大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

訳語田幸玉宮

2010年02月05日 | 桜井市
親父が入院している病院の北側に春日神社の杜が見える。
地元では「他田(おさだ)の宮」と呼ばれて いるところ。
神社の説明板には、この地に敏達天皇の「訳語田幸玉(おさだ・さきたま)宮」があったと書かれている。
第三十代敏達天皇は百済宮のあと,新たに「訳語田」に宮をつくった。これを「幸王宮」という。
当時,大津皇子の家はこの宮がおかれた「訳語田」にあったとされる。
しかし,天武天皇が崩御した翌月の686年10月2日,川島皇子の密告によって謀反の疑いをかけられ,皇子の従者30余人とともに捕えられ,翌3日に「訳語田」の家で24歳の若さで自害した。
これは鵜野讃良皇女が,自分の実の子の草壁皇子を次の天皇にするためにはかったことだとも言われるが,詳細は不明である。
大津皇子の妃の山辺皇女は裸足で髪をふり乱して駆けつけ同日殉死した。
大津皇子に従って行動していた従者の多くは罪なしとして解放され,数人のみが伊豆や飛騨の国に流されたという。

大津皇子の辞世の詩は次の五言絶句。
  臨終一絶
金鳥臨西舎(太陽が西に沈む時)
鼓声催短命(時を告げる大鼓の音が短命を催す)
泉路無賓主(死出の旅に客はいない)
此夕離家向(夕刻に家を出てどこに向かうのか)

また,万葉集には大津皇子の辞世として次の歌がある。
磐余(いわれ)の池の堤にて皇子が涙を流して作った歌とされる。
百伝う 磐余の池に 鳴く鴨を
  今日のみ見てや 雲隠りなむ
(磐余の池に鳴く鴨を見ることは今日までか。私は死んでいくんであろうな。)
   (大津皇子 巻3-416)
その後,大津皇子は二上山に葬られたという・・・
私,N盆地の西方,二上山に沈む夕日を見るのが好きなんやなぁ~
磐余の池って,いったいどこにあったんやろか?
「写真;春日神社」



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