こんな機会でもなければ、まず絶対に読まないだろうと思ってがんばって挑戦してみた。
ま、眺める程度に。想像通り総合的にはつまらなかったわけだが……
しかし、予想よりとっつきやすかったのはとてもありがたかった。
これはやはり訳者たちの才のおかげだと思う。丸谷才一、永川玲二、高松雄一。
永川さんという人は知らんけれども、丸谷・高松は有名。……というより、高松雄一は
ついこの間読んだ「アレクサンドリア四重奏」の伝説的な名訳者、だそうなんですな。
なにしろ原著がこんな前衛的な小説だからねえ。下手に翻訳した日には、目もあてられないですよ。
が、字を追う分にはそれほど苦痛ではなかった。さすが、と言っていいんだろうな。これは。
かなり読みやすい部類。これには集英社版の活字の大きさもあずかっている。良い選択だ。
岩波文庫並の活字の小ささだったらとても読めなかった。
根本的な疑問として、こういう小説を翻訳する意味がどれだけあるかということはある。
どんなに名訳でも、翻訳された「ユリシーズ」は原著とは絶対に違う。
この「違う」ということを深く考えると、ほんとに……言葉というものの存在は不思議だ。
言葉は人と人と繋ぐもので、目に見えないものを存在させるもので、時間さえ超えられる魔法であって……
が、それぞれの人間が使う言葉に(普段それほど意識することはないけれど)実はどれだけの
断絶があるのか……言葉の孤絶性を考えると、単に何種類かに言葉を散らされただけのバベルの塔なんて、
大したことのない試練だと思うよ。
※※※※※※※※※※※※
さて、わたしは新しく生まれるものより、はるかな過去に生まれて現在まで
生き長らえているものの方がずーっと好きなわけだが、(つまり単純に古典好きの前衛嫌い)
この本を読んでまあまあ面白いと思えたのは以下の数点。
(注・この作品では章ごとに趣向が変わるので、全てが同時に並立しているわけではない)
思考の流れをそのまま文章に起こした(と見える)点。
かなり脈絡がないけれど、読む分には意外に読みやすかった。
一問一答で進む小説手法。
これは斬新。とゆーても、内容がこめんどくさくて、後半は読んでて眠かったが。
これは他の小説でも流用出来る手法だ。小技だけでまとめられるようなシンプルなエンタメなら、
けっこう面白く読めるのではないか。風の噂に、恩田陸の作品でQ&Aで構成される小説が
あると聞くが、もしかして出所はこのあたりなのか。
わりあいにお約束的だが、古今東西の有名どころの文体パロディ・パスティーシュ。
この部分はほんとに原語でなければしょうがないのではあるけれども……
原著では中世英語とかシェイクスピアとか、なんのかんのとやっているところ、
やはりこれもさすがの部分、訳者たちは古事記・源氏物語・平家物語・近松・漱石・etcで対抗している。
ここは(大変ではあっただろうけど)訳者たちは楽しんでやった部分だろうなー。
が、さすがに古事記とか古文はかったるくて読めず(内容自体はつまんないからね)、
明治以降のパスティーシュくらいになってようやく読む気になれたけど。
最終章、句読点なしのまさに意識のままの表白。
これもようやったよなー。同音異義が多い日本語で、漢字をかなり少なめに使った上で
意味が通じる文章を句読点なしで書く。技あり。漢字と仮名のバランスが絶妙。バカっぽさも出てる。
あと、yesの使い方も面白い。yesで始まりyesで終わる最終章。
このyesがここだけアルファベットで目立つ分だけ、原語より面白みは増しているかもしれない。
こんなところが面白いと思える部分。
でもまあやっぱり苦行でしたな。(といっても佐藤何某の作品を読むよりずーっと楽)
池澤夏樹やら誰やら彼やらがそこまで惚れるのは……よくわからん。どこがいいのだろう。
最大の疑問は、「なぜこれがユリシーズなのか?」。
ユリシーズ=オデュッセウス。そういうタイトルをつけて、そのイメージの残像を楽しむらしい。
だが、作家の先生方よ。
もしこれが隠されていたとして、それでもあなた方はこの小説にオデュッセイアを見ることが出来たか?
非常に疑問だ。まあ、ユリシーズと名付けること自体が仕掛けであるそうなので、
この問いは意味のないものではあるのだが。しかしこういうのは元ネタをある程度反映している必要が
あるのではないのか?少なくとも「分かる人にには分かる」程度には。
こないだ見た映画の「女帝」……あれは前評判でハムレットを下敷きにしているとたしかに知ってはいたけど、
それを知らなくても映画を見れば気づいただろう。あれはかなりベタな(褒めて言えば原作に忠実な)部類だからね。
だがユリシーズはおそらく誰もわからない。
章の前にはご丁寧に1ページの要約がついていて、誰々はオデュッセイアにおける何々に対応する、
とか書いてくれているんだけど、それを読んだ上で本文を読んでも納得できないものね。
だって誰も漂流してないし。オデュッセイアの基本は漂流譚なんだから、漂流のヒョの字も出てこないのが不思議だよ。
「見立ての面白さ」は日本人は得意分野だと思うけど、これって見立てになってないだろう。
なぜユリシーズなのか。ジョイスは数ある古典の中から、なぜオデュッセイアを選んだのか。
これもわからん。
「オデュッセイア」という部分がなくなった時、この作品はどの程度その魅力を失うか?
山のような注もねえ。これはこれで大きな面白みの1つではあるが、これを丹念に読んでると
いつまで経っても終わらなさそうで。注は基本、飛ばしました、実は。
この話は、アイルランドを良く知っている人でないと読めないはずだ。
話にアイルランド近現代史の知識が相当量登場する。わたしは最近、アイルランド関連の本を何冊か漁ったので、
かろうじてパーネルという人物くらいは聞いたことあるけど、日本人一般はおそらくぴんとこないでしょ。
アイルランド、あるいはダブリンという地元でこその小説だと思うよ。それがなんで現代文学史上の
傑作扱いされているのか……やっぱりわからん。
新しい・斬新であるからいいのか?でも斬新ってそんなにいいことか?
それとも他にいいとこがあるのか?うーん。
まあ、こういう類のものをわたしが理解することはまず絶対に有り得ない。
わたしの好きな「お行儀のいい小説」とは対極のものだし。
とりあえず眺めた。それで終わり。
しかし何章だったかの、脈絡のない戯曲部分は、あれは読めない。
ああいうのははっきり嫌い。石投げたる。
ま、眺める程度に。想像通り総合的にはつまらなかったわけだが……
しかし、予想よりとっつきやすかったのはとてもありがたかった。
これはやはり訳者たちの才のおかげだと思う。丸谷才一、永川玲二、高松雄一。
永川さんという人は知らんけれども、丸谷・高松は有名。……というより、高松雄一は
ついこの間読んだ「アレクサンドリア四重奏」の伝説的な名訳者、だそうなんですな。
なにしろ原著がこんな前衛的な小説だからねえ。下手に翻訳した日には、目もあてられないですよ。
が、字を追う分にはそれほど苦痛ではなかった。さすが、と言っていいんだろうな。これは。
かなり読みやすい部類。これには集英社版の活字の大きさもあずかっている。良い選択だ。
岩波文庫並の活字の小ささだったらとても読めなかった。
根本的な疑問として、こういう小説を翻訳する意味がどれだけあるかということはある。
どんなに名訳でも、翻訳された「ユリシーズ」は原著とは絶対に違う。
この「違う」ということを深く考えると、ほんとに……言葉というものの存在は不思議だ。
言葉は人と人と繋ぐもので、目に見えないものを存在させるもので、時間さえ超えられる魔法であって……
が、それぞれの人間が使う言葉に(普段それほど意識することはないけれど)実はどれだけの
断絶があるのか……言葉の孤絶性を考えると、単に何種類かに言葉を散らされただけのバベルの塔なんて、
大したことのない試練だと思うよ。
※※※※※※※※※※※※
さて、わたしは新しく生まれるものより、はるかな過去に生まれて現在まで
生き長らえているものの方がずーっと好きなわけだが、(つまり単純に古典好きの前衛嫌い)
この本を読んでまあまあ面白いと思えたのは以下の数点。
(注・この作品では章ごとに趣向が変わるので、全てが同時に並立しているわけではない)
思考の流れをそのまま文章に起こした(と見える)点。
かなり脈絡がないけれど、読む分には意外に読みやすかった。
一問一答で進む小説手法。
これは斬新。とゆーても、内容がこめんどくさくて、後半は読んでて眠かったが。
これは他の小説でも流用出来る手法だ。小技だけでまとめられるようなシンプルなエンタメなら、
けっこう面白く読めるのではないか。風の噂に、恩田陸の作品でQ&Aで構成される小説が
あると聞くが、もしかして出所はこのあたりなのか。
わりあいにお約束的だが、古今東西の有名どころの文体パロディ・パスティーシュ。
この部分はほんとに原語でなければしょうがないのではあるけれども……
原著では中世英語とかシェイクスピアとか、なんのかんのとやっているところ、
やはりこれもさすがの部分、訳者たちは古事記・源氏物語・平家物語・近松・漱石・etcで対抗している。
ここは(大変ではあっただろうけど)訳者たちは楽しんでやった部分だろうなー。
が、さすがに古事記とか古文はかったるくて読めず(内容自体はつまんないからね)、
明治以降のパスティーシュくらいになってようやく読む気になれたけど。
最終章、句読点なしのまさに意識のままの表白。
これもようやったよなー。同音異義が多い日本語で、漢字をかなり少なめに使った上で
意味が通じる文章を句読点なしで書く。技あり。漢字と仮名のバランスが絶妙。バカっぽさも出てる。
あと、yesの使い方も面白い。yesで始まりyesで終わる最終章。
このyesがここだけアルファベットで目立つ分だけ、原語より面白みは増しているかもしれない。
こんなところが面白いと思える部分。
でもまあやっぱり苦行でしたな。(といっても佐藤何某の作品を読むよりずーっと楽)
池澤夏樹やら誰やら彼やらがそこまで惚れるのは……よくわからん。どこがいいのだろう。
最大の疑問は、「なぜこれがユリシーズなのか?」。
ユリシーズ=オデュッセウス。そういうタイトルをつけて、そのイメージの残像を楽しむらしい。
だが、作家の先生方よ。
もしこれが隠されていたとして、それでもあなた方はこの小説にオデュッセイアを見ることが出来たか?
非常に疑問だ。まあ、ユリシーズと名付けること自体が仕掛けであるそうなので、
この問いは意味のないものではあるのだが。しかしこういうのは元ネタをある程度反映している必要が
あるのではないのか?少なくとも「分かる人にには分かる」程度には。
こないだ見た映画の「女帝」……あれは前評判でハムレットを下敷きにしているとたしかに知ってはいたけど、
それを知らなくても映画を見れば気づいただろう。あれはかなりベタな(褒めて言えば原作に忠実な)部類だからね。
だがユリシーズはおそらく誰もわからない。
章の前にはご丁寧に1ページの要約がついていて、誰々はオデュッセイアにおける何々に対応する、
とか書いてくれているんだけど、それを読んだ上で本文を読んでも納得できないものね。
だって誰も漂流してないし。オデュッセイアの基本は漂流譚なんだから、漂流のヒョの字も出てこないのが不思議だよ。
「見立ての面白さ」は日本人は得意分野だと思うけど、これって見立てになってないだろう。
なぜユリシーズなのか。ジョイスは数ある古典の中から、なぜオデュッセイアを選んだのか。
これもわからん。
「オデュッセイア」という部分がなくなった時、この作品はどの程度その魅力を失うか?
山のような注もねえ。これはこれで大きな面白みの1つではあるが、これを丹念に読んでると
いつまで経っても終わらなさそうで。注は基本、飛ばしました、実は。
この話は、アイルランドを良く知っている人でないと読めないはずだ。
話にアイルランド近現代史の知識が相当量登場する。わたしは最近、アイルランド関連の本を何冊か漁ったので、
かろうじてパーネルという人物くらいは聞いたことあるけど、日本人一般はおそらくぴんとこないでしょ。
アイルランド、あるいはダブリンという地元でこその小説だと思うよ。それがなんで現代文学史上の
傑作扱いされているのか……やっぱりわからん。
新しい・斬新であるからいいのか?でも斬新ってそんなにいいことか?
それとも他にいいとこがあるのか?うーん。
まあ、こういう類のものをわたしが理解することはまず絶対に有り得ない。
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とりあえず眺めた。それで終わり。
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しかし何章だったかの、脈絡のない戯曲部分は、あれは読めない。
ああいうのははっきり嫌い。石投げたる。
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