釣れづれNickey

時々行く釣りや身近な出来事などのレポートです。つれづれなるままに、心にうつりゆくよしなし事を・・・。

支えられ頂点「感謝」・・・内川聖一外野手の手記  

2011年10月02日 | いい話
~西日本新聞10月2日朝刊より~
ホークスを勝たせるためにここに来た。それくらいの覚悟だった。ホッとしたというのが正直な気持ち。我慢しようと思っていたのに、9回裏、こみ上げるものを押さえきれなかった。胴上げをしてもらったのは本当に驚いた。仲間として認めてもらえたのかな、と。

2008,09年と横浜で2年続けて打率3割を残した。その頃から、違う環境に身を置くことに興味が出た。チームが勝つ中で自分自身の活躍、存在を見てみたい。そう感じるようになっていた。「横浜なら間違いなくレギュラー。引退しても指導者として球団に残れるだろう」。そう言ってくれた人もいたが、やらなくて後悔するならやって後悔する方がいい。移籍してチャレンジしない手はないと思った。

大分工高1年の夏、大分県内の医大で骨のう腫にかかった左かかとの手術を受けた。サッカーをしていた中学時代の同級生も同時期に入院していた。彼は、骨肉腫で亡くなった。ショックだった。そのときからだ。頑張れるのに頑張らないのは失礼だ、と。迷ったら前に進む。何事もそう考えるようになった。

妻(元フジテレビアナウンサーの翼婦人)は「仕事を辞め、ついていく覚悟がある」と言ってくれた。アナウンサーという仕事も頂点を目指してやる仕事。それも理解して結婚したつもりだった。まだやりたい、というなら、単身赴任でと思っていた。だからそう言ってくれたとき、心から安心できた。

6月には太もも肉離れという初めてのけがもした。秋山監督からは「終盤の一番大事な時期にいないのは困る」と言ってもらったが、内心では「今も大事なのに」と葛藤があった。復帰後、思うような打撃が出来なかった。下を向きかけたところで支えになったのはみんなの背中だった。

首を痛そうにしていた小久保さんがダイビング捕球していた。1点ビハインドの九回無死走者なし、涌井(西部)から四球を選んだポン(本多)はガッツポーズしていた。新鮮だった。このチームの選手たちはこういう思いで野球をやっているのか、と思うと、愚痴を言ったり落ち込んだりする暇はなかった。

好機で打席を回してもらった。自分自身のことに全て責任を持つ。その思いでやってきたけれど、周りが作ってくれたものに僕は生かされたと思う。リーグ優勝した今、まず支えてくれたみんなに伝えたい。「感謝」。この言葉しかない。(福岡ソフトバンク外野手)
 


*何かを成すひとはやっぱり違うなあ。私自身はあまり野球には興味はありませんが、偉業をなしても周りのお陰だと感謝するところなど、あくまでも謙虚ですね。ファンになりそう^^







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