孝安天皇陵は孝昭天皇陵の東に1.5kmのところ玉出に位置し日本武尊命陵のすぐ北側の小高い山の上にあります。 孝昭天皇と世襲足媛の皇子として生まれた日本足彦国押人尊は皇太子となった15年後に孝昭天皇が崩御すると、孝安天皇として即位し都を室の秋津嶋宮(現在の奈良県御所市)に移した。 後に押媛命(兄の天足彦国押人命の娘)を皇后とし大日本根子彦太瓊尊(後の孝霊天皇) 、大吉備諸進命を産んだ。 欠史八代の一人で、事績は残っていないことから、実在の人物であるかどうかは疑わしい。 この天皇も第二子であり長男ではないことから、神武天皇以来、長男が皇位を継がない習慣が古代にはあり、それらの天皇の大部分が、御所市とその周辺に宮居を営んだという伝承を残すのが共通点である。 御所市にある「一言主神社」が祀る一言主神について、記紀では、雄略天皇が山中で一言主神に出会い、「お前は誰か」と訪ねるが一言主神は「お前こそ誰だ」と一歩も引かない。 雄略天皇から「ワカタケルである。」と名乗りをあげる。 自分と変わらぬ装束や態度に驚き、「この倭の国に、私以外に王はないはずだぞ。」と怒り、互いに弓を構えて一触即発の状況となった。 すると、一言主は「吾は悪事も一言、善事も一言で言い放つ、葛城の一言主神だぞ。」と答えた。 これから、「葛城王朝論」は展開されるのである。
安寧天皇陵は神武天皇陵の西側、畝傍山を隔ててすぐのところにあります。 綏靖天皇が即位した年に五十鈴依媛命を皇后に立て、磯津彦玉手看尊を産み21歳の時に皇太子となる。8年後に綏靖天皇が崩御すると磯津彦玉手看尊が即位して安寧天皇となる。都を葛城の高丘宮から浮穴宮に移したという。即位3年後に事代主神の孫・鴨王の娘・渟名底中媛命を皇后とし息石耳命と日本彦耜友尊(即位して後に懿徳天皇),磯城津彦命を産む。
桃花鳥田丘上陵とは第二代綏靖天皇の陵であり、奈良県橿原市にある塚山古墳(径16mの円墳)に比定されている。 神武天皇を父とする三兄弟の末皇子である綏靖天皇は、2人の弟を殺し皇位を奪おうという野心を持った異母兄で長兄の手研耳命の謀を事前に知り、すぐ上の兄である神八井耳命と共に先手をうって手研耳命を殺そうします。その際武器を持って先に部屋に入ったにもかかわらず恐れをなして長兄を殺す事ができなかった神八井耳命に代わって手を下したのが綏靖天皇でした。神八井耳命はこれを恥じ弟の方が皇位にふさわしいと述べてその地位を譲ります。 後に五十鈴依姫を立てて皇后(天皇の母方の叔母)とし、磯城津彦玉手看天皇(即位して安寧天皇となる)を生んでいる。
┏ 玉櫛媛(溝橛媛)
溝橛耳神 ┣ 五十鈴依媛命 渟名底仲媛命┏天豊津媛命
┣ 媛蹈鞴五十鈴媛┗━━━━┓ ┣息石耳命┣5孝昭天皇(観松彦香殖稲尊)
┃(富登多々良須々岐比売命) ┃ ┣4懿徳天皇(大日本彦耜友尊)┃┃┃
大物主命 ┣ 神八井耳命 ┃ ┃ ┃┃大井媛
天照大神 (事代主神)┃ ┗・・太安万侶 ┃ ┣磯城津彦命 ┃┃
┣大国主┛ ┣ 日子八井命 ┣3安寧天皇(磯城彦玉手看尊) ┃┃
┣加夜臣奈留美┣ 2綏靖天皇(渟名川耳尊) ━┓┏━━━━━━━┛┃
スサノオノミコト ┣ 岐須耳命 ┃ ┃ ┃┃ 渟名城津媛
鵜葺草葺不合命┣ 吾平津媛 ┛糸織姫 ┃┃
┣1神武天皇(磐余彦) x ┃
┣五瀬命,稲飯命,三毛入野命 ┃┃
玉依姫命┣ 手研耳命 ━┛┃
吾平津姫(日向) ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃ 長髄彦(ナガスネヒコ) 埴安媛(河内青玉繋娘)
┃ ┏押媛命 ┣武埴安彦命
┃ ┃ ┣大吉備諸進命 ┃伊香色謎命
┣天足彦国押人命┣7孝霊天皇(大日本根子彦太瓊尊)┃┣彦太忍信命(武内宿禰の祖父)
┣6孝安天皇(日本足彦国押人尊)┃ ┣8孝元天皇(大日本根子彦国牽尊)
世襲足媛 ┃┃ ┃ 細媛命┣大彦命
┃長媛 ┏━━━━┛ ┣9開花天皇(稚日本根子彦大日日尊)
五十坂媛 ┃ ┣迹迹姫命┃┃┣彦湯産隅命
┣倭迹稚屋姫命 欝色謎命(出石心命孫┃┃竹野媛
┣倭迹迹姫命 ┃姥津姫━彦巫王
┣吉備津彦命 ┣10崇神天皇(御間城入彦)
欝色謎命(倭国香媛) 伊香色謎命
第53代淳和天皇陵は小塩山の山頂にあります。 小塩山は大原野の西方に聳える山容優婉な山を称し北は大枝山(老ノ坂)~南は善峯寺付近に及んでいます。 また、山麓に鎮座する大原野神社は1000年もの長い歴史を有する古社で和歌の上で小塩山を枕詞に詠まれている神社としても名高いのです。
(京都・洛西に位置する大原野を眼下にそびえる標高642mの山) 淳和天皇陵はこの山頂にしばしばこ訪れ狩りを楽しんだといわれています。 小塩山の麓には花の寺といわれる勝持寺 (小塩山大原院勝持寺と呼ぶ古刹で、680年天武天皇の勅によって神変大菩薩役の行者が創建したのが始まりで、791年に伝教大師が桓武天皇の勅を奉じて堂塔伽藍を再建され、薬師瑠璃光如来を一刀三礼をもって刻まれて本尊とされました。 838年仁明天皇の勅によって塔頭四十九院を建立されましたが、応仁の兵火に遭い、仁王門を除きすべて焼失しましたが、乱後に再建されています。 また、鳥羽上皇に仕えていた北面の士佐藤義清が、1140年当寺に於て出家し西行と名を改めて庵を結び、一株の桜を植えて吟愛しておりました。
世人はその桜を西行桜と称し、寺を花の寺と呼ぶようになります。) があり、ここから頂上へ険しい参道が続きます。 また東側には頂上まで続くと思われる県道があるのですが、300mほど行ったところで通行止めとなっていました。 なにやら不法投棄を防止するための通行止めのようで、陵へは山頂まで約5kmの参道でいくしかありません。
大伴親王は桓武天皇 第三子で母は藤原旅子(藤原百川の娘)。 皇后には正子内親王(嵯峨-嘉智子 皇女)、高志内親王(桓武-乙牟漏 皇女)がいる。 また妃には緒継女王、永原氏、橘氏子、大中臣安子、大野鷹子、橘船子、丹波池子、清原春子がおり、皇子女には恒世親王、恒貞親王、基貞親王、恒統親王、良貞親王、氏子内親王、有子内親王、貞子内親王、寛子内親王、崇子内親王、同子内親王、明子内親王、忠子 など多数もうけている。 皇后の正子内親王にとって淳和帝は叔父にあたり(父嵯峨帝の弟)が、贈皇后の高志内親王と淳和帝は、父(桓武天皇)を同じくする異母兄妹であり、平城天皇、嵯峨天皇の実の妹である。 皇太子には嵯峨上皇の第二皇子、正良親王(後の仁明天皇)を立て、833年に正良親王に譲位した。 840年に55歳で死去し、物集女村で淳和天皇の火葬が行われたと『日本紀略』にはある。
高志内親王は809年に21歳で恒世親王と二人の皇女を残してなくなったが、この年に正子内親王が生まれた。 淳和天皇のもとに入ったのは即位直後で、正子内親王が皇后となったのは827年、28歳のときである。 淳和天皇の皇太子は正子内親王の弟・正良親王(後の仁明天皇)であり、嵯峨と嘉智子の思惑とおり姉弟の皇后と皇太子ができあがった。 淳和天皇の譲位により仁明天皇が即位したが、このとき皇子の道康親王ではなく、高志内親王の皇子・恒貞親王を皇太子とした。 自分が皇太子になったときの経緯に習ってお返ししたのである。 こうした皇位継承の美談も束の間、840年淳和天皇が崩御、正子内親王は落髪する。 そして嵯峨太上天皇が崩御すると承和の変 (淳和上皇の子・恒貞親王を廃して仁明天皇と良房の妹・順子の皇子・道康親王を立太子させようとした良房の陰謀)が勃発した。 これにより 東宮恒貞親王は廃された。 正子内親王は母・嘉智子がこの変に大きく関わっていたことを知り、号泣したという。 道康親王が即位して文徳天皇になった4年後に嘉智子が崩じ、正子内親王が太皇太后となり母にかわって後宮の頂点にたつ。 正子太皇太后は容姿端麗で心優しく、京中の弧児を集めて乳母を用意し、嵯峨の大覚寺に済寺院という僧尼のための医療施設を置いたという。
伊都内親王?-861(桓武皇女)
是公娘・吉子-807 ┣ 在原行平818-893
┣ 伊予親王?-807 伊勢継子772-812┣ 在原業平825-880
┃乙牟漏皇后 760-790 ┣阿保親王792-842
┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865
┃┣ 安殿親王 774-824(51平城天皇)
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇)
┃ ┃┃ ┃┃┏藤原乙春842-866
┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子 -839 藤原元善?-?
┃ 737-806 ┃┃ ┃┗藤原佳美子-898 ┃平等子?-?
┃ ┃┃ ┃ ┣- ┃┣-
┃ ┃┃ ┣58光孝天皇830-887(時康親王)
┃ ┃┃ ┃┃┃ ┏藤原時平871-909
白壁王709-781 ┃┃ ┃┃┣源旧鑑?-908 ┗藤原穏子885-954中宮(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃ ┃┃┣源和子-947(女御) ┣康子内親王919-957(師輔妻)
┃┃ ┃┃┣忠子-903┣慶子内親王┃ 藤原安子927-964(師輔娘)
┃┃ ┃┃┗周子-912┣常明親王 ┃ ┣63冷泉天皇950-1011
┃┃ ┃┣為子内親王┃ ┃-948┣64円融天皇 壮子女王930-1008
┏━━━━━━┛┃ ┃┃高藤 ┃┃ ┃ ┣為平親王952-1010┣具平親王964-1009
┣有智子内親王 ┃ ┃┃┣定方 ┃┃ ┣成明親王(62村上)926-967
┃母交野女王斎院┃ ┃┃┃┗能子┃┃ ┣寛明親王(61朱雀)923-952
┃ ┃ ┃┃┗胤子┃┃┃ ┃藤原時平871-909 ┣昌子内親王950-1000
┃ ┃ ┃┃ ┃┃┃┃ ┃┣保志890-936 ┃(和泉式部┣-
┃ ┃ ┃┃ ┃┃┃┃ ┃┣褒子(宇多女御)┃ 奉仕)┣-
┣源貞姫810-880 ┃ ┃┃ ┃┃┃┃藤原淑姫 ┃┣仁善子-946 ┃ 63冷泉天皇
┃(布勢氏) ┃ ┃┃ ┃┃┃┃┃藤原桑子┃廉子女王┣煕子女王-950
┃ ┃ ┃┃ ┃┃┃┃┃┃和香子┃ ┣慶頼王920-925
┃ ┃ ┃┃ ┃┃┃┃┃┃┃-935┣保明親王903-923(第二皇子 醍醐皇太子)
┣源潔姫809-856 ┃ ┃┃ ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝
┃(当麻)┣明子 ┃ ┃┃ ┃ ┃┃┃┣克明親王903-927(第一皇子),宣子内親王(斎院)
┃藤原良房┗文徳┃ ┃┃ ┃ ┃┃┃源封子(更衣 源旧鑑娘)
┣源信810-869 ┃ ┃┃ ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
┃(広井氏) ┃ ┃┃ ┃ ┃┃藤原鮮子-915┣源重光 923-998
┣源弘812-863 ┃ ┃┃ ┃ ┃┃ ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)
┃(上毛野氏) ┃ ┃┃ ┃ ┃┣重明親王-954┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
┣源融823-895 ┃ ┃┃ ┃ ┃源昇娘 ┣厳子女王?-?(頼忠妻 公任母)
┣源勤824-┣源昇┃ ┃┃ ┃ ┣勤子内親王 定方娘
┃(大原氏)┗源湛┃ ┃┃ ┃ ┣源高明914-982
┣源定816-863 ┃ ┃┃ ┃源周子 ┣俊賢959-1027
┣源鎮824-881 ┃ ┃┃ ┃-935 ┣明子965-1049
┣基子内親王-831┃ ┃┃ ┃ 愛宮 ┣頼宗、能信、寛子
┣基良親王-831 ┃ ┃┃ ┣敦実親王893-967 藤原道長966-1028
┣忠良親王-876 ┃ ┃┃ ┃ ┣源雅信920-993 ┣彰子、頼通、教通
┃(百済系) ┃ ┃┃ ┃ ┃ ┣源倫子964-1053
┣仁子内親王-889┃ ┃┃ ┃ ┃穆子931-1016 藤原温子 菅原衍子 橘義子 源貞子
┃(大原氏) ┃ ┃┃ ┃時平娘 ┃
┣源常812-854 ┃ ┃┣ 源定省(59宇多天皇)867-931
┣源明814-853 ┃ ┃┣ 簡子内親王-914 ┣雅明親王,行明親王,載明親王
┃(飯高氏) ┃ ┃┣ 綏子内親王-925 藤原褒子?-?(時平娘 元良親王と恋愛)
┣源清(秋篠氏) ┃ ┃斑子女王? ┗━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ┃ ┃ ┏紀有常815-877 ┣-
┃ ┃ ┃ ┣紀静子-866(文徳天皇更衣) ┃
┃ ┃ ┃ ┗紀種子-869(紀名虎・娘) ┃
┣宗子内親王-854┃ ┃ ┣常康親王-869 藤原乙春842-866 ┃
┃(高階氏) ┣正良親王(54仁明天皇)810-850┣藤原淑子838-906 ┃姣子女王?
┣源寛813-876 ┣正子内親王┃ ┣ - ┣藤原基経836-891 ┃┣元長親王901-976
┃(安部氏) ┃810-879 ┃小野吉子(更衣) ┣藤原高子842-910 ┃┣元利親王?-964
┃ ┏━━━━┛ ┃ ┃┏藤原長良 802-856 ┃┣- ┃┣長子内親王?-922
┃橘嘉智子┏━━━━┛ ┃藤原冬嗣775-826 ┃在原業平 ┃┃
┃786-850 ┣恒貞親王825-884 ┃┣藤原良相811-867 ┃ ┃┃
┃ ┃(仁明皇太子) ┃┗藤原良房804-872 ┣57陽成天皇876-884
┃ 淳和天皇786-840 ┃ ┣藤原明子 829-900 ┃ ┃
┃ ┣恒世親王805-826 ┃ ┣藤原基経(養子)┃ ┃在原行平娘 ┃
┃ 高志内親王789-809 ┃ 源潔姫810-856 ┃ ┃┣- ┃
┣源生821-872 ┃ ┣清和天皇850-881┣元良親王
┃(笠氏) ┃静子(更衣)紀名虎娘 ┃ ┣- ┃890-943
┃ ┃┣惟喬親王(第1皇子)┃ ┃ ┃
┣源安822-853 ┃┃844-897 ┃ ┃ ┣元平親王
┃(粟田氏) ┣道康親王(55文徳天皇)836-858┏源厳子 ┃?-958
┣純子内親王-863 藤原順子809-871(冬嗣・娘) ┣源能有 藤原遠良娘?-?
┗斉子内親王-853 伴氏娘
(文屋氏)
源氏物語の29帖【行幸】に、小塩山(大原山)が登場します。 「雪深き小塩の山に立つ雉子の古き跡をも今日は尋ねる」 源氏は、玉鬘に親らしく振る舞っているものの、その想いはつのります。源氏は、この苦渋から逃れるために彼女を尚侍として出仕させようと決めます。 尚侍は、帝に仕える女官の最高位です。 12月冷泉帝の大野原への行幸がありました。世をあげての盛儀で、玉鬘は父内大臣の姿をはじめて目にしますが、冷泉帝の比類なき美しさに惹かれ、源氏の薦めていた内侍の件に心を動かします。源氏は、玉鬘の心のうごきに早速準備をはじめます。こうなると玉鬘の素性をあきらかにせねばなりません。源氏は、父娘の対面を考えて、この裳着の儀の腰結の役を内大臣に依頼します。しかし内大臣の母大宮の病を口実に断られてしまいます。なんとかその大宮の仲介で、源氏と内大臣が対面し、親しく語り合ううちにわだかまりも解け、腰結いの役も引き受けてもらうことになりました。尚侍として入内させたいということも、実父としてただありがたく思うばかりでした。
翌年二月。玉鬘の裳着の儀が盛大に行われ、かくて父娘の対面もとどこおりなくすみ、玉鬘の宮仕えの準備がととのいました。
北白川宮智成親王1856-1872は明治時代初期の北白川宮初代で、伏見宮邦家親王第13王子である。1860年に孝明天皇の養子となり、聖護院門跡雄仁法親王弟となる。 1866年聖護院に入り、信仁入道親王を称するが、明治維新に際し、照高院宮を称し、還俗し、再び智成親王を称すると聖護院宮を繼承する。 1870年北白川宮に改称する。 1872年に没すると遺言で兄に当たる能久親王が北白川宮を相続した。 初代智成親王が若くして亡くなったことで、北白川宮は後世に「悲劇の宮家」と呼ばれます。 能久親王(1847~95)は戦病死し、三男の成久王1887~1923は自動車事故により三十七歳で死去。さらに、その子の永久王1910~40も軍事演習中に事故死します。 子の道久王が宮家を継承しますが、1947年の十一宮家の皇籍離脱により北白川宮家は消滅します。 この北白川には、江戸時代に照高院(桃山時代初め、豊臣秀吉の信任厚い天台宗の道証上人が、東山妙法院に創建した寺院)があったが、方広寺鐘銘事件に関連して東福寺・天得院が廃されたのに連座して廃寺となった。
上醍醐陵は桜で有名な醍醐寺から東へ登山道を進んだ上醍醐山頂にあります。 体力のなさを実感しながら歩くこと約3km、頂にある上醍醐寺は、比叡山延暦寺・高雄山神護寺といったお寺と並んで江戸時代まで女人禁制でした。 いずれも密教系の山岳寺院で、厳しい修行に打ち込むのは男性に限定され、それゆえ修行のさまたげとなる恐れのある女性は近づくことができなかったといいます。 陵墓は上醍醐寺のさらに頂に位置し、開山堂の近くにあります。 この陵墓には白河天皇の中宮だった藤原賢子、その娘で堀河天皇の中宮になった媞子内親王、賀茂の斎院になった令子内親王の三人の母子が眠っています。
白河天皇皇后 藤原賢子・第72代白河天皇中宮の父は右大臣源顕房、母は源隆俊の女隆子。 後三条天皇は藤原頼道の嫡男・師実を呼び、養女賢子を1071年、東宮貞仁親王(白河天皇)に入内させた。 これにより村上源氏の祖・源顕房は宮廷に威勢を誇るようになる。 白河天皇即位に伴い女御となり、翌6年長子敦文親王誕生に伴い中宮となる。 1077年敦文親王を亡くすも、1079年善仁親王(後の堀河天皇)を出産し、ほかに、媞子内内親王(郁芳門院)、令子内親王、子内親王を生んだが病にかかり、三条第にて28歳で崩御する。 鳥辺野にて火葬され、翌年醍醐山頂の円光院にて遺骨を納めた。 賢子を非常に寵愛した白河天皇は、重態に陥った時も宮中の慣例に反して退出を許さず、ついに崩御した際には亡骸を抱いて号泣し、食事も満足に取らなかったという。 これを見かねた権中納言源俊明が、遷幸を勧めると、「例はこれよりこそ始まらめ」と反論した逸話は有名である。 白河天皇の嘆きは一方ならず、1086年円光院を建て遺骨を納め、毎月仏像を造り、さらに円徳院、勝楽院、常行堂などを建てて供養した。 1087年、堀河天皇が即位すると皇太后を追贈された。 実は賢子の異母妹である師子も白河上皇の後宮にはいり、後の覚法法親王を身篭って退出し、その後に藤原師実の妻となっている。 白河天皇皇女尊称皇后・媞子内親王(郁芳門院)は中宮 藤原賢子の娘で同母弟に堀河天皇、同母妹に皇后宮令子がいる。 3才で斎宮に卜定されるが、母の死により退下後は母・賢子の面影が色濃かったため、最愛の中宮を亡くした白河天皇に鍾愛されました。 12才の時、5才年下の弟・堀河天皇の准母となり、入内。4年後、初の配偶者以外の中宮に冊立され、2年後、16才で女院号宣下されるが21才で早世し、父・白河上皇は悲しみのあまり直後に出家しました。
藤原顕季アキスエ1055-1123
┗長実
┗藤原得子(美福門院 八条院)1117-1160
┣体仁親王(ナリヒト)76近衛天皇1139-1155
┣女朱内親王(高松院)1141-1176
┃ 藤原泰子(高陽院)1095-1155藤原忠実娘
堀河天皇┃ ┃
┣鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚
藤原苡子┃ ┃ 佐藤義清(後の西行)も護衛
┃ ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)
祇園女御 ┣顕仁親王75崇徳1119-1164 ┣
┣清盛? ┃ ┣重仁親王1140-1162 源渡
┃ ┃ ┃ 乳母:有子
┗━━━┓ ┃ 藤原聖子1122~1181藤原忠通娘 皇嘉門院
藤原基子1049- ┃ ┣雅仁親王後白河天皇77代1127-1192(藤原通憲(信西)側近)
┣実仁親王 ┃ ┣禧子内親王1122-
┃(白河皇太子) ┃ ┣覚性入道親王1129-1169仁和寺門主
┣輔仁親王 ┃ 藤原璋子(待賢門院)1101-1145公実・娘
後三条天皇 ┃ ┃ (祇園女御,白川に寵愛)
┣白河上皇72代1053-1129貞仁親王 六条帝
藤原茂子┃┃ ┣覚行法親王
┃祇園女御・妹兵衛佐局 経子
┣善仁親王(堀河天皇)1079-1107
┃ ┃ ┃
┃ ┃ 篤子内親王
┣媞子内親王1076-1096斎宮(郁芳門院)
┣令子内親王1078-1144斎院
源顕房 ┣子内親王1081-1156土御門斎院
┃┣藤原賢子1057-1084
┃隆子
┗師子1070-1148(後に藤原師実妻)
┣覚法法親王1092-1153
白河上皇
当時左大臣であった藤原冬嗣の娘順子は今から1200年前の809年に生まれました。 藤原順子は 「美姿色。雅性和厚」と伝えられ、女御より皇太夫人に昇った初例でもあり、皇太后として東五条院(五条宮)を居所としました。 1200年の時空を越えて煌くように照らされたあまりにも印象的な御陵でした。
景行天皇皇后・播磨稲日太郎姫
久しぶりの日岡神社参拝です。 (2008/6/7 撮影:クロウ)
ひさしぶりに本殿を眺めると改めてその雄大な様に驚かされます。 脇から御陵への参道が続きますが、今回は参道入り口にて失礼致しました。 御陵までは結構の石段を登る必要があるのです。
息長宿禰王
┗ 神功皇后
播磨稲日太郎姫 ?-122 両道入姫命┣ 麛坂皇子
11代垂仁天皇-69-70┣ 櫛角別王(くしつのわけのみこ) ┣ □ ┣ 15代応神天皇
┣ □ ┣ 大碓皇子(おおうすのみこ ) ┣ 14代仲哀天皇 ┣ 16代仁徳天皇
┣ □ ┣ 小碓尊 (おうすのみこと)日本武尊 仲姫命┣履中天皇
┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇) -13-130 品陀真若王┛ ┣反正天皇
┣ 倭姫命 ┣ 稚足彦尊(わかたらしひこのみこと13代成務天皇) ┣允恭天皇
┣ 日葉酢媛命 ┣ 神櫛皇子(かむくしのみこ)讃岐国造の祖 磐之媛命
丹波道主王 ┣ 稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ)針間国造の祖
┣ 五百野皇女(いおののひめみこ、久須姫命)伊勢斎宮
┣ 豊国別皇子(とよくにわけのみこ)日向国造の祖
┣ □
10代崇神天皇 ┣ □
┣ 八坂入彦命 ┣ □
御間城姫 ┣ 八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)
日本書紀での播磨稲日太郎姫の記載
大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと 景行天皇)は、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと 垂仁天皇)の第三子なり。 母の皇后をば日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)と曰す。 丹波道主王(たにはのちぬしのおほきみ)の女なり。 活目入彦五十狭茅天皇の三十七年に、立ちて皇太子(ひつぎのみこ)と為りたまふ。 時に年二十一。九十九年の春二月に、活目入彦五十狭茅天皇崩りましぬ。 元年の秋七月の己巳の朔己卯に、太子、即天皇位す。 因りて元を改む。是年、太歳辛未。二年の春三月の丙寅の朔戊辰に、播磨稲日太郎姫(はりまのいなびのおほいらつめ)、一に云はく、稲日稚郎姫(いなびのわきいらつめ)といふ、を立てて皇后とす。后、二の男を生れます。第一をば大碓皇子(おほうすのみこ)と曰す。第二をば小碓尊(をうすのみこと)と曰す。其の大碓皇子・小碓尊は、一日に同じ胞にして双に生れませり。天皇異びたまひて、則ち碓に誥びたまひき。故因りて、其の二の王を号けて、大碓(おほうす)・小碓(をうす)と曰ふ。是の小碓尊は、亦の名は日本童男(やまとをぐな)。亦は日本武尊(やまとたけるのみこと)と曰す。幼くして雄略しき気有します。壮に及りて容貌魁偉し。身長一丈、力能く鼎を扛げたまふ。
要するに、323年に景行天皇即位し2年の春3月3日に 播磨稲日太郎姫(吉備出身)を皇后とすると、双子が生まれた。そのひとりが日本武尊というのである。
ところで、この播磨稲日太郎姫という御方の「褶墓」と名付けられた墓が加古川の北西、日岡山の山頂に大きな前方後円墳として残っています。 「播磨国風土記」 によれば、播磨の国にとても美しい姫がいると聞いた景行天皇が、三種の神器を身につけて妻招ぎに訪れたというのです。 驚いた印南別嬢は 「なびつましま」(加古川河口の三角州) に隠れてしまう。 到着した天皇は、彼女がいないので捜していると、海に向かって吠えている白い犬を見つけ、「これは誰が飼っている犬か?」 と尋ねると 「別嬢の犬です」と応える者がいて、居場所がわかるのである。 天皇は「此の嶋の隠愛妻」 (隠れていた愛しい妻よ) と呼びかけ、ふたりは島から出て印南の六継村 (高砂米田のあたりか) で結婚し、さらに高宮で居を構える。 やがてふたりの間には、大唯命 と小唯命(日本武尊)が産まれるが、しばらくして印南別嬢は亡くなってしまう。 そこで墓を日岡に造ってやろうと別嬢の遺骸を印南川 (加古川) で渡している時、突然大きな竜巻が川下から渦を巻いてきて、遺骸が川の中に沈んでしまったのだ。いくら捜しても印南別嬢は見つからず、その後、厘と褶(ひれ)だけが発見され、その2つをおさめて墓としたため 「褶墓」と名付けられたという。
兵庫県加古川の稲日太郎姫命陵(2006/9/30 撮影:クロウ)
箕谷古墳群
兵庫県北部の国道9号線を養父から八鹿方面に進むとつるぎ丘公園があり、ここ一帯が箕谷古墳群である。 1983年公園建設にともない発掘調査された箕谷古墳群は無袖式横穴石室をもつ5基の円墳から構成されている。 1基はすこしはなれた位置にあり(1号墳)、他の4基は2号墳から5号墳まで順次並んでいる。 この古墳群は620年代から650年代に(推古天皇朝)かけて築造されたらしく、2号墳からは戊辰の紀銘を持つ鉄剣が出土され、つるぎ丘公園と名付けられ国の指定史跡になった。
箕谷2号墳は東西12m、南北14m、復元高3・2m、西暦608年(*)しめす戊辰年の太刀を出した古墳として、構造も注目されます。人を埋葬する横穴石室は長さ8・6m、幅1・2m、高さ1・7mの大きさです。側壁の最も下には奥壁から大きな石材を4石続けて、その上に3段ほど石材を積みます。表面の整った長方形の石を横積みした丁寧で安定感のある石室です。また床には礫を敷きます。 石室から出土した遺物は戊辰年銘大刀をはじめ、金環という装身具、杯蓋(つきぶた)・杯身・壺・甕などの須恵器、鉄鏃・馬具等の鉄製品など103点です。耳飾りと考えられる金環が3点出土したことから、最低でも2人の埋葬者があったことが推定できます。
3号墳・4号墳 墳丘の盛土を3段につんで、さらにそれぞれの段に石垣状の列石をならべます。平面的にみると3重に列石をめぐらす大変珍しい構造です。但馬には列石を持つ古墳が多くありますが、3段の列石は兵庫県下でもこれだけです。古墳の大きさは、南北13・5m、東西9・5m、復元高30mです。4号墳は東西5・6m、南北7mで2号墳の約半分です。新しくなるほど古墳は小さくなります。
上醍醐陵
京都府京都市伏見区醍醐山醍醐寺内
昨年春の醍醐寺にて桜花見をしたときに続いて、二回目は冬の醍醐です。このときの京都は冷え込みがきつくボタン雪が途中から降ってきました。 上醍醐陵へ行ってみようとしたのですが、ここ参道入り口から陵までは約1時間の山登りを覚悟する必要があるのですが、丁度ボタン雪が雨に変わるという生憎の天候のために断念です。
上醍醐陵への参道(2008/1/25撮影:クロウ)
上醍醐は桜で有名な醍醐寺から西へ登山道を進んだ上醍醐山頂にあります。 比叡山延暦寺、高雄山神護寺といったお寺と並んで江戸時代まで女人禁制でした。 いずれも密教系の山岳寺院で、厳しい修行に打ち込むのは男性に限定され、それゆえ修行のさまたげとなる恐れのある女性は近づくことができなかったといいます。 上醍醐寺の開山堂の近くに上醍醐陵という陵墓があり、 この陵墓の主は白河天皇の中宮だった藤原賢子 (紫式部の娘の名も藤原賢子)、その娘で堀河天皇の中宮になった媞子内親王、賀茂の斎院になった令子内親王の三人の母子です。
白河天皇皇后 藤原賢子・第72代白河天皇中宮の父は右大臣源顕房、母は源隆俊の女隆子。 後三条天皇は藤原頼道の嫡男・師実を呼び、養女賢子を1071年、東宮貞仁親王(白河天皇)に入内させた。 これにより村上源氏の父・源顕房は宮廷に威勢を誇るようになる。 白河天皇即位に伴い女御となり、翌6年長子敦文親王誕生に伴い中宮となる。 1077年敦文親王を亡くすも、1079年善仁親王(後の堀河天皇)を出産し、ほかに、媞子内内親王(郁芳門院)、令子内親王、子内親王を生んだが病にかかり、三条第にて28歳で崩御する。 鳥辺野にて火葬され、翌年醍醐山頂の円光院にて遺骨を納めた。 賢子を非常に寵愛した白河天皇は、重態に陥った時も宮中の慣例に反して退出を許さず、ついに崩御した際には亡骸を抱いて号泣し、食事も満足に取らなかったという。 これを見かねた権中納言源俊明が、遷幸を勧めると、「例はこれよりこそ始まらめ」と反論した逸話は有名である。 白河天皇の嘆きは一方ならず、1086年円光院を建て遺骨を納め、毎月仏像を造り、さらに円徳院、勝楽院、常行堂などを建てて供養した。 1087年、堀河天皇が即位すると皇太后を追贈された。
実は賢子の異母妹である師子も白河上皇の後宮にはいり、後の覚法法親王を身篭って退出し、その後に藤原師実の妻となっている。
白河天皇皇女尊称皇后・媞子内親王(郁芳門院)は中宮 藤原賢子の娘で同母弟に堀河天皇、同母妹に皇后宮令子がいる。 3才で斎宮に卜定されるが、母の死により退下後は母・賢子の面影が色濃かったため、最愛の中宮を亡くした白河天皇に鍾愛されました。 12才の時、5才年下の弟・堀河天皇の准母となり、入内。4年後、初の配偶者以外の中宮に冊立され、2年後、16才で女院号宣下されるが21才で早世し、父・白河上皇は悲しみのあまり直後に出家しました。
藤原顕季アキスエ1055-1123
┗長実
┗藤原得子(美福門院 八条院)1117-1160
┣体仁親王(ナリヒト)76近衛天皇1139-1155
┣女朱内親王(高松院)1141-1176
┃ 藤原泰子(高陽院)1095-1155藤原忠実娘
堀河天皇┃ ┃
┣鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚
藤原苡子┃ ┃ 佐藤義清(後の西行)も護衛
┃ ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)
祇園女御 ┣顕仁親王75崇徳1119-1164 ┣
┣清盛? ┃ ┣重仁親王1140-1162 源渡
┃ ┃ ┃ 乳母:有子
┗━━━┓ ┃ 藤原聖子1122~1181藤原忠通娘 皇嘉門院
藤原基子1049- ┃ ┣雅仁親王後白河天皇77代1127-1192(藤原通憲(信西)側近)
┣実仁親王 ┃ ┣禧子内親王1122-
┃(白河皇太子) ┃ ┣覚性入道親王1129-1169仁和寺門主
┣輔仁親王 ┃ 藤原璋子(待賢門院)1101-1145公実・娘
後三条天皇 ┃ ┃ (祇園女御,白川に寵愛)
┣白河上皇72代1053-1129貞仁親王 六条帝
藤原茂子┃┃ ┣覚行法親王
┃祇園女御・妹兵衛佐局 経子
┣善仁親王(堀河天皇)1079-1107
┃ ┃ ┃
┃ ┃ 篤子内親王
┣媞子内親王1076-1096斎宮(郁芳門院)
┣令子内親王1078-1144斎院
源顕房 ┣子内親王1081-1156土御門斎院
┃┣藤原賢子1057-1084
┃隆子
┗師子1070-1148(後に藤原師実妻)
┣覚法法親王1092-1153
白河上皇
醍醐寺から眺めた醍醐山(2007/4/4 撮影:クロウ)遥かかなたの上醍醐陵に思いを馳せて。
後崇光太上天皇 伏見松林院陵
足利義満が頂点の地位に就き、天皇にとって代わろうとした時、あっけなく亡くなったが、この時朝廷側が義満に「上皇」を追贈しようとした。 異例の出来事に幕府側の4代将軍義持と斯波義将は断ったが、義満が尊号宣下をうける理由として考えられることは、その資格であるが、義満が後小松天皇の父であった、ということである。 後小松の妃・三条厳子と義満はかつて密通しており後小松がそのときの子であるということである。 後小松天皇の皇子・称光天皇には子がなく28歳の若さで亡くなった。そのとき遠縁の伏見宮彦仁親王を即位させて後花園天皇とした。 称光天皇には異母兄・宗純親王がいたにもかかわらずである。義満は宮中を我が物顔で歩き回っていたから、この宗純親王も義満の子であるとすれば、それを次期天皇に担ぎ上げるのに躊躇った朝廷は遠縁から選んだ可能性がある。 実はこの宗純親王こそ出家して一休と名乗ったあの一休さんである。
さて、この遠縁から選ばれた後花園天皇の父が伏見宮貞成親王といって、1447年に太上天皇の尊号を贈られ、後崇光院と呼ばれたのである。 幼少時から今出川家で養育され、左大臣公直・左大臣公行父子が養親となり音楽や和歌に親しみ、40歳でやっと伏見御所にて元服し貞成と名乗り、父・栄仁親王のもとに迎えられる。 1416年栄仁親王没、翌1417年に兄・治仁王も急死し、貞成が後継となったときに、兄を毒殺した嫌疑がかけられるが、後小松上皇や四代将軍足利義持から安堵を受けた。 伏見宮は北朝の正統であったために天皇家からは猜疑心をもって見られることが何かと多く、1418年に称光天皇の仕女である新内侍が懐妊した際にも密通の嫌疑がかけられたが、義持のとりなしにより虎口を免れている。
称光天皇が一時期危篤状態へ陥ると次期天皇の候補にもなり、1425年に親王宣下を受けるが、回復した称光天皇がこの報を聞くと激怒したため、わずか3ヶ月後に出家に追い込まれた。 1428年に再び称光天皇が重態に陥ると、六代将軍の足利義教は貞成の実子である彦仁王を庇護し、後小松上皇に新帝の指名により後小松は彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させる。
伏見松林院陵
三条治子(西御方)
足利尊氏 ┣治仁王(伏見宮2代目)
┣足利頼子 源資子 ┣貞成親王(伏見宮3代目) ━┓
赤橋登子┃ ┣栄仁親王(伏見宮)1351-1416 ┃
三条秀子┃ ┣興信法親王 藤原資子 ┃
藤原公子1232-1304 ┣興仁親王( 3崇光天皇 ) 三条厳子┣101称光天皇┃
┣貴子内親王 西園寺寧子 ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 ) ┣6後小松天皇 ┃
┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364 ┣緒仁親王(5後円融)┣宗純王┃
┃ 藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380 ┣熈永親王 宮人 ┃
89後深草天皇┣胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336 ┣尭仁法親王 ┃
┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317 藤原仲子1339-1427崇賢門院 ┃
藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348 ┃
藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398 ┃
藤原(正親町)実子 ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗貞成親王(1372-1456後崇光院) 勧修寺(藤原)房子 花山院(藤原)兼子
┣性恵女王 ┣応善女王 ┣大慈光院宮
┣102後花園天皇(彦仁)1419-1471 ┣仁尊法親王 ┣知円女王
┣めここ皇女 ┣103後土御門天皇(成仁フサヒト)1442-1500
┣理延 ┣嘉楽門院藤原信子┣104後柏原天皇1464-1526
┣貞常 大炊御門信宗 ┣尊敦親王 ┣覚鎮女王
┣王女 皇太后源朝子 ┣105後奈良天皇(知仁)1497-1557
┣王女 ┣清彦親王 ┣106正親町天皇(方仁) ┓
┣雲岳聖朝 豊楽門院藤原藤子 ┣永寿女王 ┃
庭田(源)幸子 万里小路(藤原)栄子 ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣誠仁親王(陽光太上天皇)
┃ ┣107後陽成天皇(和仁)
┃藤原晴子 ┣108後水尾天皇(政仁)1596-1680
藤原(万里小路)房子 近衛前子(中和門院)
安徳天皇御霊跡地
安徳天皇陵へ行きたいと思いつつ、山口県までなかなかいけないままに現在に至ります。 四国の剣山にある安徳天皇縁の地も訪れたい場所のひとつではありますが、今回は豊能郡能勢町の安徳天皇御霊跡地へと行った次第です。 本日は生憎の雨で足元も悪く、どこまでいけるかわかりませんでしたが、行けるところまで挑戦です。 中国縦貫道路の池田ICを降りて妙見山方面からまず到着したのは”野間の大けやき” です。 この一帯には「蟻無宮」という神社があり、この大けやきは神木であったようで全国でも4番目の巨木です。 巨木に関する伝承では 「又経房遺書(安徳天皇ご潜幸の伝承)の一節に『・・・河合いにいとおほきなる沢ありて水よどめり、さハの中しまに市女が笠てふものに似たるいとうるはしき木の紅葉せしあり・・・」(原文)、奥書きは「建保五丑年」とあり、なにか大けやきを連想させるものがある。当社の創祀は、承久二庚辰3月15日とあり、遠く鎌倉時代にさか上るが、明治45年当社祭神は野間神社に合祀された。以後、神木の安全・境内の清浄化に蟻無会(前身は蟻無講中)をはじめ、郷民こぞって奉仕してきたところである。特に最近樹勢回復のため治療を施し、ようやく往時の姿によみがえろうとしている。』―現地説明文より―
大けやきから西へ1kmほどいくと右手農道の奥に岩崎神社若宮八幡宮が見えてきます。 看板に書かれているのを要約すると、【 1185年3月24日壇の浦の敗戦に、平氏に擁護された安徳天皇は、二位の尼のはからいにより御潜幸になった。供奉する従者・左少弁藤原経房一行は、但馬の国等を経て、その年の6月15日、ここ摂津国能勢の野間郷に来られた。 長い苦難の旅路をこの地において快気され、安穏の月日を送られたのである。 二位の尼恋しさのあまり 『冬ちかき木々のこの葉も色よきに恋しききみのいかできません』と詠まれ、経房は涙せきあえず『色ふかくそむる紅葉のなかにもぞまつは時雨のかひなかりけり』 ご潜幸の年も明けた1186年5月17日朝まだき、供奉者らの手厚いご介護もむなしく、この地で崩御されたのである。 嘆き悲しみのうちにご遺体は、主上が日ごろ御幸のあった来見山に、御衣、ご調度は岩崎社にあわせ鎮めて「若宮八幡宮」とよび、経房、里人らによって長らく奉斎されてきたのである。 また主上の詠まれた来見山の歌 『初雪をめでつつここにくる見れば峯にきのふににずもありけり』 を御霊代として種長、景家らは野間大原の里に「来見権現」を勧請したという。 以上1817年、「経房遺書」によってこの事実が明らかになり、以来全国的にも知られて陸墓の話題に上った。 (撮影:クロウ)
安徳天皇の調度があわせ鎮められた「若宮八幡宮」
安徳天皇御陵墓までの途中にある侍従・藤原経房 『1166(仁安元)~1198年(建久9)-推定-/朝廷の儀式・礼法などに詳しく、また源平争乱の記事にも詳しい。経房は権大納言まで昇った人物で、源氏勢力の確立後は政治交渉を担当した。題名は経房の別邸が京吉田にあったことから、後に付けられたもの。江戸以降に記された新写本と抄出本が多い。』 の墓
目指すは安徳天皇御陵墓ですが、藤原経房の墓からなお5分ほど登ったところにあるという御陵墓まで行ける状態ではありません。雨のために足元も悪く・・・・ここで断念です。
途中で見つけた栗です。12月28日なのに何故か綺麗な状態で残っていました。
毘沙門堂
703年文武天皇の勅願で僧行基によって出雲路に開山され、1611年頃天台宗の高僧・天海によって復興される。1665年後西天皇の皇子公弁法親王が入寺し、門跡寺院となる。 以前、後山階陵を訪問する際に、ここ毘沙門堂前へ来たのですが安祥寺しか念頭になかったため引き返す。 後山階陵へいくには毘沙門堂の境内から行けることを知り、再び訪問となりました。 今回は紅葉の季節ということもあり、かえって前回の間違いが良き結果となりました。 JR山科駅北口から北上すると、やがて毘沙門堂の参道に入り、両脇の紅葉を楽しんだあとは、「毘沙門天」と書かれた赤い旗が並ぶ急な石段を上り、仁王門をくぐると、唐門、本堂、宸殿へとたどり着きます。
本尊は、最澄作といわれる「毘沙門天坐像」で、宸殿は御所にあった後西天皇の旧殿を移築したものである。