モザイクの美しさを、多少は知っているつもりでいた。
博物館で見たカルタゴやポンペイのモザイクは見事だったし、
フィレンツェ名物の貴石モザイクは、一瞬その職人になる夢を見たほど。
本やテレビでなら、もちろん世界各地の色々なモザイクも見ている。
ヴェネツィア本島から船で1時間余りの潟の中にあるトルチェッロ島。
サンタマリア・アッスンタ聖堂はそこにある。7世紀に建てられた、ヴェネツィア付近で
もっとも古い教会だというから、ごく小さな建物を予想していた。
そこの聖母像のモザイクが――美しいらしい。
須賀敦子のエッセイによれば世界で最も美しい聖母像だとのこと。
色々なものを見ているであろう人の言葉だけに気にかかる。
気にはかかるが、実は須賀敦子、それほど好きな書き手ではないので若干反発も感じていた。
そうかい。わが愛するミケランジェロの「ヴァチカンのピエタ」より美しいか?
美しいと言えばラファエッロの「小椅子の聖母」も(世俗的な美しさにせよ)なかなかだが、
それよりも美しい?
わたしが知るモザイク美術は、これが石で出来ていると思えば感嘆するしかないほど
思うよりずっとデリケートな表現は出来るものではあるけれど、
しかしそれでも彫刻や絵画の、技法を尽くした繊細さには一歩を譲るのではないか。
それがどんな美しさなのか。見に行こう。
※※※※※※※※※※※※
聖堂内に一歩足を踏み入れただけで、通常とは違う空間にいるのに気付く。
「なに?」精神的には、ほとんどよろめくような思いで辺りを見回す。
目に入るのは予想よりもずっと広くて明るい聖堂の内部。レンガで作られた壁は所々不揃いで、
内陣の境界に掲げられた聖人たちの板絵にも剥落がある。
感じられるのは古い時代の建物が持つ素朴さ。不思議なものは何もない。
だが板絵の向こうに――後陣に描かれた黄金のモザイクが見えると。
息を呑む。囚われるのがわかる。決して巨大なものではないのに、視野いっぱいに広がる黄金色。
半ドームが全て均一な黄金色で形作られ、そこにあるのはただ聖母を表す文字と
深い藍色の衣をまとった聖母と幼子キリスト。金色の宇宙に浮かぶ聖母子だ。
美しいのではなく。そう、これはただ美しいのではなく。
目が喜ぶ造型の美しさではなく、心が感じる存在の美しさ。
すらりとした細身の優美な姿。しかし優美なだけではなくて、
その前に立つ者が自然に頭を垂れるような、そんな威厳がこの聖母にはある。
全世界の母だ。
迷いなくそう思えた。東洋的な慈悲に似た厳しさと優しさ。何百年も積み重なった叡智。
いつまで見ていても飽きない、このままずっと向かい合っていたい。
この時、この場所にはわたしは一人だった。無意識のうちに祈りの言葉が口をついて出た。
生涯に一つの願いを託すに足る、そう信じられる聖母の姿。
この聖母の印象が圧倒的なので、モザイクとしてはもっと細かく出来のいい、
正面ファサード内側の「最後の審判」(おそらく)が……子供だましとは言わないが、
「がんばって作ったな」という程度の感想になってしまうのは気の毒だ。
こちらは画面構成が反対側の後陣と違って、ぎっしり詰め込まれている。
細かく見れば相当に力が入ったいい仕事。金色もやはり美しく、人物もビザンティン的硬さは
当然あるにしても、十分人間らしいと感じさせる。どこかユーモラスで可愛い。
このモザイクを作った職人の姿を思った。親方と。徒弟たちと。陽気な男も、寡黙な男も、
短気なのもしっかり者もいたことだろう。彼らは町の人々の期待を一身に背負って、
聖堂のモザイクを着実に作り上げていく。
彼らは島の職人だったのか。それともはるばる招かれて、コンスタンティノープルから来た人々か。
何も知識がないままだから、想像力は好き放題に膨らむ。
床のモザイクも美しかった。石のラインが微笑ましいほど鈍くて、技術的には稚拙なんだろうけど。
すっぱりした正方形や、きちんとはかった正三角形には出せない温かみがある。
組みあわせた石の歪みも――年月のうちに歪んだのかもしれないが――愛おしい。
床を撫でて来た。この辺を作ったのはまだ壁のモザイクには触らせてもらえない、
職人の少年だったのかもしれない。
※※※※※※※※※※※※
だが、その後に立ち寄ったムラーノ島のサンティ・マリア・エ・ドナート教会では……
正直がっかりしたんだよ。なぜなら、そこにあった聖母像が、トルチェッロ島の聖母と
造型的に酷似してたから。
さっきあんなに感動した聖母の亜流が――ま、亜流かどうか関わりがよくわからないけれども、
ひょいと現れればね。この教会は好きだし、こちらの聖母も十分美しいのだけど。
全く関わりがないことはあり得ない、良く似た造型。
いわば姉妹のようだ。トルチェッロの聖母は全世界の母だが、ムラーノ島の聖母は
若い女の清純さを感じさせる。
どういう関係か知りたい。が、絵はがきを売っていた女の人はイタリア語しか話せず、
「トルチェッロへ行って来た」というのは伝わったと思うが、そこから
ここの聖母像との関連を尋ねることは出来なかった。
この辺りのモザイクについて、何か詳しい本でもないだろうか。
モザイクについて知りたくなった。ルネサンスアート関連はちょこちょこ読んで来たつもりだが、
今後はモザイクをちょっと見ていこう。
幸せな、いい出会いだった。
聖母像
博物館で見たカルタゴやポンペイのモザイクは見事だったし、
フィレンツェ名物の貴石モザイクは、一瞬その職人になる夢を見たほど。
本やテレビでなら、もちろん世界各地の色々なモザイクも見ている。
ヴェネツィア本島から船で1時間余りの潟の中にあるトルチェッロ島。
サンタマリア・アッスンタ聖堂はそこにある。7世紀に建てられた、ヴェネツィア付近で
もっとも古い教会だというから、ごく小さな建物を予想していた。
そこの聖母像のモザイクが――美しいらしい。
須賀敦子のエッセイによれば世界で最も美しい聖母像だとのこと。
色々なものを見ているであろう人の言葉だけに気にかかる。
気にはかかるが、実は須賀敦子、それほど好きな書き手ではないので若干反発も感じていた。
そうかい。わが愛するミケランジェロの「ヴァチカンのピエタ」より美しいか?
美しいと言えばラファエッロの「小椅子の聖母」も(世俗的な美しさにせよ)なかなかだが、
それよりも美しい?
わたしが知るモザイク美術は、これが石で出来ていると思えば感嘆するしかないほど
思うよりずっとデリケートな表現は出来るものではあるけれど、
しかしそれでも彫刻や絵画の、技法を尽くした繊細さには一歩を譲るのではないか。
それがどんな美しさなのか。見に行こう。
※※※※※※※※※※※※
聖堂内に一歩足を踏み入れただけで、通常とは違う空間にいるのに気付く。
「なに?」精神的には、ほとんどよろめくような思いで辺りを見回す。
目に入るのは予想よりもずっと広くて明るい聖堂の内部。レンガで作られた壁は所々不揃いで、
内陣の境界に掲げられた聖人たちの板絵にも剥落がある。
感じられるのは古い時代の建物が持つ素朴さ。不思議なものは何もない。
だが板絵の向こうに――後陣に描かれた黄金のモザイクが見えると。
息を呑む。囚われるのがわかる。決して巨大なものではないのに、視野いっぱいに広がる黄金色。
半ドームが全て均一な黄金色で形作られ、そこにあるのはただ聖母を表す文字と
深い藍色の衣をまとった聖母と幼子キリスト。金色の宇宙に浮かぶ聖母子だ。
美しいのではなく。そう、これはただ美しいのではなく。
目が喜ぶ造型の美しさではなく、心が感じる存在の美しさ。
すらりとした細身の優美な姿。しかし優美なだけではなくて、
その前に立つ者が自然に頭を垂れるような、そんな威厳がこの聖母にはある。
全世界の母だ。
迷いなくそう思えた。東洋的な慈悲に似た厳しさと優しさ。何百年も積み重なった叡智。
いつまで見ていても飽きない、このままずっと向かい合っていたい。
この時、この場所にはわたしは一人だった。無意識のうちに祈りの言葉が口をついて出た。
生涯に一つの願いを託すに足る、そう信じられる聖母の姿。
この聖母の印象が圧倒的なので、モザイクとしてはもっと細かく出来のいい、
正面ファサード内側の「最後の審判」(おそらく)が……子供だましとは言わないが、
「がんばって作ったな」という程度の感想になってしまうのは気の毒だ。
こちらは画面構成が反対側の後陣と違って、ぎっしり詰め込まれている。
細かく見れば相当に力が入ったいい仕事。金色もやはり美しく、人物もビザンティン的硬さは
当然あるにしても、十分人間らしいと感じさせる。どこかユーモラスで可愛い。
このモザイクを作った職人の姿を思った。親方と。徒弟たちと。陽気な男も、寡黙な男も、
短気なのもしっかり者もいたことだろう。彼らは町の人々の期待を一身に背負って、
聖堂のモザイクを着実に作り上げていく。
彼らは島の職人だったのか。それともはるばる招かれて、コンスタンティノープルから来た人々か。
何も知識がないままだから、想像力は好き放題に膨らむ。
床のモザイクも美しかった。石のラインが微笑ましいほど鈍くて、技術的には稚拙なんだろうけど。
すっぱりした正方形や、きちんとはかった正三角形には出せない温かみがある。
組みあわせた石の歪みも――年月のうちに歪んだのかもしれないが――愛おしい。
床を撫でて来た。この辺を作ったのはまだ壁のモザイクには触らせてもらえない、
職人の少年だったのかもしれない。
※※※※※※※※※※※※
だが、その後に立ち寄ったムラーノ島のサンティ・マリア・エ・ドナート教会では……
正直がっかりしたんだよ。なぜなら、そこにあった聖母像が、トルチェッロ島の聖母と
造型的に酷似してたから。
さっきあんなに感動した聖母の亜流が――ま、亜流かどうか関わりがよくわからないけれども、
ひょいと現れればね。この教会は好きだし、こちらの聖母も十分美しいのだけど。
全く関わりがないことはあり得ない、良く似た造型。
いわば姉妹のようだ。トルチェッロの聖母は全世界の母だが、ムラーノ島の聖母は
若い女の清純さを感じさせる。
どういう関係か知りたい。が、絵はがきを売っていた女の人はイタリア語しか話せず、
「トルチェッロへ行って来た」というのは伝わったと思うが、そこから
ここの聖母像との関連を尋ねることは出来なかった。
この辺りのモザイクについて、何か詳しい本でもないだろうか。
モザイクについて知りたくなった。ルネサンスアート関連はちょこちょこ読んで来たつもりだが、
今後はモザイクをちょっと見ていこう。
幸せな、いい出会いだった。
聖母像
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