国道24号を御所から五條へ向かうとき、風の森峠を越える。
その峠のバス停を過ぎてすぐの道路脇に“弥勒寺”と“峯山百体観音”の看板が立っている。
私は何度もそこを通っているのに、寄ったことがない。
“百体観音”ということは、・・・
“観音様”がたくさんやから・・・“観音霊場”めぐり?
“100”やから、“33”が3つとあと1つ?
行ってみたら、予想が的中していた。
@峯山百体観音霊場と南禅寺縁起
改築前弥勒寺境内には、宝形造の薬師堂があった。
このお堂は、明治の初期に廃寺になった南禅寺のお堂であったことが安置されていた薬師如来像・聖観音像に記された墨書銘からわかる。この南禅寺というのは弥勒寺の南方250メートルの八斗山(峯山と呼ばれる)の北麓にあった真言宗の寺院で、弥勒寺よりも古く聖徳太子の御開基といわれ本尊薬師如来は室町時代の作で聖観音像は聖徳太子(622年没奈良時代)が六千余洲に一洲一体ずつ彫刻せられたと伝えられる優作で平安時代末の作と見られる。
その後行基上人がこの寺(710年頃)を中興し、弘法大師空海(773年~830年)がこの峯山に求聞持法を修し鎮護国家の祈祷を修行した「淤伽井(あかい)」は大師の御手で掘られた井戸といわれている。またこの寺は楠公(楠正成公か?)の御祈祷所にて公の献上せられた念持佛毘沙門天王像がある。また生駒宝山寺を開山した宝山上人(湛海和尚)の前住職地とも伝えられている。
この峯山を巡り西国三十三番・秩父三十三番・坂東三十四番の礼所は文化8年(1812年)の開創といわれ百体の石佛が安置されている。明治42年3月に改修され、その後大正7年再興、現在に至っているがよく整備され参詣の人も絶えず毎年4月18日には観音会式にて峯山の頂上では御供まき等も催され近郷の人々にも三つ葉つつじの咲くお山に参詣する。その覆屋が赤レンガ造りであるのも珍しくミニ版の大正建築ともいえる。
他に十一面観音立像・大威徳明王坐像(牛瀧さん)・地蔵菩薩立像・不動明王立像・本尊薬師如来像の脇佛に十二神将像、日光・月光両菩薩像が揃い現在は弥勒寺本堂に共に安置されている。
その峠のバス停を過ぎてすぐの道路脇に“弥勒寺”と“峯山百体観音”の看板が立っている。
私は何度もそこを通っているのに、寄ったことがない。
“百体観音”ということは、・・・
“観音様”がたくさんやから・・・“観音霊場”めぐり?
“100”やから、“33”が3つとあと1つ?
行ってみたら、予想が的中していた。
@峯山百体観音霊場と南禅寺縁起
改築前弥勒寺境内には、宝形造の薬師堂があった。
このお堂は、明治の初期に廃寺になった南禅寺のお堂であったことが安置されていた薬師如来像・聖観音像に記された墨書銘からわかる。この南禅寺というのは弥勒寺の南方250メートルの八斗山(峯山と呼ばれる)の北麓にあった真言宗の寺院で、弥勒寺よりも古く聖徳太子の御開基といわれ本尊薬師如来は室町時代の作で聖観音像は聖徳太子(622年没奈良時代)が六千余洲に一洲一体ずつ彫刻せられたと伝えられる優作で平安時代末の作と見られる。
その後行基上人がこの寺(710年頃)を中興し、弘法大師空海(773年~830年)がこの峯山に求聞持法を修し鎮護国家の祈祷を修行した「淤伽井(あかい)」は大師の御手で掘られた井戸といわれている。またこの寺は楠公(楠正成公か?)の御祈祷所にて公の献上せられた念持佛毘沙門天王像がある。また生駒宝山寺を開山した宝山上人(湛海和尚)の前住職地とも伝えられている。
この峯山を巡り西国三十三番・秩父三十三番・坂東三十四番の礼所は文化8年(1812年)の開創といわれ百体の石佛が安置されている。明治42年3月に改修され、その後大正7年再興、現在に至っているがよく整備され参詣の人も絶えず毎年4月18日には観音会式にて峯山の頂上では御供まき等も催され近郷の人々にも三つ葉つつじの咲くお山に参詣する。その覆屋が赤レンガ造りであるのも珍しくミニ版の大正建築ともいえる。
他に十一面観音立像・大威徳明王坐像(牛瀧さん)・地蔵菩薩立像・不動明王立像・本尊薬師如来像の脇佛に十二神将像、日光・月光両菩薩像が揃い現在は弥勒寺本堂に共に安置されている。
風の森峠周辺から金剛山麓・高天原にかけての地域はいいですよ~
ぜひ訪ねてみてください!