お母さんと読む英語の絵本

読み聞かせにぴったりな英語絵本から、米国の子どもたちの世界をご紹介
子どもをバイリンガルに…とお考えのお母さんに

手書き文字が消える日

2010-03-22 | from Silicon Valley

Photo: Cursive writing practice, Associate Press

先日、成田空港の郵便局のカウンターで四苦八苦した挙句に、ついに諦めざるをえなかったことがあります。諦めたのは日本語の「手書き」のお礼状を出すこと。わざわざ銀座の文具店から買って行ったお洒落なカードを2枚も書き損じ、その埋め合わせに郵便局で買ったきれいな絵ハガキまで3枚も無駄にしてしまいました。

無駄にしたカードより何より、ショックだったのは、どうしても日本語の文字が"まとも"に書けなかったことです。"きれい"に書けなかったのではありません(そもそも、私は自分が"きれい"な字が書けるとは初めから思っていないので)、"まとも"に書けなかったのです。生々しく実感されたのは、日本語を書くための手の筋肉が退化してしまった・・・ということでした。そして、恐ろしいことに、筋力とともに、”手に染みついていた文字の記憶"とでもいうべきものが消えてしまった・・・と感じられたことでした。

たしかに、ピアニストでも練習しなくなったらピアノは弾けなくなるし、毎日歩かなければ私たちはすぐに歩けなくなります。要するに「廃用性の機能不全」ですね。考えてみれば文字を書くことも同じ。書かなければ書けなくなるのは当たり前です。でも・・・文字を書くなんていう、あまりにも当たり前のことができなくなるなんて想像だにしませんでした。

思い起こしてみると、確かに、もう長いこと"まとも"な日本語を書いていません。最近では、走り書きのメモ以外に日本語を書く機会がほとんどないからです。「手書き」が原則のクレジットカードや書類のサインも英語だし、原稿はワープロでタイプ。ほんの10年前までは礼状もグリーティングカードも手書き、原稿も日本語だったらタイプするより手で書く方が圧倒的に早いと自負していたのに、仕事がら毎日かなりのボリュームの文字を何十年も「手書き」で書いてきたのに、それなのに書く筋力も、能力も、こんなに簡単に忘れて/失ってしまうものだったなんて・・・。

ひるがえって、では、今時の子どもたちはどうなっているのでしょう?そもそも書くことなんて不要な時代なのでは?

San Jose Mercury News紙がよく似た問題をレポートしています。「Cursive is, like, so last century(2010年2月15日)」アメリカの子どもたちは、最近、いわゆる"筆記体"が書けなくなっているというのです。

キーボードに向かえば1分間に60語以上は楽々タイプ、携帯電話では秒単位でテキストメッセ―ジをやり取りできるというのが今時のティ―ンエイジャーの常識だそうです。常識どころか、タイプもメッセージングも彼らにとっては必須のサバイバルスキルです。ところが、この子たちにごく簡単な英文を紙に書きとらせると、返ってくるメモは例外なく活字体で書かれており、子どもたちは、これまた例外なく「筆記体の書き方?習ったけど忘れちゃった!」とあっけらかんとしているのだそうです。

アメリカでは一般に、小学校3年生で筆記体を学習し、4年生で筆記体の習字をして自由に書きこなせるようになるべきこととされています。が、実際には、4年生は、5年生で受ける共通学力テストの準備やコンピューターのトレーニングに忙しく、習字などは押されぎみなのが現実。それでも、かつては(・・・って、いつまでだったんでしょう?)、いったん筆記体を習えば、以後はそれで毎時間ノートをとり、宿題を書いて出し・・・と、習字の時間だけでなく、どのクラスでも筆記体で書くことを余儀なくされたはずで、それに加えての習字の時間だったわけです。が、今は小学生でも宿題をパソコンでタイプして出す時代。学校の習字の時間がなくなったら、子どもたちが筆記体を書く機会などほとんどないのかもしれません。

これはアメリカの学校教育にとってきわめて大きな変化です。というのも、20世紀前半にはアメリカの学校の小学校教育課程の大半が正しい" (筆記体)文字の書き方(penmanship)”に費やされていたからです。まさに隔世の感。アメリカで小学校教師の養成課程のカリキュラムからPenmanshipのトレーニングが外されたのは、奇しくも、まさにコンピュータ黎明期の1970年代だった由。すでに現職の先生の大半はPenmanshipのトレーニングがなくなってから教師になった人々です。

サンノゼのある英語教師はマーキュリーニュースのインタビューに応えて「学校から"ペンと紙"が消える日はそう遠くないと思いますが、私としては残念です」と語り、別の歴史の教師は「ジョン・アダムスとアビゲイル・アダムスの往復書簡が大好きなんです。あの手紙が手書きでなくプリントアウトだったら、あんなに深い親交は育まれなかったと思いますから」とノスタルジックに語っています。しかし二人とも、手書き文字が消える日の近いことを疑わないという点では意見が一致しています。

果たして、私たちは、何かを失おうとしているのでしょうか?それとも、これは何かの始まりなのでしょうか?

アメリカでは cursive-free(筆記体を持たない)世代は、いったいどこから始まっているのでしょう? 小学校高学年になったときにすでにワープロが筆記用具であった世代とは?それは先日ここに書いたジェネレーションM2(24時間ログオン世代)と重なっているのでしょうか? 彼らよりもさらに若いのでしょうか?

1987年生まれの娘に、手書きとタイプとどちらが楽か/速いか?と聞いてみたところ「タイプはすごく速い方だと思うけど、クラスでノートをとるのは手書き。書くのはすごく速いの」と意外な答。私の目には、彼女は超早口なおしゃべりの速度でタイプしているように見えているのですけれども・・・。でも、ノートをとっている文字は?というと、筆記体ではなく我流に崩した活字体。「同級生に筆記体でノート書いている人いる?」って聞いたら、「いないんじゃないかな」「みんな筆記体では書けないと思うよ」「ああ、もちろん、書けるのよ、書こうと思えばってことだけど。それに、誰でも一度は書けたのよ、小学校の3年か4年のころにはね」とのこと。そうなんだ・・・知らなかった・・・。なお「エッセイなんかを書くときは初めからタイプ」「ケータイは最近はしゃべるよりテキストが多い」とのことでした。

ちなみに、彼女が小学校5年生で受験した際には、受験校からのリクエストに子どもの願書は受験生本人の「手書き」で出すように、とわざわざ指示がありました。手書きの文字そのものも受験の審査の対象だったわけです。親も長いアプリケーションの書類を書かされましたが、親には「手書き」の条件がなかったので、私はタイプして出しました。

考えてみると、昨今は受験の出願もオンラインが常識となりましたので、きっと「手書き」願書のリクエストもなくなっているのかもしれません。こう考えると、まだ20代初めの娘にしてからが、既にわずか数年しか年の違わない子どもたちから見ただけでも圧倒的に"旧い世代"に属しているわけです。

たかだか通信技術と思っていたものが、我々のライフスタイルを根底から変え、伝統をひっくり返し、筋力=身体まで変化させている・・・当事者としての視座はどこに据えたらよいの?などと考えているうちに、なんだか"みそっかす"になってしまいそうな気がします。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする