goo blog サービス終了のお知らせ 

大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

筒井城へ

2012年01月13日 | 大和郡山市
先日,近鉄筒井駅で下車した。
せっかくやから筒井城を散策することに。
駅前に散策マップがあったので,脳みそに焼き付けて歩き出した。

それが・・・
どこにも城址らしき石垣や堀などは無く・・・
困ってたら子犬を散歩中の女性が通りかかり,城址を刻んだ石柱の場所を聞いた。

城の堀はどうやら蓮根畑に変わり,

石垣は郡山城に運ばれてしまった様子。

最後に筒井順慶が造ったという順慶堤を探したんやけど・・・???

@筒井城
奈良県大和郡山市筒井町にあった城で、室町時代、戦国時代を通じて大和国の政治史の中心的存在であった興福寺衆徒筒井氏の居城であった。
筒井城は近鉄橿原線筒井駅より東北一帯にあり、おおよそ南北400m、東西500mあり、平地部に築かれた中世の城としては比較的規模が大きく、筒井の集落を囲む形で筒井城があった。
現在の筒井城跡は、宅地、畑地、水田となっているが、内曲輪と外曲輪を巡った堀跡が点在している。その堀に囲まれた城内には筒井氏とその家臣団の屋敷があった。
また『筒井氏と筒井城』によると、筒井には市場があったと確認されており、筒井城の「市場も外堀内部にも設けられていた可能性が高いと思われる」と記載している。
また筒井集落は、様々な場所で道が折れ曲がり直進できない構造になっている。これらの道や地割は筒井城が築かれた当時の様子をうかがい知る事が出来る。

筒井城が築かれた時期については不明であるが、文献上の初見は『満済准后日記』に、大和永享の乱が始まった永享元年(1429年)で城主は筒井順覚。この時は「筒井館」と記載されている事もあった。その後、戦乱の世を生き延び居館から城郭へ発展していったのではないかと思われている。嘉吉元年(1441年)には城主は筒井順永にうつり、応仁の乱、戦国時代を通じて何度か筒井城をめぐる攻城戦が行われその史料も豊富に残されている。
応仁の乱は細川勝元を総大将とする東軍と、山名宗全が率いる西軍の争いであったが、河内ではそれ以前に畠山義就と畠山政長が分かれて争っており、これに大和の国人衆が真っ二つに分かれてそれぞれに加勢し、その流れに応仁の乱が巻き込まれていく。
コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 塗香 | トップ | 司馬遼太郎が考えたこと »
最新の画像もっと見る

4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
ホラが峠は??? (山口ももり)
2012-01-14 11:04:34
面白い記事ですねえ。ところで洞ヶ峠は???どちらの方角なんですか???近鉄橿原線筒井駅より東北一帯・・・・う・う・・・ん
返信する
Unknown (瓜亀仙人)
2012-01-14 11:46:58
ももりさんへ
>洞ヶ峠は???どちらの方角なんですか???
きっと、天下分け目の天王山の戦いの時のことなので、京都と大阪の府の境辺りだと思います。
返信する
御邪魔しま~す。 (miwako)
2012-01-14 18:35:02
私の知っている洞ヶ峠は、国道1号線枚方から少し京都寄りの
交差点の標識にその名が・・・
京都を向いて右側、山手幹線をドンドン進むと松井が丘から一休寺へと続きます。
今日、三男と彼の後輩と3人で磐船神社に行ってきました。
勿論岩場廻りで後ろに転げかけ、子に支えられまして危機回避!
重たい~~!!と叫ばれました。絵へ。><
生まれ変われたでしょうか???
返信する
Unknown (瓜亀仙人)
2012-01-15 10:59:27
miwakoさんへ
>勿論岩場廻りで後ろに転げかけ、子に支えられまして危機回避!
磐船神社は素敵な処でしょう!
あの岩場廻りは最高ですよね!
よく無事に帰還されました。
岩は冷たくなかったですか?
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

大和郡山市」カテゴリの最新記事