
先日,大和郡山城に行ったのは,天守台の石垣にあるという“逆さ地蔵”を見たかったから。
1577年(天正5年)10月10日松永弾正少弼久秀が信貴山城に滅んで大和国が平定されると、信長の命令で、1580年(天正8年)一国一城とされ、筒井城を捨てた順慶が郡山の丘陵地に城を築いた。
よほど信長に尻を叩かれて工事を急いだのか、天守台の石垣は野面積(のづらづみ)で、奈良の水谷川の大石を切り出しても足りず、寺院の礎石、庭石、五輪塔、石仏等も持ち込まれた。

北東角の石は平城京羅城門の礎石で、北面中央の下には、頭を下にされた「逆さ地蔵」が埋め込まれ、なお、縄張は明智光秀も手伝い、また、1585年(天正13年)豊臣秀長の城造では紀州根来寺の大門を運び、城門にしたという。
1086個の数珠玉、全長144m、総重量2250トンが天守台を取り巻いている。
この大数珠は、昭和36年当時の観光協会長・広瀬元治郎氏の発願によって、築城以来この城にまつわる諸霊ならびに石垣に埋められた仏石を弔うために、郡山市民有志の浄財を以て調製された。
1577年(天正5年)10月10日松永弾正少弼久秀が信貴山城に滅んで大和国が平定されると、信長の命令で、1580年(天正8年)一国一城とされ、筒井城を捨てた順慶が郡山の丘陵地に城を築いた。
よほど信長に尻を叩かれて工事を急いだのか、天守台の石垣は野面積(のづらづみ)で、奈良の水谷川の大石を切り出しても足りず、寺院の礎石、庭石、五輪塔、石仏等も持ち込まれた。

北東角の石は平城京羅城門の礎石で、北面中央の下には、頭を下にされた「逆さ地蔵」が埋め込まれ、なお、縄張は明智光秀も手伝い、また、1585年(天正13年)豊臣秀長の城造では紀州根来寺の大門を運び、城門にしたという。
1086個の数珠玉、全長144m、総重量2250トンが天守台を取り巻いている。
この大数珠は、昭和36年当時の観光協会長・広瀬元治郎氏の発願によって、築城以来この城にまつわる諸霊ならびに石垣に埋められた仏石を弔うために、郡山市民有志の浄財を以て調製された。
大宇陀へ行かれたんですか!
大願寺の薬膳料理は食べられましたか?
大和郡山なら,近鉄大和郡山駅前の
「ころっけのハヤシ」です!
http://blog.goo.ne.jp/e411y/e/3dc22b77cb8f9c9ae8bea18a421c5744
大宇陀では,大願寺の薬膳料理が有名です。
この町で吉野葛の大部分が生産されていると聞いたことがあります。
それに織田氏の城下町。
あの日,ハヤシのコロッケを運転しながら2つ食べてしまいました!