大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

平清盛に住吉大社

2012年02月28日 | 兵庫県
先日、大河ドラマ『平清盛』第7回で紹介された名所は大阪市の「住吉大社」だった。
「住吉大社」は昨夏訪ねたところ。
懐かしい!
あの日の放送では、こんな紹介やった。

1800年の歴史を誇る住吉大社は、古来、海の神として航海の安全を祈る人々にあつく敬われてきました。
嘉応元年(1169)には清盛も参詣し、馬や黄金を奉納したと記されています。
「平家物語」ではここ住吉大社から平家滅亡を暗示させる矢が飛び去り、壇の浦の戦いを前に後白河法皇を喜ばせたと記されています。
住吉大社は平家の栄枯盛衰を見つめてきたのです。

さらにドラマの中では『源氏物語』の明石の君も登場し???
私、源氏物語が分からなくって???

@『源氏物語』「澪標」巻の一部
須磨の夜の源氏の夢にまざまざとお姿をお現わしになって以来、父帝のことで痛心していた源氏は、帰京ができた今日になってその御菩提(ごぼだい)を早く弔(とむら)いたいと仕度(したく)をしていた。そして十月に法華経の八溝が催されたのである。参列者の多く集まって来ることは昔の場合のとおりであった。
今日も重く煩(わずら)っておいでになる太后(筆者注・弘徽殿)は、その中でも源氏を不運に落しおおせなかった(筆者注・源氏の異母兄朱雀帝)ことを口惜しく思召すのであったが、帝は(故・桐壺帝)の御遺言をお思いになって、当時も報いが御自身の上へ落ちて来るような恐れをお感じになったのであるから、このごろはお心もちがきわめて明るくおなりあそばされたのであるが、短命でお終りになるような予感があってお心細いためによく源氏をお召しになった。(中略)
源氏は明石の君の妊娠していたことを思って、しじゅう気にかけているのであったが、公私の事の多さに、使いを出して尋ねることも出来ない。三月の初めにこのごろが産期になるはずであると思うと哀れな気がして使いをやった。
「先月の十六日に女の子様がお生まれになりました」
という知らせを聞いた源氏は、愛人によてはじめて女の子を得た喜びを深く感じた。
(中略)
この秋に源氏は住吉詣でをした。須磨明石で立てた願(がん)を神へ果すためであって、ひじょうな大がかりな旅になった。
延臣たちがわれもわれもと随行を望んだ。ちょうどこの日であった、明石の君が毎年の例で参詣するのを、去年もこの春も障りがあって果すことのできなかった謝罪もかねて、船で住吉へ来た。
海岸の方へ寄って行くと、華美な参詣の行列が寄進する神宝を運び続けて来るのが見えた。楽人、十列(とつら)の者もきれいな男を選んであった。
「どなたの御参詣なのですか」
と船の者が陸へ聞くと、
「おや、内大臣様の御願はたしの御参詣を知らない人もあるね」
供男階級の者もこう得意そうに言う。
なんとした偶然であろう、ほかの月日もないようにと明石の君は驚いたが、はるかに恋人のはなばなしさを見ては、あまりにも懸隔のありすぎるわが身の上であることを痛切に知って悲しんだ。(中略)
こんなときに自分などが貧弱な御幣(みてぐら)を差し上げても神様が目にとどめにならぬだろうし、帰ってしまうこともできない、今日は浪速(なにわ)の方へ船を回して、そこで祓いでもする方がよいと思って、明石の君の乗った船はそっと住吉を去った。こんなことを源氏は夢にも知らないでいた。(後略)

みをつくし恋ふるしるしにここまでも廻り逢ひける縁(えにし)は深しな  源氏
数ならでなにはのこともかひなきに何みをつくし思ひ初めけん  明石の君
露けさの昔に似たる旅衣田簑の島の名には隠れず  源氏
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2 コメント

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Unknown (kazuyoo60)
2012-02-28 11:17:34
あまりにも有名なのに、それも近くなのに、1度も言った記憶がありません。
当時の船の模型ですね。
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Unknown (瓜亀仙人)
2012-02-28 16:21:39
kazuyoo60さんへ
船は遣隋使や遣唐使の頃のものでしょうか。
このあたりから中国に命がけで旅立ったのでしょうか。
この神社の反り橋は有名ですよねぇ~
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