を集め、またたく間に九州を平定して再び上洛を開始した。 1336年5月25日には上陸を阻止しようとした新田義貞・楠木正成と足利軍が湊川で激突したが、官軍は敗北してしまう。 後醍醐天皇は再び比叡山に移動し、1336年6月14日足利尊氏は光厳天皇を擁して上洛を果たした。 

 劣勢となった後醍醐天皇方は名和長年と新田義貞で京都に攻め込み奪回する計画を立てる。 楠木正成は湊川の戦いで、千種忠顕は雲母坂で討ち死し、結城親光は降伏を装って大友定載に斬り付けた後に戦死するなかで、生き残った名和長年は6月30日、出陣するが、敵に取り囲まれて孤立し得意の弓で奮戦し数百騎の敵を撃ち落とすも最後は三条猪熊のあたりで九州の松浦党の草野将監秀永に討ち取られた。

 

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楠木氏が忠誠を通した南朝の盛衰

2009年12月02日 | 鎌倉・室町時代

 天皇政治の復権を目指した後醍醐天皇は鎌倉幕府と対立して、ついに倒幕を果たし「建武親政」を行った。 しかし足利尊氏の反乱により新政権はわずかに二年で幕を閉じ、室町幕府が開かれる。 一方朝廷は京都の朝廷・北朝と吉野の朝廷・南朝が並立する南北朝時代が始まるのである。 その後南北朝が合体されたものの争乱は続き戦国時代へと進み、室町幕府も滅亡する。  後宇多天皇の第二皇子である尊治親王が持明院統の花園天皇の譲位を受けて即位した。 後醍醐天皇である。 1317年、後醍醐天皇即位の前年に「文保の和談」といわれる両統迭立の話し合いができ、後醍醐天皇の即位は、兄・後二条天皇の遺児である皇太子・邦良親王が成人するまでという期限付きのものであった。 そして天皇の子孫が皇位を継ぐ可能性もなかった。 しかも即位者の在位期間は10年と決められており、10年の間に理想とする天皇政治を実現する必要があった。 即位直後は父・後宇多法王が院政を敷いたが、3年後には退かせ、北畠親房などを登用して天皇親政を実現する。 この間に朱子学の講座を開いて同士を糾合し密かに倒幕計画を立てていた。 しかし1324年、密告により倒幕は露見し頓挫する。 これを正中の変といい、天皇は寺社を味方につけるために第一皇子の護良親王を天台座主とし、諸国の武士の糾合に努めた。 ところが、1331年再び謀議が露見すると後醍醐天皇は 笠置に脱出して挙兵したが、圧倒的な幕府軍に敗れて隠岐に流された。 幕府は次の天皇を立てるのであるが、このとき皇太子・邦良親王は病没していたために、寺明院統の後伏見天皇皇子・量仁親王を即位させて、光厳天皇が誕生した。 

 倒幕運動はこれにより終わったかに見えたが、1332年護良親王が吉野で、楠木正成が河内千早城で再び挙兵すると諸国で反幕府運動が活発化し、後醍醐天皇は隠岐を脱出し名和の長者・名和長年の援護を受けて朝敵追討の宣旨を諸国に発した。 鎌倉幕府の将として上洛していた足利尊氏は後醍醐天皇方に寝返り、東国でも新田義貞が挙兵して北条氏を滅ぼし、鎌倉幕府は滅亡する。 京都に還幸した後醍醐天皇は光厳天皇を廃し、建武の親政を開始する。 寺明院統の後伏見、花園天皇の所領を安堵し倒幕功労者への官職任命を行った。 武家を排除した政権、恩賞の不公平などから各方面への不満を呼び、政権力は急速に衰えた。 そして足利尊氏の反乱もあって2年ほどで政権は幕を閉じたのである。 新政を離反した尊氏に対して後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討命令を下し、いったん敗れた尊氏は九州に落ち延びるが、西国武士を結集して体勢を立て直した尊氏は、光厳天皇の院宣を得て再び京都へ迫った。 圧倒的な兵力の違いに、楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を迫るが後醍醐天皇はこれを拒否したため、正成・新田軍は湊川の戦いで惨敗し、後醍醐天皇は延暦寺に逃れた。

 1336年、光厳天皇は尊氏の要請を受けて後伏見天皇の第二皇子・豊仁親王を皇位につけた。 これが光明天皇である。 正式に室町幕府を開いた尊氏は後醍醐天皇と和睦し三種の神器を光明天皇に渡す。 後醍醐天皇の皇子・成良親王が皇太子となったが、後醍醐天皇は京を脱出し渡した三種の神器は偽物であると主張して吉野の山中に南朝を開き、京都の北朝と並立する南北朝の時代に突入する。 南朝は後醍醐天皇の後、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇と続き、北朝は光明天皇の後、崇光、後光厳、後円融、後小松天皇と続く。 そして後小松天皇のときの両統が合体するまで、後醍醐天皇は尊良親王や恒良親王を新田義貞に奉じさせて、皇子たちを各地に送って北朝方に対抗させようとしたが劣勢を回復することはできずに崩御している。 光厳、光明天皇の後、即位した後醍醐天皇の第9皇子・義良親王は後村上天皇として即位し、各地を転戦する不安定な生涯を送っている。 後村上天皇の第一皇子・寛成親王が長慶天皇として即位したときに足利義満が将軍になっているから、南朝の指導的人物も失い衰退が進んでいる頃である。 しかしこの頃に北朝との和解交渉はないことから、北朝に対するかなりの強硬派であったとされる。 1383年、南朝がもっとも衰えた時期に長慶天皇の譲りを受けて即位したのが、後村上天皇の第二皇子で、後亀山天皇として即位する。 足利義満全盛期であり、ついに義満の和平交渉を受けて南北朝は統一することとなったのである。 そして後亀山天皇は北朝の後小松天皇に譲位し、その後南朝・大覚寺統に皇位が移ることはなかった。 

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南北朝和睦派・楠木正儀

2009年11月30日 | 鎌倉・室町時代

 楠木正儀は、南朝の有力武将楠木正成の三男、楠木正行・正時の弟であり、生涯京都奪還のために戦いを繰り広げたが、勝算の無い戦いは避ける慎重派であったという。  1348年、四條畷の戦いにおいて兄楠木正行・正時が高師直(八幡太郎義家の庶子・高階惟章が源義国とともに下野国に住し以来、高氏として足利氏の執事を勤めている)の軍に敗れて討死すると、楠木氏の家督を継ぎ、南朝の先鋒武将となる。 北朝の高師泰(師直の兄)の軍と河内国石川で戦っている。 1350年の室町幕府の内紛では南朝の勢力挽回に努め、南北両朝合一に向けての活動を行う。1352年には北畠顕信らとともに足利義詮を逐して京都を奪還するが、すぐに京都を追われる。 正平16年/康安元年(1361年)、室町幕府の政争(康安の政変)で失脚し南朝に降った元幕府執事の細川清氏らとともに、三度目の京都奪還に成功するが、翌月には撤退している。 一方で南北朝合体・和睦を呼びかけているが将軍・義詮は拒否に徹している。 

  後村上天皇が没した後は、北朝に強硬姿勢だった長慶天皇が即位したために、和睦派・正儀は南朝内で孤立する。 これにより1369年に正儀は細川頼之を介して将軍・足利義満の北朝方に投降する。 しかし、細川頼之の幕府内での権力に陰りが見えると、1378年義満から河内国守護職を罷免され、今度は北朝内で孤立することとなる。1382年に再び南朝に帰参、参議となった翌年に長慶天皇が、和睦派の後亀山天皇に譲位した後も1385年の二王山での合戦などに明け暮れ、1389年に死去。

後村上天皇第一皇子で南朝派・長慶天皇の陵

 

 

後村上天皇第二皇子で南北朝和睦派・後亀山天皇の陵

 

                     三条治子(西御方)
              足利尊氏1305-1358    ┣治仁王1370-1417  
               ┣足利頼子 源資子 ┣貞成親王1372-1456
                赤橋登子┃   ┣栄仁親王(伏見宮)1351-1416    
                 三条秀子┃   ┣興信法親王    藤原資子
  藤原公子1232-1304         ┣興仁親王( 3崇光天皇 )  三条厳子┣101称光天皇
   ┣貴子内親王 西園寺寧子   ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 ) ┣100後小松天皇1377-1433
   ┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364  ┣緒仁親王(5後円融天皇) 1359-1393
   ┃   藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380  ┣熈永親王 
  89後深草天皇 ┣胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336  ┣尭仁法親王
    ┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317 ┃    藤原仲子1339-1427
    ┃  ┃┣尊園親王1298-1356   ┣尊道親王1332-1403
    ┃  ┃三善衡子     正親町実明女
    ┃  ┗━━━━┓
  藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348
         藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398
                藤原(正親町)実子
(持明院統:足利氏が京都に擁立 北)

(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)
  平時仲女 
  ┣慈道親王1282-1341 
  ┃藤原嬉子1252-1318(今出河院)                  不明 
  ┃ ┣-   姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)        ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-         阿野廉子1301-1359  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇1343-1394
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇1347-1424       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子┃┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) ┃藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王
            ┃      ┣邦良親王1300-1326┃
            ┃      ┣邦省親王1302-1375┃
            ┃     藤原(五辻)宗子    ┃
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
            ┃ ┃             ┃┃┣恒性皇子
     藤原忠子 ┣懽子内親王1315-1362   ┃┃┣護良親王1308-1335         
               ┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
 ┏西園寺禧子1303-13333(礼成門院 後醍醐中宮) ┃┣尊良親王1310-1337
 ┣左大臣公衡1264-1315            ┃┣宗良親王1311-1385  
 ┣太政大臣兼季1281-1339            ┃二条為子
 ┣西園寺金章子1271-1342伏見天皇中宮)藤原実俊┣世良親王-1330
 ┣西園寺瑛子1273-1336(亀山天皇後宮)     ┃┣静尊法親王?-?
西園寺実兼1249-1322              ┗遊義院一条局

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小楠公・楠木正行

2009年11月29日 | 鎌倉・室町時代

 楠木正行は南北朝時代の後醍醐天皇の忠臣・楠木正成の嫡男で、父正成が大楠公と尊称されたのに対して小楠公と呼ばれた。 生年については父・正成同様明確な史料が存在せず、『太平記』には父との「桜井の別れ」の当時は11歳であったとあることから1326年とも推測されるが、不詳である。 正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となると南朝方として戦い、足利幕府の山名時氏・細川顕氏連合軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破っている。 しかし1348年には河内国北條で行われた四條畷の戦いにおいて足利尊氏の腹心である高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の楠木正時と刺し違えて自害したあたりは父正成が弟・正季と刺し違えたのと同じである。 

 すこし脱線するが、高師直というお方、元禄時代に実際に江戸城内で起こった刃傷事件 「赤穂事件」を描いた「仮名手本忠臣蔵」での最大の悪役として登場する。 当時の人形浄瑠璃では、赤穂事件をそのまま取り上げることができなかったために、実際の悪役・吉良上野介を「太平記」に登場する高師直になぞらえているのである。 高師直は武蔵守として筆頭に登場するのであるが、江戸時代に実は武蔵守を名乗った大名・旗本は誰もいない。 武蔵国江戸城に本拠を構えた徳川将軍家に対して、地方官という身分の低い官位・武蔵守が存在すること自体失礼にあたるわけで、徳川300年の歴史上武蔵守は誰もいなかったのである。 楠木正行を死に追いやった足利尊氏腹心の高師直は塩谷高貞(宇多源氏佐々木氏の出で、足利尊氏に従い出雲・隠岐の守護となった。 )の妻に横恋慕し塩谷高貞も死に追いやる。 この塩谷高貞こそ仮名手本忠臣蔵における浅野内匠頭なのである。 

 1336年に楠木正成が湊川の戦で敗死してから、楠木氏はしばらくの間鳴りを潜めていたが、楠木正行が成長し本拠地である河内国で次第に力を蓄え、摂津の住吉・天王寺に出没し、足利方を脅かすまでになった。 住吉浜にて足利方を打ち破った際には敗走した敵兵を助けたことから、この事に恩を感じ楠木勢として参戦する者が多かったと云う。 これに対して足利方は本格的に南朝攻撃を決意すると1348年高師直を大将とする大軍を編成して、北上する楠木軍と四條畷を圧倒したという。  勢いに乗った高師直は、南朝の本拠・吉野に攻め入り陥落させると、後村上天皇をはじめとする南朝側は賀名生に逃れた。 戦後の楠木氏は楠木正儀が後を継いでいる。

楠木正遠?-?(河内の豪族 伊予橘氏の末裔)
  ┣正俊
  ┣楠木正成?-1336
   ┃┃┣正行?-1348
  ┃┃┣正時?-1348     
   ┃┃┣正儀1330-1389
   ┃┃┃
   ┃┃┃
  ┃┃久子     
  ┃万里小路藤房の妹・滋子     
  ┣正季?-1336 
  ┣正家?-1348
   ┣娘(観阿弥の母説あり)┃
橘盛仲娘
     

河内の観心寺には後村上天皇陵と正成の首塚がある

 

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